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第九章 忍ぶ懸想者 1


 女官たちが衣装を着せ替える間、マリアージュは終始無言だった。
 疲れているだけのときと様子が異なる。
 ダイは化粧の手を止めてマリアージュへ尋ねた。
「陛下、何か気にかかることでも?」
 本会議の内容はダイも聞いた。
 流民対策の規範については、最終的に各国に承認された。晩餐会に参加しない文官たちは、さっそくその下準備に散っている。
 不利な約定に調印したわけでもなし。憂いはないはずだが。
 黙したままの主君にダイは呼びかける。
「マリアージュ様」
 あの男のことか。
 唇のかたちだけでダイが問うと、マリアージュは首を横に振った。
「そうじゃないわ。会議中……思うことが、色々あったの」
「さようですか」
 ようやっと口を開いた主君に安堵して、ダイは化粧を再開した。
「会議はどんな感じだったんですか? 喧々諤々です?」
「そうでもないわ。びっくりするぐらいに冷静で、協力的だった。前半は」
「後半は?」
「すこし、騒ぎになった……」
 主君がため息を吐き、会議の様子を語る。
 各国が問題を提起して解決策を模索するなか、ペルフィリアが政教分離の原則を持ち出して、王位継承や国の建国条件となる正統主義こそ、諸悪の根源であると議論をぶち上げたという。
「正統主義?」
「聖女の血筋……メイゼンブル公家の血を継ぐ女子のみが玉座に就くべしって考えらしいわ」
「アバスカル卿が主張してたあれですか。メイゼンブルの血筋から遠いのはよろしくないとかいう」
「よろしくないどころか、神罰が下る勢いらしいわよ」
「なんですか、それ」
 そのような話、ダイは初めて聞いた。
「えぇっと、女王はメイゼンブル公家何親等以内っていう、女王選の条件と同じアレですよね。アバスカル卿のときはつい流していましたけど、あれってメイゼンブルに力を集めるための政略じゃありませんでした? 同化政策とかなんとか」
「私もそう聞いた覚えがあるのよ。……誰からだった?」
 ダイは化粧筆の先をいじりながら黙考した。
 ペルフィリアへの表敬訪問に向かう前だったはず。
(思い出した)
「ダダンですね。セレネスティ女王のことを説明してくれていたとき……」
 記憶が鮮明となって、ダイは渋面になった。
 アリシュエルを東大陸に逃がして戻ったダダン。
 彼が、“あの男”の所在をダイに伝えたのだ。
 マリアージュが、そうだったわね、と、ダイに頷いた。
「表敬訪問を決めたときの話だったわ」
「いつも申し上げていますけど、思いつきで発言なさるに相談してくださいよ」
 色々と困らされているのだ。服を自分で着替えられるようになりたいだとか。
「あのときはあの男を助けてやったのよ」
「わかっていますよ。ダダン、アッセに斬られるところでしたし」
「まったく、あいつってば、ドッペルガムに付き合って、うちの国に来たり、するか、ら……」
 マリアージュの表情が再びこわばる。
 ダイは思わず彼女の顔をのぞき込んだ。
 様子がおかしい。やはり、何かあったのだ。
「マリアージュ様、本当に、大丈夫ですか?」
「……ダイ」
 ダイを見返すマリアージュの目は不安に揺れている。
 ダイの手にすがる主君の指先はひどく冷たかった。
「……ドッペルガムは……フォルトゥーナは、どうして、うちの国に来たのかしら」
「建国の援助を求めてっていう話でしたよね?」
 不自然な点はないようにダイには思える。
 しかし何かがマリアージュには引っかかるようだ。
「……ダダンを呼んでおきますか? 淡紅あたりにまだいると思いますけれど」
「少し……考えさせて」
 ダイから手を離してマリアージュが姿勢を正す。
 ダイも仕事に戻ることにした。
 女王の装いには国家の威信がかかっている。化粧もしかり。
 集中せねばならない。
 ほどなく化粧を終え、ダイは立ち上がった。髪結い役の女官と場を交代する。
「陛下、それではまた」
「ダイ」
 ダイの挨拶をマリアージュが制止する。
 首をかしげるダイに彼女は言った。
「あとで……調べたいことがあるの」
「調べたいこと?」
「そうよ。付き合いなさい」
 命じる主君はやるべき事を見据えた目をしている。
 彼女は少し調子を取り戻したようだ。
 よろこんで、と、一礼し、ダイはその場を辞去した。



