BACK/TOP/NEXT

Stage 7. 雨に煙るは夏の 7


「遅いね音羽」
 居間のテーブルの上で頬杖をつきながら、遊は呻いた。家に音羽の姿がないことに気付いたのはつい先ほど。叶との長話を終え、夕食の準備が整ったときだった。一階にもともと次男の気配がないことは遊も気付いていたが、それはただ単に彼部屋に引き篭もっているだけだとおもっていたのである。
 だが夕食時になっても降りてこない。
 部屋に彼を呼びにいくと、狭い部屋はもぬけの空だった。
「ご飯先に食べたらだめかなぁ」
 食卓に並べられた夕食を前にして突っ伏した叶が、頬を膨らませながら呻いた。幸い夕食は冷めるようなものはないが、並べられた三人分の夕食を前に、腹も鳴るというものである。
 集により、食事はなるべく家族揃って食べることと厳命されている。よって食事に遅れる場合は、前もって食事係――つまり遊なわけだが――に伝えなければならない。というのに。
(でかけるなら出かけるっていいなさいよね)
 次男様は一体どこへと出かけられたのか。
 出かけるような素振りは全くなかったのだが。普通にシャワー浴びてたし。
「叶君、ちょっと私その辺り見てくる。それでなんか全く気配がないようだったら、先にご飯食べちゃおう」
「別に見に行かなくても食べちゃえばいいと思うけどなー。出かけるって言わない音羽が悪いんだから」
「私もそう思うけど一応ね」
 空腹を目線で訴えてくる叶の頭を軽く撫でて、遊は立ち上がった。こっちも空腹なのだ。苛立ちを踏み出す足に込めて、遊は玄関へと歩き出した。


 懐かしい家。
 あの頃と、何も変わらない家。
 狭苦しくて、こんなので、七人もの人間が生活できるのかと一度首を傾げたこともある、普通の一軒屋。
 空っぽの駐車場は、広くなっている。昔は花壇だった場所を潰して、拡大したらしい。あそこに、昔隻の車が収まっていた。今も収まっているのだろうか。
 玄関の傍に置かれたプランター。植えられた花は、夏の熱さにやられているためか、それとも単純に今が夜だからなのか、どことなく元気なく見える。その向こうには、網戸にされた縁側と、物干し台、物干し竿。
 懐かしい家。
 あの頃と、何も変わらないようで、少しだけ変わってしまった家。
 玄関の扉を開けかけている背中は、いつの間にか広く大きくなっている。昔は、小さかったのに。その変化にぞっと戦慄した真砂は思わず、音羽に制止の声をあげていた。
「やめて」
 振り返った端整な顔の眉間には、皺が刻まれている。彼から、心持ち、身を引きながら、真砂は頭を振った。
「……やっぱり、むり」
 無理だよ。
 こんなにも時間が経って、一体何を話せというのだろう。
 気軽に世間話できるような立場でもなかった。ほとんど喧嘩別れのような形で、緑子の事故以後、ろくに口も聞かずに、集の勧めに従って家をでたのだ。
 この近くまでなら、幾度か来たことがあった。
 とりわけ毎年夏は、お盆近くに緑子の事故現場に花を添えることにしている。お盆の日と命日には、この一家の面々がそれぞれ花を添えることを知っているから、その前に――。それで、ついこの前もこの近くまできた。
 けれども、どうしてもこの家を訪ねることはできなかった。同級生らしい少女と会話している音羽の姿もちらりと見たけれど、声をかけることは躊躇われた。
 話すことなど、何もない。
 今更、この家に、足を踏み入れようなどと、卑怯この上ないのではないか。
自分がこう言い出すことは予想済みだったのか、対して音羽は驚いた様子もない。彼は嘆息交じりに唇を動かしかけ。
 がららららら!!!びしゃん!
「あ、音羽!」
 盛大な音を立てて玄関の引き戸が勢いよく開かれた様子に、真砂と共に彼はびくりと身をすくませた。


