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第三章 灰色の智将 5


(……どうにかならないかな)
 侍女たちの控え室へと歩きながら、ダイは胸中で呟いた。
 マリアージュの父親が亡くなったのは一年ほど前。丁度、彼女が女王候補として認定された直後であると同時に、女王選出の儀の準備に取り掛かり始めたころでもある。
 唯一の肉親の死を悼む余裕もなく人々の思惑に取り込まれて、寂しさも募っているのだろう。そう思うと、あの少女がとても不憫な気がした。天涯孤独は自分も同じだが、自分にはアスマを筆頭とする呆れるほどお節介な花街の人々がいたから、誰が誰の味方だとかそんなこと考えもしなかったけれど。
「すみません……」
 手の空いている侍女が控えているはずの小部屋に顔を出したダイは、小首を傾げて立ち止まった。
「あれ?」
 部屋は、無人だった。
 飲みかけの紅茶が円卓の上に数組、放置されたままになっている。用事ができて、そのまま部屋を後にしたといった様子だ。呼べ、と命ぜられた侍女のみならず、誰もいないのでは話にならない。
「……二階に誰かいるかな」
 肩をすくめて踵を返す。来た道を引き返し、重厚な造りの階段をゆっくりと下りた。目的地は二階にある控えの間だ。さすがにマリアージュの下に不慣れな自分を残して誰もいないというのに、全ての控えの間がもぬけの殻ということもないだろう。
「……です…ね。お願いいたしますよ」
 つま先が二階の絨毯を踏みしめた刹那、ダイの耳に、話し声が滑りこんできた。
「尽力いたしましょう」
(ヒース?)
 知らぬ男の声に応じる声は、ヒースのものである。
 ダイは慌てて階段の陰に身を潜めた。その必要はなかったかもしれないが、男達の真剣な声音に思わず身体が動いていたのだ。身体を強張らせながら耳を澄ます。押し殺された話し声が、徐々に近づいてきていた。
「全く、何故貴方のような方がこんな落ち目の家についていらっしゃるのか、私には理解しかねます。いかがです? 今からでも遅くはない」
「残念ですが、私にはお館様へのご恩がありますので」
「果たしてそれだけですか?」
「ご想像にお任せいたしますよ――……」
 含みを持たせたヒースの物言いに、客人の男の笑いが弾ける。彼らの影が視界の端に映り、ダイは階段を駆け上って、踊り場の柱に身を寄せた。
 二つの影はダイの存在に気づかぬまま、階下に向けて滑っていく。
「まぁ、ダイ?」
 気配が遠のき、やがて二人の話し声すら耳に届かなくなった頃、女の声が二階から響いた。柱の陰から身を乗り出し、彼女の名前を囁く。
「ティティ……」
 探していた侍女は、怪訝そうに瞬いて、小首を傾げてみせた。
「貴方、そんなところで何しているの?」
「ティティこそ」
 立ち上がりながら、ダイは呻いた。
「どこに行ってたんですか?」
「いらっしゃっていたお客様のお見送りの準備よ。ちょっと人手が足りなくて」
 先ほどヒース達が消えた方向に視線を向け、彼女は答える。
「私はマリアージュ様のことがあるから、すぐに戻ってきたんだけど……何かあった?」
「あ、えぇ。マリアージュ様が呼んでます。衣装合わせ、再開したいと」
「わかったわ」
 ティティアンナは頷き、階段を上ってくる。彼女が横に並ぶのを待って、ダイは歩き始めた。
「マリア様、何のお話だったの?」
「え、えぇっと……ヒースが、あ、リヴォート様が、この家に来られたときの話とか」
「あぁ、旦那様が賊に襲われたときのお話ね。あの時は大わらわだったわ」
「あとは女王候補の条件とか、ミズウィーリ家が中級貴族に落とされそうだったというお話とか、あと――……」
 言い淀むこちらに、ティティアンナが足を止める。
「どうしたの?」
「み、みんながリヴォート様の味方だっていうお話、とか」
「リヴォート様の? そういえばさっきもそんな話してたけど……」
 首を捻るティティアンナに、ダイは先ほどの会話の流れを掻い摘んで説明してやった。
 とたんにティティアンナの顔が、憤慨にも似た色に染まっていく。
「そりゃぁなぁんにもわからずわがまま放題のマリア様よりも、当主代行として必死に働いてくださっているリヴォート様の味方するのは当然のことじゃない」
 彼女は腰に手を当て、呆れを通り越したといわんばかりの様子で言いきった。
「それにマリアージュ様はいまひとつわかっていらっしゃらないけど、本当の本当に、今お家は大変なのよ」
「たいへん?」
「借金があるのよ」
 ティティアンナの即答に、ダイは思わず絶句する。一方、きょときょとと周囲が無人であることを確認した彼女は、腰を屈め、ダイと目を合わせてきた。