 主君との会話は気に掛かるが、ひとまず脇に置く。
 自分も支度に取りかからなければ。
 ダイは割り当てられた部屋に戻った。女官たちが焦燥に目尻をつり上げていた。
 その中心でユマが叫ぶ。
「ダイ、急ぐよ!」
 わっと集まった女官たちに衣装をはぎ取られる。今日の夜会は格式を求められる上、相手役を務められる人員の都合で女装だから、ダイ付きの女官たちは常にも増して気合い十分だ。
 正直、こわい。
「ダイ、足洗うから! はい、座る! 足出して!」
「ミンティ! 胸元もう一回磨く! 七番の香油持ってきて!」
「髪の毛上げて。首、胸まで付けますよ」
「足、気持ち悪いところない? よし」
「首回りをぬぐいます。右向いてくれますか?」
「ティンカ、下着行くよ!」
「はい、左。うつむいて。粉、はたきます……はい、終わり」
「ダイ、両腕を上げて、着せるからね」
「ダイ、立って。裾がひっかかってる」
「後ろを締めるよ。息を吸って、吐いて……ん、んっ! できた!」
「ダイ、こっち、足入れて。衣装を引き上げます。右から腕を通して、次、左です。はい、大丈夫」
「左腕を上げて、下げて。リノの方を向いて」
「首飾りを付けますからね」
「いけた!? うん。じゃあ、ダイ。三歩歩いて、回る。こっち戻って。……ごめん! 下着調整する! 背中触るよ! はい、じゃあもう一回歩いて!」
 衣装を着付けるだけで疲労困憊だ。マリアージュを尊敬する。やはり世話する側の方がダイの性には合っている。
 着替えを終えて鏡台の前の席に着く。
 女官のひとりがダイの髪をすくい上げた。櫛を通しながら彼女が言う。
「こうしますとずいぶん長くなりましたね」
 元は短く切り揃える時期を逃していただけだった。それが女装する関係で本格的に伸ばすようになって、黒髪は今や肩甲骨に届くかというほどになっている。
 いつもは束ねているだけの髪がさらさらと肩口に落ちる。
「華やかに結いますから」
「えぇ、お願いします」
 女官へ鏡越しに微笑みを向けて、ダイは化粧水の瓶を取り上げた。
 髪を結われている間に、ダイ自身で化粧を行う。道具類はリノがダイに代わり、並べておいていてくれた。彼女は補佐として傍らに控え、湯やら手ぬぐいやらを、ダイの求めに応じて差し出す。
 着替えとは異なって、化粧に戸惑いはない。
 新しい化粧品はまず自分の肌で試すからだ。自分の顔を練習の土台にすることもある。
 慣れてはいるが、不思議な心地だ。単に色味等を試すだけではなく、状況に配した化粧を己に行うことは。
 肌を整えた上で下地を塗って、練粉の前に薄紅を少量仕込む。自分の肌は血色感に欠けるところがあり、男装する上で大いに助かっているのだが、女の顔を作るとなれば話は変わってくる。
 ここが自国領であれば、頬紅で調節してもよい。けれども他国の貴族階級となれば口元以外の濃く見える化粧に眉をひそめる者も多い。西岸南部の三カ国はとりわけその傾向にある。
 肌は雪花石膏の質感を目指し、目元には明るく金をひと刷毛。
 発色の確かな色はくちびるに。
 数ある色の中からは木苺のそれを選ぶ。
 ふと思い立って紅を指で塗りつける。
 指は筆よりもしかとくちびるに色を定着させる。
 したたるような艶のある紅だ。
 鏡の中の見慣れぬ娘にダイは薄く笑んだ。
(緊張している)
 と、思う。
 今回の晩餐会は王侯貴族そろい踏み。緊張しない方がおかしいともいえるが、裏町で芸妓の顔を作っていたダイからすれば、いまさら誰が集まろうと同じに思える。
 きれいに女として装って、立ち回ることにも慣れた。
 なら、なぜ。
 後ろから伸びた少女の細腕が、するりとダイの首に絡みつく。
 生あたたかい囁きが、ダイの耳朶を撫でた。
『きれいって、いってもらえるかな……』
 ひさしぶりだものね――わたしを、みてもらうのは。
 ダイは勢いよく背後を振り向いた。簪を手にしていた女官が、目を剥いて仰け反る。
「ど、どうしました? ダイ」
「い……え。何でもありません」
 すみませんでした、と、謝罪して、ダイは正面に向き直った。
 程なくして、髪結いも終わった。席を立って姿見の前へ。手袋をはき、耳と手首に連ねた宝石を飾りつけ、左肩には国章を縫い取った外套を。
 色合いは上着と同じ。これを身につけている者が国章持ちである。
