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Stage 3. そんな美しい貴方の事情 4


『棗お姉さん、次はどこへいくんですか?』
『――よ。今日はとことん付き合ってよね』
『いいですけど、私叶君のお守り……』
『今日はいいでしょ! 緑子もいるもの!』
『はぁぃ……』
 くすくすくすと、笑い声。
 棗お姉さん、と控えめに彼女は自分を呼んでいたことを、ふと思い出した。


 今度はどこに連れて行かれるのか。車に乗せられた後、ぐったりとしたまま動けない遊は、夢現の狭間で流れる車のテイルランプを見ていた。窓に映るオレンジと白の明かり。まるで眠りに誘う信号のように、瞬いて。
「……ちゃん。ユトちゃん起きて」
「……ふにゃ?」
 精神的肉体的疲労最高潮であった遊は、睡魔に抗うことができず結局眠りこけてしまったらしい。気がつけば棗に揺り起こされていた。
 MDデッキのデジタル時計は、車に乗り込んでから一時間程度しか経過していないことを告げている。棗は遊が起きたことを確認すると、運転席からするりと降りた。慌ててシートベルトをはずして外へ飛び出す。鍵をかけ扉を閉めて、遊は棗を追いかけた。
 周囲を見回しながら、どこか見覚えのある場所だと思った。とっぷりと暮れた夜の暗がりに浮かぶ輪郭を、目を凝らして確認する。そしてすぐに納得した。
(お店の近くだ)
 間違いない。妹尾家が経営するホストクラブの近場である。繁華街近くの通りの角、住宅と入り混じるようにして建つ、しゃれた洋風の店の中に、棗の姿は消えていった。
 扉をあけると、ちりちり音がする。と同時に猫がばっと外へと飛び出して行った。店から何故猫が。
 踏み入れた先は喫茶店であるらしかった。木目美しい並べられた椅子とテーブル。天井にくるくると回るプロペラ。ヴォリュームが五月蝿くない程度に絞られた音楽と、サッカーの試合を映し出す音のないテレビ。客は一人。一番窓際の席で、ランドセルを傍らに置いた少女が、オムライスを食しているのみだ。客の代わりに猫が床に屯している。店員もまた、一人らしい。カウンターの向こう、作業の手をとめて、棗と遊を交互に見比べていた。
 妹尾家の人間ほど、とはいわないが、それなりに綺麗な造作をした女の人だ。肩のラインと鎖骨を美しく見せる、襟ぐり開いた、ベビーピンクブイネックのセーター。黒いエプロン。髪は軽くまとめられていて、遠めにみても長い睫毛が飾る瞼は、どこか眠たそうにとろんとしている。店員はふむ、と顎に手をやり首をかしげた。
「……隠し子?」
 隠し子って私のことですか。
 発言に多少驚いたのもそうであるが、もっと驚かされたのはその声だ。
 ハスキーヴォイス、といえばいいのだろうか。とても低くかすれた声だった。ある意味とても艶がある声ではあるが、このベイビーフェイスには似合わないと思う。店員の顔を思わず身を乗り出して眺めると、腕を組んで沈黙していた棗が忠告してくる。
「一つ言っておくけどユトちゃんコイツは男よ」
「…………はい?」
 間をおいて棗の顔を見上げるが、彼女はとても真顔だった。
「隠し子だなんて阿呆な冗談はおいといて、よ? アツキ、マサホは?」
 アツキ、と呼ばれた店員は、棗の辛辣な言葉をものともせず受け流し、くるりと背を向けて暖簾の奥へと声をかけた。
