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Stage 8. ここは君の場所だから 8


決して、同情で、彼女は選び取られたのではない。
彼女は、自らの手で、その道を選び取っていたのだと。


「じゃぁ消すよー」
「あ、はい。お願いいたします」
 ぱち、という音と共に部屋に暗闇が広がる。しばらくして、隣の布団にごそごそと琴子が入り込んだ。遊は気配でそれを感じ取りながら、天井を見つめていた。染みだらけの天井は、歴史を感じさせる。
「ふふふ。なんか素敵ねぇ」
「素敵というか、不思議です」
 いくら目をかけてもらっていたとは言っても、自分と琴子は店員と客の間柄だ。こんな風に布団を並べて一緒に眠るなど、想像もしていなかったことだ。
 あれから、二人で近場のショッピングモールに買い物に出かけた。棗と隻が買い物好きなのは血筋なのかと思っていたが、琴子も似たような様子だった。遊の周囲の人間は皆そういう傾向があるらしい。着せ替えごっこといって目を輝かせる琴子を押さえつける、もとい落ち着かせるのに、遊はかなりの苦労を強いられたのだ。
 食材を帰り道に買って帰り、簡単な惣菜を作る。酒盛りは未成年だという遊の主張もあって中止。飲み物はオレンジジュースに落ち着いた。一緒にテレビを見たり、雑誌を読んだり。
 そんな感じで過ごしていたら、いつの間にか夜である。
(わ、私ほんとに一体何しに来たんだっけ?……あっ。今更仕事を休んだことに対する罪悪感がっ……)
 半ばパニックを起こしながら布団を巻き込んで琴子に背を向ける。
 電車やバスを乗り継いで何時間も旅して、身体は疲れていて、眠りたいはずだった。
 なのに、上手く瞼が落ちない。
「眠れない?」
 どれぐらい時間が経ったのか判らない。目が完璧に冴えてしまった。窓の外から車の排気音すら聞こえてこなくなった頃、背後から琴子の柔らかい声が響いた。
「はぁ……。なんか、緊張しちゃって」
 寝返りを打って、琴子に向き直る。闇に慣れた目に、白い琴子の肌ははっきりと浮かび上がって見えた。
「ユトちゃんって、枕替わると眠れないタイプ?」
「え?いえ……そういうわけじゃないんですけど」
 現に妹尾家に腰を落ち着けた後も、睡眠はばっちりだ。
「そうなの」
 くすくすと、笑いながら琴子が続けた。
「ユトちゃんのお母さんは、枕がかわると眠れなかったらしいけれど」
「へーそうなんです……」
 ――ユトちゃんのお母さんは……。
「か?」
 ちょっとマテ。
 何故そのようなことを、琴子が知っているのだ。
「……え」
 呆然と目を見開く遊に、琴子が微笑んだ。
 遊は息苦しさを感じて、無意識のうちに胸元を握り締めていた。どう反応すればよいのか、一体、何を尋ねればよいのかがわからない。
「……知って?」
 きりきりと閉まる気管支の隙間から搾り出した声は、遊自身ですら上手く聞き取ることができなかった。
「ユトちゃんがあの人の娘だっていうことを知ったのは、結構最近のことなのよ」
 そう前置いて、琴子は続けた。
「ユトちゃんのお母さんを、あの店に最初に連れて行ったのは、私」
「……え」
「ユトちゃんのお母さんは、小さい頃よく私の面倒を見てくれた、近所のお姉さんなのよ。こんな風に布団を並べて寝たこともあるのよ。懐かしいわぁ」
 ぱくぱくと金魚が酸素を求めるように、口を動かす遊を他所に、琴子はとつとつと話を進める。懐かしそうに。
 そしてどこか、心苦しそうに。
「もう二年ぐらいになるのかしら」
「二年?」
「偶然ね。町で再会したの」
 琴子の笑いは、そこで一度かき消えた。
「長い長い間、会っていなかったのに……」
 どうしてあそこで、出逢ってしまったのか。
 その再会を、まるで後悔するかのような響で琴子が呻く。
「……私のお母さんを、お店に紹介したのは、琴子さんですか?」
 遊の問いに琴子は頷いた。
「私がお話していて、彼女が興味を持ったの。是非、紹介して連れて行ってくれないかって」
 母にはありそうなことだ。遊は思った。
 陽気な母。遊以上にどこかミーハーだった母。
 ホストクラブって、綺麗な男の子が並んでいるところよね?
