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Stage 3. そんな美しい貴方の事情 1


 皆さん桜満開春真っ盛り、春休みの最中からこんにちは、遊です。
 と、天晴れなぐらいに晴れ渡った空を居間の炬燵に入って眺めながら、誰に対してでもなく胸中で呻いてみる。
 現実逃避の理由など、相手が眩暈を起こしそうな勢いで並べ立てることはできるが、ひとまず今現在、一番の理由は目の前に広げられた参考書とノート、そして。
「こんなものも判らないのかお前は」
 本日のクールビューティーならぬスパルタ教師、音羽お兄様の存在である。
 黙って座っていれば目の保養であるのに、兄弟の中では確かに寡黙であるのに。
「いいか。こんなものが判らなければ高校編入なんて夢のまた夢だ。曲がりなりにもお前高校にはすでに通っていたんだろうこんなもの基礎中の基礎だ。なのにどうして判らないんだ一体お前高校で何をやっていた? 教科書のレベルが多少あるにしろだ応用問題でもないんだわかるはずだろうわかったならもう一度やってみろ」
 どうして私の前ではこんなに口が悪くていらっしゃるのでしょうか。
 びし、と指差された数学の問題。内容は数学A、順列の問題だ。確率順列なんてどうだっていいじゃないか、宝くじではあるまいし。
 やってもやっても、然るべき解答とはまったく別の数字が現れてくる。ため息を一つ零すと、音羽にぎろりと睨まれた。


 事の発端は、朝の一コマ、集お父様の一言からである。
「ユトちゃんも学校いかないといけませんねぇ。編入試験受けましょうね」
『…………は?』
 綺麗に声をハモらせてタイミングよく面をあげたのは、自分と音羽の二人だけであった。
 遊は箸の上に乗せていたご飯を思わず落とすところだった。慌てて左手の茶碗でそれをうけとり、安堵の吐息をかすかに漏らす。そして再び集に視線を向けた。遊自身と音羽以外は、黙々と食事を続けている。場の雰囲気を砕くかのように、緊張感のない叶の声が響き渡った。
「棗ぇおかわりぃ」
「自分でそれぐらいいきなさい。ガキじゃないんだから」
 棗が鋭く即答して、叶はちっと舌打ちする。仕方ないなぁと彼が席を立つのを待って、音羽が低く呻いた。
「オイ、なんで誰も今の集の発言に驚かないんだ?」
 何事もなく続けられていく食事風景に、彼は不満をもったらしい。
 音羽の隣で隻が口の中のものをごくんと飲み下し、あっけらかんと応じた。
「えー? 行ったらいいじゃん学校。今の世の中高校大学と出ておかないと損だもんねぇ」
「メンドクサイからの一言で、あんたはいかなかったものね隻」
「俺男だからどうにでもなったけど、女の子だったらなおさらじゃない?」
「逆でしょう? 女だったら結婚就職もありうるけれども、男だったらどうにもならない、の間違いよそれ」
「え? そう?」
「隻! 棗! 問題はそこじゃないだろう!」
 こればっかりは、遊も音羽に賛同せざるを得なかった。高校大学への進学が、特にこの日本では重要である。いくら自分のしたいことをする風潮が広がっているとはいえども、だ。そんなことは自分の飯が自分で食えるようになってからいえばいいことだし、そうするためには“大学”という条件が必要不可欠である。
 いくら世間知らず、おこちゃまな遊でも、それぐらいは判るのだ。
 が、それには問題が一つある。
 音羽が苦虫を噛み潰すように、声を絞り出した。
「どこの誰がその金を払うんだ」
 つまり、金銭的問題である。
 遊は無一文だ。いやそれよりもさらに悪い。一億三千万プラス日に日に加算していく生活費が、借金として背中に載っていた。生活費とはつまり、この家から支給される食事、使わせてもらっている電気水道、買ってもらった洋服その他諸々のことだ。
