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Stage 7. 雨に煙るは夏の 3


 携帯電話を握り締め、メールに記載されていた待ち合わせ場所へと急ぐ。途中、降られた夕立によって作り出された水溜りを幾度か踏み抜いた。駆けるたびに、スニーカーが耳障りな水分を吐き出す音を響かせていた。が、それすらも気にならなかった。
 不快感を不快感と思わぬほど、気分が急いでいた。
 高揚なのか、それとも焦燥なのか。
 どうして彼女と連絡をとろうと思ったのかは判らない。彼女が家を出て以来何年も、連絡をとってこなかった。
 ただ、唐突に、会わなければと思ったのだ。
 遊との会話から、叶の押し殺していた悲鳴について知ったとき。自分達は――せめて自分だけでも、真砂に会わなければと思ったのだ。
 会って、何をいうかは判らないが……。
 駅前の広場。噴水の前。
 日暮れ前。駅の外灯が明るく噴水を照らし出している。点いたばかりの外灯の明かりを受けた噴水の飛沫が、きらきらと乱反射を繰り返していた。
 往来する人々の雑踏。談笑。電車の発着音。アナウンス。人待ち顔で佇む青年の、MPプレーヤーから漏れ出る音楽による、空気の震え。
 そういったものがぐるぐると渦巻く空間を、音羽は息を切らしながら見回した。
少し長めだった夕立のためか、街を包む空気はむっとしているものの、息苦しいような暑さを感じるほどではなかった。
 額の汗をTシャツの裾で拭って、再び周囲を見回す。目的の存在は、まだ姿を現していないらしい。
 嘆息し、空を仰ぎ見た音羽は。
「……音羽君?」
 記憶の奥を[えぐ]り出すような痛みを伴って、耳に響く呼び声を聞いた。
 振り返ると、記憶の中の少女の面影を残す若い女が、そこにいた。
「……真砂?」
 凡庸な女だ。
 醜いわけではない。だが決して飛びぬけて美しいわけではない。ほとんど剥げてしまった化粧は、もともとそれほど濃く施されていたものではないらしい。仕事着なのだろう。ベージュのスーツとタイトスカートを身につけてはいたが、装飾品はほとんどなかった。黒髪は首の後ろで軽く結われている。どこにでもいるような平凡な女。それ以上でも、それ以下でもない。
 かつて彼女を飾っていた明るい笑顔は、どこか陰湿な空気に取って代わられていた。
 ここ数日、集のファイルからこっそりと探り出した真砂の住所や仕事場を訪ねたが、結局会うことはできなかった。仕事場の同僚に自分の携帯の番号とメールアドレスを言付けたことが功を奏したらしい。
「久しぶりだね音羽君」
 真砂はそういって笑った。八重歯を口元に覗かせて。その笑みだけは、過去の名残を残していた。
「……あぁ」
 久しぶり、というその挨拶さえ。
 喉につまって、言葉にならない。
 一体自分は、この女に会って何をいうつもりだったのか。
 感動はない。
 高揚もない。
 ただ、哀しかった。
「お店に入ろうか」
 立ち尽くすばかりの音羽に、かつて妹尾家に家族の一員として溶け込んでいた女は、見かねたように提案した。
「アイスコーヒーぐらいなら奢るよ?」
 肩をすくめた彼女の笑みは、風前の灯を思わせる弱々しさを連想させる。
 ただ、哀しかった。
 彼女の時は、自分達とともに、止まっていた。
 そのことをようやく確認したからだった。


