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Stage 01. 一時閉幕 〜NO MORE CRY 'COZ YOU CAN CRY〜 1


 夏も半ばを過ぎたが、日中は一向に涼しくなる気配を見せなかった。相変わらず強い日差しは視界を焼いて、アスファルトの表面を焦がしている。
 そんな日だから、涼を求めてやってくる客は後を絶たない。いちいちドアベルの音にも反応することのなくなっていた昌穂は、聞き覚えのある、しかし珍しい声に、思わず面を上げていた。
「こんにちは」
「日輪ちゃんやんか」
 控えめに、けれどよく通る声で挨拶してきたのは、この店のアルバイターである遊の友人、日輪だった。幾度か遊を訪ねてきたことのある少女だ。少し影はあるが、愛らしい娘である。その傍らに立つ愛嬌ある微笑をたたえた少年は、確か音羽の友人だと記憶していた。
「いらっしゃい」
 店内に足を踏み入れる少女に、昌穂はカウンターから身を乗り出しつつ声をかけた。
「おススメのケーキ、ください。この人に食べさせるので」
「夏だからケーキは嫌だっていったんですけど、ここのケーキは絶対美味しいからって、きかないんですよ」
 笠音と呼ばれた少年は、肩をすくめて笑った。微笑ましいカップルである上、自らの店の品物を暗に褒められれば悪い気はしない。昌穂は微笑んで、ショーケースの中に並ぶケーキを順々に指差した。
「どれもおススメやけどなぁ。今の時期出しとるケーキは、そんなに甘ったるいやつちゃうし。ゼリーとかムースとか、さっぱりしたもんをベースに使っとるから、どれでもいけると思うで」
 今日のケーキは全部で七品だ。夏なので、種類を並べても売れるものなど限られている。定番のショートケーキとチーズケーキ、シフォンは残しておいて、それ以外はフルーツをふんだんに使い、クリームの使用を抑えた、口当たりのさっぱりしたものが多かった。
「私、この木苺のムースで」
「えーっと、このカフェオレのチーズケーキでお願いします」
「テイクアウトやな?」
「え。あ、違います」
 ショーケース前で注文を取ったものだから、テイクアウトかと思ったが、笠音が即座に反論した。日輪が知り合いだったために、つい手順がアバウトになってしまったらしい。
 苦笑しながら、昌穂は言った。
「飲み物は席のメニュー見て頼んでな。あつきー!二人!案内!」
 昌穂の呼び声に応じて、奥からぬっと敦基が現れる。相変わらずの女装姿は、もはや女装という域を超えてしまっていて、時折自分でもこの同居人が女なのか男なのかよく判らなくなりつつある。
 敦基は昌穂から注文伝票のクリップボードを受け取ると、日向で寝こける猫のように、とろんと目尻を落としたまま、無言で二人を空席に案内していった。
 手早く注文の品を盛り付けて、盆の上に乗せる。遊はその様子を時折芸術的神業というが、それほどの速さもセンスも、まだ持ち合わせていないと昌穂自身は思っている。
「おまっとう」
 飲み物の注文を受け取ったらしい敦基と入れ替わりに、席の傍らに立つ。
 テーブルの上に皿を乗せると、少年の感嘆の声が上がった。
「へぇ。これは結構すごいなぁ」
「おいしいんだよ」
「うん。おいしそうだ」
 日輪の口数は決して多くはないが、声音は明るかった。随分と明るくなったなと思う。初め、遊によってこの少女が店を訪れたときは、もう少し影があったが。
「すぐ飲みもんもくるから」
「あの」
 踵を返しかけた昌穂を、日輪が呼び止めた。
 怪訝さに振り返ると、少女が首をかしげながら昌穂を仰ぎ見ていた。
「遊ちゃんは?」
「あぁ……」
 昌穂は窓の外に視線を移しながら、笑った。
 窓の外には、絵の具を零したような青空が広がっている。
「今日は墓参りらしいで」
 墓参りするには多少暑いかもしれないが。
 いい天気だ。