「ハガさーん」
 がた、ごとんという物音が響き、ややあってダンボールを抱えた男が一人、暖簾を押し上げながら現れる。黒髪黒目、中肉中背の店員らしき男は、低く呻きながら身を屈めた。
「何や? お前重いからって荷物ほったらかしにするなや」
 床に荷物を置いたらしい。どすん、という音とわずかな震動。男は背を伸ばしながら腰をとんとんと軽く叩いた。無表情の棗と、にっこり笑って首を傾げるアツキが同時に口を開く。
『年?』
「アホなこというなやボケ……って、なんやお前か棗」
「なんやとはなんなのマサホ。売り上げに貢献しにきてあげた客にむけて」
 マサホ、と呼ばれた店員は気だるげに面を上げる。とんとんと肩を叩き、盛大に吐息する。その仕草がなんともジジクサイ。
 マサホはそのままゆっくりと歩み寄ってきた。棗は動く気配がない。やがて手が届くほどの距離に成り、どうしたらよいか判らず混乱する遊の目の前で、ことは起こった。
「とう」
 しゅぱっと目にも留まらぬ速さで棗の首元に手刀が叩き込まれる。がくりと崩れ落ちた棗をマサホはひょいと担いだ。あんな軽そうなダンボール一つで腰を労わっていたわりに力持ちである。一方悲鳴すら上げることができないほど、遊の頭の中は混乱の渦だった。
 一体、何が起こっているのデスカ。
「……あの」
「また酔っ払ってるの? 棗おねーちゃん」
 恐る恐る声をかけようとしたところに、オムライスを食べていた少女の声が割り込んだ。背中にランドセルを背負っている。ツインテールが可愛らしい女の子だった。
「みっちゃん悪いけど俺おくっていかれへんからアツキで我慢してなぁ。アツキー、みっちゃん送ってったってくれや!」
 器用に甘い表情と無表情を相手によって使い分けて、マサホはいう。アツキはエプロンをとりはずしカウンターから出てきた。が、その姿はどう見ても完璧に美しいオネエサンだった。
 特にセミロングのスカートから覗く足がすばらしい。
 が。
「アツキおにーちゃん別に来なくていいよ。恥ずかしいんだもん」
 少女は真顔で真剣にアツキに懇願していた。
「っていってるよーハガさーん」
「みっちゃん。駄目やでそんなこというたら。みっちゃんみたいにものごっつうかわえー子、怖いお兄さんらが放っておかへんやろうからな。こんな奴でも役に立つことは立つから、きちんと送ってもらいなさい。ええな?」
「うー」
 危ないぐらいに熱のこもった口調で細々と言い含められ、少女は不満そうにアツキを伴って店から出て行く。アツキは出際に閉店のプレートを表にかけていった。ここに居てもいいのだろうかと、遊はからから揺れている扉の鈴を見つめた。
 ほどなくして、背後から声がかかった。
「こっちきぃ。ごくろーやったな。酔っ払っとる棗に付き合っとたんか?」
「……へ?」
 振り向くと、一度椅子に座らせて、棗を背負いなおしているマサホの姿。よっこらしょ、と掛け声をかけてマサホは立ち上がる。
「どれぐらい棗に付きあったん?」
「……い、一日です」
 一日か。そらぁえらいこった、と、こてこての関西弁で述べ、マサホは笑った。
「くたくたやろ。棗寝かせたら甘いもんだしたるから適当な席について待っといて」
 そういうと彼は暖簾の奥に消えていった。
 遊は呆然とその場に立ち尽くし、愕然と呻いた。
「…………もしかして一日中酔っ払ってたの…………?!」
