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Stage 2. ようこそ非現実的な一家へ 3


 棗。
 朝食をとり終わり、一緒に片づけをする。自己紹介をする彼女は、やっぱり丁寧に自分の名前の漢字について解説してきた。
「あの失礼な奴はオトワよ。音楽の音に、羽って書いて、音羽。妹尾家次男」
「あのー」
「なに?」
「漢字になにかこだわりでもあるんですか?」
 棗が手早く洗っていく皿を、もたつきながら布巾で拭いて、綺麗に重ねていく。その手際の悪さに遊は自分のことながら眩暈がした。普段どれほど手伝いをしていなかったのかよく判りますねあの世のお母さんごめんなさい。
 怪訝そうに面を上げた棗に、しどろもどろになりながら答える。
「そうねぇ……こだわりっていうか。私たちの母親がね、いっつも名前をそんな風に他人に説明していたものだから、癖が移っちゃったんでしょうね」
「……お母さん」
「もう何年か前に亡くなってるわ。後で写真見せてあげる」
 あっけらかんと彼女はそう口にし、手が止まってるわよ、と鋭く指摘してくる。遊は慌てて手に握っている茶碗の水気を拭い、次の皿に手を伸ばした。
「棗さんは」
「棗でいいわよ」
「……じゃ、棗姉さんってどうです?」
「うーん……なんか恥ずかしいわね。だけどいいわよ。あ、だけどその敬語はやめて。なんかうちの大黒柱思い出しちゃってキモチワルイから」
「…………ハイ」
 父親についてキモチワルイとか笑顔でいうのもどうかとおもうが、そういえば自分の友達も父親と口も利きたくないなどと頻繁に口にしていた。それを思えば、棗の物言いなど可愛いのかもしれない。遊はこほんと咳払い一つ、口にしかけた言葉を改めて紡ぎだした。
「棗姉さんは仕事ない、の?」
「あるわよ。でも今日はお休み。いつもは経理の仕事についてるの。最近は東京への出張が多いんだけど」
 石鹸水を張っていたタライをひっくり返しながら棗が口にした会社の名前に、遊は目をむいた。遊も知っている有名なアパレル企業だったのだ。可愛くシンプルなデザインが素敵な衣料品を数多く取り扱っている会社。雑誌にも頻繁に登場しているものだ。
「すごーい!」
「あ、でも私はただの経理部員なんだって。広報だとか、店の子とは違ってほとんど品物に触ることはないの。写真は見るけど……好き? そういうの」
「えぇっと、自分ではあんまり買いませんけど、あ、買わないけど。ウインドウショッピングとかは」
「じゃぁこんどパンフレットもって帰ってきてあげる」
 やった、と叫ぼうとした遊はつるりと手をすべらせ慌てて茶碗を取り落とすところだった。空中で膝を駆使し、なんとか受け止めた遊を棗が苦笑して見下ろしてくる。
「よかったわね割らなくて。それ音羽のよ」
「うわ」
 たしかに言われてみれば、あのむっつり男が手に持っていた記憶がある。そろりと身体を起こしてきちんと布巾で水気を拭い、他の茶碗に重ねた。これでとりあえず、戸棚に片付けるだけで皿洗いは終了である。
「じゃ、順番に片付けていって。場所教えるから」
「はい」
 とりあえず音羽のものから順番に片付けようと遊は決めた。あの冷ややかな目を思い出す。皿を割って機嫌を損ねるのは非常に、得策ではない。
 棗の指示のもと、食器類を戸棚にきちんとしまいなおしていく。戸棚は片付けられていて、むしろ主婦がいたはずの遊の前の家のほうが散らかっているほどだった。
(あ、やば。泣く)
 思いがけなく前の家のことを思い出してしまって、遊は自らのうかつさに舌打ちした。
 緩んでしまった涙腺をきちんと占める。水道の蛇口をきゅっと捻るように。鼻をすすって深呼吸一つ。
「終わった? ユトちゃん」
 そう声がかけられる頃には、きちんと笑顔が作れていた。
「はい終わりました」
 台所を綺麗に片付け終わった棗は、畳んだエプロンを片手に佇んでいた。見れば見るほど綺麗な人だ。年がいくつなのかはわからないけれども、磨きこまれてぴかぴかの肌は十代の遊のほうが見劣りするほどであるし、髪ゴムを取るとさらりと肩口に落ちる黒髪は、シャンプーの宣伝にでてきても可笑しくはないような艶を保っている。切れ長の瞳のせいか、ぱっと見厳しい印象を与えるけれども、会話を交わせばその心配りは細やかで。
 自分は今日から、こんな人たちと暮らすのだ。
 いくら気配りの上手な人が一人いるとはいえ。
 嬉しいといってくれた人がいるとはいえ。
 よろしくといってくれた人がいるとはいえ。
 頑張れといってくれた人がいるとはいえ。
 音羽の冷たい、射抜くような眼差しを思い出す。
 自分はこれから暮らす。
 赤の他人と。
 その事実、唐突さ、異様さ。
 ぐ、と眉を寄せた遊の腕を、棗が引いた。
「じゃ、いくわよ」
「……へ? どこにですか?」
 我に返った遊は驚きに息を呑みつつ間抜けに答えた。
 棗は決まっているでしょ、といわんばかりに肩をすくめる。
「とりあえずこれからユトちゃんの生活の準備を整えに」
 そういって彼女は、はい、と遊にふわふわの上着を押し付けた。


