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Stage 3. そんな美しい貴方の事情 2


「ユトちゃんも気になってると思うんだけど」
 移動した場所は棗の部屋である。遊に与えられた部屋と同じ、畳の部屋。収入があるのだからどうして一人暮らしをしないのか疑問に思うほど狭い部屋だ。それでも不便は感じていないらしい。狭い部屋には机とクローゼット、そして寝台しかなく、その簡素さ故か窮屈さは感じられなかった。棗は几帳面な性格らしく、きちんと整頓も行き届いている。
 どうぞ、と促されて寝台に腰を下ろす。一方棗は机の椅子に腰を下ろした。引き寄せるまでも無いほどにそれは近く、彼女が組んだ白い足がなまめかしい。いや、いい脚してますねお姉さん。
「……どうかした?」
「あ、ううんなんでもないデス……」
 まさかその脚に見ほれていましたなんていえません。顔が紅潮していくのを感じながら、遊はぶんぶんと首を横に振った。
「……そう? まぁいいけれど……。それで、本題に入るわよ」
「はひ」
 棗はさっさと机備え付けの本棚からファイルを抜き出すと、何枚かの紙を手早く抜き取った。その中身を確認し、ぱっぱと寝台の上に正座する遊の前に並べてみせる。
 それらの書類を指し示しながら、棗が続けた。
「うちの店の契約書。場所は前にも話したとおりフロントね。今日の午後からまた出張で私三日間ぐらいいないから、お仕事の訓練は隻に見てもらって。もう話は通してあるから、大丈夫よ。隻のほうから何か言ってくるでしょ」
 遊は最初の一枚目をつまんで持ち上げた。そこに書かれていたのは棗が語るとおり、この妹尾家が経営するホストクラブの社員としての契約書であった。フロント業務で、酒には一切関わらないことが明記されている。確かに未成年である遊が、ボーイなどとして働いていてはまずいはずだ。かといって、フロントの人間が全く酒に触れないのかと問われれば、未知の世界であるために答えることができないのであるが。
 ここ数日、空いた時間を見て棗が遊の仕事の準備に取り掛かってくれていた。まだ開店前の店で仕事の説明をしてくれているのは他でもない彼女である。すこしきつい言い方をするが、そんなもの音羽と比べれば天と地ほども差がある。彼女が出張の間、その役を隻が引き受ける、ということなのだろう。
「それで、こっちがシフト表とお給料の件ね」
「お給料?」
「そうよ」
 綺麗に手入れされた爪が飾る指で、すっと出された書類には、月給と福利厚生その他諸々が明細されていた。シフト表もかなりきついとはいえ、きちんと週休二日制になっている。馬車馬のようにあちらで働かされることを覚悟していた遊は、かなり高額の給料と、ごくごく普通のシフト表に目を瞬かせた。
「……三十万」
「正社員扱いだから、月々三十万円がお給料。けっこう高いほうよ? その中から保険の類に五万円、生活費学費五万円、これは家賃光熱費も含めてね。そして残りを借金返済に割り当てて」
「すみません棗姉さん。この一万円って何?」
「月々のお小遣い。あったほうがいいでしょ。でもその中から文房具だとか、洋服だとか、こまごまとした必需品を買ってちょうだい。そのためにおこずかい少し高めに割り当てているから。後で銀行にいきましょう。口座を開かなくちゃいけないわ」
 そういって微笑む棗姉さんは、後光が射して見えた。なんとすばらしい。
「棗ねーさーん」
 思わず遊はがば、と抱きついた。一種の愛情表現である。
「だいすきー」
 いやほんとにいい人。家事もお任せ事務もお任せ。奥さんにしたらさぞや旦那は楽が出来る、いやいや、幸せになれることだろう。
 棗はこういった愛情表現に慣れていないのか、少し体を硬直させた。けれどもそっと背中をさすってくれた。見た目よりもうんと華奢で、柔らかく、思ったとおりいい匂いを薫らせる体を離す。棗は複雑そうに唇を引き結びつつも、ほんのりと目元を赤く染めて、遊に向けて苦笑いを浮かべていた。
「……でもこのままじゃ、一億三千万なんて夢のまた夢、いつになったら返せるのかわからないわね」
「…………そうですね」
 月々約二十万。実際はもっと少ない金額しか返済できないだろう。生活費などに関しては、大まけにまけてもらっていることは明白だ。確実に返済するとなれば、気が遠くなるような話である。
「……私にもよく判らないんだけど」
 気落ちしかけた遊を慰めるように、棗が言葉を切り出す。膝を組み替えあごに手をやり、神妙に何か考え込むようにして。