「本当に、真砂さんが緑子さんを……その」
 殺したのか、という言葉は、口にするにはあまりにも重く、物騒だった。
 叶は子供に似つかわしくない、老成した微笑を浮かべて、小さく頭を振った。
「本当は、違うんだと思う」
「……え?」
「でも、真砂お姉ちゃんはそう思ったんだ。隻や棗、音羽もそう思った。だから真砂お姉ちゃんはここを出て行った……」
 一音一音、噛み締めるように叶は呟いた。
 真砂が彼らの母を殺した。実際はどうか遊はしらない。けれども、それが彼らの中での真実になり、そして居なくなった真砂を責める代わりに、彼らは沈黙でもって真砂に育てられた叶を責めた。
 責めるつもりはなかったにしても、責めたような形になった。
「でも違うんだ。皆、本当のことを知っていたんだ」
 あれは、と叶は言葉を続けた。
 以前、音羽が言っていたことをそのままなぞるようにして。
「あれは、事故だった」


「あれは、事故だったんだ」
 切り出し方は、実に唐突だっただろう。
 案の定、対面の席に腰を下ろす真砂は、一体何の話題かと問わんばかりに、きょとんと目を丸めていた。
「……どうしたの?突然」
「アレは、事故だったんだ真砂」
 再びそう主張すると、こんどこそ真砂は眉根を寄せて不快感をあらわにした。彼女とて、音羽の言葉の意味を理解しかねているわけではないだろう。
「今更、それを言うためだけに、私に会いたいって、伝言残したの?アパートまで来て?仕事場まで訪ねてきて?」
 彼女は可笑しくてたまらないというように肩を揺らした後、音羽に向き直り渋面になった。
「私の住所は知らせないでって、集さんに言ってたはずだけど」
「集は何も関係ない。俺が勝手に調べて、真砂を訪ねたんだ」
 集のことだから、息子が妙な動きをしていることぐらいは気付いているだろうが。
「それで、第一声がそれ?」
「……そうだ」
 そう。それを告げたかったのだ。
 真砂が妹尾家を去って以来、兄弟は誰も彼女に会おうとしなかった。無論自分自身、会おうとすることは今まで一度もなかった。何も言うべき言葉が見つからなかったからだ。
 会いたくなかったわけではない。会わなければならないと思っていた。言うべき言葉を、ずっと模索し続けていた。
「音羽君」
 真砂は微笑んだ。悲哀の滲む、陽炎のような、淡い微笑だった。
「確かに結果としてあれは事故だったけど。でも緑子さんが死んだことには変わりないでしょ」
 真砂は、繰り返し繰り返し考えた末の結論を述べるときのように、迷いなく断言した。
「緑子さんを殺してしまったのは私だったんだよ。それは、決して動かない」


「緑子さんは交通事故で死んだんだ」
「……交通事故?」
 首を傾げて問い返すと、叶は静かに頷いた。
「集を除く、皆の目の前で」
「え?」
 手元の麦茶に視線を落としたままの叶を見つめながら、彼の言った言葉の意味を理解しようと、遊は努めた。彼の意味するところはただ一つ。集を除く全員――つまるところ、隻、棗、音羽、そして叶の、全員だ。
「僕も本当は何があったのかよくわからないんだ。理解するには、僕は多分子供すぎたんだ。だから、想像した部分もあるけど、それでもいいよね?」
「うん」
 いつの間にか降り始めた夕立のためか、部屋は幾許か温度を落とし、温い風が開け放たれた窓から吹き込んでくる。
 遊は真っ直ぐに叶に向き直った。
 心の奥に仕舞いこんだ過去を、今、叶に吐き出させているのは自分だった。彼は溜め込み、それを消化しようとした。けれどもきっと、心の奥に溜め込んだ影は、腐臭を放ちながら、彼の人生をゆっくり侵食させていく。彼は遊に全てを告白し、楽になることを選んだ。
 遊が真砂について探りをいれ、彼に話させようとしているのは、叶を救いたいという純粋な思いからでは決してない。自分は興味本位で、彼の領域に足を踏み入れたのだ。遊はそれを肝に銘じながら、向き直った。目を、決して逸らしてはならない。
 叶が口を開く。
「あれは」