 じーじーじーじー……
 夏はそろそろ終わりに近づいているというのに、蝉の鳴き声と肌をじりじり焦がす日差しには変化は見られなかった。日中見られる唯一の変化は、小さなトンボの群れが、ちらほら見られるようになったことだろうか。しかしそれのみでは秋めいてきた、というには不十分だ。踏みしめる石畳には、濃い影が刻まれている。
「それは取引でした」
 集の声量は囁きのそれに近かった。が、蝉の五月蝿い聲に負けることなく、彼の少し後方を歩く遊の耳にも届いた。
「ユトちゃん。貴方も会ったことのある、あの男です。ワタクシも名前は知りませんが、というか覚えるのがめんどくさかったのですが、仕事上幾度かお付き合いさせていただいたことのある方でしてね。まぁ、困ったんでしょう。言っては悪いですが、これから搾り取る予定の金づるが、事故なのか、心中なのか、わからぬ様相で突然お亡くなりになってしまったのですから」
 集が語るのは、何故集が遊と出逢うことになったのかの、いきさつだ。遊を引き取ることにしたのは、同情でも何でもなく、他でもない君だったからだと言い置いて、集はそれを語り始めたのだ。
「事故として処理され、保険は下り、根回しによってそれらを回収することには成功したようですが、借金の利子ですね。そういったものを回収するには程遠かったようです」
「……父さんは、最初いくら借りていたんですか?」
「さぁ……うちの店への借金は、大体五千万ぐらいでしたかね」
 五千万。
 それが一億三千万になったのか。
 闇金って怖いな、いやそもそもそんだけ借金するまで遊ぶなよ母、と思いつつ、遊は再度、集の言葉に耳を傾けた。
「正確には、うちの店、というよりも、そのホストが悪かったのです。本当は、返済能力を超える遊びを推奨しないように言ってはいるのですが、そのホストは何を思ったのか、店に黙って借金させていたようです。あ、そのホストはこちらできちんと処分しましたので」
 集の笑顔と処分の一言が非常に怖かったが、遊はそうですか、と頷いた。
 そもそも普通ホストクラブでは搾り取られるだけ搾り取られる場所なのかと思っていたが、音羽曰く趣味で行われているクラブらしいので、その辺りは非常に良心的らしい。
「おそらく、ご両親は心中でしょう」
 集は、きっぱりと言った。遊にとっては、残酷な言葉だった。
「計画はしてあった。しかし実行は、ユトちゃん、貴方がした一日だけの家出のように、ある日突然思い立った。そんな気がします」
「どうしてそう思うんですか?」
「勘ですよ」
 集は振り返って遊に微笑み、再び前を向いた。
「仕事柄、こういうことにはよく対面しますので」
 集の本職とやらは最初から最後まで謎だ。これからも遊は妹尾の家、正確には、集の援助を受け続けるのだろうが、きっと彼の仕事は永遠に謎のままであるのだろう。彼の子供たちが、集の仕事の内容を知らぬように。
「話がそれましたね」
 そういって、集は咳払いを一つ。
「そんなわけで、ユトちゃんのご両親の借金には、ワタクシの監督不行き届きの面もありました。それをあの男、便宜上、おなじみ糸目さんと呼びましょうかね」
 やっぱり糸目なのか。一度見れば忘れられない糸目っぷりではあるが。
「彼に話したのですよ。それで、借金で足りないある程度の部分を、まぁワタクシが、負担しましょうと。それで、生き残っていらっしゃるお嬢さん、つまり貴方を、解放する。そういう形にしましょうという、取引です」
「……最初から、私を引き取る気は」
「いえ。それは全くありませんでしたよ。会うつもりも、実はなかったのですよ」
 集が足を止める。彼は空を一度仰ぎ、瞼を閉じた。
「資金援助もするつもりはなかったですし。単に、借金から解放してさしあげる。それだけの取引のはずでした。本当は」
 本当は、の部分に強く力を込めて、集が言う。
 もしそうだったなら、たとえ借金から解放されていても、遊の辿る道のりは、解放される前とそう変わらぬままだっただろう。遊には親族が一切いなかった。何の援助もない世間知らずの女学生一人に、一体何ができるというのだ。
「会うことにしたのは、糸目さんが貴方をなぜか面白がっていたこともありますし、ワタクシの気まぐれもあります。少し、可哀想とも思いました。そして……チャンスがあってもいいとも思いました。もし会って、本当に、私が価値あると思ったならば、チャンスを与えてもいいと」
「……チャンス……」
「えぇ。貴方が、這い上がる、チャンスです。世の中に、復帰する、チャンスです。ワタクシも、そんなチャンスを与えられて今に至る、人間の一人ですので」
 集の瞼の裏には、おそらくそのチャンスを与えられた瞬間――過去が映っているのだろう。
 遊は集の隣に並び立ちながら、両親が死んだと聞かされたときの衝撃や、訳も判らぬまま躰を売らなければならなくなりそうだった、数日を思い出した。
 集も、味わったことがあるのだろう。
 あの、脳裏が真っ白に[]けたような虚無を。
「……その、試験めいたことに、私は合格したってことなんですね?」
「そういうことですね」
 集は肯定を示した。
「一つ訊いていいですか?」
「何です?」
「……その、私の合格の決め手って、何だったんです?」
 あの時、集とどんな会話をしたのか、遊はもう覚えていない。
 だが、泣き言めいたことしか言わなかったはずだ。
 だというのに、集がこんな風に、遊を家に置いて、借金を一時肩代わりし、仕事を与えようという気になったのか、遊にはどうしても判らなかった。
 集が、微笑に口角をさらに深く曲げる。目を細めて、意味深に笑い、彼は再び歩き始めた。
「ゆーとちゃぁぁぁぁん!!!!!」
 かなり前方で、叶が大きく手を振っていた。彼の傍らには、隻と音羽、そして棗。
いつの間にか、かなり引き離されていたようだ。
「強いて言うなら」
 歩調を速めるべく、地を蹴った遊の隣で、集が彼の子供達を見つめながら言った。
「貴方が、必要だったような気がしたのです」
 ぽかんとその顔を見上げた遊に、集が笑いかけてくる。
「いきましょうか」
 先に歩みだした集の背中を呆然と見つめ、遊は胸中で集の言葉を反芻した。
(ひつよう、か)
 貴方は、必要な子なのよ。
 あの家出の後、棗にそう言われたことを、遊はふと思い出した。


