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Stage 7. 雨に煙るは夏の 5


「あんたが動くべきことではないよ」
 母はそういった。手元のグラスには、店から失敬してきたらしい琥珀色の酒。
「どうして?」
「これはあの子達の問題だからだ」
 緑子は、手元のグラスに酒を注ぎ足すと、音羽に勧めた。未成年の子供に勧めるなとは思うが、こんなときでなければ酒にありつくことなどできないので、ありがたく頂戴しておく。
「隻らだけの問題じゃない。家族の問題だと、俺は思う」
 今年の夏は、雨が多い。
 音羽はそう思った。霧雨や夕立が多い。冷害、という言葉もテレビで幾度か耳にしている。それほど肌寒いとは思わないが、雨が多いためか夏特有の刺すような日差しと、空の眩しいばかりの青を目にする回数は例年と比べて少なかった。
 鉛色の空。蒸暑さだけが尾を引く、鬱々とした夏。
「だからといって、あんたが出て行ってどうするんだい?」
「どうって……」
「隻に、真砂を好きになってやってくれとでもいうつもりかい?好きでもない女の子に言い寄られて、その友達に怒鳴られたのが本当にむかついたっていってたのは、どこの誰だっけか?」
「……う」
 集に似て、容姿端麗にうまれてきたのは、音羽自身、自覚している。同年代の少女を袖にするのは毎回のことだ。確かに、恋愛感情の持たぬ相手に対して恋愛を強要されることは、鬱陶しいことこの上ない。
「音羽、真砂はね、自分で選んだんだよ」
「……何を?」
「この家に、いることを」
 グラスの中に満たされていた酒を舐めていた音羽は、母の言葉に首を傾げた。家に居ること?
「それって、真砂はこの家を出て行こうとしていたってことか?」
「私がこの家を出るように勧めたんだよ音羽」
 緑子の言葉に、音羽は驚愕した。テーブルを叩いて、弾かれたように立ち上がる。
「何勝手なことしてるんだ!あの二人の問題だっていったのは緑子だろ!?」
「あんたが指摘した通り、家族の問題でもある。この家にあの子をつれてきたのはあたしだ。あたしがある程度の責任をとるのは当然さ」
 さらりと言って、緑子は嘆息した。落ち着けと、彼女の目が言っている。音羽はまだ沸騰した頭を抱えながら、座布団の上に腰を落とした。
「……相談してたんだな、真砂」
 自分が、緑子に事の次第を相談していたように。
「この家で起こることに、あたしが気付かないとでも思っていたのか音羽」
 緑子はきっぱりと言い切った。確かに、いくら留守にしがちだとはいえども、この緑子が[・・・・・]家の出来事を把握していないはずがない。
「隻だって当然相談にきた。真砂が相談に来たのはその後だったかね。告白したんだって、あの子は私にそういった」
『好きです』
 映画の主人公のように、頬を赤らめて。
 兄にそう告げる彼女の姿を、音羽は見た。
「私は真砂にいった。アパートを用意してやるから、そこに住むかい?と。あの子を親無しにしてしまったのは、紫藤[うち]の家が原因だったし、いまや娘同然だ。きちんと面倒みるのは当然だろう?一緒に住むのがどうしてもしんどいっていうんだったら、それぐらいしてもかまわなかった」
 だが、と母は続けた。
「あの子は否、といった。どうせもうすぐこの家から独り立ちする期限になる。それならそのぎりぎりのときまで、隻と一緒にいたい、ってね」
 高校卒業まで。
 それが、約束だったという。
 だからかもしれない。
 急かされる様に、真砂が隻に思いをつげたのは、共に居られる時間の少なさを、彼女が惜しんだ結果だったのかもしれない。
「逃げ場のない恋ほどしんどいものはない。それでも選んだのは真砂なんだ」
 緑子が痛ましげな表情を浮かべて、言った。
 放置しろとは言ったが、自分達全員の母である彼女が、事態に胸を痛めていないはずがないのだ。
 確かに選んだのは真砂だ。だが、隻だってこの家を出て行けるだけの能力があるのに、それを選ばなかった。
 一番、逃げ場のない恋に苦しんでいるのは自分だ。
 それを緑子に吐き出すことすら出来ず、音羽はただ、まだ味のわからない酒を勢いに任せて呷った。


