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第四章 隠遁する魔術師 5


 足を踏み入れた先で。
 ダイは再び呆然とした。
「……な、なんですか? これ」
 思わず口をついて出た呻きに。
「さぁ……」
 ヒースもまた、唖然とした表情を隠せずに生返事で応じてくる。
 扉の先に待ち受けていたものは、普通に樹木が並び立ち、鳥のさえずりがそこかしこから歌のように響く庭だった。背後を振り返ってみても扉の向こうは白砂の原野に違いない。自分達は確かに家屋に足を踏み入れているはずだ。しかしそれにしてはあまりにも、目の前に広がる光景からは屋内という様相が欠落していた。
 鬱蒼とした梢に阻まれ、天井は見えない。しかし明るい一条の光が、擦れる葉と葉の狭間から差し込んで、土に白い斑点を刻んでいた。植えられた木の根元にはダイもよく知る薬草から、目にしたことのない異国の花々までと多種多様。その上、最も花が美しく咲き乱れる月には、まだ何ヶ月もあるというのに、季節感無視もいいところである。
「……私、まだ気絶して夢を見てるんでしょうか?」
 そんな言葉が口から滑り出たとしても、仕方ない。
「……だとしたら私も貴方と同じ夢を見てるんですね」
 悪夢だ、と額を手で覆ってヒースは呻いた。呻きたくなる、気持ちはよくわかる。
 嘆息したヒースが先に進み始める。鬼が出るか、蛇が出るか。恐れていても仕方がない。ダイも彼に続いて、足元に敷き詰められた柔い腐葉土を踏みしめた。
 本当にあの家の中ならば、すぐに端に行き当たるはずだった。が、歩けど歩けどただ森が続くばかりだ。
 歩き通しの疲れから立ち止まったダイは、木漏れ日のちらつく緑の天蓋を見上げて呻いた。
「……これ、本当に夢かもしれませんね」
「もしそうなら、もう私たちは殺されているということかもしれませんね」
 さすがのヒースも疲弊したと見える。疲れを目の下に滲ませて、彼はダイに同意した。
「じゃぁ、ここは主神様がおわす楽園?」
 自分たちが信仰する神は、『まぼろばの土地』と呼ばれる楽園で眠りについているのだという。
 死人の魂は、主神を慰めにかの地へ赴くのだと、神父の説法に在った。
 果たして自分たちもそのような存在になってしまったのか。
「かもしれない」
 ヒースは苦笑しながら、頷いた。
「ですが死ぬ寸前も走り通し、死んでも歩きっぱなしというのはどうも嫌な話だ」
 ダイもまた、まったくだ、と首を縦に振る。
 嫌な話だ。
 しかし本当に死んでいるのだとしたら、何故自分たちはこれほどまでに暢気なのだろう。もう少し遣り残したことや置き去りにしてきた人たちのことを憂いてもよいはずだというのに。
 そこまで考えて、むしろ死んだほうが楽だということかもしれないとダイは思い返した。
 ヒースの理由はともかく、自分には思い当たる節があったのだ。
 そう、自分はいつも、思っていた。
 ――……生まれぬほうが、良かったのだろう、と。
 胸中を競りあがってきた苦い感情が、口元を自嘲に曲げさせる。
 その笑みを隠す為に俯いたダイは、突如耳に飛び込んできた女の声に目を見開いた。
「あなたたち、死んでないわよぉ?」
 面を上げる。ヒースの蒼い双眸と、目が合う。
 顔を見合わせ、しばしの、沈黙。
『……え?』
 ヒースと声を揃えて、ダイは背後に向けて身体を捻った。
 気配も足音も感じられなかったというのに、いつの間にそこにいたのだろう。驚愕に息を呑む自分たちの背後に女が一人、少し距離を開けて立っている。
 若い女だ。波打つ銅(あかがね)色の髪、亜麻色の瞳。優美な曲線を描く身体を、赤と緑で祭り縫いされた生成りの衣服で包んでいる。
 花で満たされた籐の籠を腕に抱えるその女は長い睫毛煙る目を瞬かせ、不貞腐れたように口先を尖らせた。
「なによぉ、そんなに驚くことないじゃなぁい?」
「えっ……と」
 ダイとヒースの間をすり抜け、女はすたすたと歩いていってしまう。そのまま姿を消すのかと思えた彼女は足を止めて一度振り返り、状況が飲み込めず立ち竦んだままのこちらに向かって苦笑を浮かべてみせた。
「おいでなさいな。私が人を招き入れることって滅多にないのよ」
 そう言い置き、女はふわりと銅色の髪を宙に踊らせながら歩き始める。その足取りはこの庭の主人然たる、のびのびとしたものだ。
 ヒースと顔を見合わせ、どうすべきか迷ったのは一瞬だった。
 まずヒースが先を行く。ダイは彼の後にぴったりと付いて歩いた。
 女の後を追って歩くことしばし、ダイたちの目の前に現れたのは、ごく普通の一軒の家である。