駐車場に停めてあったビターショコラのキューブは、昨夜乗せられたものとは別の車だ。棗の車なのだろうそれに乗せられて、遊はだったかだったか買い物に連行された。
 この強引さはやはり父親譲りなのだろうと遊は思った。運転する横顔や眼差し、そしてどことなく楽しそうな雰囲気――やはり、集に似ている。
 最初に連れて行かれたのは百円均一ショップ。そこで遊のための食器の一揃えを棗は購入した。茶碗、お椀、箸、湯のみ、マグカップ等々、こまごまとしたものは全てそこで取り揃えて、次へ。
「あの――これ何に使うんですか……使うの?」
 下着屋においては無論女性用の下着を三揃え。衣料品店に連れて行かれて購入したものは、普段着になりうるジーンズ、スラックス、スカート、そして柄物ブラウス、トレーナー、エトセトラ。
 まぁそれはいいとしてだ。
 問題は白いブラウス、男物のスーツパンツ、ベスト、ネクタイである。
 しかも遊の身の丈にあわせた。
 なんだかいやな予感いっぱいの遊に棗が憮然として返答する。
「……すぐにわかるわよ」
 キャッシャーの女の人が、にこやかな口調で「七万八千九百円です」と告げた。


 隻の注文通り、カレーの材料を買い込んで、それでも家には真っ直ぐ帰らず、棗が車を停めたのは、繁華街近くの駐車場だった。
「棗姉さん?」
「車降りてついてきて」
 荷物全てを置いて、慌てて棗の後を追う。棗は入った商店街ですれ違った何人かに言葉少なに応答して、ずんずんと奥へと進んでいった。商店街は衣料品店、雑貨屋、カフェなど、なかなかいい雰囲気の店が立ち並んでいた。人通りも多い。紛れ込んでしまうというほどではなかったが、足の速い棗に置いていかれないようにするためには、ちょっとした努力を要した。
「……あの」
 赤煉瓦作りのしゃれた建物の地下へと足を踏み出した棗に、遊は目線を送る。いったいこんな薄暗い場所に、何の用があるというのだ。
「仕事について説明するわね」
 階段を下りながら、棗は口を開いた。
「まぁなんとなく察しはついていると思うけどうちの家業は水商売。集がオーナー、店長は雇ってるの。隻と音羽が働いているわ。今はもう働いていないけれど、昔は私も働いてたからユトちゃんがこれからやらされる内容はわかるつもり」
 突きあたりの右手にある、古風な感じの扉に、棗が鍵を差し込んでくるりと回す。かちゃりという音が、静謐な彼女の声音に混じって消える。
「今日はまず家のことに慣れてもらわなければいけないわ。だから仕事が本格的に始まるのは一週間ぐらい先、近くても二、三日後のことね。こっちに来る必要も無かったんだけど、覚悟はしておいてね、という意味でつれてきたのよ」
「……あの、ここは……」
 棗が手探りでぱちりとスイッチを入れる。ヴヴ、という蟲の羽音にも似た音が響き、数回瞬きを繰り返してフロアの明かりが灯った。
 明かり、といっても橙色の蛍光灯が、淡く壁と足元を照らすだけだ。赤煉瓦の床、壁、淡い色の天井。ランプの色を受けて、柔らかく表面を光らせているフロントデスク。
 奥にはいくつかのボックス席、カウンター。ものの見事な水商売のお席。
 が、驚くべきところはそこではない。
 壁に貼り付けられた男の人の写真。本日のナンバーワンみたいなことが書かれている。白いスーツを着た隻が、オレンジの明かりの元、柔らかく人好きのする笑顔を浮かべて壁に飾られている。
(えーっと、これはもしや、っつか、もしかして、いや、もしかしなくても)
「音羽があぁでも、私は歓迎するわよ。まぁ苦労することは目に見えてるんだけど、身体を売るよりはマシだと思って」
 呆然とする遊に、嫣然とした微笑をたたえて棗が言った。
「ようこそユトちゃん。界隈ナンバーワンのホストクラブ、<HOST FAMILY>へ」
 もう一度倒れてもいいですか神様。
 とりあえずなんとか昏倒することをこらえた遊は、それでも襲っためまいに、その場にしゃがみこまざるをえなかった。


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