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Stage 7. 雨に煙るは夏の 8


帰宅した隻は棗を伴っていて、その二人にこの状況をどのように説明しようか、遊は彼らの姿を認めた瞬間凍りついた。
 そしてそれは現在かなり遅い食卓をとっているほかの面々も同じことだった。隻が帰宅する時間は、同伴を取るか否か、早出か早出でないかに左右されるが、今日は早出であったこともあり比較的早かったようだ。棗を伴っているのは、偶然だろう。時計は深夜を回ったばかりだが、夕食をとるにはかなり遅い。そんな時間に、しかもいつもとは異なる面をおいているとなれば、話が異なってくる。
 とりわけ遊の強引な誘いもあって食事を共にすることになった真砂が、硬直を通り越して泣き出しそうになっていた。こうやって食事を共に取っている時点で、隻、棗、集の三人と相対[あいたい]することは十分に予想がついていたこととはいえ、きちんとした対応を取ることは大人でも難しい。
 食事に誘うべきではなかったか。でも叶とはきちんと話をさせておきたかったし、どうせ明日は週末であるし。でもせっかく丸く収まりかけたところでまた隻が冷たい対応をとって真砂を泣かせたらどうしよう云々と、凍てついた空気の中で遊が一人煩悶していると、まず棗が一人動いた。
「ユトちゃんただいまー。私の分のご飯ある?」
「え?あ、うん……あるよ」
 棗はいつも仕事に持ち歩いている赤い革のショルダーバッグの紐を肩から外しながら、遊といつも通りの対応を取った。真砂に対して、無視を決め込むつもりだろうか。ちらりと横目でかの女子を見てみれば、今にも泣き出しそう、というよりも突っつけば零れるほど涙が目じりに滲んでいる。
「ご飯はお茶漬けでいいから頂戴。ちょっとシャワー浴びて着替えてくるから」
「うん判った……」
 棗に返答しながら、遊は横の真砂を横目で観察し続けていた。
「真砂」
 あー泣く、と遊が目を伏せた瞬間、棗が真砂を呼んだ。
「は、はい……」
 身なりを慌てて直して、真砂が棗に向き直る。遊もつられて面を上げた。その先には、彼女が時折遊に対して見せるような、穏やかな微笑があった。
「お帰り」
「あ」
 それだけだった。
 それだけ告げると、棗は大きな欠伸をしながら踵を返して廊下の向こうへ消えた。階段を上る音から、おそらく自室に着替えを取りに戻ったのだろう。
 一方、戸口に立ったままの隻は、棗と異なって静かに、真砂を見つめ続けたままだった。彼と真砂の愛情の形の相違が過去の出来事のある種引き金となっているだけに、彼の胸に去来する感情は複雑なのだろう。
 と、おもったが。
「お帰り真砂ちゃん」
 隻はまるで何事もなかったかのように、あっさりとそういった。
「ユトちゃん。俺にもお茶漬けとそのおかず頂戴。俺も服着替えて顔洗ってくる」
「……はぁい?」
 そのあまりのそっけなさに、返答しつつも思わず疑問符をつけてしまった遊である。
「なんで……」
 棗と同様、着替えに戻るためだろう。踵を返しかけた隻に向かって、小さな呟きが投げかけられた。
「どうして、そんな風に普通に、お帰りって、言えるんですか?」
 躊躇いなく。
 棗も隻も口にした。
 おかえりという言葉。
 二人ともしばらく黙考していたようだったが、それはその言葉を口にすることを躊躇っているわけではないようだった。ただ、純粋に、何年も連絡が付かなかったというかつての居候が、ぽん、と遊たちと食卓を共にしていたことに驚いていた様子だった。先ほども思ったように、胸に去来する複雑な何かを整理している節は見られたが。
 棗も隻も、あっさり受け入れた。
 真砂が、そこにいることに。
 隻は微笑んだ。
「……だって、家族だからね」
