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Stage 8. ここは君の場所だから 6


(静かだな)
 音羽は思った。家が奇妙な空気に包まれている。それは先日、遊が隻とのデートとやらから帰ってきた日からだった。遊の表情に精彩がないことには気付いていた。
 それが隻との間に何かあったためならば、隻を問い詰めればいいだけの話である。が、問題は件の日に遊は隻とだけではなく、他の音羽の兄弟達と同時に帰宅し、そして自分を除く全員の顔から遊と同じように表情らしい表情が消えたということだった。
「いやぁ今日もよい天気ですねぇーあっはっはー」
 と、日々朝から、爽やかに笑いながら、扇でわが身を扇いでいるのは集のみ。あの叶ですら、どこか静かで、最近の朝食時は会話らしい会話もなく、皆黙々と箸を動かしていた。
 そんな経緯があったものだから、驚きはしたが、どこかやはりという風に納得はできた。
『――というわけで、大丈夫なんか?ユトちゃん』
 盆明け、遊がアルバイトに出かけたその後で、その彼女のアルバイト先から、電話で彼女の病欠を聞かされたときは。


「内密の話、ということでしたよね?」
 商談に頻繁につかうなじみの喫茶店の、奥の席を陣取り、集は微笑んだ。
 相手はいわずもがな、糸目だった。笑うと一層引き立つ細い目尻を歪めて、商談相手は集の問いに笑みを返した。
「そうですね。その辺りは私のミスですので、貸し一ということにしていただいてかまいません」
 アイスコーヒーの入ったグラスから結露した水滴が零れて、テーブルの上に水溜りを作っている。そこに写った糸目の笑みは、僅かに困惑の色を滲ませた。
「しかしですねぇ。私が御宅のお嬢様と偶然出会って、私に追及なされた際、お嬢様は既に事のほとんどを把握されていらっしゃいましたよ?私との会話は、単なる確認、というような様子でしたが」
 この男がわざわざ言い訳をするような人間ではないということを、集は知っていたし、集自身、この男の言う通りなのだろうと思っていた。今日、この男を呼び出したのは、それこそ単なる確認をするために過ぎない。
 子供達は、知ったのだろうと思っただけだ。
 あの少女が、妹尾家にきたそのいきさつを。


宝石店キャラメルボックスに飛び込むと、店内にいた全ての人間の視線が音羽に突き刺さった。息を切らした汗だくの人間が突如、静かな店内に踏み込んできたとあれば、それは当然の反応である。
 隻はダークグレーのスーツに身を包み、老夫婦の接客をしている最中のようであった。冷静な物腰は家業で身に付いたものだろうが、白ではなく、落ち着いた色合いのスーツを身につけ、柔らかな眼差しで商談をする男を、一体誰なのかと音羽は一瞬本気で思った。
 そういえば、何時からこの男は、こんな風に真面目にキャラメルボックスへ出勤するようになったのだろう。
 以前は遊び半分、逃げ半分だったということを、音羽は知っている。
 突き刺さる視線による居心地の悪さと、兄弟の見慣れぬ姿に対する困惑に思わず立ち尽くした。
 隻が、周囲の空気を怪訝に思ってか、顔は客に向けたまま、音羽を一瞥する。彼はこちらの存在を認めると、即座に客に断りを入れて、歩み寄ってきた。
「どうしたの音羽?ここに来るなんて珍しい」
 その言葉で、ようやっと音羽は何故自分が炎天下の中この場所に、わざわざ足を運んだのか思い出した。
「隻。遊が消えたぞ」
 刹那、隻の顔色が変わった。
「……どういうこと?」
「昌穂から、遊の病気の具合はどうなんだ、と電話がきた。だが今朝遊は確かにバイトに出ていた。夜、あいつホストクラブ[うちの店]の仕事、シフトを交代していたんだ。フロントの谷本に確認を取った」
 遊は責任感が強い女だ。どんなに体力的に余裕がなくとも夜の店の仕事には欠かさず入っていた。それが妹尾の家にいる条件だからだ。
 それなのに、無断でシフトをかえるなど。
 先日から家を満たしている異様な雰囲気を鑑みれば、自分の反応は、決して過剰なものではないはずだ。
 隻も即座、合点がいったのだろう。彼は黙って踵を返すと店の奥に戻っていった。ややおいて、彼は同僚と思われる男を伴い外にでてくる。客の引継ぎを手早く行って、隻は音羽の肩を叩いた。
