BACK/TOP/NEXT

第四章 隠遁する魔術師 6


 アルヴィナが栓を捻ると、蛇口から水が溢れ出した。ごう、と音を立てて浴槽に滑り落ちていく水に、ダイは目を瞠る。
「この水道、生きてるんですか?」
「ん? 生きてるってなぁに?」
 流れる水に手を浸していたアルヴィナが、曲げていた腰を伸ばしてダイを振り返る。支度に邪魔だからと一纏めに結われた長い髪が、動物の尾のように彼女の肩を叩いた。
「えぇっと……私が今住んでいるところにも、蛇口、付いているんですけれど、もう動かなくて」
 使用人部屋に案内された折、ティティアンナに説明された、飾り同然の蛇口。試しに栓を捻ってはみたものの、やはり何も起こらなかった。せいぜい錆びた金属が軋みを上げる程度だ。
「あらぁ、どうして?」
「術式の調整する人が、いないらしいです。……アルヴィーは、どうしてるんですか?」
「もちろん、自分でやるわよぉ? じゃないと、誰もしてくれないもの」
 そう言って彼女は、淡い桃色に塗られた壁面を前触れなく軽く叩いた。首を傾げるダイの目の前で、壁の一部が扉のように手前に開く。アルヴィナは左手でその扉の位置を固定すると、空いた右手で中を指差した。
 扉の奥には、埋め込まれた一枚の大理石。そこには薄緑色に発光する幾何学模様が刻まれている。
 『発動状態』にある、魔術の陣だ。
 その陣に刻まれている文字にアルヴィナが指を滑らせたその先から、淡い緑の光が零れる。魔術が行使されるとき特有の、燐光だった。
 アルヴィナの指は、まるで窓枠に溜まった埃を拭うかのように壁面を一滑りしただけだった。しかし何気ない動きだというのに、彼女の指が滑る傍から陣に刻まれる文字が次々と書き換えられていく。呆然と様子を見守っていたダイは、勢いを増して湯気を吹き上げ始める水道の水に目を丸め――腕に掛かった水滴に、思わず叫んだ。
「あつっ!」
 水、ではない。
 これは、湯だ。
「ちょっと温かったから。水の温度上げたんだけど、その様子じゃもうちょっと下げたほうがよさそうねぇ」
 アルヴィナはうーんと唸りながら、もう一度指を陣に滑らす。
「ねぇ、ちょっと浴槽に手を入れてみて。丁度よかったらこのままにするからね」
「は、はい」
 まだあまり湯の溜まっていない浴槽の中に手を入れるだけだというのに、肌に付着した水滴の温度のこともあって、ひどく及び腰である。
「……大丈夫そうです」
 手を包む湯の心地よい温度に安堵して、ダイはアルヴィナに微笑んだ。
「そう、よかった」
 アルヴィナは頷き、壁の扉を静かに閉じる。切れ目なく壁に同化したそれは、どこにあったのかすぐにわからなくなった。
「アルヴィーは、魔術師なんですか?」
 湯船から手を引いて、確認の為にダイは尋ねた。
 近年、魔術師と呼ばれる存在は急激にその数を減らしつつある。それはダイが生まれた頃、つまり魔の公国メイゼンブルが滅びて以後、顕著になった。他の大陸では魔術自体を見かけることすら、稀だという。
 しかしアルヴィナはダイにはわからぬ術を普段使っていると居間で述べていたし、何より呼吸をするような自然さで、魔術の術式の書き換えをダイの目前で行って見せたのだ。腕の良い魔術師でなければ出来ぬ芸当だろう。
「やだもう、なんでそんな当たり前のこと聞くの? 魔術師に決まってるじゃなぁい」
 くすくすと笑って、アルヴィナは言う。ダイは立ち上がりながら主張した。
「でも私、魔術師って初めてみました」
「……そうなの?」
「あんまり居ないじゃないですか。調理師の人が、厨房で火を起こすのはよく見てましたけど……」
 魔術師と呼称される術師は多分野に渡って魔術を行使できなければならない。例えば火を起こす術を扱えるだけでは、魔術師とは呼ばれないのだ。
 こちらの発言に何か思うところがあったらしい。アルヴィナは急に表情を曇らせ、口元に手を当てて低く呻いた。
「なるほど……これが急激な変化ってやつなのねぇ……」
「……アルヴィー?」
「まぁ、いいわ」
 勝手に唸り、何やら納得した様子のアルヴィナは、ダイに向き直った。そのまま彼女は開け放たれた扉の向こうにある脱衣所を指差してくる。
「あっちに着替えと拭くもの、出しておいたから使ってね。汚れた服はそのまま籠の中に入れておいてくれたら、洗濯しちゃうから」
「はい……ありがとうございます」
 何から何まで申し訳ない。ダイは感謝に頭を垂れた。
 アルヴィナは、いいのよ、と笑う。
「ダイとヒース、お二人の湯浴みが終わったら、晩御飯の予定。腕を揮うから、楽しみにしていてね」


