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Stage 8. ここは君の場所だから 1


「あんたもかい」
 紫藤[まな]の第一声に、棗は眉間に皺を刻まざるをえなかった。真の声音には明らかに険があって、なにやらうんざりしているような響があったのだ。大の男でも震え上がりそうな、ドスのきいたバリトンには、棗すら身を引かせる迫力があった。
「あんたもって……なんの話?」
 それでも堂々と向かい合ったのは、妹尾家の人間ならではだろう。
「音羽と隻だ。で、あーたは一体書斎にナンのようだよ。兄弟そろって」
「は?何のようって、集に頼まれた本を引き取りにきただけだけど」
 今日は書斎に立ち寄る暇がないので、代わりに書斎から持ってきてくれないか、と、集からメールが入ったのは仕事から上がる寸前だった。紫藤関連の屋敷の中で、妹尾家に一番なじみのある、緑子の生家、現在の真の屋敷に、集の書斎はある。
「あ?」
「書斎は真に開けてもらってくれってあるけど。ほら」
 集の書斎に入るためには、集自身がパスコードを入力するか、真が入力するかのどちらかしかない。
 証拠として携帯のフリップを開いて、メールをみせると、真はふむ、と顎をしゃくった。その姿には到底似つかわしくない仕草だった。
「……判った」
「何だったわけ?隻と音羽が……」
「気にすんな。集にはいうんじゃねぇぞ」
 ぴしゃりとした物言いに、棗は肩をすくめて真の後についた。幾度かすれ違う女中が、丁寧に頭を下げてくる。目の前の女は、一歩間違えれば悪趣味とも言われかねない、白いレース地のワンピースの裾を、綺麗に捌いて歩いていた。
 どうせ盆の挨拶もしなければならなかったし、と思い、集の使いついでにやってきたのだが、真は挨拶どころではないようだった。火のついていない煙草をくわえて、傍目からみても明白なほどに苛立ちをあらわにしている。どうやら先に訪ねていたらしい音羽と隻が原因のようだ。
 真が、縁側の終わりで立ち止まる。
 書斎への入り口は、一見突っつけば破れそうな障子戸であるが、うっかり押し入ればその向こうに張り巡らされた高熱電流の網に焼ききられる。縁側と中庭は野鳥などがもぐりこむのを防ぐために、硝子によって隔てられていた。
「あいたよ」
 壁の一部に取り付けられたコンソールのパネルに指をあわせ指紋照合をし、パネルを手際よく叩いた真が、そっけなくいって、踵を返した。
「居間にいるから帰りに寄りな。茶菓子ぐらいはだしてやる」
 挨拶によれ、ということだろう。無論、本を引き取るだけで帰るつもりはなかったが。
「ありがと」
 ひらひらと手を振る真を見送って、棗は書斎に足を踏みいれた。
 壁を囲む年季の入った本棚に国内外を含む様々な書物が収まっている以外は、取り立てて特別な部分も見当たらない簡素な和室だ。和風の書き物机に薄型のデスクトップがつながれている。その傍らには去年の正月にとった家族の写真と、緑子の若い頃の写真がそれぞれおかれていた。
 集からのメールで頼まれた本のタイトルを確認しながら、本棚を探っていく。全く、もう少し父は整理という言葉を知ったほうがいい。そう思わせるほどにでたらめな並べ方だった。
「あぁこれね……いたっ」
 本を引き抜いた瞬間、一緒に落下してきたブルーのクリアファイルを、棗はいまいましく睨め付けた。小指の先に角が直撃したのである。
 思わずしゃがみこんで小指を押さえつつ、クリアファイルの傍に落ちているCDケースを拾い上げた。ファイルの中に納まっていたもののようだが、一体どこにあったのやら。
「いったいどういう仕舞い方してるのよ集の奴……」
 CDケースに書かれた番号から、どこに仕舞われていたのかは判りそうだが、もう少し頑丈なファイルに収めれば、いやそもそも百円市場で購入してきたような薄っぺらいファイルに、CDを収めるなという話である。こういったものは、きちんとCD用の箱かなにかに入れておいてほしい。