「まず一度家に戻ろう。棗にひとまず連絡して。それから遊がお金をどれくらい持ち出したか調べるんだ」


棗が帰宅したとき、兄弟の全員が揃っていた。こんな深刻な様子で兄弟が全員顔をつき合わせるなど、何時ぶりだろう。スーツの上着を脱ぎながら、棗は嘆息しつつ兄弟達に尋ねた。
「やっぱり帰ってないのね」
「あぁ」
 頷いたのは、音羽だ。
 時刻は既に深夜零時を回っている。
 遊が消えたと、隻からメールを受け取ったのは昼間。仕事をすぐに切り上げて駆けつけたかったのだが、仕事の都合上それは不可能だった。きっちりと残業を押し付けられて、焦燥に歯噛みしながら帰宅したのだ。
「部屋の様子はどうだったの?」
「荷物はそのままだったよ。消えた服というものも特にないし。家出、というより急に思いたって、財布だけもって家を抜け出した、っていうそんなかんじかな」
 隻が神妙な面持ちで棗の問いに応じた。彼の憔悴の仕方をみると、気の毒になるほどだ。彼の言葉を引き継いで、叶が大きく嘆息する。
「つーまーりー。すぐ帰ってくるっていうかんじなんだよね」
「でも帰ってきてないのよね」
 叶は頷いて、表情を曇らせた。町中で、親とはぐれて迷子になったような、心細そうな眼差しで棗を見上げてくる。
「……ユトちゃんはすぐ帰ってくるよね?」
 彼は半分、遊が帰ってくると信じている。
 そして、半分、信じていない。
 いつか真砂が彼を置き去りにし、何もいわずに家を出たように。
 遊が帰ってこないという可能性に、彼は脅えている。
「大丈夫よ」
 棗は弟の頭に軽く手を添えて、微笑んだ。
「君が帰ってくるのを待ってたんだ棗」
 腰を下ろしたばかりの棗に、隻はそう言った。
「棗と俺とで、二手に分かれて心当たりを探したいんだ。何せ車を運転できるのが、棗と俺しかいない」
「集はどうしたの?」
「仕事中なのか連絡つかないよ。メールは打っておいたけどね。で、叶はこの家に残って連絡係」
「ええぇぇ!僕もユトちゃん探しにいく!音羽は隻と一緒にいくんでしょ?!僕だっていったっていいじゃんかー!」
「阿呆。お前だと夜中に一人で歩かせられないだろうが。自分が小学生だって思い出せ」
 隻の言葉を遮って反論した叶を、音羽が頬杖をついたまま一蹴する。
「こんなときばっか、子供扱いだ……」
 頬を膨らませながら呻く叶の胸中も、棗は判らないでもなかった。だが音羽の言うとおり、もし叶を連れて行くとなると効率が悪いのだ。行く先々で、自分達は遊のことだけではなく叶についても意識しておかなければならない。それならば、家で大人しくしてもらっているほうがずっといい。
「判ったわ」
 [むく]れる叶を横目に、棗は頷いた。
「それで、私はどこへ行けばいいの?」
「ユトちゃん家のお墓。このあいだの」
 判った、と頷きかけて。
「ちょっとまて」
 会話を遮ったのは音羽だった。
「……この間の墓?一体なんの話だ?」
 思わず押し黙る。
 棗は知らずのうちに視線で隻に助けを求めたが、彼は黙考しているのか瞼を閉じている。叶はことの次第を話してもいいのか、当惑を顕に、棗を見上げてきた。
「おい。お前らの様子がおかしかったことなんて、判ってることなんだよ。どうせ遊がこんな風に嘘をついて突然家からぬけだしたのも。それが関係してるんだろうが!」
 呆れと、憤りが込められた糾弾に、棗は返す言葉がない。沈黙の中で音羽のみが苛立たしげに立ち上がり、戸を乱暴に閉めて廊下へと出て行った。
 次に立ち上がったのは隻だ。車のキーを持って、彼は音羽の後を追う。居間から出る間際に一度振り返り、彼は微笑んだ。
「車の中で説明しておくよ」
 隻の足音が遠ざかり、玄関の戸の開閉音が聞こえる。
棗は嘆息しながら傍らの叶を見つめた。弟は頬を膨らませたまま、食卓の上に頬杖をついている。
 手元の車の鍵を握りなおして、棗は再び立ち上がった。
「……めずらしいよね」
「……何が?」
 留守番を命ぜられた弟は、ことのほか不機嫌そうだった。棗に対して視線を合わせることすらせず、彼は言葉だけを棗に投げた。
「だって音羽、あんなにイライラしてさ」
「理由わかんないの?」
 小馬鹿にしたように聞こえたのだろうか。叶はじろりと棗を睨め付け、わかるよ、といった。
