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Stage 7. 雨に煙るは夏の 4


 その少女が好きだった。
 だから彼女の心の動きはすぐにわかった。
「ただいま」
 遊び半分に行っている、宝石店の仕事から帰ってきた隻を、真砂がとびきりの笑顔で迎える。
「おかえりなさい!」
 どこか日陰のような印象の付きまとう真砂が、太陽のような笑顔を浮かべて迎えるのは隻だけだった。そのことに、棗は気付いていないはずがないだろうが、彼女の友人である昌穂曰く“半身”を失っている状態だったので、どうにもどこか腑ぬけていて、真砂の隻への想いを言及するつもりは一切ないらしかった。
「シャワー浴びてくるからご飯用意しておいてくれる?真砂ちゃん」
「もちろんです。バスタオル出しておきますね」
「ありがと」
 ぱたぱたと廊下へ駆け出していく真砂を見送った隻は、音羽を振り返ると首をかしげた。
「……なんか不機嫌そうだね音羽」
「俺はいつもこんな顔だ」
「……そう?」
「あえて言や、お前が帰ってくるのを待たされて、晩飯お預け食らっていることだな。早くシャワー浴びてこいよ。お前の準備が終わらなきゃ、俺が晩飯食えない」
「なるほどね」
 手短に済ませてくる、と彼は言い置いて、居間を出て行く。入れ替わりに居間に入ってきたのは、この家の主、緑子だった。
「宿題は終わったのかい?」
「終わった」
 食卓に頬杖をついたままそっけなく返答すると、いつの間にか背後に移動していた緑子に、頭を思い切りはたかれた。
 がたーん!
「うおぉっ!!!?」
 両頬を挟まれて、顔を天井に向けてあげさせられる。仰ぎ見たそこには、猛獣の類も裸足で逃げ出しかねない人間としてはどうかという顔があった。
「返事は、人の、顔を、みて!」
「ひふほはひひほふひはんはほ!(何時の間に移動したんだよ!)」
「ごめんなさいは?」
「……ほへへんははひ(ごめんなさい)」
「よし」
 彼女の大きく肉厚な手から解放されると、重りを外したかのように一気に身がかるくなった。一体どのような力で引っ張られていたのかしらないが、先ほどの気配も足音もしない移動の仕方といい、彼女の身体能力には時折首を傾げたくなる。
「腹が減って、不機嫌なのはわかるけどね。まぁちょっとお待ちよ」
「隻がキャラメルボックスをやめればいいと思うんだけど俺は」
 食事はなるべく家族揃って食べるというのがこの妹尾家のルールで、家族の面々がある程度の規定された時間内に帰宅する場合は、いくら空腹であろうが待たなければならない。隻が宝石店<キャラメルボックス>をやめれば、夕食の時間はもう少し早くなるに違いないのだ。
「世間一般じゃこれぐらいの時間に食べてるよ音羽」
「世間一般じゃ一家ばらばらで食べてるよ緑子」
「あぁいえばこういう。やだね誰に似たんだろうねまったく」
「誰だろうなー」
 呻きながら、音羽は畳の上に転がった。ひんやりとした藺草は、この蒸暑さをいくらかやわらげてくれる。
 隻はこれからホストの仕事だ。金銭的にはそれだけで十分で、別の仕事をする必要がない。
 だというのに、隻は仕事を掛け持ちしている。
 忙しいことだ、と思うと同時、彼がどうしてそのようにスケジュールを詰めるのかも、音羽には見当がついている。
「一人で食事を食べることほど、空しいものはないよ音羽」
「そうかぁ?」
「まぁそのうち判るさね」
 視界の隅に、緑子の笑みが過ぎる。顔立ちそのものは恐ろしく化け物じみているのに、どうしてこの人はこんなにも魅力あふれる笑い方をするのだろう。
 緑子はそのまま部屋を出て行った。今日もまた“本家”に呼ばれているのだという。夕食を食べたらすぐに出かけなければいけないらしいから、支度をしにいったのだろう。
「……まぁ、やめたら困るんだろうけど」
 隻がキャラメルボックスをやめたら。
 真砂はどうするのか。
 キャラメルボックスに隻が勤めるようになったのは、真砂が隻への好意を隠さなくなってからだった。丁度そのころ隻の友人がその宝石店を始めたこともあって、ここぞとばかりに彼はその中に逃げ込んだ。そうして、隻は、真砂と家族の均衡が辛うじて崩れないようにした。
 そして音羽はもう一つ知っている。
 少なくとも、真砂と隻の関係の均衡は、もう崩れかけているのだと。

