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Stage 7. 雨に煙るは夏の 2


 琴子の主張はこうである。
 あのハンカチが遊への土産だというのなら、音羽が実際に買ったかどうかを確かめればすむことだと。
 どうして遊への土産だと、彼女は決め付けてかかっているのだろう。もしかして普通に返せと、音羽がいうかもしれないではないか。味噌汁の味を調えながら、遊はアンニュイにため息をついた。
「大きなため息だな」
「あ」
 噂をすれば、である。
「音羽。お帰り」
 それなりに体格の良い身体を、妹尾家の狭いキッチンに滑り込ませてきたのは音羽だった。外から帰ってきたばかりなのか、Tシャツの襟元で胸元に空気を送りつつ、彼は無愛想に頷いて見せた。
「あぁ」
 真っ直ぐに冷蔵庫に向かい、彼は中身を物色し始める。さて、どうするか。自室に置き去りにされたままの彼のハンカチに思いを馳せつつ、遊は火に掛かったままの味噌汁に向き直った。お玉で中身を掬って味を見る。味は、よし。
「今日の飯は?」
「ご飯とナスの味噌汁とオクラを鰹節であえたやつ。あと穴子ときゅうりの酢の物」
「何時できる?」
「あと少し」
 振り返ると、音羽は牛乳をパックに口をつけて直接飲んでいる最中だった。
「あ、こらそんな飲み方したら中身悪くなるよ!」
「安心しろ。空だ」
 飲み終えたらしい牛乳のパックを、そのままゴミ箱に放りなげた音羽に、遊は盛大にため息を零した。
「ちょっと、それリサイクルに出すんだから。洗うからこっちもってきてよ」
「……お前すっかり主婦だな」
 半眼で呻いた音羽は、しぶしぶながらも一度捨てた紙パックを拾い上げ、キッチンの流しに置いた。機嫌を損ねた様子は、見られない。珍しく素直だと、遊は思わずその均整の取れた横顔を眺めた。
「どうした?」
「あ?いやえーっと……あ、ハンカチ」
「ハンカチ?」
 鸚鵡返しに尋ねてくる音羽に、遊はチャンスだ、と自分を克己し、言葉を続けた。
「この間、借りた、和風のハンカチ。洗濯したんだけど」
「あ?あぁあれか……」
 音羽が呟きながら、遊をひたりと見据えてくる。身を引きそうになってしまうのをぐっと堪えつつ、彼の視線に耐えていると、音羽の手が視界の隅でひらりと舞った。
「いや。返さなくていい」
「え?くれるの?」
「……あぁ」
 彼は頷くと、紙パックを濯ぎに掛かった。シンクに水を溜めると、それで紙パックを濯ぎ始める。
「お前の涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった奴なんざ、もう使いたくないからな」
「……あ、さようですか」
 予想通りの憎まれ口を叩いてくださる妹尾家次男に、遊は思わず肩をこけさせる。あれは、女物でしたが、使うつもりでいらっしゃったのか、という喉元まで込み上げた突っ込みは、どうにか再び嚥下することで事なきを得た。
 ――もしかして、ユトちゃんへのお土産じゃない?
