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Stage 3. そんな美しい貴方の事情 5


 昌穂を制して響いた声に、遊は暖簾を潜る女をかえりみた。
「棗姉さん」
「そんなんじゃないのよ。いたたた……あぁいたい。昌穂、あんたまたやってくれたわね」
 緩慢な足取りで歩み寄ってくる棗は、首の付け根を痛そうに押さえていた。昌穂が手刀を落とした部位だ。実に素早く且つ正確な、射撃のような威力をもつ手刀であったと、遊は今更ながらに振り返る。
 棗は遊の対面の席の椅子を引き、乱暴に腰を落とすと、昌穂に手を突き出した。
「みーずー」
「おまえなぁ、水下さいぐらい言えへんのんか」
 そうぼやきながらも、昌穂兄さんはそのとき既に、腰を椅子から上げていた。そのまま真っ直ぐに、カウンターの中へと入っていく。
 眠ったせいでくしゃくしゃになった髪を指で梳きながら、棗は憮然と呻いた。
「いいじゃない別に。それよりもあんたまた腕あげたんじゃない? 前はこんなに一瞬じゃなかったはずよ。しかも未だに頭痛いし」
「だって腕あげとかな変な男に絡まれたときにこまるやん。お前ソレ頭痛いんは俺の手刀のせいとちゃうで二日酔いのせいや。まったく悪酔いしぉってからに」
 男に絡まれるんですか? 女ではなく?
 目の前にどんと水差しが置かれ、遊は突っ込みそこねた。水は遊の分もしっかりとある。さらに用意がよいことに、昌穂は白い錠剤の入った小瓶まで棗に押し付けていた。中身は無論、二日酔いのための薬だ。
 その錠剤をざらざら手のひらに出しながら、棗は呻く。
「あんたまた絡まれたの? 返り討ちにした? このまえ半分うっかりひんむかれたってアツキが泣きついてきてたけどそれはどうなったの?」
「ひん剥かれてへんひん剥かれてへん。ちょっとシャツ剥がされ盗まれただけやスイミングプールで」
「……いつも思うんだけど、あんたって絶対変なフェロモンだしてるのよ」
「アホぅそんなわけあるかい。で、話がそれてもうとるぞ棗。今回の悪酔いの原因はなんやねん」
 昌穂に指摘され、はっと我に返った遊はこくこく首を縦に振る。会話の内容があまりにも興味深すぎてついつい本題を忘れるところであった。
「……たいしたことじゃないわ。私が勝手に怒ってるだけよ」
 髪を鬱陶しそうに掻き上げ、棗がため息を吐く。彼女のそんな様子はひどく珍しかった。
「別れる別れないでちょっと喧嘩になって」
「おいおいおいおいそれは棗」
「姉さん姉さんちょっとじゃないからたいしたことだから」
 遊は昌穂と手を横に振り、棗の前言を思いっきり否定した。
「なんでお前そんなんになるんや」
「一体どんな喧嘩したらそんなのになるの?」
 異口同音に尋ねたこちらに、棗はアンニュイに柳眉をひそめ、頬杖をついた。
「……最近また人気があがったのよね」
「ドラマにまた出たゆうとったな」
「仕事がちょっときつかったみたい。イライラしてたのよ。で、何がきっかけだったかもう私も忘れちゃったけど、うちの仕事のことをいわれちゃってカチンときて」
「仕事ってアパレルの?」
「じゃないわ。実家のよ」
 棗がさらに眉間の皺を深くして呻く。実家の、つまりホストクラブのことか。けれども一体それが何に関係あるというのだ。
 遊の頭上のはてなマークを認めたのだろう、棗は小さく苦笑して、切り出した。
「ホストクラブというのはね、ユトちゃん。水商売よ。最近はなんだかよく判らないけれども市民権を得たみたいになって、芸能人扱いされてるホストもいるみたいだけれども、水商売は水商売。しかも、夜のね。きちんとしたところもあるけれども、中には売春まがいのところだってあるのよ」
