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第九章 忍ぶ懸想者 2


 正餐の会場となる中二階には、食器類が整然と並んだ長卓とは別に、椅子と小卓が設えられている。
 広間を望める縁側に計六脚。そのうちの一席に座して、セレネスティは正餐の開始を待っていた。
「お身体のほどはいかがですかな、陛下」
「悪くはないかな……」
 小卓を挟んで腰掛けたヘルムートから問われ、セレネスティは広間を見下ろしながら答えた。
 正餐の時間まで半刻と少し。集うひとの数も増えている。彼らから視線を外して、ヘルムートに向き直る。
 彼は老齢ながら洒落者で、藍色を基調とした盛装も、非常によく似合っていた。今宵、セレネスティの相手役はこの騎士の長が務める。ディトラウトはゼノを護衛として挨拶回りの最中だった。
 宰相は壁際でご婦人方に囲まれている。
 愛想笑いを浮かべる彼は不機嫌そうだ。
「安心してよ、サガン老。本当に悪くない……。兄上のとこには、混じれそうにないけどね」
「ディータのやつ、今日は相手役がおらんので大変そうですなぁ」
「本当、兄上には申し訳なく思うよ」
 宰相を相手役に命じなかったわけは、彼ひとりに社交を任せるためだった。
 魔術師である梟は緋の広間に入室を許されなかった。己の影が不在のいま、大勢を相手できる自信はセレネスティにない。
 ディトラウトへの負担が加速的に増えていく。
 セレネスティはマリアージュへと視線を移動させた。ディトラウトから少し離れた位置でゼクストの官たちから挨拶を受けている。相手役は宰相のようだ。
(……化粧師じゃないのか?)
 てっきりあの少年だと思っていたが。
「見慣れん娘がおりますな」
 ヘルムートの呟きにセレネスティは首を捻った。
 知らぬ顔が出席していても不思議ではないが、ヘルムートがあえて言及した点が気になった。
 彼の視線を追う。
 黒に限りなく近い赤――デルリゲイリアの国章を翻し、ひとりの“娘”が、ドッペルガムの国章持ちに歩み寄って声をかけていた。


「ファビアンさん、会議、お疲れさまでした」
「え? ……あぁ、はい。やさしきお言葉、感謝申し上げ、ま……す」
 振り向いたファビアンは、ダイに慇懃な礼を返した。
 ダイの顔を見て瞠目したから、女装に驚いたのかと思いきや、彼は朱の差した顔でダイを観察し始める。
 この様子だと、ダイが誰かわかっていない。
 さすがに傷ついた。
「えぇ……ファビアンさん、それはないですよ」
「それはないってなにふぐっ!」
 ファビアンの腕に手を絡めていたクレアが無言で彼に肘鉄を入れる。彼女は脇腹を抱える上官の隣で優雅に一礼した。
「上官がたいへん失礼な発言を。代わってお詫び申し上げます」
「クレア! 痛いよ!」
「ファービィ様。そんなふうでおいでだから、いつまでもファービィ様なのです」
「なにそれ!?」
 そのままの意味ですが、と、ファビアンを見るクレアの目は冷たい。
 ダイは苦笑して彼女に問うた。
「クレアさんはわかったんですね、私のこと」
「もちろんです」
 クレアは微笑んだ。
「お美しいですよ、ダイ様」
「だ、だだ、だだ……ダイ?」
 ファビアンが蹲ったまま、うわずった声を上げた。口元がおおいに引き吊っている。ダイは腰に手を当てて同じ国章持ちの男を見下ろした。
「そうです。ひどいですね。わからなかったんですか?」
「いや、だって、え、えぇ?」
 本当の本当にわかっていなかったらしい。顔を真っ赤にして狼狽するファビアンへ、ダイはこれ見よがしにため息を吐いた。
 会話を碌々交わしたことのない官たちは許せる。大陸会議中に茶菓を挟んで談話した程度の間柄でも仕方がない。
 けれども、今回はファビアンである。
「いや……あんまりきれいでてっきり別人かと思った」
「ありがとうございます。でも、褒められても全然うれしくないですね」
「ごめんよ。あー、ここ一番の驚きだった。まだばくばくしてる」
 ファビアンは心臓の上に手を当てて立ち上がった。ダイの傍らに立つアッセを認めて一礼する。
