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Stage 8. ここは君の場所だから 10


 名前を呼ばれて。
 振り返る。
「……お」
 呆然となりながら、遊は呻いた。
「おとわ?」
 土手を下りきったばかりのところで、両の拳を握り締めながら佇むのは、いわずと知れた妹尾家の次男、音羽だった。白いTシャツとジーンズ、そしてくたびれたスニーカーというラフな格好をしているので、一瞬見間違いかと思った。だが朝霧を押しやるようにしてある存在感は、確かに妹尾家の人間のものだ。
 音羽はつかつかと遊に歩み寄り、その眼前で仁王立ちになった。遊はそのなんともいえぬ気迫に気圧されそうになりつつも、ぱちぱちと瞼を瞬かせながら尋ねた。
「な、なんでここにいるの?」
 妹尾家の誰にも、この場所にくることは告げておらず、無論連絡も取ってはいない。彼がここにいることは、遊にとって青天の霹靂といってもよかった。琴子が連絡をとったのか。だがこの時間帯にこの場所に来ることになったのは、半ば琴子の思いつきといってもよく、深夜ドライブに繰り出した後に、彼女が妹尾の家に連絡をとっているような様子は見られなかった。
 一体、どうなっているのだ?
 混乱する思考をどうにか落ち着けようとする遊の頭に、雷の如き怒声が落ちたのは次の瞬間だった。
「ばっっっかやろうがぁぁぁぁぁぁああっっ!!!!!」
「ひっ……?!」
「馬鹿かお前はこんなところで一体何をやっているんだ何をっ?!?!」
 早口でまくし立てた音羽に、遊は思わず身を萎縮させた。が、なおも言い募るかに思えた音羽は、それ以上何もいうことはなかった。上目遣いにそろそろと彼の様子を確認する。怒鳴ってひとまず満足したのか、音羽は肩で浅い呼吸を繰り返すだけだった。
「え……と、ごめんなさい?」
 ここは謝っておくが吉だ。遊はそう判断を下し、上目遣いのまま謝罪した。
「全くだ」
 謝罪は当然という横柄な物言いで、音羽が一言の元に切り捨てる。反論したいところだが、状況を考えると確かに非があるのは遊のほうである。どういったものか、と言葉を考えあぐねていると、頭上から今度は嘆息混じりの呻きが響いた。
「全く……出かけるなら出かけるでメモを残していくとかしろ。幼稚園児じゃあるまいし」
 見上げた先の音羽の双眸には、呆れの色はあれども、怒りのそれはもう見当たらなかった。どこか、安堵の色すらある。彼のその表情に当惑しながら、遊は躊躇いがちに尋ねた。
「……なんで音羽はここにいるわけ?」
「お前を探しに来たに決まってるだろうが」
 他に何があるんだ、といわんばかりに、音羽は腕を組んで盛大にため息をついた。
「今家じゃお前がいなくなったで大騒ぎだ。無断で仕事を休むわ、家事を休むわ、書置きもなにも残してないわ……まぁ、きちんと代打を置いていっただけましか」
 代打――シフト交代を頼んだ、谷本のことだろう。おそらく。
 上手くまとまらぬ思考に、ぼんやりと視線を彷徨わせていた遊を他所に、音羽はまるで愚痴のように言葉を淡々と紡いでいく。
「隻もこっちにきてるからな。棗は墓のほうへ行ったんだが、今は叶と一緒に家に戻っていて――……琴子さんにそこのコンビニで会わなきゃ、きっと入れ違いになってたな。無駄足にならなくてよかったが」
「……隻兄もきてるの?」
「そうだ」
 音羽は大きく頷いた。
「俺も隻も、多分棗も叶も徹夜だ。まったくお前の為になんで俺たちがこんなことしてるんだか……」
「……私を、探すために?」
 驚きに目を瞬かせながら、遊は首を傾げた。
「それだけ?」
 掠れた声音で尋ねると、音羽が怪訝そうに眉をひそめた。
「他にどんな理由があるんだ?」
「どんな理由って……」
 言葉に一瞬詰まりながらも、半信半疑に思いついた理由を口にしてみる。
「借金取立てとか……?」
「阿呆か」
 ずぱっと一言の元に切り捨てられた。
「借金云々金云々は集の問題であって俺たちは知るか。昌穂んとこから風邪は大丈夫かと電話があったぞ。こっちはお前がバイトに出たつもりでいるから、お前が消えたと夕方から大騒ぎだ」
 あぁ、昌穂からの電話でばれたのか。
 動きが道理で早いと思った。
「で、ひとまず様子を見て、で、やっぱり夜中まで帰ってこなかったからさらに大騒ぎだ」
「それは……どうも……」
「オイコラお前本当に反省してるのか」
 音羽に、ずびし、と人差し指を額に突きつけられる。遊はその人差し指の向こうの、少年の顔を見つめた。
 遊は、音羽の言葉の含むところを、いまひとつ理解することができていなかった。