「あの」
 洗面所へと入りかけたところで、真砂と鉢合わせした。
「これ、バスタオル」
 満面の笑みでバスタオルを手渡してくる真砂に、隻は同じように笑みを返した。
「ありがとう」
 だが、それだけだ。
 当たり障りのない営業用の微笑。温かみのかけらもないと、音羽には酷評されている。生活を共にしている人間に向ける微笑としては、適切ではないのだろう。
 真砂に対して情がないのかと問われれば、否と答える。紫藤の家の騒動によって家族を失ったという事情から、この家に入ることになったらしいが、血もつながらぬ、顔すら合わせたことのない家に入り数年、真砂は良くやってきたと、隻は彼女に尊敬の念すら抱く。
 だが、隻は必要以上に彼女に情を見せることをやめた。
『好きなんです』
 おそらくそれは、少女が精一杯の勇気をかき集めていった言葉だったのだろう。
 確かに隻は、できる限り少女の面倒をみてきた。ただでさえ気の弱いところのある少女にとって、見知らぬ家族――特に妹尾家のような異質な家に入り込むには相当気をすり減らすことは想像に難くなかったからだ。一家の主である緑子も集も、この数年落ち着かぬ実家の騒動で家を空けがちだ。彼らを除けば年長者である自分が、気を砕くのは当然だと思えた。
 だが、それは過ちだった。
 どうして、ほんの少し情を傾けると、皆安易に好意と取り違えるのだろう。ホストの仕事の最中に幾度となく繰り返した問いを、安らげる家でまで、繰り返すことになるとは。
 幼いころから、眉目秀麗。それは自覚がある。緑子を除き、この家の人間はみな集の要素を強く受け継いで端整な顔立ちを持って産まれてきた。自分にしてみればそれだけだ。だが、それだけの為に、安易に人は惹き付けられた。平穏はかき乱されるのだ。
 また真砂も、その安易に惹き付けられた人間の一人であったらしい。
 まだ何か言いたげに立ち尽くす真砂に、隻は首を傾げた。
「まだ何かある?」
「……あ、ううん。ご飯の支度してまってますね!」
 気丈に振舞って、台所へと消えていく真砂の背を見送り、隻はゆっくりと洗面所の戸を閉じた。

「僕にすらわかったよ」
 叶は遊に言った。少し苦笑が滲んでいた。
「隻が真砂お姉ちゃんにとって特別だったって。僕にすらわかった。音羽にとって真砂お姉ちゃんが特別だったってことだって、僕にはわかってた。ただ、それが、恋なんだろうって、僕にわかるようになったのは全部終わってから、ずーっとずーっと後のことだったけど」
 当然だ。
 年端も行かぬ子供に、恋がわかるはずがないなどと、馬鹿にするわけでは決してない。特に叶は大人びている子供だと、遊は思うし、幼稚園の頃から真剣に、幼馴染や先生が好きだと宣う子供もいる。
 しかし、当時の彼らがしていた恋愛劇は、幼稚園児のそれとは異質なものだ。はるかに複雑な感情だ。それを、当時小学校に上がる前だった叶に理解しろというほうがおかしい。
「それにしても、音羽が」
 以前隻から耳にしたことがあったぶん、それほど衝撃的ではなかったにしろ、十分驚きに値する事実だ。というか、あの音羽が誰かに熱中していたということ自体想像が付かない。
 無愛想で、口を開けば憎まれ口しか叩かぬあの男が。
 どのように好意を表していたのだろう。


