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第三章 灰色の智将 6


「お疲れ様です」
「……自業自得ですので」
 ヒースからの労いの言葉に、ダイは悄然と肩を落として応じた。
 マリアージュを放り出して無駄話に勤しんでいたとあっては、叱られても無理はない。消灯前、ヒースの執務室にティティアンナと揃って呼び出されたダイは、待ち構えていたローラに説教を受けたのだ。
 とにかくマリアージュを怒らせないように、という忠告を延々と繰り返した後、侍女頭がまだ仕事の残るティティアンナと連れ立って部屋を出たのは、今しがたのことである。
「貴方が立ち話に興じるとは意外でしたね」
「……つい、夢中になってしまって」
 マリアージュのことについて話していたというのに、肝心の彼女のことがすっぱり頭から消え去っていた。弁解の余地もない。だからこそひたすら、半刻にも及ぶローラの説教を耐え忍んだのである。
「リヴォート様もお疲れ様です。長々と説教を聞かされるはめになって……」
「それは構いません。どうせ貴方を引き抜いてきた私への当て付けでしょう」
 椅子の背に重心を預けながら、ヒースは苦笑する。
「気に入られていないという自覚は、あります」
「そうなんですか?」
「えぇ。誰かに聞きませんでしたか? 私はこちらに来てまだ日が浅い。ハンティンドン女史は、新参者にとても手厳しいのでね」
 貴方だけではない、と笑って、ヒースはダイの辛苦を労わった。
「それはそうと、私のことは呼び捨てで構わない、といいませんでしたか?」
「あ……えぇっと、すみません」
「謝らなくてもよいですが」
「皆が敬称で呼んでいるので、つい。……名前で呼んだほうがいいですか?」
「呼びやすいほうで」
「じゃぁ、みんなの前では敬称つけますけど、今はちゃんと名前で呼びますね」
 以前彼が述べていた通り、ヒースはミズウィーリ家の使用人の中でも一番若年であるようだ。さらには仕えている年数まで短い。わざわざ呼び方に言及したということは、彼も敬称に堅苦しさを覚えているということだろう。そう判断して、ダイは微笑んだ。
「……一体、ティティアンナと二人で何を長話していたんですか?」
 未処理の箱の中から書類を引き抜きながら、ヒースが尋ねてくる。ローラには、ついぞ確認されなかったことである。
「えぇっと……その、マリアージュ様の、こととか、ミズウィーリ家のこととか」
 しどろもどろに話を切り出したダイに、ヒースは小さく笑って訊いてきた。
「家の状況について詳しく?」
「……そうです。それから……貴方のことも」
 上目遣いにヒースの様子を窺う。彼は目を通した書類に、何かを書きつけ、それで、とダイに続きを促してきた。
「マリアージュ様と仲良くないんですか? ヒース」
「仲良くはないでしょうね。あの方が女王となった暁に手に入るだろう権力狙いだと思われていることは重々承知していますよ」
 筆記具の金具が、紙に擦れて音を立てる。署名し終わったらしい書類を処理済の箱に放り込んで、ヒースは面を上げた。
「旦那様がいくら頭を下げても上手くいかなかった他の家からの援助が、上手くいっているという点も彼女にとっては腑に落ちないに違いない。何か、汚い手を使っているのだ、とね。……まぁ、否定しませんよ。どちらもね」
「ヒース、権力が欲しいんですか?」
 問いを口にしながら、ダイは今日の昼に耳にした会話を思い返した。他家の誘いに対し、ミズウィーリ家には恩義があると返したヒースに、客人は果たしてそれだけのために仕えているのかと尋ねた。
 権力を欲しているからではないのかと暗に含めた問いに、ヒースは是とも否とも取れる返事だけを口にしていた。
「力は欲しいですよ」
 次の書類を手に取りながら、ヒースが答える。
「……くだらぬ歴史に屈せぬ力が」
「……ヒース?」
「意外そうな顔をしていますね」
 書類を目の前に広げているものの、今しばしヒースはそれに手をつける気がないようだった。筆記具を受け皿の上に置いて、ダイに微笑を向けている。
「私が力を欲すると、おかしいですか?」
「……だってヒースは、権力なんて望んでないでしょう?」
「……どうしてそう思うのですか?」
 不思議そうに、ヒースは問いを重ねてくる。ダイは口を噤まざるを得なかった。
 直感だと、誰が答えられるだろう。
 権力を切望しているように彼は見えなかった。
 花街の客には野心あるものも数多くいた。そういった人々の眼には、必ず獰猛な何かが潜んでいたものだ。しかしヒースの眼にはそれが見られない。