「それはもう、ものすごい借金がね」
「そ、そうなんですか?」
「えぇ。領地だってほとんど取られてるの。旦那様がリヴォート様を連れて帰られたときの話は聞いたのだったわね。あれは療養されている旦那様の妹君を見舞いにいったというよりも、嫁ぎ先の家に援助を頼みに行っていたのよ」
 それは――かなり、逼迫した状況なのではないだろうか。
 マリアージュの口ぶりからは、そんな様子は微塵も見られなかったが。
「なんでそんなことに?」
 マリアージュの語るミズウィーリ家の前当主は、博打に興じるような人間にも思えない――もしそうならば、マリアージュはヒースよりも前に、彼に頼らざるを得ない状況へと追いやった父親をなじるだろう。
「奥様……マリアージュ様の、お母上だけれど、お小さい頃からとても身体が弱かったの。そのお医者代でね。そりゃぁもう莫大なお金が必要だったそうよ。……結局、若くしてお亡くなりになられたけど」
「……そう、なんですか」
「確かに女王陛下が代替わりして、寵愛を受けられなかったことも大きいわよ。でもお家が傾いた一番の理由は、その借金なんだから」
 ティティアンナ曰く、マリアージュの祖父、つまり彼女の母の父親は、娘の命を救うために周囲から金を借りて回ったらしい。それも、情に訴え下から頼んだ訳ではなく、かつての権勢を笠に着ての強引な借用であったようだ。結局その金を返済することが出来ず、他の貴族たちからつまはじきにされるに至った、というわけである。
「マリアージュ様はリヴォート様に対して、もう少し感謝すべきだわ。本当だったら成金の新興貴族のところに叩き売られていても――と、ごめんあそばせ」
 ティティアンナのあまりの物言いに、ダイは思わず眉をひそめた。露骨だったその表情の変化が目に入ったのだろう。彼女は微笑み、丁寧に言い直してくる。
「お金持ちの家に、お嫁にいっていてもおかしくはなかったのよ。十中八九、相手はミズウィーリの歴史が欲しいだけの中級下級の成金貴族だったでしょうし、下手するとお家取り潰しもありえたでしょうけれどね」
「そんなに?」
「えぇ。私だって、他の仕事場を探していたぐらいだし……。ハンティンドンさんやキリムさんはもっと心境複雑だったと思うわ。もうあのお年じゃ仕える新しい家を見つけることは難しいでしょうし、例え見つかったとしても、自分の家を見殺しにしたような気分で、落ち着かなかったでしょうね」
 ティティアンナの言葉の意味は、ダイに重く伸し掛かった。自分の状況と照らし合わせて考えずにはいられなかったからである。
 ほんの十五年過ごした花街と離れるだけでも、苦しいのだ。だというのに、ダイの人生の何倍もの長さの歳月を共にした家と、侍女頭たちは別れを告げるかもしれなかった。その可能性に対する苦悩は、想像するべくもない。
 家を守ってくれるヒースを、彼女たちが受け入れたのも当然といえる。
 しかし――ダイは周囲をぐるりと見回しながら呟いた。
「でもそれにしては、ぜんぜん借金を負っているようには見えませんけれど……」
 真っ直ぐ伸びる廊下には、貧しさの片鱗すら見られない。
 廊下だけではない。ミズウィーリ家の屋敷は、広大な庭を含めて隅々まで手入れが行き届いている。廊下の壁面を美術品が飾り、花が随所に彩りを添えていた。困窮した一家の屋敷とは、とても思えない。
「女王候補になられたからよ」
 ティティアンナは答えた。
「候補者になると、補助金がお城から下りるらしいのね。それで今はどうにか持ちこたえている感じ」
「……そうなんですか」
「もちろん、補助金だけでもないけどね。そこはリヴォート様の手腕ってところでしょう」
 さらに声を潜めて、彼女は付け加えた。
「大体、マリアージュ様はリヴォート様を誤解しすぎよ。女王候補になられたのは、もちろんリヴォート様が表立ってあちこちへ交渉に行かれたからだけど、それ以外にも大きな理由があるのよ」
「マリアージュ様が女王候補になれた理由?」
「そ。上級貴族はたった十三家だけど、妾腹も含めれば女の子の数はかなりのものなのよ。いくらリヴォート様が交渉お得意だからっていって、あの方の実力だけで、マリアージュ様が女王候補になれるわけないじゃない」
「じゃぁ何が理由なんですか?」
「流行り病よ」
 ティティアンナは即答した。
「王女様がお亡くなりになられた、二年前のあの病」
 その後、彼女が僅かに顔を歪めてみせたのは、当時の日々を思い出したからだろう。
「あぁ……私の周りでも流行りましたよ。芸妓の子達がたくさん死んで……」
 ダイも呟きながら、渋面になった。あの病については、まだ記憶に新しいほうだった。