「ああ、あなたがダイの相方さんですか。先ほどの会議はどうも」
「こちらこそ。貴重な意見を多く拝聴した。貴君の御国の躍進、我が母も喜ばれよう」
 アッセの応答にファビアンが訝しげに問うた。
「お母上、ですか?」
「ファビアンさん、アッセはエイレーネ女王のご子息です」
 ダイはふたりの会話に割って入った。ファビアンが、あぁ、と、納得の表情を浮かべる。
「エイレーネ女王には大変お世話に。我が国の者は皆、デルリゲイリアに深い感謝を抱いていますよ」
「……にしては会議中、貴君らは我が国に厳しく思えたが?」
「そうだったんですか?」
 ダイの問いにアッセが首を縦に振る。
「ペルフィリアやクランと足並みを揃えておいでだった」
「へぇ、ペルフィリアやクランと」
 クラン・ハイヴとドッペルガムは元より友好関係を保つ間柄である。そこに前者と休戦状態であるペルフィリアが加わったとは驚きだ。
「どういった経緯なんですか? ファビアンさん」
「うん、まぁ、色々あってねぇ」
 ファビアンは言葉を濁す。クレアも口を出さない。答えるつもりはないようだ。
 ダイは憂いの顔で目を伏せた。
「あぁ、宿をご一緒した仲ですのに、ちょっと女装したぐらいで、私の見分けがつかなくなるのはつまり、そういうことですか。かなしいですね……」
「語弊のある言い方やめてくれるかな!? 君の相方さんたちが怖い顔してるんだけど!?」
「だって本当のことですし」
「クレアもいたから! 部屋も別だから! ひどいな!」
「人の顔を忘れるのとどっちがひどいんですかね……。で、どういう経緯でペルフィリアとお友達に?」
「ううう、なんていういじめだ……」
 これ見よがしに嘆息すると、ファビアンは説明を始めた。
「表敬訪問のあとだ。ペルフィリアから使者が来た。これを機に友好を深めたい、とね……」
「それでクランとの仲を取り持った、と」
「取り持つほどのことはしてないよ」
「協定の立ち会いぐらいはされました?」
「……ちょっと見ない間に、鋭い見方をするようになったねぇ」
 ファビアンは苦い口調でダイを褒めたのち、そうだよ、と、言った。
 今年の初め、クラン・ハイヴのエスメル市は、ペルフィリアと通商協定を結んだと聞く。これまで二国間にはなかった動きだ。ドッペルガムが間に入ったとなれば腑に落ちる。
 だがファビアンはダイの推測を否定した。
「言っておくけど、仲立ちはしてないよ。立ち会っただけ」
「立ち会っただけ?」
「僕らはクランの味方でも、ペルフィリアの味方でもないってことさ」
「そしてデルリゲイリアの味方でもないと」
「敵対はしたくないな。エイレーネ女王なくして、ドッペルガムは存在し得なかったわけだから」
 その経緯についてマリアージュが知りたがっていたことをダイは思い出した。
 しかし自国の記録をさらう前に、他国の官であるファビアンに、安易に尋ねてもよいものか。
「僕も訊きたいことがあるんだけど」
 逡巡していたダイは先にファビアンから問われた。
「ゼムナムとずいぶん仲良くなったんだねぇ、君の国は。……いつの間に?」
 ダイは当たり障りのない回答を述べる。
「小スカナジアでの仮住まいがお隣なんですよ」
「らしいね。すぐに行き来を始めたみたいじゃないか」
「ありがたいことに。サイアリーズ宰相閣下がよくしてくださって」
「なるほど? 彼女からの使者はアーダムだね?」
 虚を突かれ、息を呑んだ。
 一瞬の沈黙は肯定を返したも同義だった。余計な情報を与えてしまった。
「アーダム、ここに来ているらしいしね。ご無沙汰だし、旧交を温めたいなぁ」
 ダイともゆっくり話したいね、と、ファビアンがにっこりと笑う。
 ダイも反射的に笑顔を返し、そうですね、と、同意した。
「僕らはそろそろ失礼するね。また後ほど」
 ファビアンがひらひら手を振って、その隣でクレアが丁寧に一礼する。
 彼らに軽く手を振り返していると、隣のアッセから問いかけられた。
「ダイ、宿とは、どういうことだ?」
「は? あぁ、さっきのですか。ペルフィリアのときのことですよ」
 捕らわれていたダイがダダンに救われたあと。居合わせたファビアンたちの宿に匿ってもらった。