 ダイの衣装は胸元には横向きの、左胸から足にかけては縦向きのひだが、細かな陰影を投げかけるものだ。生地は軽くて薄い最高級の天鵝絨。絹の如き光沢を有しつつ、それよりも重厚感があり、身体の華奢さを引き立てる。
 左の胸は国章旗と同じ黒ばら色で、裾に向かうにつれて深紅に変わる。この衣装の仮縫いに同席した女官は、夜明けのようだと感想を述べた。
 ダイが歩くと、ひだに隠れて入った切り込みから、色がのぞいた。黄金や濃緑や淡紫や、秘色といった、他国の色だ。それが暗い色調に整えられた衣装に彩りを添えている。
 支度部屋を出たダイはマリアージュに声をかけた。
「お待たせいたしました」
 ダイはマリアージュの化粧を終えなければ準備を始められない。よって仕方のないことだが、やはり主君を待たせるとは申し訳なく思う。
 マリアージュ当人は気にした様子もない。彼女はダイの姿をしげしげ眺め、隣に立つアッセたちに命じた。
「あんたたち、ちゃんと見張るのよ」
「はい……」
 ダイの相手はアッセだ。護衛はユベールとランディ。
 三人の返事には覇気がない。特にアッセは棒立ちしている。
 マリアージュが顔をしかめた。
「……大丈夫なの?」
「会議で疲れているんでしょうね。マリアージュ様も無理はなさらないでくださいね」
「あんたに訊いてないわよ」
 ダイは主君を労っただけなのに、彼女から鋭く睨まれた。なぜだ。
 マリアージュの衣装はダイのそれとは対極的だった。紅から真珠色に移ろっていく。上半身はマリアージュの肉感的な曲線に沿い、腰からはしっかりと膨らませてある。びっしりと刺した刺繍の糸はところどころ他国の色で染められていて、権威と重厚感のある衣装に、親しみやすさを加味していた。
 紅茶色の髪は編み込んだ上ですっきりと纏め、赤と白のちいさな久遠花を散らしてある。魔術で恒久的な美しさを保った花の装飾品。花弁の端々に水滴を模した水晶の粒を縫い込んである。それは女王の証である頭頂部の小冠とともに光を受けてきらめくのだ。
 化粧は目元とくちびるに紅を刺し、肌はなめらかさを、かつ、骨格を際立たせるかたちで。
 主君の美麗な姿にダイは満足して頷いた。彼女の相手を務める宰相との調和にも文句はない。
 居残りの者たちに見送られてマリアージュたちが歩き始める。
 ダイもアッセに手を差し出した。
「さて、よろしくお願いいたします、アッセ」
「あ、あぁ……。あ、よく似合っている」
「はい? あぁ、ありがとうございます」
 アッセは嘘を吐かない。似合うというなら、そうなのだろう。
 おかしくなくてよかった、と、笑うと、なぜか護衛ふたりにため息を吐かれた。



 晩餐会の会場は緋の広間だ。ダイが午前に訪れたときとは異なり、歓談用の椅子や机が減らされている。会議場や小部屋、中二階に続く扉が開放されていた。正餐は中二階で準備中。小部屋には札や盤などの遊戯と、長椅子があるらしい。人の出入りがある。
 会議場自体は施錠されているが、そこまでの通路は中庭を望める。正餐までに時間はあるから、散歩に出る者もいるという。
 宝飾照明が眩しい虹色の光を人々の頭上に投げかけている。
 ダイたちのように揃って会場入りした国もあれば、支度できた者から顔を出していく国もあるようだ。方々で各国の人間が入り交じって談笑している。彼らは新たな入室者の気配に会話を中断して顔を上げた。
 密やかな囁きが波紋のように広がる。
(なんだろ……)
 皆の視線を感じて、ダイは身じろいだ。
 ただ、黙考は長く続かない。
「マリアージュっ、さまあああぁあっ!!」
 甲高い声をまとって娘がひとり駆けてきた。
 レイナだ。相変わらず目敏い
「マリアージュっさまっ! マリアージュ様っ! 会議、お疲れさまでしたっ!」
「ルグロワ市長も」
 きらきらに着飾ったレイナに引きながら、マリアージュが控えめに彼女を慰労する。
「接待に、お疲れなのではなくて?」
「レイナは皆さまにおしゃべりしていただくだけですもの。なぁんにもしておりません。今宵は楽しんで、会議の疲れを払ってくださいましね……あらっ、マリアージュ様、ダイは?」
 どこどこ、と、レイナが周囲を見回す。ダイは苦笑した。マリアージュの真横に立っているのだが。
「あのー、レイナ様」
 ダイが声をかけると、はた、と、レイナと目が合った。
 レイナが訝しげに首をかしげ、まぁ、と、ダイの手を取る。
