BACK/TOP/NEXT

Stage 8. ここは君の場所だから 4


 磯鷲家の墓があるという墓地は、妹尾家から一つ県を越えた山奥の小さな寺院だった。盆近いせいか、駐車場はどこも埋まっており、棗は車を停める場所を探すのに少々苦労を強いられた。寺院の受付で、木桶と柄杓、そして箒を借りる。水を汲んで叶に持たせる。木桶を抱えた叶はよたよたした足取りで棗の横を歩きながら、不平を漏らし始めた。
「なんで僕がぁ」
「勝手についてきたのはあんたでしょ。それより静かに歩きなさいよ。皆お参りしているんだから」
 墓の場所のメモを頼りに墓を探し歩いているうちに、幾人かの供養帰りと見られる人々とすれ違った。中には子供連れもいて、母親が棗と似たり寄ったりの内容で子供を叱咤している。その様子を目にして、なんとなく棗は複雑な気分になった。実際、自分もあれぐらいの子供がいてもおかしくない年齢なのである。叶は弟だが、並んでいると親子に見られるのだろうか云々。
「あ、あれじゃない?」
 叶の声に、思考の海から引き戻された棗は、弟の指し示す墓石と自分のメモを見比べた。墓石に刻まれているのは確かに磯鷲の名。場所も確かだ。間違いない。
 時刻は既に日暮れに近い。棗は嘆息しながら、足元に注意を払いつつ歩を進めた。


「ユトちゃん……ユトちゃん起きて」
「ふぇ?」
 遊は、隻に揺り起こされて面を上げた。
 遊園地、ウォータースライダー、流れるプールと、続けて散々遊んだ疲れがでたのか、いつのまにか助手席で、麦藁帽子を抱え込んで眠りこけていたようだ。目を擦りながら周囲を確認する。だがどうやらそこは妹尾家宅でもなければ、どこぞの食事場所でも、ドライブインでもないようだった。
 山奥の、寺。
 寺である。
「……えー……っと、どこですかここ?」
「さ、降りてユトちゃん。足元に気をつけてね」
 シートベルトを外した隻は車のキーを抜くと、さっさと車から降りてしまった。遊が慌ててシートベルトを外しているうちに、いつの間にか助手席側に回った隻が、扉を開けてくれている。麦藁帽子を被り、隻の手を借りながら外へ出た遊は、それなりに車の埋まった駐車場と小さな寺。そしてその背後に広がる墓地。蜩が遠くで鳴いている。
「……ここで、何するんですか?」
 日は沈み、空は橙から群青へ塗り替えられようとしていた。その中で、樫木色の髪を風にさらしながら、隻は笑って言った。
「墓参りだよ」