 遊の脳裏を、廻っていた疑問は一つだ。
 どうして、自分を探していたのだろうか。
 探していたところで何もメリットはない――金の問題は集の問題だとスパッと言い切った音羽だ。思いつく理由は、無料で働いてくれる家政婦がいなくては、家事一切が面倒だ、ぐらいか。
 だが家政婦が逃げた程度では、一日程度は放り出しておくだろう。しかもこんな早朝に、自宅から遠くはなれた町をうろつく道理もないはずだ。
 しかも、当初最も遊が妹尾家に居候することを嫌がっていた音羽まで、出張ってくる必要はないはずだ。
 混乱する遊に、音羽は言った。
「帰るぞ」
 差し出された。
 手。
「私……」
 その手をとるわけでもなく、呆然と見つめながら、遊は呻いた。
「私の、親……御宅になんか多大なご迷惑をかけていたみたいなんだけど」
 音羽が、怪訝そうに首を傾げる。
「その話なら俺も聞いたが、何か問題があるのか?」
「大有りでしょうが」
 無意識のうちに両の拳に力を入れて、遊は断言していた。その遊の声量に驚いたのか、音羽が目を見開いて微動だにしなくなる。その音羽に、遊は堰を切ったようにまくし立てた。
「だってうちの親の借金を、肩代わりしてもらっただけでもものすごく申し訳なかったのに。元々その借金が、もともとはあのクラブへの借金で、家計簿握ってる母とあろうものが家放っぽりだしてホスト遊びにはまったのも間抜けなら、そういや最近友達との旅行とかが多くなったなぁとお母さんの現状を全く見ようともしなかったこの私も馬鹿で、事情を知っていた父が、きちんと破産申告でもなんでもすればよかったのに安易に闇金なんかに手をだして借金返済なんかに充てようとした借金がつまり一億三千万で、さらにその尻拭いを集とーさんがやってるわけだよ?」
「おい落ち着け」
「馬鹿じゃない?馬鹿でしょう。集とーさんも一体なんでそんな人間の娘を助けようとしたのか知らないけどさ。傍迷惑な娘じゃん。つまり、全ての発端は、うちの親の馬鹿で」
 確かに、ギャンブルだかなんだかしらない理由で借金しました、という話を聞いたときも、なんて馬鹿なんだろう。本当に私の親なのだろうか、と遊は思った。
 そのうえ事故だか心中だかわからない方法で死んでるものだから始末が悪い。
 だが借金の真相を知ったときは、それ以上の衝撃だった。
 なんて。
 なんて傍迷惑なのだろうと。
 いつか。
 真砂のようにあの中に家族としていれたらと夢想したことがある。
 けれどそんなことは無理だとわかった。
「どの面下げて、あの家に戻れっていうのさ?!!」
 借金分は働こう。
 けれど、あの家には戻れない。
 遊は、音羽を見返しながら繰り返した。
「どの面さげて、あの家に戻れっていうのさ……」
 申し訳ない。
 あの人たちに申し訳ない。
 父さん。
 母さん。
 ひどいじゃないか。
 なんの前触れもなく私を独りぼっちにして。
 そしてまた私は独りぼっちだ。
 あぁ殴りたい。
 今すぐ殴りにいきたいよ。
 どうして私を置き去りにしたの。父さん。母さん。
「帰るぞ」
 唇を噛み締め、俯いていた遊の腕を、音羽が強引にとって歩き出した。
 当惑しながら遊は音羽の顔を仰ぎ見る。彼は真っ直ぐ土手の向こうを見つめていて、その双眸に遊の姿は映っていなかった。ただ、遊の腕を握り締める手には、強く力が込められていた。
「か、えるって?」
 疑問が遊の唇から滑り出る。刹那、音羽は遊を睨め付けたように見えた。だが彼はすぐに視線を戻し、半ば、遊を引きずるようにして歩き続けた。
「ちょ、ちょ」
「お前、俺の話を聞いていたか?」
「……へ?」
「問題はないと、俺はいっただろうが。金のトラブルは集が判断下すことで、俺たちは知らない。もう一度いうぞ。お前は俺の話をきいてたか?お前を探して、今家はてんやわんやなんだ。隻も俺も棗もそして多分叶も徹夜だ。いつお前がきちんと家に帰ってくるのか、兄弟全員でひやひやしてる。お前が家に帰らなきゃ、俺はゆっくり眠れないし、隻と棗は会社を休むだろうし、叶はこういうときだけ子供っぽさを存分に発揮して、ダダをこねる。飯は作るやつがいないから、店屋物になって家計に大打撃だ」
「ぷっ」
 音羽が家計のことを口にするとは思わず、遊は思わず噴出していた。何が可笑しい、と、閻魔も逃げ出す勢いの冷ややかな眼差しが遊に突き刺さり、遊は慌てて居住まいを正した。
「まぁつまりは、そういうことだ」
 音羽そう呻き、そして遊の腕を握りなおした。正確には、つかんでいる場所を、腕から手首に変えた。そのほうが、痛みが少ないとの配慮なのだろう。男の手はひやりとしていた。そういうさりげない優しさや肌の温度は隻と似ていて、あぁ、兄弟なのだな、と思った。
