Stage 8. ここは君の場所だから 3
外に出ると同時、むっとした熱気が一瞬棗を店の中へと押し戻した。棗を追い立てるドアベルの音さえ、どこか精彩を欠いて聞こえる。腕に抱えた小さな花束も、強烈な日差しを前に萎縮しているように見えた。
「やぁねぇ。染みになるわ」
紫外線の強さに思わず嘆息が零れる。幸いなことに棗の肌にはそれらしきものはまだ浮き出てはおらず、二十代のころと寸分変わらぬ滑らかさを保っている。だがやはり学生のころに比べて、肌は疲れを反映するようになったのだ。全世代の乙女の敵である紫外線を、気にしないはずがない。
手でかさを作りながら日陰を選びつつ路肩に停めた車へと急いだ。鍵をあけ、助手席に先ほど買った花を放り込んで運転席につく。
と。
「墓参りにでもいくの?」
変声前の少年の声に、驚愕しながら棗は背後を顧みた。
「-―--っ!!叶!あんたいつから!」
「何時からって家からだよ?」
けろっとした顔でいってのける弟は、小悪魔の微笑を浮かべて肩をすくめた。いつの間にか後部座席に座していた弟は、くあ、と欠伸をするとくつろいだ様子で寝そべり始める。予めおいてある小さなクッションを引き寄せて枕代わりとすると、ほら、早く出してといわんばかりに、彼は横柄に手を振って見せた。
「ちょっと!何くつろいでんの勝手に!」
「いだだだだだっ!!」
腕を伸ばして弟の耳を引っ張りあげる。叶は棗の手を振り払うと、真っ赤になった耳を押さえながら涙目で叫んだ。
「なっ、なにすんだよっ!」
「何するの!はこっちの科白よ!」
こめかみに痛みを覚え、思わず頭を抱えながら、棗は叫んだ。
「あんた一体何やってんのこんなところでっ?!」
遊から頼まれていた家事を一通りこなした後、棗は確かに一人で家を後にしたはずである。後部座席をわざわざ確認したりなどはしなかったが――そこに人の気配などありはしなかった。
「ドライブいくなら僕も付いていこうと思って。暇だったし」
「宿題でもしてなさいよ!」
「だって皆出かけてるのに僕だけ留守番で勉強って嫌じゃんかぁ。だからこっそりこうやってトランクの中にもぐりこんだんだよ」
「友達と一緒に遊びにでもいけばいいでしょ!一体なんだって私の車にもぐりこむ必要があるわけ?!」
「だって普通についていくーっていったら、棗ドライブいくのやめるとか言いそうなんだもん。トランクの中凄く暑かったんだよ。揺れるし、気分最悪」
「だったらもぐりこむのやめなさいよ自業自得でしょ!」
「ねぇねぇそれよりもどこ行くの?その花、お墓参り用だよねぇ?」
棗の剣幕を意に介さず、興味津々といった様子で助手席の花を覗き込む叶に、棗は盛大にため息をついた。先ほど買い込んだ花束は、黄、白、海老茶色の菊を程よく盛り込んだ、まさしく墓参りか仏前に飾るかのどちらかにしか適用できないものだった。
「誰の墓参り?緑子さんは今度皆で行くはずだし」
訝る弟を横目で見やりつつ、どうしたものかと棗は考えあぐねた。もう大分家からは離れていて、今から叶を放り出しに引き返すとなると時間のロスが多すぎる。まだ棗の知り合いの中で、墓参りに行くような故人は母を除いて他おらず、適当な嘘をついたところで白日のもとに晒されるのは目に見えていた。
頭を抱えたすえに、棗は観念した。
「ユトちゃんの、ご両親よ」
「……は?」
こればかりは想像の範疇外だったのか、叶は悪戯げな笑顔を引っ込めて、長い睫毛を瞬かせた。
「……ユトちゃんの?棗知ってるの?お墓の場所」
「知ってるわ」
嘆息交じりに答えて、棗は叶の頭を後部座席の方へと押しやった。
「ほら、早く座ってシートベルトしなさい。出発するわよ」
「え?でも」
「いいから!日が暮れるまでには家に帰りたいんだから。それともここで道端に放り出してほしいの?」
凄みを利かせて呻くと、弟はやや納得のいかない様子ではあったが素直に頷いて見せた。そうやって、いつも普段から素直でいればいいのだ、と棗は胸中で毒づく。
もう、やんなっちゃうわ。
自分の迂闊さへのぼやきを喉の奥に押しとどめると、棗はキーを入れてエンジンをかけた。
「ひーやっほぉおおおおぉおおぉぃ!」
ばしゃ-----------んっっっ!!!