 約二年前、女王エイレーネが末娘を失う原因となった病は、客として館を訪れていた貴族の子息達を感染源として、花街にも被害を及ぼした。アスマも一月ほど館を閉めなければならなかったほどである。花街だけではない。病の流行を防ぐために商業区に軒を連ねる店舗も雨戸を下ろし、当時、都全体が喪に服しているかのような様相だった。
「あのせいで、女王候補になりそうだった女の子たちも大勢亡くなったわ。競争相手が激減したからこそ、マリアージュ様は女王候補になれたようなものなのよ」
「そういう背景があったんですね……」
「そうそう」
 表情を緩めて、ティティアンナは頷く。
「なのにマリアージュ様の言い方だと、まるでリヴォート様が無理やり女王候補に据え置いたみたいじゃない?」
 まったく、とマリアージュへの嘆息を零し、彼女は続けた。
「しつこく言うようだけど、マリアージュ様はリヴォート様に感謝すべきよ。なんの恩義か知らないけれど、リヴォート様は旦那様の遺言に従って、この家をどうにか持ちこたえさせるように動いてくれている。今日だってリヴォート様は、デルグラント家……上級に数えられる家の一つね。そこのご主人と会談して、これからまた別の家に援助を願い出にいくのよ。で、帰ってきたら執事長と事務仕事じゃない? 頭が下がるわ。マリア様が女王になった暁の権力欲しさだったとしても、構わないわよ、私は」
 貴族同士の集まりの度に、面倒だと癇癪を起こすマリアよりも数倍ましだと述べるティティアンナを、無言のまま見上げる。
 上手く言い表せないが、どことなく打ちのめされたような気分を、ダイは味わっていた。
 とても、居た堪れない。
 マリアージュの立場も、ティティアンナ含む古参の使用人たちの立場もよくわかる。
 しかしマリアージュのあり方が、とても悲痛に思えてならないのだ。彼女の立場には理解を示すものが居ない。いないのだと思い込んで、マリアージュは自分を追い込もうとしている。
 本当に、どうにかならないものだろうか。
 もっとお互いに理解して、上手くいかないものだろうか。
「マリアージュ様のお気持ちも、わからないでもないのよ」
 頭上から降ってきた柔らかな声に、我に返る。面を上げると、ティティアンナが苦笑を漏らしながら、こちらを見下ろしていた。
「奥様が、病弱だったから、マリアージュ様は生まれてすぐ、奥様と引き離された。皆、奥様に掛かりきりだったわ」
「そんなにひどいご病気で?」
「そうね。とても。マリア様をお生みになられたことも、奇蹟としか言いようがなかったって聞いたわ」
 死ぬかもしれぬのに、マリアージュの母は彼女を産んだのだと、ティティアンナは言った。
「私の両親もこの家に仕えていたのだけれど、幼い私にマリア様の相手をさせていたのよね。広い部屋にマリア様がぽつんといらっしゃって、お母様に会いたいって駄々をこねてこねて大変だった。なんでこんな癇癪ばかり起こす子供の面倒を見させるのって、私は幼心に親を恨んだわよ。今となっては……癇癪も起こしたくなるわよねって、わかるけど」
「けど?」
 ダイの問いに、彼女は困ったように笑って答える。
「十七にもなったら、もう少し周囲の状況も把握して、落ち着いてくれなきゃ困るってことよ」
 貴方みたいに落ち着いてくれればいいのだけれどねと、ティティアンナは言う。二の句が継げずにいたダイは、視線を泳がせ――……。
「あんたたちっっ!!!!!」
 ティティアンナの肩越しに浴びせられた金切り声に、彼女と二人で飛び上がった。
「ま」
「マリアージュ様……」
 紙よりも白く血の気を引かせながら振り返るティティアンナの視線の先には、頭から蒸気が噴出しているのではないかと思うほど、怒り心頭なマリアージュ。
 彼女は唇を戦慄かせて、こちらを指差し叫んだ。
「なかなか帰ってこないと思ったら、二人とも一体何やってんの!?!?」
『も、申し訳ありませんっ!!!!』
 揃って頭を下げるが、その程度でマリアージュの怒りが収まるはずもない。奇声じみた怒声が雷のように廊下に轟き、客人の見送りから戻ってきた侍女たちが何事かと集まり始める。
 手当たり次第周囲のものを投げて地団太を踏んだマリアージュは、午餐の前に様子を見に来た医者のロドヴィコが鎮静の薬を与えてようやく落ち着きを取り戻し――しかし当然のことながら、午餐へ出かけるぎりぎりの時刻になるまで、顔を触ることをダイに許さなかったのである。
 当然、侍女頭からの説教を夜半、みっちりと受ける羽目になった。


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