「ちょっと音羽、出かけるなら出かけるってそういいなさいよ!」
 玄関の戸を開くと、目と鼻の先にたっていたのは今から探しに行こうとしていた音羽当人だった。遊は空腹からの苛立ちをここぞとばかりにぶちまけるべく、声を荒げた。今回ばかりは彼が悪い。そして、居候という身分の為に自分が彼に対して頭ごなしに怒鳴ることが出来る機会はそうそうあるものではない。
「叶君だって不機嫌よ。本当にお腹すいてるんだから!まったくどこほっつき歩いてたのよ!こんな時間まで!」
 音羽も自分の不手際を承知しているらしく、渋面になったまま沈黙している。遊の剣幕にのまれている、といったほうが正しいかもしれないが。
 そのすかした仏頂面が、妙に苛立たしい。
「ちょっと人の話聞いて……!」
「……あの」
「……って……は、はい?」
 聞き覚えのない女の声に、遊はふと我に返った。視界の隅に、見慣れない女の姿が映りこんでいる。
「……て、あ、お客、さん?」
 呻きながら、頭上に疑問符を浮かべた遊に。
「怒鳴るのも結構だが、周囲の状況はよくみろ」
 と、すかさず音羽の皮肉が入った。
 喉まででかかった応酬の言葉をぐっと飲み込んで、遊はひとまず音羽の斜め後ろに控えるようにして佇む女を観察した。
 服装はベージュのスーツとタイトスカート。どことなく、幾度か言葉を交わしたとしても記憶の中に埋もれてしまいそうな、そんな曖昧な印象を持つ女だった。容姿は不細工、というわけでもなければ美しい、というわけでもない。遊と同じく、ごくごく平凡な容貌の女だ。が、どこかで、見覚えがあった。
(誰だっけ?えーっと……)
「こっちは遊だ。昔のお前と同じように、今この家に住んでいる」
 昔の、お前と、同じように。
(あ)
「真砂さん!」
 ぽん、と手を打って、遊は声をあげた。先日、公道で見かけた女だ。以前仏間の写真の中で笑っていた少女の面影を残す女。見かけたときは彼女が真砂だと確信はしていたが確認はしていなかった。が、今の音羽の言葉で決定的となった。
 聞いた話では、自分以外に、この妹尾家と一つ屋根の下で暮らしていた赤の他人は、真砂以外に存在しないはずだからである。
「……え?何で、私のこと」
「ちょっとえ?何で音羽?真砂さんがここにいるのなんで?」
「ガキみたいに何故何故連呼するなお前は」
「話しに来たんですか?」
 憎まれ口を叩き続ける音羽は無視して、遊は真砂に向き直った。彼女は脅えているのか、混乱しているのか――おそらくその両方であろうが――表情を引き攣らせ身を引きかけている。
「……いえ、あの、もう、帰ります」
「え?何で?」
「その、そこで音羽君とあって、懐かしくてつい……誘われるままに来てしまったんですけど」
 音羽の姿を見かけなくなった時間を考えると、ついそこで出会ったとは到底考えられないのだが。
 というツッコミを、ひとまず遊は嚥下した。
 真砂は年上とは到底思えないような控えめな様相で、弱々しく微笑んだ。
「でも、やっぱり帰ります。……話すことなど、何もないですし」
「真砂」
 苦々しい口調で、後ずさりかける彼女を呼び止めたのは音羽だ。一体どのようにして真砂と会ったのかは知らないが、引きずるようにして、乗り気でない彼女をここまで引っ張ってきたことは容易に想像できる。
 遊は音羽と真砂の顔を見比べて、嘆息した。
 妙に、イライラする。
「失礼します」
 遊は一言断りを入れると、真砂の返答を待たずに彼女の手首を取った。
「おい遊!」
「え?あの」
 音羽の制止の声は届いたが、聞き流した。遊はただ真砂の手を引いて、家の中へ急いだ。少し外に出るだけだからと、足先にひっかけただけだった突っかけを脱ぐのももどかしく、廊下を急ぐ。
「真砂さんにはなくても」
 居間の襖に手をかけながら、遊は鼻息荒く呟いた。
「話したい人はいると思うんで!」
 ぱんっ、と勢いよく戸を開く。居間では、夕食が食卓に鎮座ましまし、叶がだるそうに頬を天板にくっつけていた。
「……ユトちゃんおかえー……」
 これで夕食にありつけると踏んだのか、早々と姿を現した遊に、叶はぱっと笑顔を見せて面をあげていた。だが遊の背後に隠れるようにして佇む女と、その背後で盛大にため息をついている(音が実際に遊の耳にも届いている)音羽を瞳に移し、彼は小首を傾げた。
「……えっと……?」