 一体どこに、高校へいくお金があるというのですか。
 遊は神様仏様ならぬ、あの世にいるだろう父上母上に訴えたい。
 集お父様はさらりと真顔で述べた。
「え? ワタクシ出しますよ?」
「あーつーむー! いいかよく考えろ。一体どこにそんな無駄金が落ちている!?」
「我が家そんなに貧乏じゃないですよ。いやですねぇ音羽」
 あはははは、と大仰に笑って、集が手を振る。その姿、おばちゃんが、やぁねぇもう、と近所の奥さんの肩を叩くが如し。
「でも私も、えーっと……その、言うとおりだと思うんで……だけど」
 敬語を使うとなぜか皆が一斉に使うなと突っ込んでくるのが妹尾家だ。意識してタメ口で話すというのもおかしな感じである。
「お金だしてもらうわけにもいかないし」
 これ以上、借金がかさんでいくのはどうか御免被りたいところだ。
 が、集は至極真面目に言った。
「ユトちゃん、大学進学というのはとても大事ですよ」
「……はぁ」
「高校、大学の積み重ねは本当に大事です。いいですねぇビバ学園ライフ。大学に入ってもなかなか就職はできないなどと昨今言われておりますが、しっかり遊び、しっかり勉強する勤勉な若者は、どこの企業も喉から手が出るほど欲しいものなのです」
「……えぇ……でも、そうかもしれませんが」
「お金年間数百万なんてなんのその。一億三千万円が一億五千六千に増えたところで、もう痛くもかゆくも無いでしょう?」
 とっても、痛くもかゆくもあるんですけれど。
 ここまできっぱり断言されると、遊はいうべき言葉をなくしてしまう。だいたいそもそも、この家の家主は遊の何をみて、助けることを決めたのか。未だに綺麗な体でこうやって美味しいご飯を食べていられることにはとてもとても感謝しているが、その見返りが恐ろしい。何の理由も告げられていないのだ。
「多少借金が膨れ上がったとしても、後々、ユトちゃんが年収一千万円以上になったら、簡単に返済できる話です。ディーラーとかいかがです? 経済のノウハウつければ、一億なんてはした金、といえるようになりますよ?」
「…………ちょっとそれ無理だと思います」
 担任教師に匙を投げられた数学その他の成績を思って、遊は涙目で呻いた。お金の計算やら駆け引きやら、遊がもっとも苦手とする分野である。その世界の年収が馬鹿高いことは遊も知ってはいるが、確実に自分には無理だと思った。
 が、無論そんな遊の言葉を、突発的に独断によってアクションを起こすお父様が聞いていらっしゃるわけがなく。
「実はもう編入手続き終えてますからね。試験がんばってくださいね」
 なぞと笑顔でほざいた。
「…………はい?」
「そして音羽。ユトちゃんに勉強を教えてあげてくださいね」
「…………なんで俺が」
 目を点にする遊のはす向かいで、音羽が露骨に嫌悪感をあらわにする。けれども集は全く意に介した様子なく、さらりと宣ったのだ。
「うちで一番暇そうなの音羽ですから」


 父君の命令とあらば、この家の者たちは誰も逆らえないらしい。
 嫌そうに叫んだものの、朝食を食べ終わった数十分後に、音羽は教材一式を抱えて遊のもとへやってきた。やってみろといわんばかりに無言で突き出されたドリル類に、しぶしぶ取り掛かったはいいものの、結果は思わず空を眺めて現実逃避したくなるような按配である。数学を筆頭に、古典漢文、物理、化学、社会、英語。
「全滅か」
 間違いだらけのノートに一瞥をくれて、音羽が鼻でそう嗤った。
「だってこんな難しいのやったことないもの」
「全部基礎問なのに? お前前の高校で何を勉強していたんだ」