 彼の瞳にあるものは、何かしらの決意と、物悲しさ、だけ。
 物悲しい。
 そう。
 彼の眼は、とても悲しい気がするのだ。
「……ダイ?」
 答えを求める呼びかけに、ダイは仕方なく、思いついた代わりの答えを口にした。
「だって……本当に権力が欲しいなら、マリアージュ様と結婚されるのが、一番手っ取り早いはずでしょう? 」
 ヒースの表情が凍てつき、その目が徐々に見開かれていく。
「なのに、ヒースは当分結婚するつもりはないって……ヒース?」
 どうやら、予想していなかった回答であったらしい。
「ど、どこをどうやったら、そんな考えが湧いてでてくるんですか貴方は?」
 驚きにか、呆れにか。彼にしては珍しく動揺あらわな、裏返った声である。それほどに珍答だったのかと狼狽を覚えながら、ダイはしどろもどろ補足した。
「だ、だって、そうじゃないですか? こ、このままでいくと、ヒースはあくまで家臣です。上手くいっても大臣とか、そんなのでしょう? 大臣っていう人が、私どれぐらい偉くてどんな仕事するのか、わからないんですけど……」
 他にも役職は当然あるのだろうが、権力者の地位に興味なかった自分の知識など、この程度だ。
「それって、女王様がいらないっていったら、簡単に辞めさせられちゃうんでしょう? 権力が欲しいなら、マリアージュ様を女王に押し上げる前に、マリアージュ様を篭絡しておくべきじゃないですか? 女王の夫になったほうが、足元揺るがないものになるでしょうし……ヒースはそんなに綺麗なんだから、そのお顔でマリアージュ様に愛を囁いたら、マリアージュ様なんて一発だと思うんです、け、ど……」
 ヒースの表情が引き攣っていく様を見るにつれて、言葉は尻すぼみになっていく。
 ダイは一度面を伏せ、上目遣いで再度ヒースの顔を窺った。その表情は唖然とした顔そのもので、彼は魚が餌を求めるときのように、ぱくぱくと口を動かしている。
「……ヒース?」
 彼のその反応から、もしや怒らせるようなことを口にしたのではと青ざめるダイをよそに、突如小さく噴出したヒースは腹を抱え、椅子から転げ落ちそうなほどの勢いで笑い始めた。
「あはははははははははははっ!!!」
 ヒースが、そんな風に笑うところなど、初めて見る。
 部屋に響き渡る笑い声と彼の崩れた相好に、ダイは面食らってその場に立ち尽くした。息も絶え絶えといった様子で机の上に突っ伏すヒースが、笑いの狭間に言葉を挟む。
「ろ、ろうらくって……そんな考えになるのは、貴方が花街育ちだからですか?」
「え……え?」
「冗談やめてください。権力欲しさに結婚するのだとしても、マリアージュ様はさすがに御免ですよ」
「……どうしてですか?」
「それは――単純に、好みの問題です……あぁ、おかしい」
 肩を震わせながら、ヒースが身を起こす。彼は居住まいを正して、大きく息をついた。
「こんなに笑ったのは、久しぶりですよ」
 眦(まなじり)に涙すら浮かべて訴える彼に、ダイは恐々と尋ねてみた。
「……私、そんなに変なこと、言ったんですか?」
「筋は通ってますよ。とても。……本当に権力を望むのなら、地盤固めのためにマリアージュ様を妻としておいたほうがいい。そうですね、確かにその通りだ。でも、おかしかったんです」
 机に頬杖を突いたヒースは、先ほどのことが尾を引いているのか、笑みに目を細めている。
「誰か……そう、例えば、侍女頭とか、執事長とかから、そのように言われたなら、ここまで笑うこともなかったでしょうね。誰も指摘しなかった、けれど理に適ったことを、貴方が口にしたからおかしかった。まさか貴方の口から、マリアージュ様を篭絡したほうが事は上手く運ぶだろう、なんて、言われるとは思いもよりませんでしたからね」
「……それは私が子供だから?」
 我ながら拗ねた声音だと、ダイは思った。
「いいえ」
 ヒースは首を横に振る。
「……貴方が、子供めいた外見をしているから」
「同じじゃないですか」
「違いますよ。意味が違う」
「同じです」
「じゃぁ、同じなんでしょう」
 幼子の主張を仕方なく肯定するときと、同じ響き。
 子供じみていると思いながらも、ダイは不貞腐れずにはいられなかった。妙に優しいヒースの声音が腹立たしい。
「……先ほども言いましたが」
 こちらの不機嫌さにかヒースは苦笑を浮かべ、話題の転換を図ってくる。
「別に権力目当てだと思われていてもかまいませんよ。私の仕事にはなんら支障ない」
 まるでマリアージュの意思など意に介していないといわんばかりだ。ダイは驚きをこめて、思わず反論していた。
「支障、出ているじゃないですか」
「どんな風に?」
「どんな風って」