 と、いうわけで。
 現在、居間には重苦しい雰囲気が立ち込めている。
 居間に正座して向かい合うのは真砂と叶だ。遊と音羽はそこから少し離れ部屋の角で身を寄せ合っている。
「考えなし」
「うっさいなっ」
 声量を落としての音羽の嫌味に、すかさず遊は言い返した。
「音羽だって、考えなしに真砂さん、ここまで連れてきちゃったんじゃないの?」
「考えは……あった」
「へーどんなの?」
「……叶に会わせようと」
「そ。よかったね。私のおかげで結果オーライか」
 口先を尖らせての遊の呻きに、音羽は沈黙で返した。今度こそ、ぐうの音もでないといった様子である。初めて彼を叩きのめしたことに、遊は思わず胸中でガッツポーズをとった。そんな場合ではないことは、十分に承知していたが。
 対峙している真砂と叶は、向かい合ってから一言も口を[]こうとしなかった。おそらく、利けないのだろう。真砂も言っていたではないか。
 何も、いうことがない。
 言うことは、あるはずだと遊は思う。あんなにも引きずっているのに。あんなにも影を残しているのに。言うことがないのではなく、どういうべきなのか、考えあぐねているだけなのだ。
(……やっぱり、まずったのかな)
 理由をつけて逃げ出そうとした真砂が無性に腹立たしくなって、ここまで引きずり出してしまったのだが、それはやはり良くないことだったのだろうか。
 ただ、許せないような気がしたのだ。
 真砂は気が弱くても大人である。一体いくつかは知らないが、叶の年齢や緑子が死んでからの年数を逆算すれば、職もあるだろう立派な社会人。もしくは大学の四回生。対して、同じ苦しみを一番引きずっていたのは妹尾家最年少の叶である。小学生だ。彼をその辺りのお坊ちゃんと比べると首を大いに傾げたくなる強かさを持っていることは遊も重々承知しているが、そういったものを差し引いても、一番逃げてはいけないのは真砂だと思った。
 ただ、あの気弱そうな様相を見るに、気の毒ではあったけれど。
 時計の針が時を刻む。
 既に時刻は深夜に近い。食卓に並べられた夕食は所在無げで、網戸にしていた縁側から吹き込む温い風がカーテンを揺らしていた。遊は嘆息して、縁側の戸を閉めるかと膝を立てた。
 と。
「おねーちゃんは」
 まだあどけなさを残す声が、会話の口火を切った。
 一度口を開いた叶だが、その後また口を閉ざした。言葉が、喉の奥に引っかかっている。そんな様子だった。
 一方真砂は、叶が一度口を開いたためだろうか、少し肩の力がぬけたらしい。
「……音羽君とは、全然似てないね」
「……え?」
 少し笑みを含んだ真砂の物言いに、叶が面をあげた。
「赤ちゃんの頃から、見てたからかな。叶君のほうが、音羽君よりも可愛いくみえる。……音羽君は、今の叶君ぐらいのときから、なんか眉間に皺寄せてたもの」
(へぇ)
 と内心どこか納得して、遊は横の音羽を一瞥した。と、その瞬間氷の刃よりも冷ややか且つ鋭い視線が飛んでくる。慌てて遊は、真砂と叶に視線を戻した。
 真砂は落ち着いたのか、笑みを見せるだけの余裕が出てきたらしい。どこか弱々しげだったが、慈愛に満ちた、母親のような優しい眼差しで叶を見ていた。
「大きくなったね。叶君」
 かぁっと。
 叶の頬が紅潮する。子供らしく、そんな風に表情をかえる彼は、非常に珍しかった。
 遊は思った。
 あぁ、ようやく。
 錆付いて止まっていたこの家の何かが、動き出したのだと。