 何年も。
 一緒に暮らして。
 そうして培ってきたもの。
 真砂は結局泣いた。
 その背を撫でながら、遊は思った。
 自分は、こんな風に、この家の人々と絆を結べるだろうか、と。
 まだ、この家に住むようになって半年足らず。家族になじんできた感じはあるものの、それでもやはりそんな風にいってもらえるには程遠いだろう自分の身分を考えると。
 少し、羨ましかった。


 喉の渇きを覚えて深夜、台所に赴こうとした隻は、居間で一人ぼんやりしている真砂を認めた。卓上には茶の入った湯のみ。既に他は皆、寝室へと引き上げている。しばらく逡巡して、結局声をかけることに決めた。逃げられたらその時はそのときだと思っていた。
「眠れないの?」
 真砂は驚いたようだが、逃げはしなかった。穏やかに、一つ首を縦に振った。
「久しぶりなので」
「……まぁ、それもそうだね」
 彼女は逃げるようにこの家を出た。この家にもう一度足を踏み入れたこと自体が奇跡のようなものだった。その奇跡は誰が起こしたのか。この家に彼女を連れてきたのは音羽だというが、その彼を突き動かしたのは――。
 おそらく、と考えて、隻は微笑んだ。でなければ、過去を引きずり続けたまま蹲っていた弟が、積極的に動こうなどと思うはずがない。
「……元気だった?」
 ひとまず、社交辞令的なことを口にする。真砂は控えめに頷いた。彼女の目は凪いでいて、以前のように狂気じみた、執拗な愛情は感じられなかった。
「隻君は」
「相変わらずだね」
「……髪の毛、黒くしたんですね」
「あーこれね?」
 黒い、というには語弊がある。まだ、十分茶色といえる範囲だ。髪の染めすぎで傷んでいて、完全な黒になりきらなかった。鴉の濡れ羽色自体、慣れないことから抵抗があったのも多少ある。
 だが、真砂がいた頃は誰が言ってもそういった色に染めることはなかったから、驚いたのだろう。
「いい年していつまでもあんな色に染めるのもどうかなって思って」
「……落ち着いて、よく似合ってます」
「ありがとう」
 礼を言って、居間から台所へと入る。コップに冷蔵庫から取り出した烏龍茶を注いで戻ると、真砂は変わらずぼんやりと、部屋を見つめている。
「……懐かしい?」
 細められた彼女の目を見て、隻は質問してみた。
「そうですね」
 真砂は笑った。それは単純に胸中を見透かされたための照れ笑いのようにも見えたが、どこか自嘲めいたものが滲んでいたことを、隻は見逃さなかった。
「久しぶりだし」
 何年も、時が流れている。
 旅行鞄一つ抱えて、彼女が集の用意したどこかに消えてから。
 懐かしくないはずがないだろう。自分の不在の年月を惜しむ意味合いもあるのかもしれない。
「……この家の雰囲気、どこか柔らかくなりましたね」
「そう?」
 烏龍茶を飲み干しながら、怪訝さに首を捻る。
「どうしてそう思うの?」
「……前は、なんか皆ばらばらに動いて、それを纏めるのに、緑子さん苦労していたみたいでしたから」
「今も皆個人主義だけど」
 棗は仕事で東京とここを往復しているし、自分もホストとキャラメルボックスの店と家の往復。音羽は学校とホストクラブのボーイと――他のあいている時間を、何に当てているかを隻は知らない――で多忙のようだし、叶は小学校のほかはサッカークラブの練習で忙しいようだ。集は得体が知れない。
 それは、昔から変わらない。
「そうじゃなくて……何か、こんな風に言うのもおかしい気がしますけど、家族みたいで」
 少し置いて、真砂はぽつりともらした。
「……遊さんが羨ましい」
 真砂の言いたいことはなんとなく、隻にも理解できた。
 かつて、自分達はばらばらで、おそらく家族のお互いを本当の意味で気遣うということをしなかった。