「集は変人だけど、でもすることには必ず理由があるの。私や隻がなんにもいわないのはそのせい、叶があっさり受け入れているのは、幼い頃からの慣れってやつかしら」
「……あの、音羽くん、は?」
「君付けなんかしなくていいわよユトちゃん」
 ぴしゃりと即答され、遊はぐ、と言葉に詰まった。棗が視線を窓の外へと向ける。綺麗な春先の青空を眺め、彼女はめずらしく、深いため息を一つ落とした。
「音羽は音羽で理由があって、つっかかってんの。ガキとしか思えないけれども、まぁあの子の怒り様も、わからないわけじゃないわ」
 かなり含んだ言いまわしに、眉をよせることしかできない。何故だか、深く訊いてはいけないような気がした。棗はしばらく窓の外を眺めた後、にっこり笑って向き直って言った。
「それじゃ、私が出張から戻ってくるまでにそれを読んでおいて、わからないところがあったらまた訊いて頂戴」
「……わかりました」
「気を落とさずね」
 ぽん、と肩に手をおかれ、遊はなんとかぎこちなく笑いを作る。それから二、三、棗が留守中の家事についてを話し合って、その場はお開きとなったのだった。


 春もうらら、桜の花もそろそろ満開。
「ここがーこうなるからこでこでこう。わかった?」
「…………判りません」
 眉間に皺を寄せながら、遊は唸るように返答した。目の前にあるのは無論、赤い添削だらけのノートおよび教科書である。
 シャープペンを握り締めながら一通り教えられた順番を手繰ってみるも、やはり理解ができない。数学なんて嫌いだ。一体なんの役にたつというのだ。そう主張してみると、世間にでればわかるよと笑顔で言われた。
 そう言った張本人、本日の講師、隻兄様は、そういった舌先が乾かぬうちに、さらりと意欲をそぐようなことをいう。
「でも俺は勉強してなかったけどね?」
 勉強してなかったくせに現役女子高生にはるかに勝る理解力をお持ちなのですか。
 シャープペンを持ち直し、がっくりため息つきで項垂れてみる。けれども隻兄さんはからから笑うだけで、さぁ次にいってみようかと教科書を机の上に並べていた。数学以外の教科だ。
「次はどれにする? 数学飽きたでしょ?」
「……化学で」
「はいガンバッテ」
 すっと手渡された化学の教科書の付箋がついているページを開く。昨日使ったノートも取り出して、白いページを開き、問題をとりあえず写し取っていく。試験はいよいよ間近に迫っている。自分の集中力の無さに泣きたくなりながらも、とりあえず懸命に範囲の復習にとりかかった。
 今日は午後からの仕事――家業のほうである――のみらしく、隻はのんびりと日中を過ごしていた。棗の代わりに、手が空いている時間にいろいろと面倒をみてくれているのはこの隻だ。結局音羽は早々と遊の教師役を放棄し、教材のみを貸し付けて日中はどこかへ出歩いている。出歩いている、のだと思う。彼はホスト以外に仕事をしている様子がないからだ。
「そういえば…………」
 化学式を、教科書から写し取りつつ、ぼんやりと遊は口を開いた。
「棗姉さん遅いね。昨日帰ってくるっていってなかった?」
 この家に居候を初めて、早くも二週間そこそこが経過しようとしている。が、思った以上に勝手知らぬ他人の家で生活をするというのは苦労と精神力を強いられるのだ。たとえ特に問題が見られなかったとしても。
 棗がこんなに長く家を留守にしているのは初めてであった。居なくなってわかったことだが、棗は思っている以上に気を配ってくれていたようである。棗がいる間は大して気にする必要のなかったお風呂の順番、食事の時間、洗濯物の分別、などなど。
 家族とともに生活するうえでは暗黙のルールとして気にならないことも、他人と生活する上では些細なことが神経に障ることもある。棗はどうやらそういったことに対し、遊が気を遣わずにいいよう采配を奮ってくれていたらしい。
 何より、この家の家族で一番長く時間を共有していた人間がいないというのは、遊を落ち着かなくさせた。
 遊は、沈黙に面を上げた。隻は頬杖をついたまま渋面になっており、遊の視線に気づくと苦笑いを浮かべてごまかすように煙草を取り出した。
「吸っていい?」
「別に断りいれなくてもいいよ?」
「妹尾のルールなんだ」
 いいよ、と遊は許可を出した。謝辞を述べた隻は微笑み、すかさず煙草を咥える。
 かちり、とライターで火をつける姿は堂に入っていた。一つ一つの動作が洗練されて綺麗だと思う。人の目をぐっとひきつけ、そのままにっこりと微笑まれればお子様からおばさままで、揃ってノックアウトされるだろう。