 私も見てみたいわ。
 絶対そんな風にいったに決まっている。遊には容易に想像できた。
「でもそれだけじゃなくて」
 琴子が、躊躇いがちに話を続けた。隣に横になっている彼女は、いつの間にか仰向けになり、虚ろな眼差しで天井を見つめていた。
「ずるいって、おもっていたのかしらね」
「ずるい?」
 一体何が。
 意味を理解することができず、遊は思わず聞き返していた。
「そう。ずるい」
 琴子は笑いに肩を小さく揺らした。自嘲の笑いらしかった。
「ママのせいにするわけじゃないけれど、小さい頃はあれほど嫌だと思ってたのに、結局私も所謂お水の世界に生きてるわ。でもユトちゃんのお母さんは、いい旦那さんをもって、可愛い娘を持って、一つの家庭をもって。そんな生き方、ずるいって、思ったの」
 自分勝手だけれどね。
 そう付け加えた琴子は、大きな嘆息を零した。
「琴子さんは、結婚しようとは思わなかったんですか?」
 琴子という女性は美しい人だ。一見すると学生にも見えてしまうほどに幼い顔立ち、若々しい肌、愛らしい、洗練された立ち振る舞い。そしてそれらが、鼻につくようなこともない。気配りはいつも細やかだ。そして、妹尾家の面々のように、美しすぎるということもない。
 その気になれば、何時だって結婚できただろうに。
「一回しようかなって思ったことがあったけど、できなかったなぁ」
「できなかった……?」
「私、病気しちゃって。子供を作ることができなくなったの」
 琴子は、まるで、おもちゃが壊れちゃったの、とでもいうように、困ったような、しかたないわね、というような、表情を浮かべてそう告白した。
「それで、別れちゃった」
 遊は、表情をぎくりと強張らせた。子供を作ることができない。琴子はなんでもないことのように、さらりと言ったが、それはとても。
 想像の及びつかぬほど、辛いことなのではないだろうか。
 あぁだから。
(お母さんを羨ましいって)
 きちんと、遊という娘を持った母。
「そんな顔しないでよぅユトちゃん。本当に、今となってはどうってことないことなのよ?」
 くすくす笑って、琴子は言った。しかし遊は、琴子に対して微笑み返すことはできなかった。顔の筋肉は、強張ったまま動こうとしない。
 そんな遊に、琴子が笑みを消し、言葉を続ける。
「でもねユトちゃん。今となっては本当にどうってことないけど、ユトちゃんのお母さんと出会った、あの日だけは、違ったの。羨ましかった。どうしようもなく。見せてやりたかったの。私の生きる世界。ユトちゃんのお母さんみたいに、満たされた毎日を送っている人なんて、ほんの一握りだっていうこと。お金があっても、毎日空虚な人。女の身一つで、子供を育てている人。そういった、女の人を慰めることを仕事として、夜の世界で[しのぎ]を削っている、男の人たち」
 朝、起きて。
 夜、眠る。
 家事をする。勉強をする。仕事をする。当然のように太陽の昇っているその間に生きられる人は、おそらく幸福なのだ。
 生きるために、夜を選択した人たちが、いる。
 それが不幸だというわけではない。その世界を幸福の道として自ら選んで生きる人もいるのだ。
 だが、彼らは美しく。
 そしてどこかとても哀しい。
 妹尾家の人々。そして、あの小さなホストクラブに集う人々。
「見せてあげたかったの」
 琴子は瞼を下ろして、繰り返した。
「ただ、見せてあげたかっただけなの」
 琴子の白い頬を、透明な雫が伝う。
 綺麗な、宝石のような雫が零れて、布団の上に染みを作る。
「ごめんね、ゆとちゃん……」
 そう呻く琴子に、遊は言った。
「琴子さんのせいじゃないですよ。だって、琴子さんはお母さんに、ただお店を紹介しただけなんでしょ?」
 母は。
 何に魅せられて、あの店に通い始めたのだろう。
 琴子の見せた、母の生きるべきだった世界と全く異なる世界の、何に魅せられたのだろう。
 遊の知らないところで。
 両親の訃報が届いた日の朝、遊は普通に起きて、朝食をとった。母も父も、いつもと変わらなかった。
「保証人にもなってるのよ」
 すん、と鼻を鳴らして、琴子が言った。
「借金を作ってまで通ってるって、早く気付けばよかったのに。私、それに気付くことできなかったの」
「保証人なのに、借金に気付かないって、ありうるんですか?」
 保証人はいわば、顧客と店の間に何か問題が発生したときの相談役だ。必ず紹介者がやるとは限らないらしいが、琴子が母の保証人を務めていたのなら、気付かないということはありえないはずだ。
「清算を、ホストの子が立て替えてしまうとね。お店のほうには影響がなかったりするし、気付くのが、大分遅れてしまうの」
 気がついたときには、母は大きな借金を背負っていて。
 父はそれを精算するために、お金を借りて。
 それが、一億三千万という額なのだろうか。
 それが。
 遊が妹尾の家に居候することになった、全てのきっかけだったのだろうか。
「琴子さん、私に色々目をかけていて、くれましたよね……?」