 あの、最初のエキサイトぷりは確かに酔っ払っていないと無理だとは思っていた。事実、酒の匂いがかすかにしていたし。
 だがあの弾け様はストレスのせいもあるのだろうと思っていた。実際後半からは、酒の匂いもしなくなっていたし、一見素面に見えぬこともなかったからだ。その彼女が実は相当酔っ払っていたという事実もまた遊を戦慄させるに十分ではあった。


 昼食も夕食もスキップしていた遊は、売れ残りだからと出されたケーキにハイエナの勢いでもって飛び掛った。どれもが甘さ控えめ、且つ素材の味を生かしたもので、ふわりとした口どけに舌鼓を打つ。ロールケーキをフォークで切り分けることもせず、行儀が悪いと知りつつもそのまま齧り付き、これでもかと頬張ったまま、テーブルの上に置かれた一枚の名刺を読み上げた。
「ははまはほ(芳賀昌穂)」
 猫招館店長、芳賀昌穂。
 猫のシルエットが描かれた名刺に、簡素な文字でそうプリントされていた。
「俺、棗の高校時代の同級やねん」
 カリカリのクルトンが浮かぶコーンスープと、ミルクの甘い匂いがするお粥らしきもの。それから紅茶が丁寧にテーブルの上に並べられていく。ケーキだけでは足りないと見越してくれたのだろう。ありがたいことである。
「あいつ普段は酒ものごっつう強いくせに、精神的にぐらつきよると酒かっくらって悪酔いするねん。周囲に人がいようもんなら、巻き込んでエキサイトしよる。自分でもそれ判っとるみたいやから、大抵部屋にこもりよるんやけどな」
「あー」
 もしかして、自分は余計な真似をしたのだろうか。他人を巻き込まないように部屋に篭っていた棗を、わざわざ訪ねてしまったのだろう。
「隻兄さんが電話くれよって、もしかしたらそろそろ来る頃とちゃうかなーと思うとったところなんや」
「精神的に、ぐらつくってイライラするってことですよね?」
「そやな」
 昌穂はあっさり頷いた。
「たちの悪い上司との接待やとかな。まぁいろいろあると思うけど、今回は……あいつやろ」
「あいつ?」
「棗の恋人」
 思わずスプーンを運ぶ手を止める。
 ぽろりと、クルトンが転がり落ちた。
「……こ、恋人いたんだ……」
「意外?」
「いやなんか……そう、ですね。居ないんだとおもってた」
 仕事もばりばりできるようだし、ものすごく美人だ。家事も完璧。確かにお買い得だが、あの家族と気性である。そのどちらかを知れば、並みの男では逃げ腰になるばかりだろう。
「家では、全然恋人いるみたいな感じじゃなかったし」
「そやなぁ。あいつ仕事先東京やから。あっちでくらしとんねん。あいつも俺の高校の同級なんやけど。あいつの仕事結構特殊で、大方何かあったんとちゃうか?」
特殊。
 ミルク粥と勝手に命名したものをスプーンで口に運び、その温かさと甘さに涙ぐみそうなほどの幸福感を噛み締めて、遊は胸中でその一言を反芻した。
 話をきいていると頻繁に棗はここに訪れているようである。棗の高校の同級で隻とも知り合い。となると、昌穂が棗の家の家業は知っているはずだ。
 念のため探りをいれてみても。
「あの、棗姉さんの家の家業って知ってます?」
「ホストクラブやろ?」
 と、即答された。
 ここで疑問がもたげてくる。
 その棗姉さんの素性を知る昌穂お兄さんが、棗姉さんの彼氏の仕事を特殊と呼びます。
 さてそのお仕事は?
