BACK/TOP/NEXT

Stage 8. ここは君の場所だから 2


「でぇとぉおおおぉおおぉ?!」
 妹尾家の居間、そうめんを囲んだ昼食の席。
 箸で挟んでいたそうめんをつゆの中にぼちゃぼちゃと落としながら、叶が叫んだ。
「ちょっと汚いわね。行儀が悪いわよ」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。なんでなんでなんで隻なの?僕だってユトちゃんとデートしたいよ!」
「そんなこと私にいわずに本人にいいなさいよ。なんだかしらないけど、隻が必死にモーションかけてユトちゃんはOKしたらしいわ」
 隻の報告の確認をとるために、遊に尋ねると、確かに承諾しましたよ、という肯定と呆れ笑いが返ってきた。
 隻のことだからかなり強引に誘ったのだろう。遊の笑いから安易に想像できる。それにしても、あの兄があれほどまで入れ込むようになるなどと、集が夜半唐突にあの少女を連れてきた際、誰が想像できただろう。棗はあうあう嘆いている弟の顔を眺めながら、ぼんやりと思った。
「うわーん今日せっかくのお休みなのにぃいいぃー暇なのにユトちゃんと遊ぼうとおもったのにぃー」
 叶は蝉の声にもまけず、わんわん騒ぎ立てている。扇風機が起こす風を身体にうけながら、棗は小さく嘆息して呻いた。
「子供は子供らしく外で子供同士で遊んできなさいよ」
「いつも子供らしく遊んでるよーだ」
 子供らしく、の部分にアクセントを置いて、叶が反論する。
「だからこそたまにはユトちゃんと遊びたいなと思うわけで」
「あんた夏休みの宿題は?」
 弟の言葉を遮って冷静に尋ねた。ゆとり教育云々あれど、小学生の夏休みに宿題がないわけではない。確か彼もある程度厚みのある問題集をもちかえっていたはずだ。
 叶は顔を横に逸らして、半眼で呻く。
「……マダカナ」
「やっときなさいよ。すぐ出来るんだから」
 叶も決して頭が悪いわけではない。学期末に持ち帰られる通信簿や、定期テストの結果からもそれは明白だ。あの程度の量、終わらせることなど造作もないだろう。
「すぐ出来るからこそ夏休み最後の日にまとめてやって、ゆーいぎに夏休みを過ごしてるんだよ」
「毎年はそれでいいかもしれないけど、今年はユトちゃんと夏休み思い出作りたいんだったら、あいている時間にまとめて終わらせたほうが有意義ってもんじゃないの?」
「それはそうだけどさー」
 なおもぶつぶつと不平をもらす弟を無視して、棗は縁側に視線を投げた。
 外は今朝棗が干したばかりの洗濯物がはためいている。家事、お願いします。申し訳なさそうに頭を下げる少女の頼みを、棗は快諾した。遊は本当によくやっているとはおもうし、時折子供のように遊んでもいいと、棗はかねてから思っていた。
 隻が遊び相手、という点はいまいち気に入らないが。
 遊は本当に頑張っている。頑張りすぎているといっていいほど、わき目も降らず走り続けて。
『……まぁそういうことですので』
 棗は瞼を下ろしながら、脳裏に蘇った男の声に耳を傾けた。
『口外無用でお願いいたしますよ』
(言える訳ないじゃないの)
 張り詰めた糸は容易に切れるものだ。
 全てに鋏を入れるようなまねを、この私がするとでも。
「叶、あんたもしかして今日暇なの?」
「んー?だからさっきからそういってるよね?僕」
「そ。じゃぁあんた私のかわりに洗濯物取り込んで畳んでおいてね」
「…………はぁぁぁあぁ?!」
 弟は不満の二文字を顔に貼り付けて、盛大に呻いた。
「今日一日休みだっていってたじゃんか棗!」
「出かけることにしたのよ」
「どこだよ!」
「どこでもいいでしょうが」
 立ち上がりながら棗は弟に言い置いた。昌穂のところへ行くといえば遊びに行くのか、と口答えされるであろうし、唐突に東京へいく、というのも不自然だ。本家への挨拶を済ませてあることは、既に叶も知っている。暑さのためか思考がまとまらず、具合のいい言い訳が思いつかない。
「やだ!」
 大抵は引き下がる弟は、今日ばかりは執拗に拒絶を示した。
「ユトちゃんから仕事を受けたのは棗だよね!朝だってユトちゃんに一日中家にいるって言ってたの僕知ってるんだからね!ちゃんと理由いってくれないと、引き受けるのはやだ!」
 隻に抜け駆けされたことがそこまで悔しかったのだろうか。叶は早口にまくし立てると、そうめんつゆの入った硝子の器を手にとって、そっぽを向いた。頬を膨らませながらそうめんをつるるるとすするというなんとも器用な芸当をやってみせる弟の横顔を眺めながら、棗は幾度目かの嘆息を零さなければならなかった。叶のいうことはもっともなことである。
 結局、棗は按排のいい言い訳を思いつくことができず、家事を一通り済ませてから出かけることにしたのだった。