 初めてあったときから、といわずとも、少なくともあの隻とマトノの件から、琴子は遊に特別目をかけていてくれたような気がする。
 日輪との一件のときや、音羽のハンカチの一件、隻とのデートの一件。色々相談に乗ってくれたり、しゃしゃりでて面倒を見てくれたり、単にからかうだけであったり。
 何らかの形で、遊のことを見てくれていた気がする。
 しかしそれは、遊に対する、好意からきているものなのだろうか。
「それは、お母さんへの罪悪感からですか……?」
 それは、母親への贖罪めいた感情からなのではないだろうか。
「それは――……」
 琴子の好意を、歯がゆく、嬉しく思っていた。
 けれど、それは、本当に彼女の好意からだったのだろうか。
 繰り返し繰り返し自問する。
 棗と隻は、遊が妹尾家へ来た経緯を知っていた。
 彼女らが優しかったのは。
 本当に――……。
 そっと。
 遊の頬を、挟み込むように、柔らかい手が触れた。
「泣かないでユトちゃん」
「泣いてませんよ」
 涙は零れていないのだ。
 泣いてはいない。
 泣くことはできない。
「でも泣きそうな顔をしているわ」
「違いますよ」
 遊は笑顔を作ろうとした。けれど、上手くいかなかった。
「違いますよ……」
 だってここは。
 泣くべき場所ではない。
 泣くべき場所では、ないのだ。
「ユトちゃん。ユトちゃんを見ていたのは、確かにユトちゃんのお母さんのこともあるけど」
 いつのまにか、すぐ傍に琴子の目があった。
 アーモンド形の目を、柔らかく笑みの形に細めて、琴子は言った。
「でも最初は親子だって知らなかったわ」
 頬を挟む、琴子の手のひらに、僅かに力が篭った。
「……私は、そんなこと抜きで、私はユトちゃんを好きになったのよ。私にはできないようなこと、真っ直ぐにぶつかって、成し遂げていくユトちゃんがとても素敵だった」
 そして、琴子は遊の胸中を見透かしたように、こう付け加えた。
「きっと、真もそうだし……妹尾の人たちも、みんなそうだと思うわ」
 本当だろうか。
 そうだろうか。
 本当に。
 朝、荷物をつめて、妹尾の家を出た。
 怖かった。
 全部全部全部。
 優しさや笑顔が。
 同情からきていたものだったのだとしたら。
 自分は。
「琴子さ」
「すっかり目、さえちゃったねぇ」
 薄手の布団を跳ね除けて、琴子が起き上がった。その動作は、周囲に満ちた重い雰囲気を払拭するかのようだった。
 彼女は立ち上がると、台所へと向かい、水道の蛇口を捻ってグラスの中に水を汲む。遊は琴子の一連の動作を、上半身を起こしてぼんやりと見つめていた。
「うわ。いつの間にかもうすぐ夜明けだよ」
「……徹夜ですね」
「だねぇ。だけどあまり眠くないな」
「私もです……」
 頭を押さえながら、遊は呻いた。何故だかこめかみの辺りがずきずきする。かといって、眠りたいとは思わない。完全に覚醒してしまっていた。
「ねぇユトちゃん、ドライブしにいかない?」
「……ドライブですか?」
 琴子の提案は唐突だった。すばらしい思いつきだといわんばかりに、彼女は満面の笑みを浮かべて頷いた。
「そう。……場所は、ユトちゃんの前のおうちまで」
「え」
 呻いたまま呆然となるしかない遊を置き去りにして、琴子はさっそく、と洋服箪笥の中をあさり始めた。寝巻きから普段着へと着替えるつもりらしい。寝巻き用のTシャツを脱ぎ始める琴子を、遊は慌てて制した。
「ちょちょちょ、こ、琴子さんまってくださいよっ!琴子さん私の家知ってるんですかってか車あるんですか?!いやそれ以上に車運転できるんですかっ?!?!」
「えー私が運転できたら意外?」
「うっ……。運転できる云々っていうか」
 琴子の場合、彼女が運転しようとするまえに、誰か男が専属運転士に立候補しそうだ。
 コギー犬のようなつぶらな眼差しで見上げてくるのを辞めてくださいと、だらだら冷や汗をかきながら遊は胸中で懇願した。
「ユトちゃんの家は、前お母さんを送り届けたことがあるから知ってるの」
 ローズの色で纏められた、花柄のキャミソールの上に、白いカーディガンを羽織ながら、琴子は言った。
「……ユトちゃんがいってた、訪ねたい場所って、そこだよね?」
 訪ねたい、場所。
 自分がそう口にした。しかし他人の口から聞くと、一層違和感のある言葉だった。
 訪ねたい場所。かつての、家。
 帰りたい場所、と、言わなかった、自分。
「……はい」
 遊は琴子の問いに頷いた。
「早く着替えて、ユトちゃん。そこに寄ったら、帰りに朝ごはん食べにいこうね。美味しいクラブハウスサンド、モーニングセットで出してくれるお店知ってるの」
 ね、と笑顔を見せる琴子に、遊は小さな微笑を返した。
 琴子の、優しい笑顔が、本当はとても胸に痛かった。
 とても。
 そんな風に優しくされても、琴子の隣は、遊の還る場所ではないと、知っていたからだった。


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