「……はぁ」
 棗が何を言いたいのかいまひとつ理解できず、遊は首を大きく傾げた。昌穂は神妙な(単に眠たそうともいう)表情でもって棗の言葉に耳を傾けている。
 棗はその細い指でこつこつとテーブルを叩いた。
「芸能界というのはね、そういったものを嫌うの。ホスト、ホステス、AV、ソープ、夜の人間を嫌うのよ。自分たちは光、お前たちは闇、ときっぱり境界線を引きたがる。夜の人間と、関係がある。それはうっかりすればスキャンダルに変わるの。どんな頂点にいる人間だって一瞬よ。……私は今そんなのとは無関係な、真っ当な仕事についているけど、ホストクラブが家の仕事、っていうただそれだけで、私は彼の現在の地位を脅かす存在になりうるのよ」
 うちがスキャンダルになるなんてありえないんだけれど、と棗は付け加えた。
 彼女の補足が何を意味するかはわからない。
 ただ、言われれば確かに。
 夜の世界とあの眩しい世界は相容れない。
「……それは」
「何も相手が芸能人だから、に限ったことじゃないわユトちゃん」
 水を飲み干した棗が、結露してテーブルに浮き出た水滴に、視線を送りながら呻く。
「ホストクラブは水商売。どこまでいっても夜のお仕事よ。女の人相手だから、私たちが身体を張るわけじゃないけれども、そういった場所でどんな形であれ、働いていたという経歴はあまりいい顔されないわ」
 だんっ
 打ち付けられた棗の拳に、遊はびくりと身体を震わせた。ぐぐぐ、とその拳をテーブルに押し付けて、棗が叫ぶ。
「うちはならないっていってるのに、ぶちぶちいってあの男! それが悔しいったらないのよ! このくぬっくぬくぬっ」
「ぐ、ちょ、おい俺の首絞めるんやめぇや!」
「寝たふりして人の話聴かないからでしょうが!」
「ぎゃ! ちょっと棗姉さん落ち着いて!」
 昌穂が椅子ごと派手に転倒する。棗はぱっと手を放し、まるで何事も無かったかのように席に着いた。
「私だって……好きでそういう家業の家に生まれたわけじゃないわ」
 棗は華奢な手で硬く拳を作り、震えるそれをテーブルに押し付けた。
 彼女はそのまま拳に額を付け、くぐもった呻きを漏らした。
「好きで生まれたんじゃないって、知っているくせに……」
 呟きは、哀愁を帯びた余韻を残して閑散とした店内に響き渡る。
「……棗姐さん?」
 沈黙する棗に、遊は恐る恐る声をかけた。が、返事がない。いつの間にか復活していた昌穂が棗の横に佇み、彼女の頬をぺしぺしと叩いた。
「ねてもぅとるわー」
 響いてくるのは健やかな寝息だ。
 がっくり肩を落とした遊は、椅子の背にもたれ、高めに取られた天井を仰ぎ見た。
「まったく、ずうっと大人しい寝といたら別嬪な顔してるんやろに。人騒がせなんやから。なぁ」
「はぁ……」
 苦笑を瞳に浮かべて同意を求めてくる昌穂に、遊は相槌を打つことしかできない。
「……あのぉ」
「あん?」
 空の皿を重ねて持ち上げかけていた昌穂が、首を傾げて立ち止まる。
「家業のホストクラブって、棗姐さんが生まれる前からなんですか?」
 家庭の事情に踏み込むのはいかがなものかという遊の葛藤にもかかわらず、昌穂の返答はあっさりとしたものだった。
「あぁうん。そぅや聞くな」
「へぇ……」
 頷きながら、遊は胸中で棗の言葉を反芻する。
『好きで生まれたんじゃないって……』
 まだ、仕事が始まっていないので。
 まだ、肌で空気を感じたわけではないので。
 妹尾家の家業が、一体どういうものであるのか、判らないのだけれど。