ただ皆不器用なだけであったし。
ただ皆理解していなかっただけで。
それが、恋心なのか、単なる思慕であったのか、憧憬であったのか。
愛情なのか。それは男と女としてのものか、友人としてのものか、家族としてのものなのか。
そういった過ちを、人は繰り返していくものだけれど。
誰だって、犯す過ちだけれど。
ほんの少しかみ合わなかった何かが呼び寄せた不幸だった。
ただそれだけのことだった。

――数年前のことだった。


 みぃーんみんみんみーしゃわしゃわしゃわしゃわ……
 蝉の声が降り注ぐ夏。うだるような暑さは幾度経験しても好きになれなかったが、夏そのものは決して嫌いではなかった。
「なー真砂ぉー」
 音羽は縁側で足をぶらつかせながら、洗濯物を干す少女の背中に呼びかけた。
「だからちょっと待ってって。これ干したら終わるから」
「早くしろよ」
「あのねぇ」
 くるりと振り返った少女が、額に皺を刻みながら口先を尖らせる。首元で緩く縛った彼女の黒髪が、太陽の光を照り返し、虹色の光りを放った。
「そういうんだったらちょっと手伝ってよ。七人分あるんだよ。七人分」
 仁王立ちをし、真砂当人は威嚇しているつもりなのだろう。だが少女のその面差しには、いまひとつ迫力がない。棗の冷笑の恐ろしさに比べれば、愛らしいほどだ。
「家事はお前の役割だろーが真砂。しっかり働けよ」
「あーもー」
 盛大にため息をついた少女は、再び音羽に背を向けて、籠の中で山盛りになっている家族の洗濯物を一枚一枚丁寧に拾い上げて、ハンガーを通し、竿に吊るしていく。または、竿にかけて、洗濯挟みをとめる。
「大体宿題みてあげるのに、何で私が早くってせかされてるのかなぁ」
「宿題見てあげるじゃなくて、宿題を見てもらうじゃないのか?」
「う、うっさいな!」
「大体小学生に間違い指摘されるって情けないとか思わないのかよ」
「だったら一人でやったらいいんじゃない?見てもらう必要ないでしょう。音羽君頭いいのに」
「小学生に宿題みてくれなんて、真砂はいえないだろ?俺から宿題一緒にやろうぜって言ってやってるんだから、ありがたく思え」
「普段は無口なのに、なんで口を開けば、憎たらしいことしか言わないのかなこの子……」
 彼女は小さく呻いて、それでも目を合わせれば仕方がないという風に笑った。
 集が忙しい緑子に代わって叶の面倒をみる人間として、この少女を連れてきたのは五年前のことだ。最初はこの少女ほどつまらない人間はいないと思ったものだ。凡庸で、どこか脅えが見えて。常に何かを恐れている様子が見て取れた。それが、居場所のない人間の持つ特有の不安定さだと気付くには、まだ音羽は幼かった。
 いつのまにか、少女は家族の一員として、自然に溶けこむようになっていた。それは少女の血の滲むような努力の結果だった。血もつながらぬ、顔も今まで見たことのなかった他人の家に入り込み、生活を、嗜好を合わせる。そのために、彼女の個性はさらに潰され、彼女は道化のように笑った。非凡な平凡さを持つ少女。音羽は、彼女が危なっかしくて仕方がなかった。いつ、潰れてしまうのだろうと、ひやひやと気を揉んでいるうちに、それが好意から来るものなのではないかと思うようになった。
 目が離せない。知らぬ家族の中で、危なっかしく、それでも賢明に居場所を作り上げようと、笑い続ける少女から。泣いてもいいよといいたかった。けれどもやはり泣く姿よりも笑う姿のほうが音羽は好きで、いつも日陰のしたに居るような印象がついてまわる少女が、明るい光の下で笑うと、胸をすくような切なさと嬉しさがこみ上げた。
 夏の空は眩しく、人の手で描かれたように蒼かった。
 音羽はその下で笑う、このごく平凡な少女が、好きだった。


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