 その笑顔を綺麗だが同時に胡散臭いとか思ってしまう自分は、少々乙女の規格から外れているのかもしれないが。
「棗にもいろいろあるとは思うけど、今日は俺帰ってきてほしくはないかもしれないとか思ってみたり」
「へ? なんで?」
「被害が及ぶから」
「……どういう意味ですかソレ」
 すぐにわかると、隻は言った。
「……はぁ」
 一体隻が何をいいだそうとしているのかが判らない。彼は疲れたように煙を吐き出し、言葉を切った。
 と。
 がたんぴしゃんという物音が玄関のほうで響き渡る。かなり乱暴な戸の開閉音だった。戸を、叩きつけているかのような。
「……誰か、帰ってきた?」
 音羽だろうか、と首をかしげる。が、音羽は自分には冷たくあたるがものにはあまり当たるようにはみえない。彼がものにあたるような人間ならば、器物破損で訴えられるほど壊れたものが散乱しているにちがいない。
「電話があったんだよね。今日帰ってくるって。その声色から、かなり荒れてるなぁとは思ったんだけど」
「え? 誰からですか?」
 隻は遊の問いに答えぬまま、灰皿を引き寄せ、吸い始めたばかりの煙草をそれに押し付けた。
「見てみる?」
 財布とキーケースをジーンズのポケットにねじ込み、煙草とジッポライターを拾い上げた隻は、遊を見下ろしながら微笑んだ。
「え?」
 見てみるって。
 何を。
 そう問う前に、手首が取られ、引っ張られるままに遊は立ち上がっていた。
 廊下に出ると、どだんがだんという派手な音が響いていた。遊たちが階段に足をかける頃には騒音は収まっていて、一体何が起こっているのか、遊は隻に手を引かれるまま恐々階段を上った。
 遊の部屋の隣に、棗の部屋はある。扉が僅かに開いていた。その前に、気配を殺して隻は立ち、遊に手招きする。
「そっとね」
 彼は囁いた。
 一センチほどの隙間から、遊は部屋の中を覗き見た。明かりの消された部屋は先日足を踏み入れた棗の部屋と思えないほど荒れている。棗は寝台の片隅で、子供のように膝を抱え、暗い眼差しで窓の外を見つめていた。
 再び居間に戻ったとき、遊は隻に尋ねた。
「あの……棗ねーさんどうしたの?」
「さぁ」
 隻は肩をすくめ、炬燵の傍に腰を落とした。
「さぁって……」
「誰かと喧嘩したか、仕事が上手くいかなかったか。お互いに大人だからね。深くは干渉しない」
 別居しているならまだしも、同居している兄弟だというのに、随分と突き放したもののいいかたをする。
 遊には兄弟がいない。だが、その遊の目からみても妹尾の兄弟は上手くいっているほうなのではないかと思っていた。食卓の折、憎まれ口のような、じゃれあいのような応酬を絶やさないからだ。
 だがそれは、遊の思い過ごしだったのだろうか。
「煙草、もう一回吸っていい?」
「え? あ、うん」
 再びことわりを入れた隻は、手慣れた様子で煙草に火をつける。洗練された様子。遊の父も喫煙家だったが、煙たいだけで、疎ましく思ったことはあっても、見ほれるような様子とは程遠かった。煙草の吸い方一つとっても、プロなのだな、と遊は思った。
「棗はね、大分人間丸くなったんだよ」
 煙を吐き出し、隻は言った。
「こんな家族に生まれた上に男ばっかに囲まれて母親代わり、じゃ、性格もきつくなるよね。でもま、これでも丸くなったほうなんだ。でもまだ時々、あんなふうになる」
「……話聞いてあげたりとか、しないの?」
「話?」
 驚いたような声音だった。意外だ、といわんばかりの。
「しないねぇ。大抵のことは、一人で解決できるしね」
 それはそうかもしれないが。
 さも当然という風に、隻は笑って言った。
 確かに妹尾の皆は優秀で、大抵のことは一人で解決できるのだろう。
 だが、棗があんなふうなのに。
 後ろ髪を惹かれるように、廊下のほうを振り返る遊に、隻は言った。
「大丈夫。すぐ元に戻るよ」
 から、と。
 戸が開いて、棗が顔を出す。纏う空気にはまだ少し険が残るが、棗の様子はあまり普段と変わらないように見えた。
「あー疲れたわ」
 こきこき肩を鳴らしながら、棗は言った。
「ほらね」
 隻が遊に目配せしてくる。なんとなく複雑な気分を押し殺して、遊は棗に向き直った。
「お帰りなさい棗ねーさん」
「ただいまユトちゃん。勉強はどんな感じ?」
「う」
 言葉に詰まって隻を振り返る。隻は煙草を灰皿に置いて、朗らかに笑った。
「再開しよっか。勉強」


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