BACK/TOP/NEXT

Stage 8. ここは君の場所だから 9


 ばたん
 車のドアを後ろ手に閉めて、遊は呆然となりながら、その家を見上げた。
 妹尾家よりもやや広めの一軒家は、土地の安さによって可能になったのだと父が言っていた。
 ベージュの外観。茶色の屋根。玄関の隣には、屋根付きの車庫。
 それらはそのままだ。
 もっと、寂れているのかと思った。
 遊が、この家で暮らさなくなってから半年が過ぎている。ただ、全てがあの時と変わらないかといえばそうではなかった。
 視線をめぐらす。車庫には、見覚えのない車と、三輪車が置かれている。玄関口に置かれた、サルビアの鉢植え。窓に掛かった、遊の知らぬ色のカーテン。
「……垣内……」
 かつて、磯鷲と表札が上がっていた場所に挙げられていた新しい見知らぬ文字を、遊は指と声でなぞった。
「ユトちゃん」
 車のエンジンを止めて、運転席から出てきた琴子が、心配そうな面持ちで声をかけてくる。
「このおうちで、間違ってないよね?」
「……はい。……間違って、ない、です」
 琴子に答えながら、遊は胸中で表札の名前を反芻した。
(かきうち)
 新しい家族が。
 既にこの家で暮らしている。
(あぁ。そうかここはもう)
 判っていたことだけれど。
 確認するために、自分はここに来たのだけれど。
 この家は、もう遊の家ではなかった。
 帰る場所では、もうなかった。
 家は、現在の主を守り、遊をやんわりと拒絶してそこにある。
 別の誰かの帰るための場所として、そこにある。
「……ユトちゃん。私、ちょっと手前にあったコンビニに、飲み物、買いにいってくるね?」
「……え」
 琴子の言葉が、一瞬上手く理解できなかった。思考がうまく回らない。
「……あ、はい」
 間をおいて頷いた遊の顔を、気遣うように覗き込んで、琴子が尋ねてくる。
「ユトちゃんも、一緒にいく?」
 遊は、首を横に振った。
 もう少し、ここで心の整理をしていたかった。
「そっか。じゃぁすぐ戻ってくるから、この辺りにいてね?」
「はい」
「ユトちゃんが散歩に出たりしても、私ここで待ってるから」
「……はい」
 荷物を琴子の家に置いているから、いなくなったりはしないけれど、姿を消すことを心配されているのだということを、遊は理解した。
 そういえば、妹尾の家の皆はどうしているだろう。
 結局、あの人たちに何も言わずにここまで来たわけだが、心配とか、してくれているのだろうか。
 走り出す琴子の車を見送って、遊は再び元実家を見つめた。
 そこには、自分の居場所はなく。
 そして、自分の家族もいない。
 私の、場所は、どこだろう。
 秋近くになった夏の早朝は、肌寒さを少し増した。ひやりとした空気に遊は自らの腕を抱いて、踵を返した。


「うん。判った。……うん」
 コンビニで缶コーヒー二本を買って駐車場に戻ると、車体に身体を預けて、電話をしている隻が目に入った。音羽は彼の隣に並ぶと、同じように車体に身を預けて、一本目の缶のプルトップを開けた。
「うん……棗も寝とくといいよ。叶は?……そう。わかった。じゃぁまた連絡する。……了解。じゃぁ」
 ぴっ、という小さな電子音が聞こえて即座、手が横から伸びてきた。音羽はプルトップを開けたばかりの缶を手渡してやって、二本目を開けた。
「棗か?」
「そう。あっちにはいなかったらしいよ。棗はひとまず家にもどったって」
「叶は?」
「まだ起きてるってさ」
「根性あるな」
「俺たちの弟だしね」
 隻は笑いながらそういって、缶の縁に口をつける。仕事柄、夜遅くなることはざらにあるが、ここまで疲労の色の濃い兄の顔を、音羽は生まれて初めて見た気がする。
 そして自分も、誰かを探して徹夜するなど、初めてのことだった。
 夜が、明ける。
 日はまだ上っていないが、空は既に白んでいる。太陽が見えるのも時間の問題だろう。
「結構遠いところから来てたんだな」
「んー?」
「遊」
「あぁ……うん。そうだね。道に多少迷ったっていうのもあるけど……結構遠かったね」
 地図を見間違えて、一度違う細道に入り込んでしまったことで、随分と時間をロスした。時折隻の仮眠の為に休憩を挟んでいたこともある。が、想像した以上に遊は遠い町から来ていた。
 たかが県二つ分、と思っていたが、甘く見ていた。
「集は何をやってるんだ?」
「棗曰く、連絡とれず、だって。なんでも真姐と呑んでるらしいけど……」
「何をやってるんだ奴は……」
 我らが父親ながら、全く不可解な存在である。遊が妹尾の家で暮らし始めて以来、初めて無断でいなくなったことも、兄弟全員が生まれて初めてといえるぐらいに一つの目的のために大騒ぎしながら行動していることも、集なら既に承知の上だろうに。
 缶コーヒーを飲み干して、一息つき、改めて出発しようと二人揃って車体から預けていた体を離した、その直後だった。
「あれぇ?」
 隣に停車した車の運転席からひょっこりと顔をだした女が、自分達を指差して間の抜けた声をあげた。
「あかねくん?」
 兄のクラブでの源氏名を呼びながら、首を傾げた女に、隻と音羽は半ば息を止めて、愕然と呻いた。
『こ、ことこさん……?!?!』