 真顔で問い返されると、言葉に詰まる。ダイは必死に思考を廻らせ、どうにか答えた。
「……マリアージュ様が、ことあるごとに、癇癪起こすとか……女王選に、乗り気でないとか」
「そうですね……」
 机の上で手を組み、ダイの言葉に一つ頷いて見せた彼は、ですが、と言葉を続けてくる。
「面倒ではありますが、女王になるなら、あれぐらいの威勢はあって然るべきものだと思っています。世の中、出来た君主ばかりでもないでしょう」
 マリアージュの女王選出が、決定付けられているかのような言い方だった。
「ヒースは……マリアージュ様が女王になられると信じているんですね」
「えぇ。なりますよ」
「どうして? マリアージュ様は、なることができないように思われているみたいなのに。根拠はあるんですか?」
「では、貴方はマリアージュ様が女王になると信じていないのですか?」
 穏やかに問い返されて、ダイは言葉に詰まった。そのように尋ねられてしまうと、黙らざるを得ない。
「質問を、質問で返すのは卑怯だって、アスマがよく言ってました……」
「それは失礼」
 くすくすと笑みを零すヒースに、ダイは思わず渋面になる。彼はしばらく笑っていたが、ふいに一切の表情を消し去った。
 湖水色の瞳に浮かび上がる、冷えた翳りに、背筋が粟立つ。
「根拠はありますよ」
 彼の声音は瞳の色と同じく、凍えた響きをしていた。
「私が彼女を女王にする。これ以上の根拠がありますか」
 ともすれば、冗談とも取れそうな内容。
 しかし彼にはそれだけの能力があるのだろう。女王候補者となりうる娘達の多くが病により命を落としていたとはいえ傾きかけた家の情勢を立て直し、マリアージュを女王候補まで押し上げたのは、他ならぬ彼なのだから。
 傾いた家を踏み留まらせるということが、どれほど大変なことであるかは知っている。花街では身を持ち崩す貴族の子爵も多くいる。一度傾いた家の権威は、文字通り、失墜していくのだ。
「多少汚いと思う方法も使いますよ。無論ね。貴方は、倦厭するかもしれませんが」
 そうでなければ、この世界では容易に生き残ることなどできない。
 当然のようにそう口にしながらも、ヒースの浮かべる笑みはどこか自嘲めいている。
 手を汚す。それはどんな世界でもままあることだ。マリアージュを生き残らせるためにそういった手段を選ぶヒースを糾弾するほど、ダイは幼くはない。
「……ヒースが、どんな方法を、使われるのかは、わからないですけど」
 ヒースの蒼い目から視線を外しながら、ダイは呻いた。
「でも、マリアージュ様の協力を得るに、越したことはないんじゃないかとは、思います」
「あの方の協力を得るように動くことのほうが、多大な労力を要すると思うのですがね」
「そんなことないです。きっと簡単です」
 断言したダイに、ヒースは興味を引かれたようだった。薄く笑って、彼は首を傾げてくる。
「どうすれば、簡単に彼女の協力が得られると?」
「話して、あげればいいんですよ」
 ダイは即答した。脳裏に浮かべていたのは、状況がわからぬことに腹を立て、周囲の思惑の不透明さに不信感を募らせていたマリアージュの姿だ。
 味方がいないと、彼女は自らを孤独の縁へ追いつめていく。
「話して……あげればいいんです。貴方の目的も、この家の状況も、使用人の人たちの思いも、何故、あの人に女王を望まれるのか――そういったことを、全部」
「話してすぐに、あの方が理解を示すとお思いですか?」
「わからないかもしれないですが、納得はされると思います。マリア様は、ご自分の預かり知らないところで色んなことが動いていくことがきっと嫌なんです。今の行動の意味がうまく見えていないことを怖がって、癇癪を起こされている」
 暗闇を歩く人が、行く先に不安を覚えて発狂するのと同じだ。
 本当ならば教えて欲しいと請えばいいのに、その仕方がわからないから、彼女は叫ぶ。言葉を知らぬ赤子が、泣き叫んで訴えるのと同じように。
「だから、全てが明らかになれば、きっとマリア様ももう少し落ち着かれるはずです」
「マリアージュ様の癇癪が収まればどうなるのですか?」
「使用人の人たちとの仲が、上手くいくようになると思うんです」
「……使用人と上手くいけばどうなるのです?」
 まるで、尋問されているかのようだ。
 連続する追求に、ダイは疲れを覚えて頭を振った。
 しかし、答えなければ。
「マリア様が、使用人の人たちと、仲良くなって、使用人の人たちがご自分の利害だけでなく、マリア様をもっと応援されるようになれば、選出の儀とか、それに連なる夜会とかお茶会とかお勉強とかに、あの方、意欲的になると思うんです。マリア様は、様々なことまで卑屈になられていらっしゃいます。それは寂しさからくるものなのじゃないかな、と思うんです。周囲から人が遠ざかっていくから、卑屈になられる――……」