夏といえばプール。そう、そうに決まっている。
遊は水の中に落下しながらそう思った。炎天下の中カラーリングされたアスファルトの上を闊歩した、つまり遊園地を歩き回った後では特に。いや、遊園地も相当楽しかったのだが。
本日朝、念入りにエステしてくださったオネエ様ごめんなさい。水面に浮上しながら遊はこっそり胸中で謝罪をした。あの超念入りに身体を磨いてくださったお姉様は、おそらくプールにいって汗を流すなんていうのは想定外だっただろう。現に最初にこの遊園地付属のプールに来たいとねだった時は、隻もそれは想定していなかったというような顔を力いっぱいしていたし。
水着といったものは一切持ってきてはいなかったが、そこは気前のよいお兄さんが、ぽんとカウンターの傍で売っていた少し割高の水着を買ってくれた。デパートで買うような可愛らしいものとはかけ離れた、スタンダードな形である。胸の前に灰色で英字をもじったロゴマークがプリントされているだけのもので、たかだか遊園地で売っているプールの癖にかなり品物的にはよいものだった。ほかにも可愛らしい種類の水着はあるにはあったのだが、学期明けから始まる学校の水泳の授業でも使えるようにと、遊はわざとこれを選んだ。どうせ、水着は買わなければと思っていたのだ。
想定外なのはこのオソロシイ人ごみだが。
「仕方ないよねこの暑さじゃ」
遊園地が駐車場に並んでいた車の数ほど混雑していなかったのは、皆が併設されている屋外プールのほうに流れていたかららしい。遊の高校がまるまる入るほどの広い敷地に作られたプールには、これでもかというほどに人がひしめき合っている。泳いでいる、というよりも、皆、空間を奪い合いながら水遊びをしているといったほうが正しい。スピーカーから流れる音楽を打ち消すほどの笑い声がプールを包み込んでいる。遊は顔に張り付いた前髪をよけながら、プールサイドに上がった。
「隻ニーサンは入らないのー?」
ウォータースライダーに行ってくる、とプールサイドを駆け出した遊を、ひらひらと手を振って見送った隻は、現在パラソルの下にいる。
「いや、泳ぎにはいくよもちろん」
そういっても動く気配を見せない隻の横にちょこんと腰を下ろして、遊は眉根を寄せた。
「ホント?」
「ホントホント。実際ユトちゃんがあっち行ってるときには入ってたよ。濡れてるでしょ」
「確かに」
水も滴るいい男、というのはおそらく妹尾家兄弟の為にあるに違いない。この暑さでほとんど渇いてはいるが、確かによくよく観察すると、肌に水滴が跡を作っている。それが太陽の光を反射して、影の中で宝石のほうに光る。うーん綺麗だ。純粋な感想を喉の奥に押しとどめていると、隻が疲れたように肩を落とした。
「どうしたんですか?ニーサン。もしかしてやっぱりプールも苦手でした?」
「いや、プールは全然苦手じゃないよ。楽しいし。苦手なのは、あれかなぁ」
「アレ?」
隻が苦笑しながら指差した先は、プールに浸かって遊んでいる――風を装ってひっきりなしに眼差しを隻に投げかけている乙女達だった。
「うわぁぉ……」
遊自身があの大衆の中にいたときは全く気付かなかったが、太陽の光も顔負けなほどに、ぎんぎんぎらぎらと目を輝かせている。獣が獲物を狙うがごとし。
「つままれますね」
「つままれるねぇ」
一人で突っ込めば喰われることは想像に硬くない。
「てか、あれぐらいニーサンだったらあしらえるんじゃないですか?」
「いやそりゃ指で数えられるぐらいの人数だったら、睨み返せばすむことだけど、さすがにあの中に一人で突っ込んでいく気力はないね」
「おぉ。ニーサンにも苦手なものが!ジェットコースターに続いて!二つも!」
「てかあれはさすがにマフィアやカモッラや元KGBや各国大統領閣下だってヒクとおもうよ」