「まぁこんなもんでしょ」
 墓の掃除を終え、一息ついた棗は、腰に手を当てながら綺麗に片付いた墓石を見下ろした。定期的に誰かが掃除していた形跡のある墓は片付いていて、棗が想像していたほど労力を強いられたわけではなかった。
 叶はかがみこんで、墓の両脇に生けた花束の角度を調整している。彼はできばえに満足したのか、一つ頷いて立ち上がると、面を上げて棗に尋ねてきた。
「僕知らなかったよ。棗がユトちゃんのお母さん達のお墓の場所知ってるなんて」
「私もつい最近知ったのよ」
 きっかけは、先日集の書斎で見つけた書類だ。
 あのファイルは丸ごとが遊に関する書類だった。その中に磯鷲夫婦を供養する際の契約書と、墓地の地図が入っていたのだ。墓の様子をみるに、ここは磯鷲家代々の墓のようで、荼毘に付した後、こちらに移したらしい。
 まったく、我が父ながら、人の心情に気配り細やかなのか、細やかでないのか、娘である棗ですら彼の人の心中は理解しがたい。
「ねぇ」
 手を合わせながら、叶が問う。
「どうして突然、ユトちゃんのご両親の墓参りにこようっておもったの?」
「……そりゃぁお盆前だし。土地によってはもうお盆の扱いのところもあるわけだし、日ごろお世話になっている妹分のご両親のお墓を参るのは不自然なことじゃないでしょ?」
「でも棗」
 目を見開いた叶は、棗をひたりと見上げて言った。
「それだったら、ユトちゃんを連れてきて、皆で来ればいいことじゃんか。でも棗は明らかにこそこそ、僕に隠れる形でここにこようとしてた」
 まったく。
 弟ながら、頭の回転の速さは侮れない。時折こういう形で思い知らされるのだ。今回は自分も、随分とボケていたけれど。
「あとであんた達も連れてこようと思ったわよ。でも私も偶然ここのお墓のことを知ったの。単なるうわさだとかそういう状態でぞろぞろ来るものでもないと思ったし、私一人で確認してから、集の了承を得てユトちゃんを連れてこようと思ったのよ」
「偶然……?」
「そうよ」
 棗は決然として頷いた。先ほど述べたことはほとんどが事実だ。単なる噂ではなく、契約書があるのだからここに埋葬されていることは確定済みだが、まず自分が確認をして、集に了承を得ることが先だと思った。
「何でお墓参りぐらいで、集の許可を得る必要があったのさ?」
「これを手配したのは集よ。了承を得るのはそれなりの礼儀ってもんじゃなくて?」
「手配したの、集なの?」
「そうよ」
 ぱちくりと目を瞬かせる叶に、何がそんなに奇妙なのかと棗は首を傾げた。そのとき、まだ気付いていなかったのだ。集が遊のご両親の墓の手配をする。そのことに矛盾を覚えない。それは、父とはいえ、集には得体の知れない部分が多いにあることを、知り尽くしているからこそだった。
 叶は一度なにか黙考するように視線を落としたが、すぐさま面を上げて、なおも棗に食い下がってきた。
「でもおかしいじゃんか」
「一体何が?!」
 苛立ちを募らせながら棗は尋ねた。一般の人間なら震え上がると友人が揶揄する棗の憤りの声音も、同じ血を分けた弟には何の影響ももたらさないらしく、対峙した叶は抑揚を殺した声で吐き捨てるように言った。
「たかだかお墓程度のことで、なんで棗はそんなに慎重になってるの?」
「……な」
「僕はお墓のことを馬鹿にしているわけじゃないよ。でもどうして、お墓参りする、それだけのことでそんなに慎重になってるのさ?みんなで参ればいいだけの話じゃんか。集だって別に反対しないだろ?」
 確かに。
 所詮墓参り。その程度で。
 どうしてこんなにも自分は慎重になっているのか。
 それは。
 氷のとけかけたアイスコーヒー。
 グラスの縁についた水滴に映りこんだ、男の薄い笑いが蘇る。
『口外無用で』
「まぁ確かに、どうして集がユトちゃんのためにユトちゃんのお父さんとお母さんのお葬式の手配をしたのかは謎だけどさ……」
 蜩が鳴いている。
 遠くで、夏の長い夕暮れを、賛歌する。
『棗ねーさん』
 あの子はとても頑張ってるわ。
 あの子の泣いたところを、私はまだ見たことがないのよ。
 この家の誰もがあの子を受け入れ好いている。
 お人よしで、そのせいかトラブルメーカーで。
 そして、とても優しい子だけど。
 本当にあの子は強いのかしら。
 昔、真砂がそうであったように。
 あの子も、必死に己を叱咤して、立っているだけなのじゃないかしら。
 それなのに。
 私達の家が、あの子の両親を殺したも同然なのかもしれないのよ。
「ねぇ棗」
 棗ははっと我に返って、声の主を見下ろした。子供とは思えないほど大人びた目をした少年は、静かに墓石を見下ろしている。
 彼は唇を一度引き結び、表情を引き締めて言った。
