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Stage 7. 雨に煙るは夏の 9


 顔を洗っていると、洗面所に真砂が入ってきた。
「……おはよう音羽君」
「……はよ」
 欠伸をかみ殺しながら応じ、場所を譲るべく身体をねじって廊下へすり抜けようとすると、真砂が小さく笑った。
「大きくなっちゃったなぁ」
「うん?」
「昔はこの洗面所に並んで入れたのに」
「……あー……」
 そういえば、そんなこともよくした。
 当時学生だった彼女と、登校時間はよく被っていたから。
「ねぇ音羽君。どうして私に、会おうっておもったの?」
 タオルを肩にひっかけ、真砂に洗面所を譲った音羽は、横から掛かった問いに自室へ向かう足を止めた。
「叶が会いたがっていたみたいだった」
「……そっか」
「それに」
 一度。
 音羽は逡巡した。何気なく口から零れた接続詞に、なんと続けようかと考えあぐねる。
 真砂は、首を傾げて音羽の言葉の続きを待っている。
 嘆息しながら、音羽は続けた。
「この家に泣いているやつがいると、首を突っ込みたがるアホがいるんだ」
 人が心のうちに秘める悲鳴を。
 なぜか簡単に聞き取って、お節介をやく少女が。
 真砂は、声を立てて笑った。
「それ、自分のこといってるの?」
 思わず絶句する。
 酷く心外だった。