 脱衣所、風呂場と続く扉を閉じて居間に戻ったこちらを、長椅子に腰を下ろしていたヒースが立ち上がって出迎えた。
「どうしたの?」
 落ち着かない様子の青年に、アルヴィナは努めて柔らかい声音で尋ねる。
「そんなにあの子が心配?」
「貴女は一体何者だ?」
「何者だ、といわれましても」
 連れが傍らにいる時とは一変したヒースの固い表情に、アルヴィナは苦笑した。自分を表現する言葉は少なからずある。しかしそのどれを伝えても彼は混乱するだけだろうし、話してやるつもりもない。
「少なくとも、貴方の敵ではないわねぇ」
 結局のところ、ヒースが求めている答えは単純だ。敵か味方か。それだけを彼は知りたいのだ。
「信じる信じないは貴方の勝手よ? でも私は貴方たちをどうこうするつもりはないし、本当に久しぶりに誰かとしゃべりたくなっただけなの。庭を荒らすのなら追い返すだけ。貴方たちは本当にただ困って迷い込んだだけみたいだったから、助けることにした。道行く困った人を無償で助ける行為は、信じられない? 何か別の理由がほしい?」
 そこまでアルヴィナが尋ねて、ヒースはようやく肩の力を抜いた。
「……ダイはわかっていなかったみたいですが、物を見えなくする魔術など、この世界からとうに消え去っている」
「みたいねぇ。さっきダイにも言われたのよね。魔術師、初めて見たって。引きこもってると駄目ねぇ。私も言動、気を付けないと」
「アルヴィナ、貴女は本当に敵ではない?」
「貴方たちを肥え太らせて、食べてしまう魔女に見える?」
 こちらの冗談に、青年は笑い、すみません、と謝罪して目を伏せた。彼とて悪気があってこちらを警戒していたわけではない。それぐらい、わかっている。ここに迷い込んだ理由が、賊に襲われたからというのだから、少々過敏であるのは当然だった。
 アルヴィナは食器棚から丸い缶を取り出して、蓋を開けた。中には、先日焼いたばかりの菓子が詰められている。その菓子を皿に並べ、果物の砂糖煮を添える。氷水で冷やしておいた果物を切り分け、別の小皿に盛り付けた。ふと、甘いものが苦手かもしれない、と思い立ち、無糖の焼き菓子を並べ置く。そこでまた空腹が過ぎるのだったら硬いものは受け付けないかもしれないとも思い付いて、蒸し菓子を添え置いた。
「はいどぉぞ! お腹が空いているから、きっとぴりぴりしてしまうのよ」
 どどん、と皿を置いたこちらに、ヒースは目を丸めて苦笑した。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
 しかし礼を述べてきたものの、彼は空腹だろうにも関らず、一向に皿に手を伸ばそうとはしなかった。アルヴィナが炊事場に引き返し、茶道具一式を持って戻ってきても、長椅子に行儀よく腰掛けたままだ。
「だから、そんなに警戒しなくても」
 さすがに少々心象傷ついて、アルヴィナは言った。
「あぁ、いえ。……そういうわけじゃなく」
「食べられないものばかり?」
「いいえ。ありがたく戴きます」
 ゆるりと頭を振って、ヒースは焼き菓子を手に取った。それを小さく割って口へと運ぶ青年に、アルヴィナは紅茶を淹れてやりながら質問を続ける。
「馬車が襲われたって言ってたけど、どこへいく途中だったの?」
「隣の町から城下街に戻る途中でした」
「お二人の関係は?」
「仕事場の同僚です」
「どういう仕事場?」
「そこまで話さなければ、なりませんか?」
 紅茶を受け取りながら尋ね返してくるヒースの口調は穏やかだった。が、断固とした拒否がある。
 ここでさらに追求すれば、彼は応じるだろう。世話になる義理として。
 しかし、その必要はない。
「いいえ。大丈夫。ありがとう。お風呂が空くまで、ゆっくりくつろいでいてね」
 アルヴィナは微笑み、踵を返した。炊事場に戻り、食事の支度に取り掛かる。他人のために料理の腕を揮うなどいつ振りだろう。知れず、心が弾む。
 しかし、彼らと以後、深く関ることはないだろうとも思っている。
 友人の悪戯が招いた、ほんの一時の邂逅に過ぎないのだから。


