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Stage 7. 雨に煙るは夏の 6


「真砂!真砂いいから待ちな……!」
 静止を請う言葉は飽きることなく繰り返される。それでも真砂は振り返ることが怖くて走り続けた。そっとしておいてくれてもいいのに。けれども今自分を追いかけてきている女が、呆れるほどにお節介なことは知っていた。
「真砂!」
 力づくで引きとめられるのは時間の問題だと感じていた。腕をつかまれたのは、住宅街から公道に出た直後だった。夕刻、歩道には下校途中の学生や、買い物袋を下げた主婦も多く見られた。通り過ぎる人々は、時折驚きの目で真砂の腕をつかむ人物――緑子を見つめ、大抵のものは視線を外して距離をとった。この道を通るということは、近隣に住むものだろうから、緑子の顔ぐらいは知っている。無論、その家で暮らす自分のことも。通報するようなこともないだろう。その他人行儀さが今はありがたかった。
「緑子さん」
「……何があったのかはなんとなく想像はできるけどね真砂」
 腕を取る手は温かい。
 自分を見下ろしてくる顔は、神に呪われたとしか思えないほどに醜いのに、その笑顔は相反して木漏れ日のようで。
「真砂、一度家に戻ろう。家を出たいのならそのように取り計らってあげるよ。でも今はとりあえず戻りな」
 なのにその子供達はどうしてあのように光りのような美しさと、冷たさばかり滲んでいるのだろう。
「真砂」
「私も綺麗だったらよかったのかな」
 真砂は鼻をすすりながら呟いた。
「私も隻くんたちみたいに。綺麗だったら、そうしたら、好きになってもらえたのかな」
「それは違うよ真砂」
 即座に緑子は否定した。
「隻があんたに好意を抱いていなかったわけじゃない。ただ、なんどもあの子が繰り返していたように、あのこがあんたに抱いていた好意は恋人に対するものじゃなかった。ただ、それだけなんだよ」
「私頼んだんです」
 喉の奥は焼け付くように熱く、言葉を紡ぐたびにひくひくと痙攣する。呼吸が上手くいかない。
 緑子が、背をゆっくりさすっている。それすらも、助けにならない。
「私、頼んだんです。隻君に、前みたいになれなくてもいいから。お客みたいに、優しくしてって。お金だってちゃんと払うからって。だって、隻君はホストじゃないですか。夢、見させてくれる人ですよね」
 夜の中に、閃く光のような。
 愛を見失った女に、陽炎のような夢を与える男達。
 隻がその仕事についていることを、憎んだこともあったけれども、それでもこちらの意思ではなく彼の意思で、頭をふざけて撫でてくれる手は、彼の客になっては得られないものだと知っていた。
 その手も遠ざかって、自分にはもう何もない。
 無邪気に愛を語っても、真摯に愛を伝えても、遠ざかるばかりの背中。
 客になって、たとえ偽りでも、優しく名前を呼んでくれるなら、それでもいいと思ったのだ。
 それなのに、隻は拒絶した。
「……それは、あの子があんたに対して客として割り切ることができないからに決まっているだろう」
「どうしてですか!私は赤の他人でしょ?!棗姉さんとは違うんですよ緑子さん!」
「赤の他人なわけないだろう。何年も一緒に暮らしていて。割り切って出来ないっていうそのこと自体が、隻のあんたに対する愛情を表しているじゃないか!あの子は別にあんたを嫌っているわけじゃないんだよ。ただ――」
「言わないでください!」
 そんなこともう、ずっと前から知っているのだから。
 自分だって繰り返し繰り返し考えた。
 けれど結局、所詮は赤の他人で居候でしかない自分はいずれこの家から離れていく運命だ。その後、自分達の関係がどうなるか――共に暮らしていた頃のように、親しくしてくれるという保障はどこにもなかった。
 一緒に暮らしていたから、優しくしてくれていた。可愛がってくれた。特別な女の子のように。
 隻の傍にいると、平凡な自分が特別であれるような気がした。
 あんなに簡単に女の人を割り切れてしまう隻だもの。一緒に暮らさなくなったら。その後を考えると恐ろしくて身がすくんだ。
 あの家で生活する。その残り時間も徐々に短くなっていく。
 でももし、恋人になれたら?
 たとえ家から離れても、恋人であったなら。
 自分は賭けに負けたのだ。
 とうの昔に知っていた。隻は、自分のことを嫌っているわけではなかったけれども、一緒に暮らしていくためなら、簡単に割り切れてしまう人間だったと。
「緑子さん。私どうしたらいいですか?」
「……前にもいっただろう。ほとぼりが冷めるまで、家から出たらいい」
「ほとぼりが冷めるって何時ですか?!結局私はもうあの家からでなければならないのに!」
「何を言ってるんだいこの子は!」
 小言は多くても、滅多に怒鳴ることのない緑子の怒声は、もともとそれほど気の強くない真砂をすくませるには十分だった。一体何が彼女の癇に障ったのか。般若のような顔で怒声を叩きつけた緑子は、一変して優しい、慈愛の眼差しを真砂に向けた。
「いいか真砂。子供はいつか自立して家から出るもんだ。だから私はさっさと出て行けというけれど、帰ってくるなとは一度も言っていない。何時だって、帰ってくればいい。世間に出て、一人ぼっちで、寂しいときは帰れる場所が実家だ。私はこの家があんたにとってそんな場所であるように、計らったつもりだよ。少なくとも、家とはそんなものであってほしい。私はそう願っていた」
 彼女の。
 言葉の意味が、よくわからない。
 自分は、赤の他人で。
 共に、生活しなくなったら、それで終わりで。
「隻がああいう対応をとらざるを得なくなったのは、そうでなければ家族ではもういられないからだ」
「……私、家族なんていらなかった」
 両親が死んだ日に、自分は家族なんてものを失っていたから。
 妹尾家は、仮初めの宿にすぎないのだと知っていたから。
 ……はたして本当に、妹尾の家は、仮初めの家だったのか。
『真砂おねーちゃん』
(……叶くん)
 自分を呼び慕ってくれる小さな赤子。自分に任された命。年の離れた弟、それ以上によく面倒を見た。
『真砂』
(音羽く)
 ぶっきらぼうに、それでも自分の傍に、ずっと居てくれた少年。
 妹のように可愛がってくれた棗。放任主義だけれども、筋の通っている集と、ことあるごとに気をもんでくれる緑子。
 そして、特別、優しくしてくれた隻。
「私――」
「真砂」
「隻君が居ればそれで」
「真砂っ!」
「――っ?!」
 緑子のものとは違う、変声期前の少年の声が自分を呼び、真砂は戦慄した。呼ばれたほうに顔を向けると、音羽と、彼に引っぱられてやってくる隻の姿が見えた。
「真砂!」
 逃げ出そうとした自分の腕を、緑子の手がつかみ取る。反射的に、真砂は泣きながら緑子の身体を突き飛ばしていた。
 故意だったわけではない。
 冷静さを欠いていただけだと、誰が見ても理解できた。
 ただ、不運であっただけだと。
パァパ――――ッ!!!!
 トラックのクラクションが鳴って。
 その先は。