「皆ユトちゃんが大好きだってことじゃないか。当たり前だろ?」


運転席に隻が乗り込んできた拍子、車体が僅かに揺れる。音羽は目を開くことなく、沈黙したまま、エンジンがかけられるのを待っていた。
だが、何時までたっても、車に熱が宿される気配はない。音羽は苛立ったまま瞼をこじ開け、視線のみを動かし隣の兄を見つめた。
 夏は折り返しを過ぎた。盆を過ぎ、日が落ちてからの暑さは、いつの間にか少し和らいでいた。しかし決して夜が涼しいというわけではない。まだ、こもったような暑さと、ねとりとした空気が全てを包む夜。兄はその暑さの中にあっても、汗一つかかず、涼しげな――むしろ凍えているような印象すら与える青白い顔で、フロントガラスの向こうを見つめていた。
 心配なのだろうとおもう。
 仕事を、無断で休んだ居候の少女が。
 定時になっても、家に戻らない少女が。
 心配なのだ。
 いつの間にか、自分達の心の中に、なんらかの形で棲み付いた少女が。
「さっきの話ね」
 ハンドルに額を預けて、隻は口を開いた。
「ユトちゃんのご両親を、うちの家が殺したんだっていう話」
「…………」
 思わず。
 目を丸めてしまった。
「はぁ?!どういうことだそれ!」
 隻の襟元を掴みあげて詰問する。兄はアハハと笑いながら諸手を挙げて、制止を促した。
「もちろん、本当に殺したわけじゃないよ?」
 音羽の手から襟首を取り返した隻は、車のキーを差し込んだ。かちりという鍵と鍵穴が噛み合う音。やや置いて響く、エンジン音。
「ユトちゃんのお母さんはね、うちのクラブの常連だったんだ。上客だった人の紹介で――まぁうちは、一見さんお断りの会員制なわけだから、身元はしっかりしてないとこられないわけだけど」
 集がオーナーである、妹尾家の家業のホストクラブ。元々は緑子と真の二人で興したクラブであり、緑子の意向で最高のもてなしを客に提供するために会員制をとっている。客は会員の誰かに紹介されて、初めて店内に足を踏み入れる。個人で訪れるためには、特例をのぞいて客は会員にならなければならない。店内ではプライバシー維持の関係上偽名を名乗ることは許されるが、会員となるためには戸籍に仕事、年収、銀行口座の残金まで調べ上げられる。
 その会員の中に、遊の母親がいたという。
「僕も覚えてるけど、どこにでもいる中流家庭の奥さんって感じだったね」
 隻はそういうが、遊の面影のある女など、音羽はどう記憶をひっくり返しても思い出せなかった。
「会員になるときの査定は、ぎりぎりパスしたんだったと思う。一年ぐらいうちに来ていて、金銭的トラブルがあった。うちの家への借金は、旦那さん――つまりユトちゃんの父親が、金融から金を借りて、返済したらしいけれど、そっちの金融には利子も相まって多額の借金が残った。事故があってお亡くなりになったのは、そのあとみたいだ」
 遊の様子がおかしかったのは、この事実をなんらかの形で知ったからなのだろう。彼女が――たとえ、本人が夜半に帰宅、もしくはたった数日の外泊のつもりであったとしても――姿を消してしまったことも、そこに原因があるのは明白だった。
「……お前は何時、そのことを知ったんだ?」
 あの様子だと棗と叶も知っているのだろう。一人だけ蚊帳の外というものは、やはりいい気のしないものだ。だが一体何時、彼らはそのことを知ったのか。
「写真だよ」
 住宅街から抜けるためにハンドルを切りながら、隻は答えた。
「写真?」
「真砂ちゃんが、家に帰ってきた翌日だよ。集が遊の前の持ち物を持って帰ってきた。覚えてる?」
「……あぁ……」
 頷きながら、音羽は記憶を掘り起こした。集がお土産とのたまってどこからか持ち帰り遊に渡した、温州みかんのダンボール一杯に詰め込まれた、古びたがらくた。
 遊が、目元を潤ませながら、ありがとうを何度も繰り返していた。
「あの中にユトちゃんのご両親の写真があってね。どこかで見た顔だと思った。思い出すのには、多少時間は掛かったけれど。確認の為に真に無理を言って、集の書斎に忍び込ませてもらって、ファイルを調べた」
 音羽は、整理のせの字も見当たらない集の書斎の本棚を思い出した。自分も真砂の住所をあそこから探しあてるには随分苦労したし、真にも無理を言った。パソコンの中にデータが移されていなくて、ほっと胸を撫で下ろしたほどだ。後の集の反応を見るに、さして気にしていないようであったから、パソコンの中にデータを移すつもりはなかったのかもしれないが。