 高い能力。容姿端麗。そして、自尊心という名前の、他人と自分を隔てる高い壁。
 それは、家族の中であっても例外ではなかった。
 それが、少しずつ。
 かかわりあっていく。
 遊が、全てを引き込んだ。
 かつて、彼の少女を真砂と重ねてみたことがある。置かれた状況、見知らぬ家に来て笑うその強さ、その必死さが、弱さを押し殺して笑っていた真砂に似ていた。
 けれど、今振り返ると、遊は真砂と全く違うことが判る。
 真砂は、あの頃の自分達と同じだった。
 自分の居場所を必死に守って生きていた。
 遊は、自分の居場所を顧みず、ただ走っている。サバンナで走り続ける獣のようなしなやかさで。自分達は知らず知らずにその走る美しさに目を奪われ、巻き込まれている。
 ふと、真砂の目が正面から隻を見据えた。
「……訊いてもいいですか?」
「……どうぞ?」
 真砂の眼差しは変わらず穏やかであったので、そこに恐怖を覚えることはなかった。
「……私がこの家で暮らしてなければ、例えば、長い間幼馴染か何かであったとしたら……私が好きだと伝えたとき、隻君は……私のこと好きになってくれました?」
 目を閉じて、隻は考える。
「それはないかな」
 隻は答えた。
「何度もいうように、俺は決して君の事を嫌っていたわけではなかったよ。むしろ好きだったと思う。君と友人であろうが、幼馴染であろうが、ある程度大事な人間にはカテゴライズされるとは思うけど、けれど、それまでだ。何をかなぐり捨ててもいい人間には、なりえない」
「……どうしてですか?」
「君は、俺に告白しているときなんて言ったか覚えている?」
「……いえ。あまり。……あの時は、必死でしたし」
「だろうね」
 隻は一笑して納得し、言葉を続けた。
「あの時君は俺にこういった。"隻君の傍にいると特別になれる″」
 当時彼女に対して必要以上に冷たくあしらったのは、それなりに年月を経た今となっては自覚している。
 それは、自己防衛だった。
 それと同時に、失望したのだと思う。
「真砂ちゃん。俺はね。特別と呼ばれることが何よりも嫌いだし、傍にいることで君が特別になれるとも到底思わない。友情だとしても、ほんの少し優しさを見せると、特別な行為と勘違いして俺に恋愛感情を求めてくる子たちは後を絶たなかった。特別綺麗な彼氏を見せびらかしたい。それだけで近づいてくる子は腐るほど見てきた」
「別にそんなつもりでいったんじゃ」
「ないとは知ってる。今はそうなんだろうと思える。それでも、君にはそんな風に見てほしくはなかったよ。他でもない君だからこそ。傍にいて、特別なのではなく、それが日常であってほしかった」
 安寧を壊すようなまねをしてほしくはなかった。
 わがままだったと知っている。
 ほかでもない自分が、その特殊性を意識していたのだから。周囲に自分を普通に受け入れろといったところで、無理なのだと、もう自分は知っている。
 たった一人の少女に、そう指摘された。
 そう叱咤されたのだ。
「……俺も訊くよ真砂ちゃん。俺がこんな、集みたいな顔じゃなくて、ごく普通の男だったら、君は好きになったかな」
「え?」
「君はおそらく、単なる兄のように、俺に接していたんじゃないだろうか。俺はそう思うよ」
 真砂は下唇を噛み締めて、しばしの間目を伏せた。
 ちりちりと、風鈴が鳴っている。
 風が強い。今日も激しい夕立があったことだし、明日もまた、雨かもしれない。
「いいえ」
 面を上げた真砂は、はっきりと隻の言葉を否定した。
「……私、笑うの実は凄く苦手だったんです。いえ、笑うのだけじゃなくて。怒ったり泣いたりとか、そういうのも、苦手だったんですけど」
 棗から貸し与えられたらしいパジャマの裾を握って、真砂は告白する。確かに、この家に来たばかりのころはあまり笑わない子であったが、それは家族の不幸を思えば当然のことのように思えていたし、感情を顕わにするのが苦手というのも、彼女の控えめな性格からすると、納得できることではあった。