「交通事故」
「運が悪かっただけだよ。真砂お姉ちゃんが緑子さんを殺そうとしたとか、そんなの、あるわけないし」
 夕立は上がって、いつの間にか夜になっていた。
 叶はひざの上で作った両の拳に視線を落としたままだ。遊は足の痺れを意識の外に追い出すことに苦心していた。叶の言葉を一言一句漏らしてはならないことは承知していたが、長い話だった。
「公道って……昌穂さんのお店に行くほうの?」
「うん」
 遊の問いに、叶は頷いた。
 先日、真砂らしき人物を見た場所。
 住宅街に入る寸前の公道だ。日常的に遊も、そして妹尾家の誰もが使うあの道を、皆はどんな気持ちで通っていたのだろう。
「僕が棗に連れられてその場所に到着したのは、緑子さんが走ってきたトラックに衝突する寸前だった。死体は凄く綺麗だったって、棗が言ってたのを覚えてる。多分、打ち所が悪かったんだ」


 本当に運が悪かった。
 ただ、その一言に尽きるのだ。周囲が見えていなかった真砂に、確かに責があるのかもしれない。しかしあの公道にトラックが走りこんでくることは滅多に無いし、基本住宅街沿いの静かな公道だった。
 あのとき、あの場所、あのタイミングで。
「逃げ出したかった。あの場所から。だから引きとめようとする緑子さんを反射的に突き飛ばした」
 アイスコーヒーの氷が溶けて、表面が薄く層になっている。
 そこに映る幻影と寸分変わりなく、音羽を見つめてくる女の瞳は虚ろだった。
「私が殺した。そうでしょう?」
 真砂の言葉をききながら、音羽は眉根を寄せた。
「結果的にはそういう形だった。けれど、真砂ばかりが負っていい責じゃないし、俺達皆、平等に緑子の死を引き寄せた」
 思うのだ。
 もし、あの時、自分が隻をあの場所に引きずっていかなければ、真砂はそのまま緑子に連れられて、この家に戻ってきたのではないか。
 緑子が、死ぬこともなかったのではないか。
 隻だって思っただろう。
 もし、あの時真砂を邪険にしなければ。
 彼女の望むとおり、優しい夢を与えていれば。
 自分達が失うものは少なかったのではないかと。
「俺は、今そう思っている」
『叶君、泣いてたんだ……』
 遊の言葉を聴いたとき、ふと思い出した。
 家で、静かに泣いていた真砂の背中。
 それを写し取ったように、背伸びをして、兄弟から少しだけ距離をとって笑う、弟の姿。
「真砂。俺達は平等に苦しんだ。お前はたった一人で、帰る場所なく生きているし、俺達の記憶にも緑子の死は鮮烈に残っている。叶は真砂を寂しがって、俺達とはずっと距離をとっていた」
「……叶君が?」
 一番傍にいて、彼女自身が面倒を見た弟の存在は、彼女にとっても気に掛かるところであったのだろう。真砂は面を上げて、目を瞬かせた。
「真砂。あれは事故だった。もう家族の誰も、真砂のことを責めちゃいない。あれは事故だったんだ。誰のせいでもない。誰を責めることも許されない。そのことを、俺は今日いいに来たんだ」
 そう、それを言いたかったのだ。
 会って何を今更彼女に告げるか――あれは事故だった[・・・・・・・・]。ただそれだけを告げたかった。
 もう、誰も彼女を責めてはいない。
 ただ、彼女を責め追い立てたことに対する後悔の念が、澱のようにあの家に沈殿している。
 けれども、そのことを彼女に告げようとしたものは、誰も居なかった。
「……おと」
「真砂」
 真砂が何かを告げるより、音羽の呼びかけのほうが早かった。
 彼女は音羽の言葉の続きを待っている。音羽は下唇を舌で湿らし、呼吸を整えて、彼女とこうしている間にふと沸き起こった提案を口にした。
「叶に、会ってやってくれないか?」


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