はははと渇いた笑いを浮かべて隻。まったくっすよね、と遊も渇いた笑い声を盛大に響かせた。その異様な光景にか、横を通り過ぎていた幼稚園ぐらいの男の子がびくりと身をすくませる。
「それに」
笑いを収めた隻はぽん、と自らの手を、傍らの遊の頭に乗せた。
「こちらに大事なお姫様がいらっしゃいますしね」
その優しい微笑を上目遣いに見上げた遊は、照れくささに思わず俯いた。
なんとなく。
判ったような気がする。うぬぼれているのかもしれないが。
多分あの中に行かないのは、遊が嫉妬を買って、ドサクサに紛れてトラブルに巻き込まれないためなのではないかな、とか。
「楽しい?」
出し抜けな隻からの問いに、遊はもちろん、と笑った。
「楽しいっすよ。なんか全開で遊んでるって感じがして」
この群集だけは勘弁願いたいが、それはおそらくここにいる誰もが思っていることであろうし、逆に皆の騒がしい声に遊を高揚させる何かがある。朝のお姉様方による可愛がりは別として、昼は美味しいものを食べさせてもらっているし、遊園地では盛大に騒いでいる。そしてこのプールだ。これだけ遊んでいて楽しくない人間などいないだろう。
「よかった」
微笑んで、隻が続ける。
「本当は少し悔しかったんだよね」
「は?何が?」
「いやほら。琴子さんから音羽がユトちゃんにプレゼントあげたんだーってきいて」
例のハンカチのことか。
というか、情報漏洩元はやはりあの夜の女王でしたか。
ほほほという間延びした、けれど食えない琴子の微笑を脳裏から追い払いながら、遊は隻の言葉に耳を傾ける。
「なんか抜け駆けされた!って感じでさー。だからまぁ……」
肩をすくめながら、隻が視線をめぐらせる。言葉に一度詰まると、彼は微笑んだ。
「楽しいなら、よかった」
「……ありがとうございます」
照れくささに頭をかきながら、遊は頭を下げた。どういたしまして、と無邪気に笑う隻が、あまりにも眩しすぎたからだった。
「でも私、隻ニーサンとは恋人同士とかそういうのにはなれませんよ。言っておきますけど」
申し訳ないような気分になりながら、遊は告白した。ここまで優しくされれば、隻の胡散臭い愛情表現も本物だということぐらい、さすがの遊でも理解できる。
「……それは一緒に住んでいるからかな?」
おそらく、真砂のことを踏まえてだろう。隻が問うてきた。答え方如何によっては、今すぐ家をでるとでも言いかねない静かな迫力が滲んでいた。
「ううん。そういうんじゃないんだ」
遊は否定した。一緒に住んでいるから恋愛感情はご法度だと、そういうこともあるにはある。真砂の件がそれを遊に再認識させたのは確かだ。
だがそれ以上に、遊がどうしても隻に対して恋愛感情をもてないのだ。
「なんか、隻ニーサンは、ニーサンなんだよ」
今まで一人っ子であったが故、遊にも兄弟に対しての願望というものが少なくともあった。
それが、自分を存分に甘やかしてくれる兄であったり姉であったり、ただ愛らしいだけの妹であったり――現実にはそんな形の兄弟はほとんど皆無だろう。
隻は、理想の恋人、というよりも、遊にとって理想のお兄さん。
それで、終わりなのだ。
それをどう噛み砕いて説明しようか、遊は考えあぐねた。遊は隻のことは好きだった。隻には人間として非常に足りない部分があることも、一般の大人以上に、時折子供じみた部分があることも知っている。だがそれを踏まえても、十分に好きだった。これだけ甘やかされて、可愛がられて、好きにならないほうがおかしい。
だが、遊の隻に対する好意は、親愛の情を決して越えることはないだろう。少なくとも、当面。それは、断言することができた。もしかしたら、遊がかつて年頃の男の子と恋愛経験があれば、隻の愛情がどれほど愛しいものであるのか判り、それ以上に発展するのかもしれない。また、恋愛経験がなくても、恋に一身にあこがれるような少女であったのなら、隻との恋に身を任せるだろう。