「ユトちゃんにとって大切なことなら、僕にも話してよ」
 その瞳には、曇りも、迷いも、揺らぎもなにもなく。
 弟は、何らかの確信をもって、真っ直ぐに自分を見上げ、語りかけてきていた。
「僕は子供だけど」
 やや間をおいて、叶は続けた。
「幼稚園児ではないんだよ。棗」
 彼は、少し寂しそうに微笑んだ。
「真砂お姉ちゃんのときみたいに、もう、のけものは嫌だからね」
 真砂のときは。
 のけものにしたわけではないのだと、棗は言いたい。
 当時彼は、子供だった。ことの分別すらつかない子供だった。だから自分達兄弟は、彼に詳細を改めて説明はしなかった。
 叶もそれは承知しているはずだ。おそらく叶の言葉の意味するところは、子供は子供でも、分別やもののわからない存在ではないというところだろう。
 嘆息しながら棗は空を仰いだ。既に日は落ちている。この場を離れなければならない時間だった。
 ただ、もし叶に語るのだとするのなら、今このときが最後のチャンスだろう。
「……叶」
「何?」
 首を傾げて応じてくる弟に、棗は嘆息混じりに尋ねた。
「あんた遊のことどう思ってるわけ?」
「……は?どうって……」
 質問の内容が抽象過ぎてわかりかねているらしい。例を挙げるつもりで、棗は続きを口にした。
「私はあの子のことが凄く可愛いの。私に対して、嫉妬とか、恐れとか、そういったものを抱かず笑いかけてくれた人なんて、ごく知れてるわ。遊は、私にとってそんな人間の一人なのよ」
 整いすぎた容貌に体躯。与えられた叡智。
 金銭は不自由どころか恵まれているほうだと思う。天は二物を与えず。その通説を簡単に覆せてしまうものを、自分は生まれながらに与えられていた。
 ただ、その代償はそれなりにあった。羨望と嫉妬の眼差しにさらされ、常にどこか孤独だった。公には出来ない実家。風変わりな親族。それらも孤独に拍車をかける。人が恐ろしく、憎かったころもある。ごく普通に笑いかけてくれる人は数えるほどだった。
 自分は、昌穂や恋人、その周囲の人たちが居る分だけ、まだ他の兄弟達ほど孤独ではないにしろ、そういった存在は貴重だ。
 だから、いつでも愚痴なりなんなり聞きますよ、だなんて。
 くったくなく笑って、自分を姉みたいに頼ってくれる遊が、愛らしい。
「あの子が泣いていたら、私は力になるわ。私にとって、妹のような、親友のような。とても大事な子の一人だもの」
 笑って家事をこなし、ひたすら前へ進むあの子は、ある種憧憬すら抱かせるものだった。
 遊のひたむきさが、屈強さが、妹尾家の錆び付いていた時を動かし始めた。
 彼女はこの家にとってもうなくてはならない、家族の一人で。
 彼女がもし立ち止まらなければならないときは、自分が支えることを、既に棗は決めている。
「ユトちゃんってさぁ、不器用じゃんかぁ」
 そう切り出した叶は、つま先で足先の小石を軽く蹴った。
「不器用?」
「そう。自分からさぁ。なんか突っ込まなくてもいい他人の問題にばかばかぶち当たっていくみたいだし。最初は一緒に住んでるから、そんな風に巻き込まれちゃうのかなって思ってたけど、ほら、日輪さんのなんかよく判らない問題にもぶつかっていたみたいだしさ、ユトちゃん」
 確かに、叶の指摘する通り、遊は彼女の周囲の人間の問題全てに巻き込まれているような気がする。それは度を越えたお人よしであることを彼女が指し示すと同時に、彼女が厄介ごとを上手に回避することができない、不器用さを露呈している。
「馬鹿みたいだって思った。僕に向かってさ。怒るわけでもなく、詰るわけでもなく、泣いたり怒ったりしなきゃいけないんだ、だとか、話なら何時だってきくからぁ、とか。他人まで手は回らないんだよっていいながら、一番に自分のことおざなりにして、真っ直ぐ僕のこと、問いただしたユトちゃんを、馬鹿みたいだって思った」
「叶」
「馬鹿みたいで、とっても、愛しいって思った」
 柔らかく。
 弟は微笑んでそういった。
 叶は常に子供らしい笑顔を振りまいている。けれどその笑いは、姉の自分からみても、常に作り物めいていた。愛らしい子供を演じるための笑顔だと、棗は知っている。
 瞼を閉じ、今まで見たことのない柔らかさで、はにかむように弟は微笑んでいた。心温まる何かを胸に抱くとき、人はそのような笑い方をする。
「馬鹿みたいなユトちゃんが、僕は大好きだよ」
 だから、と叶は続けた。
「僕は僕の知らないところで、ユトちゃんに関係することが起こっているのは、絶対嫌だ」
 棗は叶の手元に視線を落とした。
 拳が、小さく震えている。
 その拳に込められた、ささやかな、けれど決然とした弟の意思をみてとって、棗は静かに口を開いた。


BACK/TOP/NEXT