「私は、帰ってもいいのかな」
 ぽつりと呟いた遊に、音羽が言った。
「だってあそこがお前の家だろうが」
 はっとなって、遊は面を上げた。
 かつて、妹尾の家に放り込まれたとき、一番難色を示していたのはこの次男だった。
 けれど、今の音羽はさも当然というように、あそこが遊の家なのだと言う。
「おと……」
「遊っ……!」
 音羽の心中を確かめるために口を開きかけた遊の耳に、聞きなれた男の声が飛び込んできた。
「……隻兄」
 土手の上に立ち尽くしていたのは、妹尾家の長男だった。身につけているものはダークグレーのスーツの上下。ネクタイはなく、襟元は緩んでいる。シャツはいつもと違って着崩れて――おそらく、一日をその姿で通したのだろう。
 隻は土手を駆け下りると、音羽から引き剥がすようにして遊を抱きしめた。汗の臭いがした。
 隻は遊を強く強く抱きしめて、喉奥から声を絞り出すように囁いた。
「……よかった……」
 その声を聞いたとき。
 遊はとても愚かで、残酷なことをした気分に陥った。結局遊がしたことといえば、たった一日の家出だ。ささやかな思いつきだった。計画すらたてず、ただ思いついたままに最低限の荷物をつめて、家を出ただけだ。
 けれど、あの妹尾の家に、帰るつもりがあったのかと問われれば、わからないと答えるしかない。
 一日だけ、居なくなるつもりだったのか。
 それとも永遠に、居なくなるつもりだったのか。
 自分でも判らない。が、琴子に会わなければ、そして音羽と隻が迎えに来なければ。
 おそらく。
「ユトちゃん」
 ふと、両頬に手が当てられて顔を上げさせられた。
「俺は言ったね、ユトちゃん」
 目の前に綺麗な隻の顔があった。目が怖いぐらいに優しく、そして真摯だった。
「どんな形であれ、君は大切な、とても大切な女の子であることには変わりないんだって。そして、一緒に暮らす、家族なんだって。俺は前に君にそういったね。覚えてる?」
 ――確かに。
 隻は言った。夏の初めのデートのときに。隻との恋人としての付き合いを、断ったときのことだ。夏らしい暑さの中、プールサイドで、隻は遊に確かにそういった。
「だから……」
 そこまで言って、次の言葉に詰まったらしい。隻は小さく嘆息すると、遊を抱く腕の力を少し緩めた。
 遊は、隻を見上げた。
 そこには、困惑した男の顔があった。
 遊は、音羽を振り返った。
 彼は少し憮然とした面持ちで、そこにいた。
 帰る場所が欲しかった。
 突然失ってしまった家族。
 突然失ってしまった居場所。
 妹尾家も、それに連なるホストクラブもあの町も学校も、全てどこか仮初めのようなものの気がして、とても現実感がなかった。
 だからなおさら、きちんとした足場が欲しかった。
 帰る場所が、欲しかった。
 ずっとずっと、胸中で反芻し続けていた問いを、遊は繰り返した。
「私、帰っても、いいのかなぁ……」
 迷惑をかけっぱなしなのに。
 文字通り、親子で迷惑をかけっぱなしなのに。
 本当は、あの家の皆に、こんな風に扱ってもらう資格なんて、ないかもしれないのに。
 だが。
 隻は言った。
「もちろん」
 音羽も言った。
「じゃなかったら何のために俺たちはここにいるんだ」
 全ては、君を家族として迎え入れるために。
 二人は遊に、当然と手を差し伸べた。
「うわぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁあぁぁん……」
 遊はその場で、屈みこんで泣いた。
 おそらく、妹尾家に来て初めて。
 そして両親を喪って初めて、遊は声をあげて泣いた。
 それは両親を喪ってしまったことに対して初めて流す大粒の涙かもしれなかったし。
 それはかつて過ごした家が既に人手に渡ってしまっていたことに対する、ショックからくるものかもしれなかったし。
 今まで慣れない環境に対応するために、張り詰めていた緊張の糸のようなものが、ぷつりと切れてしまったせいかもしれないし。
 なにより、こんな場所まで、眠らずの夜を過ごしてやってきて、自分に手を差し伸べてくれる男達への喜びと感謝の涙だったかもしれなかった。
 胸をかきむしりながら、喉をからしながら。
 擦り切れるように。
 遊は泣いた。
 泣くことができた。
 ここは。
 私の場所だったから。


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