「ここは……」
 一度足を止め、ヒースが呻く。
「私の家よ」
 問いと勘違いしたらしく、女が応じた。そのまま彼女が先へ先へと行く間も、ダイはヒースと共にその場で立ち尽くし、呆然と家を見上げていた。
 手入れの行き届いた家屋。
 女が自宅と宣う、極彩色の花々に囲まれたその一軒屋は、今しがた通り抜けてきた家と全く同じ外観だった。
 ただ先ほどと異なり、今眼前にある家屋は蔦で覆われていなければ朽ちかけてもいない。家を囲む木製の柵は白く塗られて眩く、腐った部分も雨だれの筋も見られなかった。
 縁が削られ野薔薇の絵が描かれた、あの表札と同じ型の札も門に掛けられている。ただ名前は刻まれておらず、表札としての役割を果たしているわけではないようだった。
 家の煙突からたなびく細い煙に目をやれば、目に痛いほどの青。
 空の青だ。
「私達、家の中に入ったんですよね?」
 ダイの問いに、ヒースは頷いた。
「そうですね」
「でも、空ですね」
「えぇ。しかも昼間の」
 夕刻にこちらの家へ足を踏み入れたことだけを考えても、ありえない。開いた口が塞がらないとはこのことだ。
 ヒースは驚き極まって言葉も出ないという様子であるし、ダイもこの常軌を逸した光景に何かに化かされているのではないかと、ほとほと目を廻しかけていた。
「ちょっとぉ、何立ってるの? 早くおいでなさいな!」
 立ち止まったままのこちらに業を煮やしたらしい女は、玄関の扉から顔を出して高い声を上げる。それを受け、腹を括った様子で足を踏み出すヒースに、ダイもきょときょと周りを見回しながら後に続いた。
 通された内部の間取りは、城下で一般的に見られる家屋のそれと大差なかった。真っ直ぐに伸びる細い廊下。玄関入ってすぐ左手に扉が一枚、右手に二枚。突き当たりに玻璃の嵌った扉がある。その扉の右手には二階へと続くらしき階段。
「こっちよ」
 籠を抱えたままの手で器用に突き当たりの扉を空け、女はダイたちを奥に招いた。通された先はそこかしこに花や小さな肖像画が飾られた、居心地よさそうな部屋である。
 入って左側は居間らしく、くつろぐための長椅子と低い円卓が置かれている。庭に面した一面は、透明度の高い玻璃となっていた。壁際には洒落た茶器を幾つも納めた戸棚。それも、きちんと玻璃がはめ込まれた型だ。その天板には透かし編みで縁取りされた布が掛けられ、小さな宝石箱や人形、見たこともない異国の民芸品、本といったものが並べ置かれている。
 入って右手側は炊事場らしい。食器棚が置かれ、竈に鍋が置かれている。居間と炊事場の空間を区切っている大きめの円卓の上には、果物の盛られた籠と、空っぽの花瓶。
「ごめんなさいねぇ。変なところで驚いたでしょ」
 その円卓の上に抱えていた花籠を置いて、女は言った。
「……ここはどこ、なんですか?」
 困惑を滲ませたヒースの問いに、彼女は答える。
「んー。地図上で言えば、デルリゲイリアの都と隣町の間ぐらいかしら。それはあなた達が一番よく、知ってるんじゃなぁい?」
「ですがここはあの場所と、あまりにも違いすぎる」
 ヒースの反論はもっともだった。ここの様子は白砂の原野と全く異なっている。都にも、ここまで色彩に溢れた森はないだろう。
「そうねぇ。ちょぉっと違うかもねぇ」
 籠の中に収められていた花を花瓶に手際よく生けていきながら、女はふふ、と笑った。
「だから謝ったじゃない? 変なところで、ごめんねって」
 ここが一体どういう場所なのか、説明するつもりはないらしい。
「さぁって、私からも質問」
 花を全て生け終わった女は、腰に手を当ててこちらに向き直った。
「この辺りは町もなぁんにもないはずなのよね。……なのに一体どうして、荒野をお散歩なんてしていたの?」
「お散歩なんかじゃ、ないです」
 揶揄に弾む女の声音に苛立ちを覚え、ダイは呻くようにして訴えた。面白おかしく扱われていいような状況ではない。命に関ったのだ。
「馬車が賊に襲われましてね」
 ダイと女の間を遮る形で一歩前に進み出たヒースが、言葉を引き取る。
「御者も殺されてしまった。命からがら逃げて、この場所に」
「あらぁ……」
 説明を聞いた女は笑みを消し、同情らしきものに表情を曇らせた。
「それは災難だったのねぇ……だったら丁度よかったかしら。ここ、普段は目に見えないのよ」
「目に見えない?」
「えぇ」
 言葉を繰り返すヒースに、女は顎を引いて肯定を示す。そのまま彼女は天井を見つめながら、この家、森、空間全てを見渡すように、ぐるりと首を廻した。