 ファイルを繰りながらケースの場所を探していた棗は、ふと途中収められていた書類のサインに手を止めた。
「……これ」
 写真とCDロムがクリップで留められた書類を、棗は思わずファイルから引き出していた。
 紙五枚分の束に、CDロム。そして写真がクリップで留められている。
 書類のうち二枚は借用書だ。貸出人は集名義と、棗も見知らぬ男の名。借り受けの名義は、名前は違えども、姓はどちらも、磯鷲。
 その片方の名に、なぜか見覚えがある。見覚えなど、あるはずがないというのに。
 そして写真に写る顔は。
 この資料が意味するところを、棗は考えあぐねた。

 葉月も半ばに差し掛かる、その寸前のことだった。


「だぁめよぉ」
 遊の髪を弄っている女に口先を尖らせながら琴子が抗議の声をあげる。遊の髪に櫛を通す女も負けておらず、甘ったるい、けれども妙に凄みのきいた声できっぱりと応じた。
「いーのっ。こっちのほうが絶対かわいいもん!」
「だめ!ユトちゃんはシンプルにいくのが一番かわいいっ。そのかわりさりげなくアクセそろえてぇ」
「ねぇねぇ姐さんこれかわいくない?」
「スワロフのビーズアクセとプラチナチェーンとどっちがいい?」
「トップスによるわよねぇ…」
「こっちの黒いトップス?」
「きゃーこれかわいいレース銀で!」
「あ、ねぇこっちのペールグリーンはぁ?」
「オレンジのほうがよくない?」
「ミュール!ミュールもってきたやつ全部だしてー!」
「アンクは銀と金どっち?」
「そっちの箱にピンクゴールドのがはいってるよー?」
「……あのぅ」
 琴子を筆頭に周囲できゃいきゃいと騒ぐ女たちの香水の匂いにむせ返りそうになりつつ、遊は控えめに声を上げた。だが誰一人としてきく耳をもつ様子はない。当事者の意向は完璧に無視され、いまや遊は彼女らの着せ替え人形である。
 正月ですらカウントダウンイベントのために営業されている妹尾家ご主人運営のホストクラブは、どうやらその分をお盆に振り替えているらしい。只今クラブは商店街の店よりも少し早く、そして長い盆休みの真最中。宝石店キャラメル・ボックスの横にある階段の入り口には、妙に達筆な文字で休業中と記された桐の板がかけられていた。
 にもかかわらず、昼間から店内には明かりがともり、並べられたソファーの中でも取り分け客しか座れぬはずの特等席に、遊は今腰掛けていた。
 というよりも、座らされているのである。左右前後に加えて斜め、四方固めならぬ八方向を普段客として出入りしているご婦人方に固められ、動くなと厳命されている。遊に許されていることといえば、ご婦人方の指示に従って首を動かしたり手を差し出したり足を差し出したりすることのみだった。
 遊の周囲を固める女たちは、一見二十代前半、下手をすると遊と同年代に見える。が、実年齢は怖くて問えない。ほとんどが夜の世界で十年以上生きてきているプロか、ばりばりのキャリアウーマンだ。彼女らに年齢を問うのはご法度である。
 遊がその外見若々しいお姉様がたに拉致連行され、着せ替え人形役に任命されたのは今朝である。以前隻と交わした、遊びに行く約束。その当日のことだった。
 一体何を着ていこうと考えつつ、朝食の洗い物をしていた遊を、珍しく琴子が訪ねてきた。琴子は確かにクラブの常連の中でも特に遊と仲がよいといえるが、家まで訪ねてきたのは初めてのことである。彼女はそのまま問答無用で遊を拉致し、エステサロンのエステティシャンに遊を引き渡したのである。
 そのエステティシャンのお姉様も見覚えのあるクラブの常連で、合点承知の助で遊にたっぷり一時間かけてその腕前を披露。ふらふらになった遊を次に待っていたのが、この着せ替え人形ごっこであった。