 とりあえず遊は特殊かなぁと思う仕事を思い浮かべてみる。ホストか、総理大臣か、特殊工作員か、はたまた、薬で小さくなってしまった小学生探偵か。
 一番目において現在の状況が多大な影響を及ぼしていることには、目を瞑ってほしい。こんな発想をしてしまうなんて、ちょっと元の世界には戻れないなと、哀しく思う遊だった。
「あの……棗姉さんの家業とどっちが特殊ですか?」
「まぁどっちもどっちちゃう? ベクトルが違う。やっとることは似たようなもんや。ホストは闇、あっちは芸能人やから、光っつうところやな」
「へー、げいのうじん……芸能人?!」
「あぁ。こいつしっとる?」
 そういって目を剥く遊に昌穂は名前をいう。マイナーな三流芸能人かと思いきや、レギュラー番組を抱える有名人だった。遊も両親が死んで、家が差し押さえられるという事態に陥るまでは彼と彼の仲間が司会進行を務めるバラエティー番組を比較的楽しみに見ていたものだ。彼の所属するグループが出しているCDも、実は数枚持っていた。今でこそ、手元にはないが。
「え、あ、え、そ、のひとが、同級で姉さんの恋人で、え――!」
「おちつけ。ほらこれ飲んで。息吸えや。ほーれすーはー」
「すーはーって妊婦じゃないんだから!お水なんて飲んでられないですよすすすすすごい棗姉さん!」
「いや別に凄うないんやって。ほらとりあえず簡単に説明しちゃるから椅子に座っておとなしゅうケーキぱくついとけ」
 笑顔で頭を押さえつけられ、半ば強引に椅子に座らされる。遊は大人しくミルク粥を平らげることにした。ケーキはすでに食し終えているので、昌穂の言うとおりにしようがない。
「あれ? でもそういえばあの人ってちょっと前に恋人と別れたきりって」
 棗の彼氏だというかの人は、長い間とある人気歌手と交際していた。それが突然破局になったことを、昨年末の週刊誌で見た気がする。
 昌穂は椅子の背を抱えるようにしてすわり、頬杖をつきながら頷いた。
「あぁそいつも俺らの同級。よう四人でつるんで馬鹿やったわ」
 昌穂の衝撃の告白に、遊は目を白黒させながら思った。マジですか。
 再確認しながら遊は眉間に眉を寄せる。
 頭の中で相関図を組み立ててみる。棗姉さんと件の彼とその元カノ、ついでに昌穂さんは高校の同級生。いきなり昨年破局宣言をだした彼は、現在棗姉さんの恋人で。
「……まさか寝取ったの棗姉さん……?」
 あわわわと口に手を当てながら呻く遊に昌穂ががっくりと脱力した。
「……じょしこーせーがそんな発想するもんとちゃうでユトちゃん……」
「え? そですか?」
「それとも今の女子高生がすすんどるだけなんかいや昔もおるには、おったけど……いやいや。話がずれてもうた。で、や。まぁ寝取ったんとはちゃうやろ。棗とあいつはな、もともと恋人同士やった。それがあいつが突然げーのーじんになるーゆうて、高校二年の終わりぐらいかな。いや、三年になる前か。棗と喧嘩別れしよってん。やけど棗は大学の頃ようけ男おったけど、結局あいつが忘れられんかったみたいやし、あいつの話きいとっても棗を忘れられんかったみたいやった。なんかいろいろ偶然が重なって、より戻すことになったみたいや。俺も先月東京行って、久しぶりにあいつらに会うたけど、ようやく片割れが戻ってきた、みたいに仲良かったし」
 フォークを加え、ただただ感心しながら、遊は昌穂の話に耳を傾けていた。
 あの気質、あの美貌。確かに棗は、並みの男では付き合いきれないだろう。
 その上、と遊は思った。
 普通の男だったら絶対に引くだろう。絶対。だってあんなの身がもたない。
 今日丸々一日を費やして体感した地獄を思い返しながら、遊はため息をついた。
「……その彼が原因でなんで今日はこんなに荒れてたのかなぁ棗姉さん」
「要するに、さっきもゆうたけど仕事が原因やろ」
「へ? やっぱり芸能人と一般人じゃきついから?」
 エキストラとしての仕事がくるかこないかの下積み芸能人ではなく、相手は週一のレギュラーを抱え、ドラマバラエティ舞台コンサートと活躍する有名人である。方や棗のほうも大手の経理としてばりばり仕事をこなしているであろうキャリアウーマンだ。しかも家はこの町。毎日会うにはちょぉぉっときつい距離だ。
 女は好きになって一緒にいたいと思うのではない。一緒にいてくれるから好きなのだ、と恋愛論を語ったのはどこの誰だったか。
 それが真実ではないとしても、一緒にいられない、すれ違いが多い、というのは恋人という関係にかなりのダメージを与えるものだ。
 はい、そんなことを恋人居ない暦人生分の年月の磯鷲遊がゆーております。
 が、昌穂はちゃうちゃう、と手をぱたぱた左右に振った。
「そうじゃな――」
「そんなんじゃないわユトちゃん」


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