「音羽君は昔から優しかったよね」
「それほど優しくした記憶なんてないがな」
 テーブルに頬杖をついて、音羽は低く呻いた。真砂はくすくすと、口元に手を当てて忍び笑いを漏らした。
「小憎たらしいことばかりいってたけどね!」
「……」
「でも……しんどいときは傍にいつもいてくれたよ」
 真砂は瞼を閉じ、遠い昔を懐かしむように呟いた。
「嬉しかったな」


 ぷちっ
 サヤエンドウの筋を、黙々とむいている少女の前に、音羽は黙って腰を下ろした。山盛りになっているエンドウを、ざるの中から一房抜き出して、少女より幾分かぎこちなく、筋をむいていく。
「……手は洗った?」
 視線は手元に落としたまま、少女が尋ねてくる。
 ぷちっ……
「洗ったよ」
 ぷちっ……
 返事のかわりに、エンドウの房がむしられる音。
 扇風機が首を回しながら、自分達に風を送っている。扇風機の傍では、叶がタオルケットに包まって、幼稚園の制服のまま昼寝をしていた。
「……真砂」
 ぷちっ……
「……泣くなよ」
 そこで初めて。
 真砂は面を上げた。
 口元を引き結び、鼻の頭を真っ赤にして。目も兎の目のように赤くして、腫れた瞼は厚ぼったい。
 また、何かあったのか、と音羽は胸中で嘆息した。
 最近、少女は時折ひっそりと泣く。静まり返った家の中で、声を押し殺して。
 涙の理由は明白だった。
 隻である。
「なんだ?また何か言われたのか?隻に」
 真砂は首を横に振って、俯き、すすり泣き始めた。
 これでは、どちらが年上なのか判らない。
「……なんでいるの?音羽君」
「……いちゃ悪いかよ」
 居てほしくないと罵られるのならそれでもかまわない。
 だが、一人にしてはいけないような気がした。
 一人で泣いていてほしくはなかった。泣くのなら、せめて一人ぽっちではなく、背を撫でてやれる誰かのそばで泣いていてほしかった。今、彼女の傍にそれができる人間が自分しかいないのなら、ここにいるしかないではないか。
 その存在に触れるのが怖くて、撫でてやることなんて、できなかったけれども。
「しんどいの」
 真砂は言った。
「隻君は、何も言わないの」
「なら何を泣く必要があるんだよ」
「……何も言わないことが、しんどいの」
 彼女の言葉の意味を理解しかね、怪訝さに眉をひそめる。真砂は顔を両手で覆いながら、搾り出すような声音で呻いた。
「何も言わないの。うっとうしいとも、何も。ただ、前と変わってしまったの」
 表面的には、隻と真砂の関係は変わったようには見えない。だが、生まれたときから生活を共にしている兄弟だ。兄の、あの柔らかな笑顔の奥にひそむ冷ややかさぐらい、音羽は承知している。
「笑ってくれるの。優しいの」
「ならいいだろ?」
「でも」
 両手を離して、真砂が面を上げる。
 どこか引き攣った笑い。涙だけが零れている。震えた唇は血の気を失っていて、頬が、異様に紅潮していた。
「もう、一緒にふざけたり、冗談を言い合ったり、そういうのには、戻れないの……」
 家族として。
 笑い合っていた。
 隻と真砂は仲が良かった。隻にしてみれば、よく懐いた、可愛い妹を手に入れたようなものだったのかもしれない。
 猫の子を可愛がるように、隻としては親しく真砂に接していた。
 けれど、もうそのようには戻れないだろう。
 隻は選んだのだ。
 家族としてではなく、共に暮らす他人としての道。
 それはある意味、彼女を徹底的に突き放すよりも、残酷なことなのかもしれない。
 すんすんという、泣き声。
 聞くものの胸を酷く締め付けるそれは、やがて、いつの間にか降り出し激しさを増した夕立の音に紛れて消えた。


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