普段、目にすることのない景色。はるか眼下には、人と思しき小さな粒が色の洪水をなして移動している。会場を包む音楽と、人々の笑い声。そして、背後から響く、歯車がゆっくりとかみ合っていく金属音。
 がこん、と。
 小さく身体が揺れた。
 刹那。
 ごぉおおおぉおおぉおおおおおぉおぉおおおおぉおおおおおおお
 風を切る音が唸りのように遊と隻の周囲を取り巻いていた。
「ひやははははははははははははっ!!!!!!!」
「うわぁああぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁああぁあああ-------------っ!!!!!!」
 手足をじたばたさせつつ、けたけたと甲高く笑い声を上げる遊の横では、隻が必死に安全バーを握り締めて絶叫している。その形相たるや。いや、コメントするのはよしておこう。ひとまず普段のオトコマエっぷりが台無しですよ、と遊は笑いをさらに高らかに響かせた。
「ぎゃははっははははははははっはは!!!!!」
「あぁぁぁああああああああああぁぁぁぁ…………」


「ありがとうございましたー」
 フリーフォール係の気のない挨拶を背に受けながら、遊は隻を支えた。妹尾家のご長男様にも苦手なものはあったらしい。よろよろとおぼつかない足取りで歩く隻は、虚ろな視線を彷徨わせている。
「本当に大丈夫なんですかニーサン?」
 遊が見るに見かねて尋ねると、隻はぎこちなく微笑みをつくろって手を振った。
「平気なことは平気だけど……」
「いやぁ平気そうな顔はしてないですけどね」
 隻の顔は蒼白を通り越して、文字通り真っ白なのである。隻がここまで所謂絶叫物が駄目だと知っていたら、遊はかつての棗のように絶叫マシーン制覇などに乗り出さなかっただろう。この遊園地に並ぶ絶叫マシーンはあの遊園地のそれよりも数段生易しいものばかりなのだが。
 どうしたものか、と遊は空を仰いだ。夏真っ盛り。これでもかというほどの青い空と肌に痛い眩しい日差し。眩しさに目を細めて、手に持っていた麦藁帽子を被りなおす。あまりの暑さに閉口していた遊に、隻が昼間買い与えた真新しい麦藁帽子からは、干草特有の香ばしい、どこか郷愁をかきたてる匂いがした。
「とりあえずここに座っててください」
 たどり着いたベンチを指しながら、遊は隻に言い置いた。隻は反論することなく、素直に遊の指示に従う。ベンチに腰を下ろし、顔を手で覆いつつ、病人の如く呻いている隻を確認すると、遊はさっと周囲を一瞥して自動販売機を探した。目的のものを認めると、小走りで駆け寄る。
 緑茶の缶を二本を買って戻ると、幾分か顔色のよくなった隻が顔をあげた。
「いくらだった?」
「いいですよこれぐらい。他全部ニーサンのおごりなんで、これぐらいは払わせてください」
 デートの料金は全部隻のおごりで、とはデートの最初に確認した事項の一つである。無論、遊ではなく隻がそうさせてくれ、と言い出してきたのだった。遊が隻のわがままに付き合うのだから、と彼は一歩も譲らず、結局遊の経済事情が非常に厳しい状態にあることもふまえて、そういうことにおちついた。が、お茶の缶一本奢る程度のお小遣いなら、さすがに遊も持ち合わせている。
「絶叫物、苦手なら苦手っていってくれればよかったのに」
 遊は隻の傍らに腰を下ろしながら呟いた。確かに一本目のジェットコースターに乗った辺りから、隻がやけに静かで顔色が優れないとはおもったが、この暑さのせいもあるのかとおもっていた。実際体調を尋ねても隻は大丈夫の一点張りだったのである。絶叫を上げてくれたフリーフォールでようやっと、隻がそういったものが苦手であるということが発覚したのだった。
「いや俺も、絶叫物が苦手だって実は知らなかった」
 面を上げ、お茶の缶に口をつけながら、隻が苦笑する。
「はぁ?」
「だってほら。俺こういうの乗ったことないんだよね。というか実際遊園地に遊びに来たこと自体が初めてで」
「…………え?マジ?」
「マジマジ。いや遊園地に来たことはあるよ無論。でも遊び目的っていうよりも、友達の付き合いだったり、仕事上こういう場所も知っておかなければならないっていう義務みたいなものだったんで、あまり乗り物自体には乗ったことがなかったんだ」