「これはこれはこれは」
 温州みかんとかかれたダンボールを抱えた集は、帰宅するなり目を細めた。
 昨夜の隻や棗ほど硬直はしていないが、その分彼の反応が読めず、思わず箸を止めて硬直していた。
「あー音羽ソーセージ一本多いよ!」
「もぐもぐもぐ……」
「ちょっとあんた達、朝から取り合いしないでよガキじゃないんだから」
「僕小学生だって!」
「こういうときだけ子供の権利を主張しなくていいよ叶」
「あっひどい僕の卵焼き!せーきー!育ち盛りの弟にご飯を分け与えようとかそういう考えはないの?」
「あー五月蝿いわね。朝食ぐらい静かに食べなさいよ」
「ゆーとーちゃぁぁあぁあん……」
 というのは真砂と遊だけらしく、他の妹尾家の面々は気にした風もなく朝食争奪戦を行っている。量は十分にあるはずなのだが。
 傍らの叶にうるうる瞳で助けを求められても、どうすることもできない。
「……私の、あげようか?」
 とりあえず提案しておいた。
 ホント?と嬉しそうに笑い、遊の分の卵焼きをとるべく盛り皿に手を伸ばす叶が、棗に頭をはたかれる様子が視界の端に映る。
 賑やかな兄弟をひとまず無視して、遊は固唾を呑んで集と真砂を見守った。
「良かったですねぇ」
 予想の範疇ではあったが、集はさして気にした様子もなくそういった。
「帰ってこれたのですね。ワタクシ嬉しく思いますよ」
 真砂ははにかんだように微笑んだ。誰だってそうかもしれないが、笑えば随分と印象がよくなる。どこかあどけなさを引きずって、あの、仏間でみた写真の中の少女の面影を色濃く残していた。
 まだ、全てしこりが消えたわけではないけれども、きっと定期的にこの家に戻ってきて、彼女は失われた数年分の絆を取り戻していくのだろう。
「あ、ユトちゃんこちらオミヤです」
「は?私に?」
 突然集に話をふられて、遊は首を傾げた。集は頷いて、畳の上に抱えていたダンボールを置く。
「珍しいわね。お土産だなんて」
 漬物を口元に運びながら、棗がコメントした。
「俺達にも土産なんて買ってきてくれることは稀なのにね集」
「おや。何かお土産を買ってきてほしいんですか隻」
「……いやいらない」
 集の微笑が恐ろしい。彼の場合、土産を、と、せがめば確かに何かしら用意しそうだが、嫌がらせの域に達しているものを買ってきそうだ。
 何はともあれ。
 空っぽの茶碗を置いて、一足先にご馳走様を口にすると、遊は箸を置いて土産の傍に這い寄った。
 そして、絶句する。
「なにこれー?」
 遊の代わりに声をあげたのは、いつの間にか遊の横で箱の中身をのぞきこんでいた叶だった。
「ちょっと叶行儀悪いわよ」
 遊と同じく食事を終えたらしい棗が、叶の傍に歩み寄ってその頭を殴りつけた。相変わらずお姉様は容赦がない。
 彼女は腰を折って、箱の中に収められていた黄ばんだ本を手に取った。しばらく倉庫のような場所に放置されていたのか、埃すら被っている。
「……楽譜?」
「……これ」
 遊は古いアルバムを手に取りながら呟いた。
「これ、私の持ち物……」
「……え?」
 怪訝そうに目を瞬かせる棗に、集がしれっという。
「売れなかったものなので処分してくださいといわれましたので、引き取ってまいりました」
 どこから引き取ってきたんだ、ということはあえて訊かなかった。
 アルバムの中に、小さい頃からの自分の姿が写っている。幼稚園。小学校。中学校。
それから、久しく見ていない、両親の姿。
 アルバムを抱きしめて、遊は集に満面の笑みを返す。
「ありがとう集とーさん」
 集はまんざらでもないのか、珍しく照れくさそうに頭をかいた。
「いえいえ」
「ユトちゃんそのアルバムみせてー!」
 これ以上ないほど目を輝かせてねだってくる叶に抱えていたアルバムを渡してやると、彼は大はしゃぎだった。
「かわぃぃいい!これ僕と同じぐらいのときの?」
「うん遠足の」
「へーかわいいわね」
 頬を突きつけあいながら、棗と叶がアルバムをのぞいている。そんな珍しいものが写っているわけでもないのだが。
 遊の横からは腕がのびて、箱の中の写真立てを拾い上げた。隻だ。
「これ、家族写真?」
「うん。高校入学のときにとった奴だよ」
「写ってるの、ご両親だよね」
「うん」
「へぇ……」
 隻はまじまじと写真立ての中身を眺めながら、目を細めた。桜の木の傍の校門で、自分と両親そろって写った単なる記念写真だが、彼はなぜか神妙な表情を浮かべて口先を歪ませている。
 その表情を訝って、首を傾げた遊を認めたのだろう。隻は笑みを添えて写真立てを遊に返した。
「よかったねユトちゃん。最近お土産もらいっぱなしじゃないか」
「……もらいっぱなし?」
 はて、何かもらっただろうか。
 大きく首を傾げた遊の前で、隻がちらりとどこぞに視線を寄越していた。疑問符を浮かべる遊に、隻が一つ、爆弾を落としていく。
「だってこの間、音羽からもなんかお土産もらったんでしょ?」
「……はへ?」
「おまっ!!!!!!」
 遊よりも真っ先に反応を示したのは、朝食を取り続けていたと見られる音羽だった。がしゃん、という食器をテーブルに叩きつける音。続いて足音。
「おーまーえー!!」
 獣のような勢いで隻の襟首に飛びついた音羽が、がくがくと彼の身体を揺さぶる。
 揺さぶられながらも、ははははははというなにやら楽しそうな笑い声をもらす隻。その脇をくぐるようにしてやってきた叶が、遊の目の前にちょこんと膝をついた。
「えー何もらったのユトちゃん」
「ハンカチ。ちりめんの」
「へーあの音羽も抜け目ないわねぇ」
「なんだそういうことだったの音羽君」
 叶と棗と真砂が次々に納得したように頷きあって、その様子を見ていた音羽は渋面になっている。
 そんなことよりも遊は気になることがあるのだ。
「一体どこからその情報得たんですか隻ニーサン?」
「企業秘密?」
「んーまぁなんとなく判ってますけどね……」
 隻が情報源を口にしないのはその当人の信用を落とすからだろうが。十中八九、琴子が情報源だろう。ハンカチについて知っているものは、音羽と自分を除けば遊の知る限り琴子以外にありえない。あの年齢不詳童顔な夜の女王の微笑を思い浮かべながら、遊は嘆息した。琴子にハンカチのことが知られたときには、まだ土産かどうか――というよりも、もらうことすら確定していなかったというのに。
「あれは……!」
『あれは?』
 酸素の足りない金魚のように口をぱくぱくさせながら、白くなったり青くなったり赤くなったりしている音羽の呻きに、遊を除く全員が声を揃える。
 やがて音羽はしぶしぶと、あれは笠音の謀略であったのだと告白するに至ったのだった。


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