 琴子の言葉が脳裏を過ぎる。考えすぎだとは思うが、念のため、遊は一つ確かめておくことにした。
「あのさぁ音羽。あのハンカチ、音羽が買ったの?」
「……そうだが?」
 それがどうしたといわんばかりの音羽の解答に、遊はふぅんと相槌を返す。
 ……どうやら、笠音悪戯説は消えたようだ。
「どうした?まだ何かあるのか?」
「いや。んー」
 なんでもない、といいかけて、ふと遊は思いついた質問を口にした。
「そういえば、最近なんかやけに出かけてるみたいだけど、どっか行ってるの?」
 遊が仕事に慣れたせいもあるだろうが、それにしても音羽がフロント、もしくはボーイとして店に出る回数が減っている。
 家で見かけたのも久しぶりだと、遊は改めて思い返した。最近家で見ないからこそ、仕事場にまであのハンカチを持っていったのである。
 が、遊の質問に対して、音羽が浮かべた表情は、露骨な拒絶を表すものだった。
「え」
「関係ないだろうお前には」
 そっけなく言い切って、彼は水道の水を止める。紙パックを水切りの上において、タオルで手を拭うと、次男様はぴしゃりと遊に言い放った。
「無駄口叩かずさっさと飯の用意しろよ。居候」
 まるで閉まりかける扉をすり抜ける猫のような、しなやかで素早い身のこなしで、彼はキッチンを後にする。
 その残像を見つめながら、遊は呻いた。
「……ふぁぃ」


「……まったく」
 自覚できるほどに苛立ちの滲んだ呻きが、シャワーに混じる。
 音羽は身体に流れ落ちる水滴を眺めながら、毒づいた。
「笠音のアホが何も言わなかったら……」
 笠音の家の都合に付き合って旅行に出かけたのは数日前のこと。目的地は田舎にあるこれといって何もない温泉地だった。仕事半分の笠音は、宿泊最終日、日程中の憂さ晴らしとばかりに浴衣姿で土産売り場を練り歩き、無論音羽もそれに付き合わされた。
 晴れて恋人となったらしい日輪への土産をあれやこれやと選ぶ笠音に、付き合わされるのは、我慢できることではあった。が。
『ねー音羽もユトちゃんに何か買っていきなよ』
 家事全般やってもらってるんでしょ?日ごろの感謝を込めて何か贈ったって罰は当たらないよ云々。
 耳元でからかい半分に囁かれ、友人を黙らせるために購入したハンカチは、そのままゴミ箱行き確定のはずだった。
 が、どうしてか今、笠音の思惑通り遊の手元にある。
 蛇口を力強く捻って、水を止める。夏の汗は、べたついて鬱陶しい。洗い流すことで不快感が幾分かましになったことに満足しながら、音羽は風呂場から足を踏み出した。
 バスタオルを手に取りかけ、ふと、その傍に置かれた携帯電話のサブディスプレイの点滅に気がつく。
「メールか」
 誰からだ、と携帯のフリップを開いた音羽は、画面を一瞥すると同時、身体が強張るのを感じた。
 この数日、探していた人物からの、返事だったからだ。
「……真砂……!」


 部屋に戻ってポーチの中のハンカチを取り出す。物が少ない遊にとって、プレゼントは真にありがたいものであるが。
「琴子さんに結果はどうだったって絶対聞かれるよなぁ」
 客の中でも特に気安い少女のような夫人の姿を思い浮かべて呻く。先日のあの様子からして、ハンカチの行方、もとい存在意義は一体どうなったのだと訊いて来るに違いない。
 いそいそと箪笥の中にそれを仕舞いこみながら、それにしても、と遊は独りごちた。
「なんか、音羽の様子変だったけど」
 数日、どこかへ出かけているのかと尋ねただけのつもりだったのだが、それがどうも彼の癇に障ったらしい。ご機嫌な斜めなオーラがみるみるうちにあふれ出てくるのが手に取るように判ってしまった。
「……怪しいお店とかにいってるのかなぁ」
 音羽も健全な青少年であるし。もしかしたら彼女さんとかいらっしゃられるのかもしれないし。
 むしろ居ないほうがおかしいような気がするのだが。あれほどに美形なのだから。美形ぞろいの妹尾家であるが、特定の恋人がいると確定しているのは棗だけだ。遊にとっては非常に不可解なことである。
 こんこん
「はいはーぃ?」
 軽いノックに返事をし、裸足の足をぺたぺた言わせて狭い部屋を移動する。戸をあけると、頭一つ低い位置に、ふわふわの髪につつまれた頭を発見した。
「……叶くん?」
「……こんにちは。ユトちゃん」
 そういって、ぎこちない微笑を返したのは叶だ。先日の件から数日。ある種の気まずさや、遊がバイトやら家事やら宿題やらと忙しなく動き回っていることもあって、叶と会話することはあれから皆無といってよかった。叶は盆の上に麦茶のグラスを二つのせて、にっこりと微笑んだ。
「ちょっとお話したいんだけど、時間大丈夫?」