ぽちゃん
 投げた小石は、上手く水面を跳ねることなく、空中に描いた弧そのままの形を維持するようにして水の中に落ちた。
 小石が起こした水面の波紋を見つめながら遊は嘆息した。
 元実家から、程近い場所にある河原。
 土手の傍にはコスモスの茎が揺れている。花をつける時期はもうすぐだった。その横では少し青みの残るススキ。もうすぐ、夏も終わりなのだ。
 早く帰らなければならないのはわかっている。琴子も程なく戻ってくるだろう。それまでに、あの場所に戻らなければ。
(でも)
 遊は思った。
 戻ってどうするのだろう。
 帰る場所など、もうどこにもないのに。
 振り返った先の道は、まだ早朝なこともあって沈黙している。
 農道と耕地を挟んで、閑静な住宅地が広がっていた。その一角に、遊のかつての家はある。
 寂しいときに、無意識のうちに夢見ていた町。
 けれどもう二度と帰ることはないだろう。
「カントリーロード」
 これが本当の故郷の道[カントリーロード]かと、昔合唱で歌ったことのある曲目を思い出しながら、遊は笑った。


隻は無言のまま運転席に飛び乗り、音羽もそれに応じていた。エンジンがかかり、コンビニエンスストアの駐車場を車は文字通り飛び出した。早朝で、人気がないことに感謝すべきだった。さもなくば確実に事故を起こしていただろう。
 琴子に教えられた近道をいく間、音羽はもちろん隻も終始無言だった。そして、音羽はその必死さが可笑しくてならなかった。自分達はどうしてこんなに必死になっているのだろう。
 知っているからだ、と音羽は思った。
 今この瞬間が、自分達があの少女を失うかどうかの瀬戸際なのだ。自分達はかつてそうやって母親を失って、そして真砂を一度家族の中からはじき出してしまったのだから。
 真砂と異なり、共に暮らした時間が短い分だけ、一歩間違えれば自分達は確実に彼女を失うだろう。
「この家か」
 隻が持っていた(集の書斎からくすねてきていたらしい)写真を見て、音羽は呟いた。隻が車を、件の家に寄せる。エンジンはそのままに、ギアをニュートラルにいれて隻が座席を飛び出した。
「いない……」
 琴子の言葉が本当なら、遊はこの場所にいるはずだった。だがここまでたどり着く道にも、どこにも遊の姿は見られなかった。
「散歩しているのかもしれない。俺は車を近くの駐車場にとめてくるから、音羽はその辺りを」
「判った」
 再び運転席に乗り込み、車を回す兄に対して頷いて、音羽は周囲を一瞥した。暁の時間。人気はなく、隻の車の排気音が消えれば、静寂そのものが場を支配している。朝霧に遠くが霞んでいた。
 のどかな場所だった。閑静な住宅地が立ち並び、その合間に、休耕地が見える。
 そう遠くない昔は、この場所は田畑だったのかもしれない。少なくとも都会育ちの音羽には想像のつかない光景だが。
 音羽は歩きながら、それら一つ一つを確認し、そして目的の少女の姿がないことを確かめていった。
『泣いてない』
 真っ直ぐに。
 どこまでも真っ直ぐに。
 運命全てを睨みつけるようにして佇んでいた少女。
 涙を雨だと誤魔化して、佇んでいた少女。
 それなのに、自分達には泣いていいのだと、笑って涙を掬い取っていた少女。
(一人で泣くな)


 自分達は皆知っているんだ。
 俺は知っているんだ。
 自分達に向けていた背中が、時折震えていたこと。
 洗濯物の影に隠れて時折泣いていたこと。
 笑顔の裏で、泣ける場所を探していたこと。
 帰る家を失いながら、賑やかに笑うことで、全てを振り切ろうとしていたこと。


 唄が。
 聞こえた。
 音羽は面を上げて、その唄の聞こえてくる方向を探った。風向きや、静けさといった偶然が、重ならなければ聞こえないようなかすかな歌声だった。
 だが音羽は確信していた。
 遊のうた。
 少女が、うたう唄。
 音羽は、定めた方向へと、走り出していた。


 場所は、そう遠くない河原だった。
 朝日の光を乱反射する河面を眺める少女の背中は確かに、遊のものだった。
 土手を下りながら、音羽は叫ぶ。
「ゆとりっ……!!」
 少女が、ゆっくりと振り返った。


BACK/TOP/NEXT