「ダイのご姉妹の方!? 存じ上げませんでしたわ! マリアージュ様ったら、このような方をお連れでしたらもっと早くにレイナにご紹介くださらないと!」
「え? あの、いえ」
「レイナ・ルグロワです! どうぞお見知りおきを……あっ、やだ、呼ばれてしまったわ。どうぞダイによろしくお伝えくださいましね!」
 潤んだ目でダイの手を強く握ってからレイナは踵を返した。数人の男性の輪の中に紛れていく。
 ダイはあれっと瞬いた。
「もしかして、気づかれませんでした?」
「ロディマス。いまから賭けをしない?」
 マリアージュが疲れた顔でロディマスを誘う。
「これから会ううちの何人がひと目でダイだって気づくのか」
「あんまり、自信がないなぁ。……アッセはどう思う?」
「……国章持ちはひとりしか申請していないはずだが」
 ダイの左肩の国章さえ見れば、その身分は一目瞭然のはずだ。いくら国元で女装したダイの正体を見抜くものがわずかだったからといって。
「さすがにわかるんじゃないですか」
 ダイは乾いた笑いを浮かべて意見を述べた。
 ところがである。
「何たることか! あなたのようなお美しい方を忘れるだなんて!」
 主君たちと別れて他国の官に挨拶へ赴くと、おまえはだれだ、と誰何の質問が続出した。
 肩の国章を一瞥して、はて、もうひとりいたのだったか、と、皆そろって首を捻る。
 美辞麗句を並べ立てる男はドンファンの官だった。ダイは男の手をそっと取り上げて微笑んだ。指先に柔らかく力を込める。
「お忘れだなんて、かなしいことです。どうか……次にお会いするまでは、思い出してくださいね」
「は……」
 握り返される前に男から手を離して、アッセの腕を引いてその場を下がる。彼を促して次へ行く。ひとの顔を思い出せない官に用はない。
 ダイは憤慨していた。
「本当にわからないんですか!? 曲がりなりにも国を支える高官ですよね!? ひとの顔覚えられないって致命的じゃないんですか!?」
「仕方ないんじゃないか……?」
 どうどう、と、ランディがダイを宥めた。
「だって見た目、ぜんぜん違うもん。これまで言わなかったけどさ、しょーじき、自分もダイの女装を初めて見たら、ダイだってわかる自信ない」
「えぇ……」
 髪色を染めてはいない。瞳の色を《上塗り》しているでもない。
 女装して化粧して着飾っただけだろうに。
 脱力するダイに、傍らのアッセがそれはそうと、と、呟いた。
「ダイ、安易に男の手を握ってくれるな」
「え? 何でですか? あぁすると、次に罪悪感から色々と口が軽くなるって、教えてもらったんですけど」
『だれに』
 男三人に詰め寄られて、ダイは視線を泳がせる。
「あ、姉に?」
 正確にはアスマの館の芸妓たちに。
 ユベールが驚きの声を上げた。
「ご姉妹がいらっしゃったんですか」
「あぁー、でもわかるかも。年上の女の扱い、上手だもんな」
 ランディが得心したと手を打った。
「お姉様の教えの意はなんとなくわかりますが……やめましょう」
「危険?」
「まぁ……そうですね」
「大丈夫ですよ」
 ダイの身を案じるユベールに告げる。
「騎士が三人も護衛についていて、危ないことがあったら困ります」
「……その通りだ」
「でしょう?」
 力強く頷いたアッセにダイは笑みを向けた。
 もちろん警戒はしている。一方で下手に危害を加えんとする輩はいないとも思っている。たとえば先の男がダイを傷つけるとしよう。たちまち国同士の問題に発展する。
 せっかく会議がある程度のまとまりを見せたのだ。愚を犯す者はいない。今宵ばかりは過去の遺恨を呑み、饗応に身を委ねんとするだろう。
 そうできないほどの間柄なら、あえて近づこうとはするまい――……。
 ダイに壁役を三人も配するほど、主君が警戒する男もまた同様だ。
 ペルフィリア宰相がダイの視界の端に映る。遊戯室から出たばかりの彼は、足を止めて広間を眺め渡した。
 目が、ほんのひとときだけかち合う。
 彼はダイを認めると、露骨に渋面となった。
 この場に八人しかいない国章持ち同士だ。互いを認識したなら挨拶に出向くが当然。しかし男はこちらにつま先を向けようとすらしない。
「大丈夫ですよ」
 ダイは国章を右手で握って繰り返した。
 騎士たちは真面目な面持ちで任せて欲しいと請け合った。



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