 長きに渡る俗世との断絶を、彼女は厭わなかった。
 長きに渡る歴史からの隔絶を、彼女は望んだ。
 彼女の同胞たちは、今も救いを求めている。
 しかし彼女は、もう何も求めていなかった。
 彼女の瞳は、箱庭の姿を映さなくなって久しい。


「ダイ、遅いですね」
 料理もあとは煮込むだけという段階になって火の調節をしていたアルヴィナは、背後から響いたヒースの声に、竈の前から離れて振り向いた。湯浴みから上がる気配のない同僚を案じてか、彼は廊下に出る戸口の前まで来ている。
「そうねぇ。のぼせてなければいいんだけど」
 布巾で手を拭き、ヒースに歩み寄りながら時を計った。四半刻はとうに過ぎている。確かに、長風呂だ。
「ちょっと様子を見てきます」
「あぁ、ちょっと待って」
 アルヴィナは前掛けを外しながら、ヒースを引き止めた。
「私、取ってくるものがあるから、ついでに見てくるわね。ヒース、お鍋を見ていてくれないかしら?」


 夢を、見ている。
 いつもの、無彩色の夢。
 母の遺骸。棺。男達の葬列。雨。
 ダイ。ダイ。
 誰かが呼んでいる。
 ダイ。
 私の可愛いダイ。お願い。あなたはどこにも行かないで。
 あぁ、あれは母の声。
 あなたは――よ。あなたは――なの。あなたは。
 苦しいわ。苦しい。あなたにそんな思いをさせたくないの。わかるわね。
 わかっています、お母さん。わかっています。
 だから、そんな風に。
 あなた。あなた。助けて。どうして死んでしまったの。私を置いていかないで。
 穢れた私だけを置いて。
 ダイ。いいね。ダイ。
 あんたは、真っ当に生きるんだよ。
 真っ当。
 こんな生き方のなにが。
 ダイ。
 誰かが。
 助けて。
 苦しい。
 歪んでいる。
 こんな。
 ダイ、ダイ。
 違う。私は――……。


「ダイ」
 こんこんこん、という、軽く扉を叩く音。
「は、い」
 呼びかけに朦朧とする頭を起こすと、ばしゃり、と湯が跳ねた。慌てると同時、蒼白にもなった。湯船の中で、眠ってしまっていたのだ。
「寝ちゃってた?」
 こちらの状況を見透かしたかのような、扉越しの女の声。アルヴィナだ。
「す、すみません今」
「大丈夫よ、慌てなくても」
 くすくす、と、彼女は笑っていた。
「そろそろ上がらないと、茹蛸になっちゃうわよぉ? ゆっくりでいいから、支度してそろそろあがってらっしゃいな」
「はい」
「じゃぁね。何かあったら呼んでね」
 それだけ言い残し、女は脱衣所を出たらしかった。扉の閉まる音が響く。完全に気配が消えたことを確認して、ダイは息を吐いた。時を計る。ずいぶん長いこと湯船に使っていたことがわかる。不安がって、彼女が様子を見に来たのだろう。
 それにしても。
「……ゆでだこって、なんだろう?」
 アルヴィナの言葉にはわからないことが多いと思いながら、ダイは湯船から上がった。
 簡単に風呂場を洗い流して、脱衣所へ出る。アルヴィナが最初に説明してくれた通り、籠の中には清潔な衣服が揃えられていた。同じように置かれていた布で身体の水気をふき取り、壁に立てかけられている鏡を見る。
 そこに映る、自分の身体の輪郭に嘆息した。
 転寝しながら、夢を見ていた。
 いつもの夢だ。母の夢。彼女が亡くなった日の夢。
 その日から、全ては止まってしまっている。
 何はともあれ、ここでぼんやりしていても仕方がない。ヒースたちを待たせているのだ。ダイは気を取り直した。着替えを済ませてしまおうと、床に膝を突いて籠に手を伸ばし。
「……え?」
 ダイは、固まった。
 一度手を引き、立ち上がる。籠の中にあるものは、黒で縁取られた、生成りの上下。腰を黒い帯で留める型のものだ。
 しかし――……。
 廊下へ続く扉。その向こうにいるだろう魔術師のことを考える。
 果たして、これはどのような意図があってのことなのだろう。
 ダイは眉間に皺を寄せ、再び腰を落として、着替えを手に取ったのだった。


BACK/TOP/NEXT