 集まる女一人ひとりが何かしら服やらアクセサリーやらを携えており、それをとっかえひっかえ遊に着せ掛けている。足と手の爪は既に綺麗に塗られていた。それを行ったネイリストのお姉様は、さらにビーズ等で爪を飾りたかったようであるが、それは全力且つ丁重にお断りしておいた。飾ったところであちこちにぶつけてすぐに欠けさせてしまうのは目に見えている。ちなみに、悔しそうに彼女が遊の爪に塗った色は、ペティキュアに豪奢なゴールド。マニキュアに淡いピンクオレンジであった。
「ん。こんなものでしょう」
 遊が解放されたのは、正午を少し回った頃だった。どう?とお姉様の一人が開いた鏡の中に映る遊は、まるで別人のように飾り立てられている。服装だけ言及するなら、ファッション雑誌に出てくるモデルのようだ。トップスは銀の刺繍の入った、裾と襟に同じ色のレースをあしらったすっきりとしたキャミソール。その上にはマニキュアの色に合わせたらしい、明るいオレンジのサマーカーディガン。ジーンズはくるぶしの上で折り返してあり、太ももの上に蝶のプリントがなされている。ミュールはフォークロア調。歩きなれない遊を気遣ってか、ヒールは低く太め、ストラップでしっかり足首を固定する歩きやすいもの。髪は普通にワックスで少しはねさせるだけで落ち着いたらしい。髪を切って一、二ヶ月は経ったのだろうか。襟足の部分は大分延びてはいたものの、くくるまでには至らない。髪を弄っていた婦人が実に悔しそうにしていたが。
「……あのぅ……結局これは一体……」
 声をあげることをようやく許された遊は、感想よりもまず先に問いが口にでた。
 なんとなく、返って来るだろう回答は予想できていたのだが。
「あぁ茜君がね」
 やはりというかなんというか。
 首謀者は隻であるらしい。
 半眼になって嘆息している遊の耳に、琴子の忍び笑いが届いた。
「何がそんなにおかしいんですか琴子さま」
「いつも言ってるけどお店のとき以外は普通にさん付けでいいからね」
「はひ」
「そうそう。それで、その服とアクセはそのまま持って帰ってしまってかまわないから」
「……隻兄さんのおごりですか?」
「茜君?いいえ、違うわ」
 隻の本名に一瞬首を傾げかけた琴子が、そのまま横にそれを振る。年齢不詳の妖精の笑みを浮かべた彼女は、私たちから、と囁いた。
「とぉってもいいもの、見せてもらっちゃったから」
「いいもの?」
「うっふっふ、聞きたい?」
 にま、と笑ってみせる琴子とその背後で意味深に微笑するお姉様方に、遊は半ば反射的に身を引いていた。美女の微笑みほど恐ろしいものはなく、特にここに集まっている方々は男顔負けの勢いでばしばしに仕事をなさるお人たちである。その微笑には一体どんな裏が隠されているのやら判ったものではない。
「この間、茜君が私たちのところに来てね、うっれしそうにユトちゃんとデートするんだぁって言ってきたの」
「……なんであの人がナンバーワンホストなんですかねぇ?」
 客にそんなことを言いふらすなど、子供っぽさにもほどがあるだろう。というか、プロ根性零である。
「でね」
「はい」
「かわいい普段着、見繕ってやってくれないかって。男の自分じゃ感覚ずれてるところもあるだろうからって」
「はぁ」
 生返事を返しながら、男の感覚というよりは妹尾家の感覚ではないのだろうか、と遊は思う。過去二回、棗と隻にそれぞれ買い物に連れまわされたが、そのときの経済感覚の違いに恐怖すら抱いたことがある。趣味は恐ろしくよろしかったが、よろしすぎて真っ当な社会人でもまず手の出せないものばかりであったことは言及しておく。
「でね、でね、でね。ここからが大事なんだけどぉ。真っ赤に照れてそれを頼みに来たのぉ」
「……はぁぁあ?」
 琴子の言葉の意味は、すぐにわかった。どうして彼女がそれを面白がったのかも。
 想像できないが、想像できる。いやむしろ全く想像したくない。いくら若々しく見目麗しい男であっても、三十路超えたおっさんが頬染めて。