「小さい頃はよう苛められとったみたいやし。小中とまともな友達おらんかったいう話やわ。ほら、小さい子らは家に友達呼んで遊んだりするやろ。棗は家柄そんなこともでけへんし、でかぁなってからはこの顔やしな。俺がこいつと初めてあったんは高校のころやったけど、つめたぁーい雰囲気で誰も寄せ付けへんかったな」
「寄せ付けることが、できなかった?」
 昌穂の言葉を微妙に遊が修正すると、彼はおかしそうに笑って同意を示した。
「そうともいうな」
 棗には、故意に相手を寄せ付けないようにしている節がある。
 けれどその胸中は、近づいてくる誰かを切望しているのではないかとも思う。
 重ねた皿を再び持ち上げ、カウンターの向こうへ運びながら彼は続けた。
「大学時代の友人もほとんど残っとらんのんとちゃうか。仕事場ではそれなりに上手ぅやっとるみたいやけど。高校の仲間でようつるんどるんはここに店構えとる俺と、奴と、響だけやろ。家のことは容姿と並んで、棗に深っかい根を張っとるちゅうことわかっとる癖に、喧嘩の最中ゆうてもたんやろな、あの阿呆が」
 棗の彼氏の件についてはともかく。
「そんなに……家とか、コンプレックスなんですか?」
 棗は家業であるホストクラブについて、平然と説明していたように思ったが。
「コンプレックスって何でなるもんやと思う?」
「……は?」
 面を上げて昌穂のほうに向き直る。カウンターの向こうで、彼は軽く皿を濯いでいる。水音に混じって響く彼の声は、静謐な声色だった。
「他人と違うこと。他人と比較され続けること。棗は、棗の家族はありとあらゆることにおいて異質や。まぁ平凡なご家庭に入るのもなっかなか大変やと思うけど」
 きゅっと水道管を締める音。面を上げた遊は、微笑む昌穂と目があった。
「コイツの家族は大変やで」
 目を伏せて、彼は言った。
「せいぜいきばりぃや」


 まだ、理解することは出来ない。
 妹尾家が異質であると、わざわざ昌穂が言及したその意味。


「ユトちゃん」
「うにゃ?」
 ごろりと寝返りを打って重い瞼を上げる。ぼやけた視界に棗の姿が映った。遊の枕元に佇む彼女は、見慣れないジャケットを羽織っていた。
 和室は広く見慣れない。意識が徐々に覚醒するにつれ、ここが昌穂の家の客室だということを思い出した。結局夜も更けていたし、棗も眠り込んでいたため、一泊させてもらったのだ。
「……棗ねぇさぁ?」
「起きて」
 命ぜられるままに身体を起こす。目を擦りながら周囲を見回した。障子の向こうから漏れる光は弱く、まだ夜明け前だということが知れた。鳥だけが早起きだ。僅かなさえずりが遠く聞こえる。
 設置された小さな振り子時計の針は、早朝を指し示していた。
「どこいくのぉ?」
「上着きなさいよ」
「あ、ねーさん」
 遊が起きたことを確認した棗は、そのまま戸を開け、廊下へと歩き出してしまう。慌てて上着を羽織った遊は、彼女の後を追いかけた。
 靴を履いて、駐車場に出る。棗は無言で運転席に収まり、遊も逡巡しつつ助手席に身体をねじ込んだ。春先とはいえ、車内は冷えている。程なくエンジンが掛かり、発進と同時に暖房のスイッチが入った。
「どこ行くの?」
「ちょっとしたドライブよ。すぐ着くわ」
「……お酒」
「酔いなら覚めてるわよ。そんな心配そうな顔しないでよ」
 苦笑しながらそういう棗は、いつもの彼女だ。本当に酔いから覚めているらしい。
 棗が申告した通り、車はすぐに停車した。
 場所は、テトラポットが積まれた堤防だった。


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