「ごくふつーにごくふつーの与えられた宿題をこなしていました。お金持ちじゃないもの塾とかはいってないわよ。それでもそこそこの成績だったから、別にどうだってよかったの」
 なんだってこの男はこんなにぞんざいで威圧的なしゃべり方をするのだろう、と長い男の睫毛を見つめながら遊は胸中で毒づいた。
 要するに、遊に出て行って欲しいのだろう。遊は借金だけを抱えた赤の他人。生活圏を脅かすインベーダーだ。そんなこと遊が一番よく判っている。もし遊が音羽の立場であったら、音羽ほどの拒絶反応はみせないものの、それでもうろたえ、真剣に親の懐具合を心配し、なんで赤の他人を、と憤慨したことだろう。可哀想な子にそうかよしよし、と手を安易に差し伸べてやれるほど、遊はお人よしではなかった。おそらく、音羽の反応が一番まともなのだ。
 それでもいまや遊は当事者の身。自分勝手と自分でも思うが、頭を撫でてくれ、とはいわないから、せめてその超威圧的不遜な態度はよして欲しいと思う。
 心身ともに、堪えるものがあるのである。
 音羽が苛立つ理由もよく判った。なぜ、莫大な借金の肩代わりをし、家に連れ帰ることにしたのか、遊当人にも子供たちにも、集は一切語っていない。今まで見ず知らず、正真正銘、血がつながっているわけでも両親が友人同士だったわけでも、ご近所さんだったわけでもなんでもない、全く関係の無い赤の他人の遊を。
 また、店と家事手伝いをするようには言われたが、その莫大な借金を具体的にどういった割合で返済していくのかすら、何も語られていない。全てが曖昧、霧の中。
 自分で自分の状況を把握していない、ただ迷惑をかけるだけの無力な女が腹立たしくてならないのは、よくわかる。
 よくわかるが。
「まったく、なんだって集はこんな女を連れ帰ってきたんだ? 美人でもない、スタイルがいいわけでもない、勉強も出来ない家事も下手、利用価値ゼロの女を」
 それでもこんな言われ方をしたら誰だって堪忍袋の緒が切れるというものだ。
 遊はばん、と机を叩いて立ち上がった。立ち上がったはいいものの、決定的に立場が悪いことはわかっている。勢いに任せて叫び、これ以上立場を悪くしてどうする、と自制がかかった。どうしてこんなときばかり、感情に任せて動くことができないのだろう。
 音羽は眉を寄せたまま遊を見上げていた。おそらくその瞳に映る自分の姿は、この上なく情けないものに違いない。
 怒っているんだか泣きそうなんだか笑って取り繕おうとしているのだか。
 自分でもわからないのだから。
「ユトちゃん」
 から、と台所側の扉をあけて、ひょい、と棗が顔を覗かせた。彼女は遊のその体勢に、一瞬だけ怪訝そうに目を瞬かせた後、何事も無かったかのように微笑んで手招きをした。
「お勉強片付いた?」
「……マダデス」
 ちらりと添削だらけのノートを見やって、ため息をつく。
 棗はそれにわずかばかり苦笑すると、続けて音羽のほうへと視線を走らせた。それにつられて首を動かす。朝食時なら集が陣取っている席に腰を下ろす音羽は、むっつりとした表情で頬杖をついている。
 この場に、いたくもないというオーラがありありと背中から立ち昇っていた。
(そこまで嫌がらなくたっていいじゃない)
「音羽、ユトちゃん借りていくわよ」
「……勝手にしろ」
 言うが早いか、手早く彼は教材をまとめて、棗が顔を覗かせている戸口とは別口からさっさと退室していってしまう。
 ぴしゃん、と乱暴に閉じられた扉を眺めて、棗がぽつりと一言。
「でかい図体してたってガキはガキよね」
 ね? と笑顔で同意を求められる。が、そもそも音羽の年を知らぬ自分は、はぁ、と曖昧な返事をすることしかできなかった。


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