 いやーんもう子供みたいだったーあんな珍しいものが見えるなら一億だしたっておしくなぁーいわーきゃーと騒ぐお姉様方の声を意識の隅に追いやり、魂それ自体を飛ばしかけた遊は、ふっと肩に触れた琴子の手に引き戻された。
「ユトちゃん」
「はひ」
「茜君迎えに来たって」
 出入り口を、綺麗に飾られた彼女の爪が指し示す。がんばってねーという乙女たちの歓声を背後に、遊は妙に複雑な気分でデートをすることに至った経緯について思い返した。


「デートしようか」
「……はぁ?」
 真砂の件が一件落着した、数日後のことである。
 昌穂の店は本日休業。よって庭の草むしり、洗濯、布団干し、片付け、掃除を朝からあらかた片付け、ようやく一息つきながら居間のテーブルで宿題の残りに取り掛かっていた遊は、何をするわけでもなく遊の宿題するさまを眺めていた隻の一言に、これでもかというほど眉間に皺を寄せた。
「……うわユトちゃんすっごい顔」
「いやだってまた隻兄さんがアホなこと言ってるとおもって」
「……店一番のホスト捕まえておいていうことがこれだもんなぁ……」
「で、なんでまたデートなの?にーさん」
 三角関数の計算ミスに頭を痛めつつ、教科書と睨めっこ。そのため隻の顔は見えないが、おそらく不満そうな、かつ拗ねたような表情を浮かべているのだろう。
「夏だし」
 遊は面を上げた。テーブルに頬杖をついて微笑む彼は、今日もいつもと違わず見目麗しい。ロゴ入りのペールグリーンのTシャツと色あせたジーンズがこれでもかというほど良く似合う。
 これでも、三十超えたおっさんです。とてもではないですが信じられません。
 遊はあの世の両親に世の中の不公平さを訴えながら、鋭く隻に言い返した。
「夏だったらデートしなきゃいけないんですか」
「いやだって高校生の夏なんて短いよエンジョイしなきゃじゃん」
「阿呆ですか。私はやることが腐るほどあるんです」
「生き抜きもしなきゃまた倒れちゃうよ?」
「今度はもう倒れません」
 あれは知恵熱のようなものだったのだ、と、日輪の件の後のことを思い出し胸中で弁明する。隻はくすくすと笑み、先ほどとはうってかわった鋭い声音で一言付け足した。
「約束だったから」
 ちりん
 風鈴が生ぬるい夏の風に揺られて音を立てている。遊は面を上げて、首を傾げた。
「約束?」
 うん、と妹尾家長男は頷いて続けた。
「ほら、前」
「あーあれですか」
 遊が以前真砂のことを調べているとき、話を散々引っ張った上で隻がなんだかデートと引き換えだとか言っていたことを遊は思い出した。
「でもまぁ時効じゃないですか。真砂さんの件は一件落着したし」
「一件落着したから、お疲れ様でした会的意味合いで」
「そんなんだったら、真砂さんとかも呼んでみんなで行きましょうよ」
「デートって皆で行くもんじゃないでしょユトちゃん」
「ニーサンもせっかくの休日は寝て過ごしたらどうです?キャラメルボックスとクラブの平行で、いったい何時寝てるんですかお肌に悪いですよ」
「うん最近確かによく荒れるけど……ってユトちゃん変なこと言わせない」
 はぁーと嘆息しつつも、隻はどこか楽しそうだった。楽しげに傍にいられることを悪くおもうわけではない。
 ではないのだが。
「いこーいこーいこーいこーいこー遊びにいこうー」
「あぁぁぁぁああぁぁぁぁもううるさぁぁぁぁぁあい!!!」
 鸚鵡のように繰り返し催促されるとさすがに五月蝿い。
「判りました!いきますいきますから!」
 根負けしてそう叫んだ遊に、隻が破顔する。
 遊はがっくり肩を落としながら、廊下を指差した。
「昼寝でもして邪魔しないでください」
 隻は了解、と快諾して居間を後にする。その背中を見送りながら、遊は大きく嘆息を零したのだった。


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