「一つ訊きたかったんだ」
 間を置いて、叶は言った。ずっとずっと、訊きたいことが、一つあった。
「お姉ちゃんは、僕を捨てたの?」
 それは、彼女が自分を置いて家を出てから、繰り返し自問していたことだった。
 自分を置いて家を出ることそのものを責めているわけではなかった。叶はどう足掻いても妹尾家の人間だし、高校を卒業するかしない、経済能力のなかった[]の少女に、幼稚園に上がったばかりの子供を連れて行けというほうが無理だ。
 それでも、何も言わず、ただ捨て置くようにして。
 彼女も緑子もいなくなった。緑子の穴埋めの為に集は家を頻繁に留守にし、隻と棗は逃げるように仕事に没頭する。音羽は距離を置いた。真砂の面影を少しでも引きずるものの傍には、いたくなかったのかもしれない。
 緑子が死んだばかりのころ。
 一人で、食事を取っていたころ。
 遊が、まだ、この家に来ていなかったころ。
 自問していた。
「緑子さんは事故だったよ。僕は、それを疑ったことがない」
 緑子が目の前で事故に遭ったのは、幼稚園にあがったばかりの頃。
 普通なら、それが精神的外傷[トラウマ]となって、記憶障害を起こすこともあるという。それでも、自分は正しい映像を記憶していた。
 それは、兄達が正しい結末を口にしていたからかもしれない。
 けれどもそれ以上に、自分にとって衝撃的だったことは、真砂が家を出たというそのことだったからだ。
「お姉ちゃんのせいだなんて、僕は思ったことない。僕は、最後まで、お姉ちゃんの味方だった。だって、あの時僕にとってのお母さんは、緑子さんじゃなくてお姉ちゃんだったから。そうだよね?」
 真砂は沈黙し、何も言わない。当惑しているのだ、と理解するには、叶はまだ少し幼かった。
「僕を連れて行ってくれればとかそんなんじゃなくて。僕は――」


 口ごもる叶を見ていられなくなり、面を上げた遊は即座音羽に頭を押さえつけられた。視線のみで抗議すると、邪魔をするなという視線が落ちてくる。嘆息して、真砂と叶に視線を戻した遊は、叶の表情が珍しくみるみるうちに歪んでいくのを認めた。
「会いたかったのに」
 下唇をかんで、叶は言った。
 その様子は、いつだったか、そう、みちると口論していたときに見せた、年相応の子供の顔だった。
 わがままを泣きながら訴える、子供の顔だった。
「僕は会いたかったのに。時々、会いにきてくれたって、よかったじゃないか……僕は、お姉ちゃんの、息子じゃなかったけど、それでも……」
 頬を真っ赤に紅潮させて、瞼を赤く腫らし。
 唇を強く引き結んでいた。あの大きな瞳が潤んでいる。ただ感情に任せて泣くことを拒絶する強さだけが、子供らしくなく、そして妹尾家の人間らしかった。
 叶が、こぼれそうになる涙を手の甲でぬぐいながら呻く。
「それでも家族だったんだから」
 ひくひくとしゃくりあげる叶に、真砂が恐々と、手を伸ばす。
「ごめんね」
 その小さな少年の頭を胸に抱いて、真砂は言った。
「自分勝手だったね……」
 ごめんね、と真砂は繰り返した。
 泣き方を忘れていた子供の声が、家に響いた。


BACK/TOP/NEXT