 他の候補者の下には人が集まると、マリアージュが以前漏らしていたことをダイは思い出した。彼女らには集まる。己は、使用人たちにすら愛想を尽かされている――その理由は、明らかにマリアージュの短気にあるのだが、彼女はそれを、自分の不出来さ故なのだと思い込もうとしている。
「マリアージュ様の卑屈さは、あの方の美点を取り去ってしまいます。ヒース、貴方がどんな手段を用いてマリアージュ様を女王にしようとされているのかはわからないです。でも、あの方を卑屈に、頑なにしてしまうことは、マリアージュ様が女王になることの、ひいていえば、貴方の頑張りの足を、引っ張ってしまいませんか?」
 女王選出には、中級と下級貴族の投票が必要なのだ。それはダイも知っている。ヒースは何かしらの方法を用いて、その貴族たちから票を集めようとしているのだろう。だが下手な交渉よりも、マリアージュが積極的に女王選出の儀に取り組み、その結果自然と票が集まるようにしたほうが、よいに決まっている。
 何より、使用人とマリアージュの心がこのようにすれ違っていることが、とても哀しいのだ。たとえ主従関係にあったとしても、彼らは一つ屋根の下で暮らすのに。
 そう思うのは、自分が下町の生まれだからだろうか。
「マリアージュ様は、みんなみんな、自分よりもヒースの味方なんだって、言ってました」
 ダイはヒースを見返した。彼は湖水のような蒼の双眸を向けて、ダイの話に耳を傾けている。
 改めて綺麗な人だと思う。皆、ヒースの味方になる。そんな風にマリアージュが思うのは、彼の美貌に嫉妬している部分があるからなのかもしれない。
「皆が貴方に無条件に従っているって思って、疎外感を覚えているみたいです。でも、本当はそうじゃないでしょう? みんな、ミズウィーリ家が残って欲しいから、貴方に従っているんですよね? そういうこと、ちゃんと、理解してもらったほうがいいです。そうしたらマリアージュ様は、女王になろうって、もっと頑張ってくださると思いますし――……」
 ダイは男を見つめ返した。
「そうしたら貴方も、もう少し、楽になりますよ、きっと」
 彼がマリアージュの父にどんな誓いを立てたのかはわからない。
 ただ彼は、マリアージュを女王にするために、身を粉にして働き続ける。
 まるで、自分を追い詰めていくように。
 けれど、もしマリアージュが積極的に動くようになれば、彼もそんな風に働かずにすむと思うのだ。
「――……貴方は」
 口を開きかけ、ヒースは一度、言葉を切る。
 蒼の瞳を揺らし思案する様子を見せた彼は、机の上に載せていた手を組み替えて、小さく微笑した。
「……意外に、楽観的なんですね」
「……それ、マリアージュ様にも言われたんですけど」
 そんなに楽観的に物事を捉えているわけでは、ないつもりなのだが。
 ダイは思わず口先を尖らせ肩をすくめた。
「前向き、と言ったほうが、よかったですか?」
「同じです」
「そう、拗ねないでください。褒めているんです」
 苦笑したヒースは、ダイを見つめて囁くように告げてくる。
「貴方は本当、聡明なんですね」
「子供の割には?」
「曲解しないでください。そんなことは言ってない」
「……すみません」
 確かに捻くれた捉え方をしすぎたと反省する。ヒースは気を悪くした様子もなく、首を横に振ってきた。
「いいえ。そう、捉えられても仕方はない。ですが……貴方には、いつも驚かされる――感銘を、覚える」
 慣れぬ賛辞に、頬が上気していく様を自覚する。ヒースはまだ何かを言いかけたが、結局口を噤んでしまった。
 僅かな間。
 長いようで短い沈黙を挟み、彼は会話を締めくくった。
「……貴方の諫言については、考えておきます。今日はもう休んでいいですよ」
 もう終わりだと、彼はダイから目線を外す。
 肩透かしを食らったような気分だ。
 しかし多忙な彼にこれ以上食い下がる必要性も見出せず、ダイは礼を述べた。
「ありがとう、ございました。……おやすみなさい」
「えぇ」
 就寝の挨拶に応じてきた彼は、休憩を挟むことなく、机の上に広げられたままだった未処理の書類に手を付け始める。
 結局、彼はどんな言葉を飲み込んだのだろう。
 何か釈然としないものを覚えつつも会釈に腰を折り、ダイはそっと、ヒースの執務室を退室したのだった。


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