「じゃぁもしかしてジェットコースター初めて?」
「うーん今日乗ったものは大抵がはじめてのものばかりだね。ユトちゃんよく楽しげに乗れるねぇ……」
 感心されているんだか呆れられているんだか。隻は間延びした口調で遊にそう述べた。ひとまず褒められたことにしておいて、遊は自分の缶のプルトップを開ける。
「でも、苦手っていうのはジェットコースターのった時点で気が付いたんじゃないですか?青い顔してたし」
「でもユトちゃん楽しそうだったし。俺一人待ってるっていうのもなんだか嫌だったしね。ユトちゃんは楽しかったんでしょ?」
「えぇ。それは。もう。超絶」
 真顔で肯定を示しながら、遊は思った。こんなに馬鹿みたいに叫んで遊ぶのは何時ぶりだろう。妹尾家に来るよりももっと以前、中学の友達と、いや、小学校の頃だったか。
 こんな暮らしが始まる前の記憶は、かすみがかったように曖昧だ。まだ一年もたっていないのに、家族と一緒に暮らして、ごくごく普通の――借金さえ背負っていなければ今も普通だが――女子高生だったころの記憶が、酷く遠いものに思えた。
「ならよかった」
 隻は微笑んだ。相好を崩すという表現そのままに。可愛い人だなぁと、遊は思った。年上に対して激しく失礼な表現かもしれないが。
 黙ってお茶を飲む隻の横顔は、いつもと変わらず彫像のそれのように整っている。それと相好くずれたお茶目な表情のギャップに、遊はなんだか心温かくなった。
「でも、なんかちょっと情けないような」
 大分落ち着きを取り戻した隻が、手元の缶に視線を落としながらため息をついた。
「何でですか?」
 お茶の缶から口を離して遊を、隻は当然じゃないかとでもいいたげな表情で見下ろしてきた。
「何でって。女の子とデートなのに男の俺がへばってるんだよ?情けないことこの上ない」
「苦手なんだから仕方がないじゃないですか」
「そういうものかなぁ?」
「そういうものっすよ」
 そうかなぁと引き続き首を捻る隻は、まだ納得のいかない様子だった。
 遊も花も恥らう乙女として、女々しいだけの男はさすがに遠慮願うが、隻はそうではないとはおもう。冷静さと判断力と、胆力をそれなりに兼ね備えている人間だとは思う。一方で、どこか臆病な面もみられるが、人付き合いに限られる。そしてそれは妹尾家の人間に共通するものだ。
「んーそうですねぇ。例えばぁ」
 女の子の癖にして遊が苦手なものを必死で考えた。可愛いものは基本すきだ。スカートは足が太いので履くこと自体は遠慮している。レース……度が過ぎなければ好きだ。綺麗なインテリアだとか小物だとかも。
「あ、私キチィーちゃん好きじゃないんですよ」
「へ?キチィーちゃん?」
「知りません?ほら猫をモチーフにしたマスコット」
「いやそれは知ってるけど。サントリオンの奴でしょ?」
 キチィーちゃん。下は幼児、上はおば様まで、幅広い年齢層の女子に愛されるサントリオン社発のマスコットキャラクターである。クラブの顧客のうち何人かも、そのキャラクター商品の収集が趣味だということを、遊は思い出していた。
「アレ私好きじゃないんですよ。女の子なのにですよ」
「別にそれはたいしたことないんじゃないの?女の子でもあのキャラクター好き嫌い分かれるってきいたけど」
「隻ニーサンがジェットコースター苦手なのは、私にとってその程度だってことです」
 なるほどね、と納得したんだか、納得していないのだか微妙な面持ちで隻が頷く。
「ありがと」
「どういたしまして」
 隻の微笑に遊も笑顔を返して、空っぽの缶片手に立ち上がった。
「ニーサンって泳げます?」
「は?何をいきなり?」
「泳ぐの好きです?」
「嫌いではないかな。泳げるよ。普通に。何で?」
 怪訝そうに首を傾げる隻に、遊は通りを挟んだ向こうに立てかけてある看板を指差した。子供の背丈ほどもあるそれは、やけに派手な色合いででかでかと矢印が描かれてある。その上には、スイミングプールはこちら、と書かれていた。
 夏特有の突き刺すような日差しを肌に感じながら、遊は言った。
「暑いんで、泳ぎません?」


BACK/TOP/NEXT