 当時のことは報告済みだ。アッセも知っているはずである。
 アッセはそうかと頷きながらも納得のいかない面持ちだった。
 ダイは彼の顔をのぞき込んだ。
「どうかしましたか?」
「いや……なんでもない」
 アッセに顔を逸らされ、ダイは困惑した。
「そんな風には見えませんけれど……」
「やれ、美しいご婦人をそのように困らせるとは、男の風上にも置けないね」
 影が差すと共に声が振り、ダイは頭上を仰ぎ見た。
 若い男がアッセと並んでダイに微笑む。
 ファーリルの騎士の男だ。会場入りしてすぐに顔を合わせたものの、例によってダイのことがわからなかった。
「先ほどはたいへんな失礼を。あまりの美しさに目が眩みすぎ、盲(めくら)となっていたようです。この度はお詫びに参上いたしました」
「それはご丁寧に」
 ダイは取り上げられた手を引き抜いた。相方がいる女に勝手に触れるとは。男にとって侮辱されたに等しい。
 ダイはアッセを一瞥した。表情が消えている。
 彼にしては珍しく、かなり、機嫌が悪い。隣のユベールとランディが焦るほどに。
 ファーリルの男が微笑んでダイに詰め寄った。
「いかがですが? 軽く一曲」
「ご遠慮願おう」
「アッセ」
 どうか落ち着いてほしい。ダイはアッセの腕を握った。意図は通じなかったようだ。彼は静かな口調でユベールたちに命じる。
「彼女を離れたところへ。私は少し話をする」
「あ、ちょっと」
 ユベールとランディに引きずられるかたちで場を離れる。壁際まで追いやられたところで、ダイはユベールの手を振り払った。
「ふたりとも! 何なんですか!」
「ダイ、あそこにあなたがいたら火に油を注ぎます」
「団長はダイを守りたいんだよ。わかってやって」
「……大丈夫ですかね、本当に」
 ダイは額に手を当てて呻いた。ファーリルの男と話し合うアッセは傍目には冷静だが、あれは内心かなり怒っている。
 彼にはらはらしながら、ダイは正直に吐露する。
「……お気持ちはわかるんですが、あそこは軽くいなすところです」
 ダイを守ろうとしてくれていることはわかる。彼は己の対面はもちろん、ダイのことを案じたのだ。
 それでも意固地にはなって欲しくなかった。
「団長、まともに喧嘩をふっかけられることに慣れてないからなぁ」
「真面目ですからね、彼は」
「ユベールたちは暢気ですね」
 ダイは苛立ちを込めてふたりを睨んだ。
「あぁいうのを躱せる余裕がないと、アッセの場合まずいでしょう。ちゃんと遊び場に連れて行かないあなたたちも悪いんですよ。美人局(つつもたせ)にでもひっかかったらどうするんですか」
「あ、いえ、はい」
「うん、ごめん……」
 先王の息子であるアッセは、王配だった父方のテディウス家や、女王の生家であるドルジ家、両方の強い後ろ盾を持つ。国内ならばだれも彼に表立っては楯突かない。
 アッセの真面目さや実直さ、潔癖さは、彼の美点だ。ダイも好ましく思っている。
 同時にそれらは彼の欠点でもある。彼を窮地に陥れる。いまのように。
 アッセは戻る気配を見せない。案じながら眺めていると、視界の端に男装の麗人が、杖を突きながら現れた。
「ダイ。これは驚いたな。見違えた」
「サイア」
 紫を基調とした盛装と左肩には国章。男装であっても晩餐服で着飾った女たち以上に華やかだ。その隣には彼女の主君とドンファンの女王たち。背後にはイスウィルら護衛が控えている。
 ダイは衣装の裾をとって礼に腰をかがめた。
「皆様、此度は長らくの会議、お疲れのことかと存じます。ファリーヌ女王陛下におかれましては、議長役、大任でございました。我が主君も陛下のおかげで会議が滞りなく進んだと仰せです」
「こちらこそ、マリアージュ女王にはお世話になりましたわ。……あの、化粧師の方で、いらっしゃるのよね?」
「はい」
 ダイは居住まいを正して首肯した。ダイの顔をまじまじと眺め、ドンファンの女王が頬に手を当てて吐息する。
「まぁ……本当なのね。女の子であることは存じておりましたけれど」
「わたくしの申し上げたこと、信じておいででなかったのですか、陛下」