「へ?あぁ……うんそれはいいけど」
「お邪魔します」
 遊の横をすり抜けた彼は、盆を畳の上に置いてその傍に腰を下ろした。彼の目配せに従い、遊も続いて腰を下ろす。
「はい。これユトちゃんの分ね」
 にこにこと人当たりのいい笑みを浮かべて、彼はグラスを遊に差し出した。
「はぁ」
 間抜けな声を漏らしながら、遊はグラスを受け取った。表面の結露したグラスは、手にひんやりと心地よい。グラスの縁に口をつけ、ちびりと麦茶に下をつけながら、叶は一体何の用なのだろうと首をかしげた。
「……えーっと、叶君?」
「ごめんね、ユトちゃん」
 叶は畳の上に視線を落としたまま、唐突に口を開いた。驚きに瞬きを繰り返す遊に、彼は面をあげ、弱々しく微笑みかけてくる。
「この間のこと。謝っておこうかなって」
「あーまぁー私は別に」
 何もしていないし。
 どちらかといえば、彼はみちるに謝るべきであって、遊に対して謝るようなことは何一つしていないと、遊は思う。
 が、彼はそうは思わないようだった。
「ほら、家に来なければ良かったのにって、いっちゃったし」
 ――どうして家に来たのさ。ユトちゃん……。
「え?」
 ――ユトちゃんが来なければ、僕は真砂お姉ちゃんの味方でいられたのに……。
「あー」
 そんなことも、いっていたか。
 遊はこほんと咳払いし、子犬が頭を垂れるように、しゅんと肩を落とす叶の肩を、軽く叩いてやった。
「気にしなくていいよ」
 叶の発言が、決して遊を嫌ってのものではないと、遊は知っている。だからこそ、それを気に止めたことは一度もなかった。
 家に入り込んできた異物を、最後の一線にまで、踏み込んでくる異物を、拒絶したくなる。嫌っては、いなくとも。それは、当然のことだ。その発言を、遊は恨みたいとは思わない。
「でもみっちゃんには謝っておいたほうがいいかもね」
「……う」
 心底嫌そうに表情を歪めたところをみると、まだみちるとは冷戦状態であるようだ。
 叶は小さく、子供に相応しくない老成した嘆息を零して、頭を振った。
「僕は」
 正座の上に置いた拳を強く握り締めて、彼は口を開いた。
「なんか、嫌だったんだ。真砂お姉ちゃんが、皆の記憶から消えていくこと」
「うん」
「僕の記憶から、消えていくこと」
「……うん」
 叶はいつの間にか真っ直ぐに、遊を見つめていた。が、その瞳の奥では、心細さが変わらず揺れていた。背伸びをし続けた、幼い幼い、子供。
「……真砂さんって、どういう人だったの?」
 遊はかねてからの疑問を口にした。
 真砂。
 かつて、遊と同じようにこの妹尾家に居候していた少女。
 かつての妹尾家の面々に挟まれ、写真の中で満面の笑顔でカメラに向かい合っていた少女。
「約束だったもんね。話すって」
 叶はにこりと微笑み、話すよ、といった。
 あまり、他人の事情には踏み込むべきではないと、遊自身わかってはいるけれども、気になることがある。
(どうしてあの時、真砂さんがあそこに)
 叶とみちるとの件の後。音羽から、ハンカチを借り受けた――今となっては譲り受けた、際にみかけた女。あれは真砂だ。間違いない。遊は確信をもっていた。
 残像のように、脳裏にこびり付く柑橘の香りに包まれた女は、どこか平凡で、そして暗い影があった。そしてきっとその影は、妹尾家の面々の心の隅に棲み付いている。
 特に、この少年の心の片隅に。
 真砂を知ることは、おそらく遊が同じ轍を踏まないための、教訓になるはずだった。
 暗い影を、心の隅に棲まわせない為の、教訓に……。
「真砂お姉ちゃんが、どういった理由でこの家に来たのか、僕は小さすぎて覚えてない」
 隻が、言っていた。
「忙しかった緑子さんのかわりに、叶君の面倒を見たのが、真砂さんだって聞いたけど」
 緑子の家の都合で、引き取られたのが真砂だと。
「うん」
 叶は頷いた。
「僕は実際、緑子さんじゃなくて、真砂お姉ちゃんの子供なんだって、思ってたよ。それぐらいずっと面倒みてくれていたんだ。真砂お姉ちゃんは、それぐらい家族に溶け込んでたし。真砂お姉ちゃんがずっとあのまま暮らしていくんだって、僕はあの日まで疑ったことはなかったよ」
「……あの日?」
 ばたばたと。
 開け放たれた窓から入り込んだ風が、カーテンを大きくはためかせた。ばたばたばた。夏の温い風。雨の匂いを含んでいる。
 夕立が、降るのかもしれない。
「真砂お姉ちゃんが、緑子さんを殺した日」
 カーテンの翻る音に混じって、叶の声がか細く響いた。


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