「隻君が、この家に来たばかりの頃、言ってくれたんです。笑ったほうがずっと可愛いし、泣きたいときは泣けばいい。今日から、ここが君の家なんだからって」
 この家に来たばかりの真砂は、まだ中学にあがったばかりだった。
 幼い子が無表情に膝を丸めている姿をみて、かわいそうに思ったものだ。
「隻君がずっと支えてくれていて、顔とか、そういったものじゃなくて。……多分、隻君を、結局好きになったと、私は思います」
「……そっか」
「……私、自分勝手でした」
「自分勝手?」
 鸚鵡返しに問い返すと、真砂は微笑み、静かに頷いた。
「あの頃、私はどうしてってずっと考えていたけど、隻君に私の一体何が至らなかったのかきちんと訊かなかった気がするんです。家族に亀裂が入ることだって全然……考えないこともなかったけど、だけどそれは全部私がしんどいかどうかが中心で。他の人がしんどいかとか、そういうのは考えなかった気がするんです」
 それは隻も同じであっただろう。
 あの頃、誰もがまだ呆れるほど自分勝手だった。
 自分を守ることしか考えていなくて、沢山傷つけて、そうして失ってはいけないものを、失ったのだろう。
「この間も、音羽君が会社に私を訪ねてきたってきいて」
「音羽が会社に?」
「はい」
 音羽がここに真砂をつれてきたことは知っているが、どのようにして彼女とコンタクトをとったのかは知らなかった。自分達は集によって彼女に関する情報から遠ざけられていたし。
(……実際のところ、本当に知ろうと思えば知ることができたんだろうけど)
 集が真砂の許可なく、大人しく音羽に彼女の住所を渡したとは考えられない。推測だが、音羽はこっそりと集の書斎にでも忍び込んだのだろう。その、忍び込むという行為には多大な労力を要するために、自分達は滅多にしないが。
「連絡とるの、かなり躊躇いました」
 真砂は独白のように、告解するかのように、言葉を続けていた。
「罵られたらどうしようとか、そういうのが全部怖かった。音羽君がまだ、私と同じように苦しんでるなんて思いも寄らなかったし、叶君が寂しい思いしているとか、そんなこと考えてもみなかったんです。自分が怖いばっかりだった。緑子さんの、お墓にだってきちっと参らないで」
「……それはあまり考えなくていいと思うけどね」
 何せあの家は色々とややこしい。
 怪訝そうに首を傾げた真砂に、ごまかしのように隻は微笑みかけた。
「音羽は君のこと好きだったよ」
 これを言うのはフライングかもしれないが、時効だろう。
 真砂は微笑んだ。彼女は大人しいが、その分他人の顔色を窺って生きてきたところがある。鈍ではない。
 知っていたが、見えてはいなかったということだろう。
 あの頃の彼女は、本当に、恋情に文字通り囚われていた。
 そしてそれに現を抜かし、苛立ち、周囲が見えていなかったのは自分も同じだった。
 もっと穏やかに、彼女を説得する方法だって、あっただろうに。
 それが出来るほどに、当時だって自分は十分大人であっただろうに。
 冷たく、切り捨てることしか、してこなかったので。
 それでもいいと思っていたので。
 けれども、変わらなければならない。
 変われているのだろうか。
 自分以外の誰かを――たとえそれが恋愛における相手に限ったことではなく――大事にするということを、きちんと学べているだろうか。
 あの、春雨の日から。
「……ごめんね真砂ちゃん」
 謝罪は自然と隻の口をついてでた。真砂は首を静かに横に振った。


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