「そうは言いましてもサイア……」
「ダイ、であるのよな?」
 ダイの手を引いて、アクセリナが訊く。ダイは腰をかがめて幼い女王と目線を合わせた。
「はい、陛下。わたくしです」
「うむ。そうか……。べつじんみたいだぞ」
「よく言われます」
「とってもきれいだ」
「陛下にそうおっしゃっていただけて嬉しいです」
「ところで君の相方はどちらへ? 護衛しか連れていないようだが、まさかひとりとは言わないだろう?」
「あそこにいますよ」
 サイアリーズの問いにダイは目で方向を示した。
 ゼムナムの宰相は合点がいった様子で面白がる笑みを浮かべる。
「君はほとほと問題の種になるな」
「わたしのせいなんですかね……」
「ダイのせいですね」
「ダイのせいだよな」
 ユベールとランディがサイアリーズに同意する。ダイは彼らの足を踏み抜きたくなった。
「あ、まずい。……ユベール、ダイ、俺、団長のところに行ってくる」
 早足で場を離れるランディの肩越しにダイはアッセを見た。彼と対峙する男の数がふたりに増えている。彼らは会話しながらもダイに視線を送っていて、それがまたアッセの苛立ちをかき立てているようだった。
 ドンファンの女王がダイを複雑そうな目で見る。
「あなたを男装させるマリアージュ様のお気持ち、わかった気がいたしますわ」
「陛下はわたくしに強制しているわけではないのですが」
「今後も男装しておいたほうが無難だな。君の場合」
 サイアリーズが口を覆い、くつくつと喉を鳴らす。他人事だと思って。彼女はダイが腹立たしくなるほど楽しそうだ。
 ダイはくちびるを尖らせた。
「そんなに別人に見えることが物珍しいですかね」
「は……あぁ。本当に男装させておいたほうがいいな、これは。危ない」
 サイアリーズが真剣な面持ちで断じる。その場の一同が真顔で頷いた。
 女装がまさかの危険物認定。ダイは閉口した。
「ファリーヌ、わたしもあちらに行ってこよう」
 ドンファンの女王から王配の騎士が離れる。年長の彼なら場を丸く収めてくれるだろう。
 と、ダイが思ったがつかの間。
「やだわ。若い子たちをからかって遊ばなければいいけれど」
「陛下、少しはお諫めになってください」
 ドンファンの女王とサイアリーズの会話から、ダイはますますの混乱を予想して、その場で頭を抱えたくなった。
 実際、状況は悪化している。アッセたちの周囲に、人だかりが形成されていた。
 声を荒げているものはいない。皆、笑顔だ。しかし空気は剣呑そのものである。
 アクセリナから優しい声が掛かる。
「ダイはたいへんそうだな?」
「労ってくださるのは、アクセリナ陛下だけですよ……」
 遊戯室にでもいるのか。マリアージュの姿は広間に見えない。彼女に知れたら雷が落ちること確実だ。
 ユベールもさすがにまずいと思ったようだ。ダイとアッセたちを神妙な面持ちで交互に見る。
 ダイは嘆息してユベールに促した。
「行ってきてください、ユベール。私は陛下たちといます」
「ですが」
「アッセもそうですが、ランディが心配です。ふたりを押さえてきてください」
 ランディは短気だ。このままでは彼が怒りを爆発させるかもしれない。
 アクセリナたちといれば安全だろう。彼女たちの護衛にも囲まれている。
 ユベールもダイと同様に判断したか、イスウィルたちに黙礼したのち、アッセたちの下へ小走りで向かった。
 その姿に目を留めたらしい女の訝る声が響く。
「どうしたのかしら、あそこ」
 ダイは声の主を探った。少し距離を空けて、フォルトゥーナが立っている。宰相の老人や、ファビアン、クレアもいる。
 そして、ゼノを連れたディトラウトの姿も。
「ふぉるとーな女王!」
 発音は不明瞭だが、声量は十分だった。アクセリナの呼びかけにフォルトゥーナたちが気づく。
「バルニエがいむかんと……えーるに宰相もおるな!」
 アクセリナの呼び出しだ。無視はできない。
 緩慢ながらもフォルトゥーナたちはこちらとの距離を詰め始めた。


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