 ぱん
 小気味よい音に一瞬遅れて、じわりとした痺れが頬を襲った。
 一体何が起こったのか、よく判らず、呆けたまま遊は目の前の棗を見上げた。それほど、棗の平手打ちは素早いものだったのだ。遊の傍らでは音羽と隻が目を白黒させて、立ち尽くしていた。
「一体何をしたか、判ってるわけ?」
 仁王立ちして、そう尋ねてくる棗に、遊はなんと答えようか思案していた。
 何をしたか――端的にいえば、家出だ。それ以外の何でもない。メモも何も残さず、家を出た。たった一日でここまで大騒ぎされるとは思わなかったが。
 答えを探しながら、沈黙する遊を睨め付けていた棗が、嘆息しながら怒らせていた肩の力を抜いた。
「一日足らずで大騒ぎする私達も私達だけど」
 嘆息混じりにそう言い、彼女は、遊の頬を両手で優しく挟んだ。隻が、今朝そうしたように。
 緑子あたりがよくそうしていたのだろうと、遊はぼんやりとした思考の片隅で思った。
「帰ってこないんじゃないかって、思ったんだよ」
 棗の横から口を挟んだのは叶だった。彼は遊の手をさりげなく握り、微笑んだ。目元に隈ができている。あぁ、音羽の言うとおり、彼もまた徹夜したのだと思った。
「貴方は、うちに必要なんだから」
 二人とも、ひやりとした手だった。
 けれど、どこか胸に染み透る温かさがある。
 音羽や隻と、同じ温度だ。
 兄弟だなと、遊は胸中で少し笑った。
 そして、少し泣けた。
 棗が言う。
「心配したの」
 叶が言った。
「おかえりなさいユトちゃん」
 少しどころではなかった。
 頬の麻痺のせいで、遊は気付いていなかった。
 いつの間にか、自分の目から、かなりの量の水滴が、零れ落ちていたこと。
 雨に打たれたような水滴が、目から零れ、頬と棗の手を濡らし、鼻の奥が詰まって息苦しかった。
 今朝、あれだけわんわん泣いたのに、まだ泣けるらしい。
 鼻声で、しゃくりあげながら、本当の本当に情けない声で、遊は謝罪した。
「しんぱいかけて、ごめんなさいぃぃ……」


「ゆとちゃぁぁぁん!?」
 叶の呼び声に、遊ははっと現実に引き戻された。
 面を上げると、既に集は叶達に追いついている。自分は、随分長い間立ち止まっていたらしい。
「おい遊!何してるんだ!?」
「遊、早くおいで」
「おいていくわよー!?」
 妹尾の兄弟達が口々に手を振りながら、笑いかけてくる。
 遊は笑みを返し、駆け出しながら叫んだ。
「今いく――っ」


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