 何はともあれ、隻も、骨を折ったに違いない。
 ネオンサインと信号が、夜の街を煌々しく飾っている。窓の外に流れるテールランプの残像。
 それらを視界にいれながら、隻は淡々と言葉を続ける。
「……ずっと不思議には思ってたんだよね。音羽も疑問に思ったことはなかった?何故集が、親戚でもなければ、真砂ちゃんのように紫藤の家の抗争に巻き込まれたようでもないらしい……言ってみれば、赤の他人だ。あったこともなければ、接点も何もない少女。それをどこからか、気に入ったからの一言で拾ってきた。彼女の借金を肩代わりして、っていう名目でだよ?それも千円二千円の金額じゃなくて。集だからね、の一言で終わらせたけど。でも、疑問に思わなかった?」
「思わなかったはずがないだろうが」
 隻の問いにぶっきらぼうに音羽は答えた。
 遊が家に転がり込んできたとき、集に腹を立てた。何年も経ったとはいえど、真砂のこともあるというのに、また他人を家に放り込んだことに対して。
 真砂が妹尾家を出る間際の、あの神経を磨耗させる夏の日々を。失った家族への悲哀を、忘れたかのような父の無神経さに腹が立った。
 父の決定は絶対だ。どうしようもない。だから理由の追求を図ることはしなかった。
 だが、疑問に思わなかったはずはない。
「実はユトちゃんのご両親が負った借金に対するユトちゃんの返済義務は、法律的にいえば、ない。借金は、一切ないことになるんだ」
「……なんだって?」
 思わず身を乗り出して、音羽は声をあげていた。その音羽を一瞥して、隻は再び前方に集中する。
「俺も法律云々については詳しくわからないから、音羽に説明することはできない。けれども借金の形に売り飛ばされるなんていうやり方は、奴隷的拘束を禁じる憲法18条に違反していて、ユトちゃんのご両親は確かに返済の義務を持つけれども、当人が事故でお亡くなりになってるので、損害賠償責任および返済義務はユトちゃんに一切適用されない」
「重要なのは、遊には借金返済の義務がないということか」
「法律的に言えばっていっただろ」
 こほん、と咳払いをして兄は言い置いた。
「ただユトちゃんのお父さんが借りたところは、法律っていうものを堂々だかこそこそだか、なにはともあれ無視している筋のものだ。法律がどうあろうと、彼らは知ったことはないというだろう。まともな弁護士は簡単に買収されるか脅されるかだろうし、一介の女子高生でしかないユトちゃんに、弁護しやら法律やら、そのあたりを考えることはできない」
「ということは」
 借金はそのままなのか。
 そう続けようとした音羽を、隻の声が遮った。
「話は最後まできいて音羽。そこでしゃしゃりでてきたのが、集ってことなんだ」
 ハンドルを握りなおして、彼は続ける。
「ユトちゃんは同時に家族を亡くした。ユトちゃんには親戚がどうやら居ないみたいで、いわば天涯孤独の身だ。そして、ご両親の死因は事故。事故は本当に不慮の事故なのか、それとも心中なのかはっきりしない部分がある。その上借金」
 遊の両親をうちの家が殺したというのは、そういうことなのだ。
 直接的には殺してはいない。が、きっかけは与えた。
 真砂の恋が、緑子の死のきっかけを作った。それと同じように。
「真砂ちゃんが緑子さんの死を、自分のせいだって責めたように、もしかして集も、何かしら思うところがあったのかもしれない。ユトちゃんがうちに来た経緯は、そういう経緯ってことだよ」
 なるほど、と音羽は納得に頷いて、視線を隻から、前方へと移した。
 遊は、この経緯を知って、一体どう思ったのだろう。
 何を思って、この、他人ばかりの、孤独な町の中にいるのだろう。
「隻、俺たちは今どこへ向かってるんだ?」
 音羽は思い立って、隻に尋ねた。棗に墓地とやらに向かうよう指示していたのは知っていたが、自分達が一体どこへ向かっているのかは知らされていない。
 隻はハンドルを大きくきった。
「ユトちゃんの、実家」
 妹尾家に来る前に彼女が住んでいた家だよと、兄は言った。


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