だが、遊はそのような人間ではなかった。
恋愛というものが上手くわからない、おこちゃまなのだ。
それをどう説明するべきか。出来ることなら、このおにいちゃんと妹みたいな関係はやめたくないし、甘やかされるのも――時折度が過ぎるものを除けば――嫌いではない。胸中を吐露して、今までの関係ががらりと変わってしまうのも、遊は嫌だった。
それは、とてもわがままなのだろうけれども。
あぁ。
そんな顔はしないでほしい。
少女の横顔を眺めながら、隻は切にそう思った。
遊の感情は理解している。それはかつて、自分が真砂に抱いていた感情に等しいからだ。あの頃は、真砂に対してとった行動そのものが、こんな風に胸を締め付ける過去となって自分を苛むと、隻は思っていなかった。
年齢。経験の差。今まで生きてきた世界の差。そういったものが全て溝となって自分と彼女の間には横たわっている。遊は自分を恋人として愛さない。万が一、愛するようになったとしても、それはずっとずっと後になるだろう。
長男に生まれたことを、これほど嘆いたことはなかった。音羽と同じか、近い年齢なら、きっと少女を抱きしめることができた。
少女はまだ、困惑の表情で、言うべき言葉を探している。
そんな風に困らせたいわけではないんだ、遊。
隻は思った。
幸せに笑っていてほしいんだ。自分は踏み台でいいから。いつか君に恋を気付かせるためだけのものでも、もうかまわなかった。それだけの価値が、少女にはある。沢山のことを教えられた。少女の呆れるほどの鈍さに。嘘をついて誤魔化すことすらできぬ不器用さに。
そして自分は、少女のそういう部分を愛したのだ。
自分が――自分達が持たなかった、純粋さ。屈強さ。無謀さ。そして、勇敢さ。
年相応の若者らしく、無謀に正義を振りかざすことのできる無謀さと勇敢さ。誰も切り捨てることのできない弱さと、切り捨てずに向き合おうとする強さ。自分を誤魔化すことの知らない、不器用さ。
そんなものが、愛しかったのだ。
そんなものが、温かすぎて、泣けたんだよ遊。
もういいから。
もう苦しめないから。
ただ、ただこれだけは言わせて。
「ははははははははっ」
「ふぇっ?!」
突如笑いを弾けさせた隻は、遊の顔を指し示して言った。
「すごく面白い顔してるよユトちゃん。鏡で見てくる?」
「は、はい?」
「いいんだ。別に。ユトちゃんが気に病む必要はないんだ。ふられることはね……判っていたから」
少し寂しそうに、隻が言う。返す言葉が見つからず、黙って俯いた遊の顔を、彼は手の平で額を押して上げさせた。
「ただ、俺自身が、時折こんな風にユトちゃんを連れ出してあげたいし、俺自身が、君の迷惑にならない程度に、これからも甘やかす。……それで、いいよね?」
「隻兄あのね」
「遊」
遊の言葉を遮って、隻が呼ぶ。時折、彼はこんな風に遊を呼んだ。優しい声だ。
それが、哀しい。
「俺にとって遊は、いろんな意味で恩人で、一緒に暮らす家族で、けれどそれ以上に、とても大切な女の子なんだ」
隻は瞑目して繰り返した。
「とても、大切な、女の子なんだ……」
「隻兄」
瞼を上げた隻は、肩をすくめて笑った。
「君にそれを押し付けるつもりは、ないよ。……それで……いいよね?」
恩人という意味がどういうことを指し示すのかはわかりかねたが、家族といってくれたことはとても嬉しかった。あの家に暮らす自分を、余所者ではないと、そういってくれているのだから。
かつて、手に入れてみせると傲慢に、嫣然と微笑んでいた人は、そこにいなかった。
簡単に人を切り捨てて、孤高の砦の向こうにいた美しい人はいなかった。
そこにいたのは、相手を思いやって言葉を紡ぐ、ただの優しく、綺麗なひとだった。
「いいよね?」
もう一度、隻が念を押す。
「うん」
遊は頷いた。
「……これからも宜しくお願いします。隻兄」