「ここの家、荒野のど真ん中に建ってるでしょ? 城壁と隣町を繋ぐ道筋からも外れてるから、そぉんなに人は来ないと思うけど、でもやっぱり誰かに見られたら目立つし、調査の人がいっぱい来たりしたら嫌だもの。だから普段は、不可視の術をかけてるのよね」
「ふ……」
「か、し?」
「なのに、この間来た知り合いが悪戯とか言って、不可視を無効化する術を家に仕掛けてくれちゃったものだから!」
 花瓶に生けた花の形を整えながら、困ったものだわぁ、と、女はぼやいた。
「では私たちがここに辿り着けたのは、運がよかった、と?」
「そうね」
 ヒースの問いに、彼女は頷く。
「でなきゃずーっと荒野彷徨ってたんじゃない? ここ、町から結構距離あるし」
 花を眺めながら満足げに一つ頷いた女は、実はね、と言葉を続けた。
「普段だったら来た人は適当に追い払っちゃうんだけど、悪戯だけ仕掛けてさっさと帰った薄情な彼のせいで、私ってば話し足りない感じなの。私のお食事とおしゃべりに、付き合ってくれると、とっても嬉しいんだけど……どう?」
「それは……」
 女の誘いに、ヒースは歯切れ悪かった。それもそうだろう。疲労困憊の自分達にとって彼女の招待は有難い申し出だが、何せ胡散臭すぎる。一体どういった素性で、何故こんな場所に家を建てて暮らしているのか、全く想像が付かない。
 しばしの沈黙を挟んで、ヒースが嘆息を零した。
「……えぇ。お受け、いたします。むしろありがたい。こちらこそ、とても、困っていたのです」
 誘いを承諾した彼は、視線だけでダイを顧る。大丈夫か、と尋ねてくる目に、ダイは微笑み返した。彼の判断に抗うつもりは毛頭無い。
 考えることも億劫なほど、くたくたに疲れていた。
「やだ嬉しい!」
 手を叩いて、女は歓喜の声を上げた。
「誰かと一緒にご飯食べるのって、いつ振りかしら! ちょぉっと待っててね。すぐ支度してしまうから」
 手を叩いではしゃぐ女の様子ときたら、そのまま小躍りしそうな勢いである。
 どれぐらい待てばよいのかはわからないが、何はともあれ、食事にありつけるというのならありがたいことだ。しかしいつまでも、ここでぼうっと立っているわけにもいくまい。
「あの――……」
「あぁ、そうだわ」
 口を開きかけたダイを、女の声が遮った。
「食事の前に、そのどろっどろの格好、どうにかしてきてくれないかしら」
「……どうにかといわれましても、着替えも何もないんですが」
 胸元に手を当てながら、ヒースが主張する。ダイは彼に同意した。
 女の言う通り、自分たちの様相はお世辞にも綺麗とは言い難い。確かに、食事の招待に応じられるような格好ではなかった。昏倒してしばらく土の上に寝かされていた自分など特に、砂塵まみれもいいところである。しかしもともと一泊する予定などどこにもなく、荷物すら全て放り投げてきたような状態なのだから、替えの服などあるはずもない。
「うん。大丈夫。着替えぐらいあるから」
 微笑んで、女は言った。
「湯浴みしてくるといいわね。順番にお風呂に入ってちょうだいな。その間に着替え出すから」
「え? お風呂あるんですか?」
 ダイは驚きに声を上げた。
 湯殿は平民にとってなかなか手が出し辛いものなのだ。設置するには水温の調節や保温を行う術式を組み込まなければならない。そのための術師を探すのには骨が折れるし、その上術師へ払う賃金も馬鹿にならないのである。
「うん」
 なんてことのないように、女は頷いた。
「玄関入ってすぐ右手がお風呂よ。……どっちから先にはいっちゃう?」
「彼から先に」
 ダイを示しながらヒースが即答する。
「彼、から……?」
 女は瞬き、怪訝そうに呟いた。
 彼女の視線がダイの頭からつま先を一巡する。観察するかのようなその視線に苦笑しつつ、ダイは肩をすくめた。
 彼女が困惑するのも無理も無い。
 この容姿だ。だが自分の性別について他者がどう思うと、ダイにとってはどうでも良いことだった。狼狽を見せる女が可笑しくてならない。
「あぁ、私、名前を聞いてなかったわね」
 話題の転換を図ったつもりか。ちらりとダイに視線を寄越した女が、明るく言う。
「そういえばそうでしたね」
 ヒースが彼女の言葉に頷いた。
「ヒースです。こっちはダイ」
 併せて紹介を受け、ダイは女にぺこりと頭を下げる。
「ヒースに、ダイ、ね」
 確認するためか、一度舌先で名前を転がした女は、亜麻色の瞳を嬉しそうに細めて微笑んだ。
「私はアルヴィナ。アルヴィーって呼んでくれると嬉しいかしら。歓迎するわ。久方ぶりの、お客様」


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