「おねーちゃんどこ?」
 新学期のあけた学校から帰るなり、今にも泣き出しそうな叶が音羽の足元に飛びついてきた。手元に握られたタオルケット、及び目やにだらけの目元を見るかぎり、昼寝から起きたばかりらしい。弟が「お姉ちゃん」と呼び慕うのは真砂のみだ。おそらく昼寝から目を覚ましたら、傍にいたはずの真砂が姿を消していて、探し回っているところに自分が帰宅した。そんなところであろう。
「叶。まず靴を脱がせろ。家の中まず探してやるから」
 弟の身体を引き剥がして、音羽は踵を使いながら薄汚れた運動靴を脱いだ。弟は心細そうに、それでも聞き分けよく、音羽から少し離れて待機している。玄関先に置かれた姿見に映る自分の姿と、タオルケットを握り締めて佇む弟の姿は、誰が見ても兄弟とわかるほどに面影を引きずっている。しかし音羽はどうしても、この弟が弟であるような気がしなかった。自分や緑子よりも真砂になついているせいかもしれない。ずっと真砂に負ぶさっている姿をみているせいかもしれない。どこか他人の子供のような感覚が付きまとっている。
 音羽は形の崩れかかったランドセルを引きずって、二階の自分の部屋へ上がった。部屋の中にランドセルや運動着諸々を放り込んで、廊下を歩く。ベランダを覗いたが、誰の姿もなかった。
 一階。台所、洗面所に風呂場、仏間、そういったもろもろの部屋をのぞいても誰もいない。居間では扇風機が沈黙していた。部屋は妙に静かだった。風は生ぬるく、音羽は寒気めいたものを感じて薄手の上着を羽織った。
「音羽」
 外へ出て行こうとした音羽と玄関先で鉢合わせしたのは、緑子と棗だ。珍しい組み合わせだった。彼女らは泣きじゃくる叶を抱いて、困惑の表情で音羽に問うてくる。
「なんで叶は泣いてるんだい?さっきから全く要領を得ないよ」
「真砂が家に居ないんだ。叶が昼寝している間に外に出たらしいんだけど」
「買い物じゃないの?」
「俺もそう思う」
 棗の気だるげな声に、音羽は頷いた。実際、家の鍵はかかっていたし、見て回った際戸締りもされているようだった。少し買い物に出た。その程度のことであるような気がするのに。どうして叶はここまで脅えたように泣いているのだろう。
 三人で首を傾げていると、外から車のエンジン音が響いてきた。隻の車だ、と音羽は思った。玄関の扉に手をかけた瞬間、エンジン音と引き換えに耳に届いた叫びに、思わず音羽は身をすくませた。
「嫌いなら嫌いと、そういってくれればいいの!」
 真砂の叫びだった。
 ただいつもの彼女の声量を鑑みれば、明らかに不自然な叫びだった。涙さえ滲んでいるのかもしれない。玄関の扉をあけることも躊躇われて、音羽は背後の緑子、棗と顔を見合わせた。緑子にすがり付いていた叶は、びくりと身を震わせている。
 戸をそっと開けると、玄関先で顔を紅潮させて叫んでいる真砂と、車から降りたばかりらしい、当惑の表情を浮かべた隻がいた。
「嫌いなわけではないよ」
 対する隻の言葉は穏やかだった。子供をあやすようでいて、どこか冷たく突き放した物言いでもあった。
「ただ迷惑なだけだって、ずっと言ってる」
「それを嫌いっていうんじゃないの?!」
「そうじゃないんだよ真砂ちゃん。何度も言うようだけど、俺は君を嫌ったわけではないんだ。君の存在そのものが迷惑なわけじゃない。ただ――」
「迷惑じゃないのなら、どうして駄目なの?!あと少しなの。ほんの少しなの!お店のお客みたいに、ほんの少しの間だけ、夢見させてくれたっていいじゃない!」
「真砂ちゃん――」
 閑散とした住宅街。時刻からしてそれほど人気はないようだが、あまり大声で叫ばれていいようなものでもない。隻がひとまず[たしな]めようと何かを囁いてはいるが、真砂は耳を貸そうともしなかった。彼女は華奢な肩を震わせて隻と対峙すると、しばらくしてその場を離れた。家に、戻る様子はないようだった。公道のほうへと走り出す。
「真砂!」
 彼女を追って走り出したのは、緑子だった。玄関の戸を勢いよく開き、その巨体に似合わぬ俊敏さを見せて、真砂を追いかけていく。続いて玄関先を飛び出したのは棗だった。
「隻。何があったの?」
「……ご覧の通りだよ」
 棗の問いに、隻は顎をしゃくって応じて見せた。それ以上の説明はいらないという風に。今の状況を、把握できなかったものはいないだろう。幼い叶を除いて。
 それは確かにそうだ。が。
「ご覧の通りじゃないだろう」
 音羽は隻に歩み寄り、真砂が走った方向を真っ直ぐ指差した。
「追いかけるんだ。隻」
「俺が追いかけたところで、彼女に言う言葉は何もない」
「問題は言葉じゃない!追いかけろ!」
「音羽。君が真砂に肩入れするのはわかるけど、それでも俺にはどうすることもできない。俺は彼女を女として決してみることはできないから」
「それでもいいんだよ!とにかく今は追いかけろ!」
 音羽は隻の手首をとって、駆け出した。手首を握られた隻は観念したのか、特に抵抗も見せず、手首を引かれるまま大人しく音羽の背後を走っている。
 道を走りながら、音羽は真砂の言葉を思い返した。
『もう、戻れないの』
 そういって、一人泣いていた真砂。
 静かに。
 壊れ行くように。
 そんな風に泣いていいはずがないと思った。世界中の誰も、そんな風に静かに泣いていいはずがないだろう。本当は親に縋って泣いてもいいはずなのに、そんな家族はもう居なくて、自分達は何年も一緒に暮らしていたのに、彼女の家族にはなりきれなかった。
 真砂が隻に抱いてしまった家族以上の思慕。自分が真砂に抱いてしまった焦燥。隻はもう、彼女を家族としてもみることはできないだろう。
全部全部壊れてしまったんだ。
 壊れてしまったのに、自分にはもう何も出来ないことはわかっていた。そんな自分に出来ることといったら、真砂の元に隻を連れて行くことぐらいだった。


「私達も行きましょうか叶」
 幼い弟を抱えあげて、棗は嘆息した。片手で叶を支えつつ、玄関の鍵をかける。叶は、今起こっていることが何を意味するのか判っているかのように、脅えた表情で棗を見上げてきた。
 彼の頭を撫でて、棗は真砂たちの後を追いかけた。

 そうして、僕らは。
 一つの物事の終わりを目撃した。


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