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Stage 7. 雨に煙るは夏の 1


「お久しぶりですねぇ」
「えぇ全くです」
 相手の挨拶に鷹揚に頷いて見せて、集は男を観察した。
 真夏だというのに葬式にでもこれから出席するかのような黒いスーツに黒いネクタイという頭の先からつま先まで黒尽くめの出で立ち。日に一切焼けぬ白い額を同じく白い手で拭っている。ほとんど瞳を確認することのできぬ、細い両目。
 京都の嵐山。とある料亭に席を取り、顔を合わせたのは、時折仕事柄縁のある男、通称糸目だった。
「それで、一体どういうご用件で?」
 廊下の縁側。まだ夕刻とはいえ、刺すような夏の日差しが強く差し込んでいた。むっとする熱気が庭先に陽炎を作っている。獅子脅しと風鈴の音が僅かに熱さをやわらげていた。
 糸目の問いに、集は頷いた。
「あの時の礼ですよ」
「あの時……あぁ」
 男は納得したのか大きく頷き、ただでさえ細い目をさらに細めて見せた。
「気を遣わなくとも、よかったんですけどねぇ」
「ま、けじめですので」
 どうぞ、と予め運ばれていた料理を勧める。少し早い夕食だが、糸目はそういったことは気にならないようだ。
「では遠慮なく」
 といって、黒塗りの箸を手に取ると、最初の料理――八寸に手を着けた。
「あの子の様子はいかがです?」
 あの子、と問われて、誰の話題なのか、確認することなく、集は微笑んだ。
「元気きわまりありませんよ」
 集がこの男から少女の身柄を引き受けたのはたった二回だが、そのうち一人は既に集の元から独立している。そしてそれはこの男も承知のことのはずだった。
 残るは一人しかいない。しかもその少女の身柄をこの男から引き受けたのは、ごくごく最近のことだった。
 集は箸に手をつけながら思った。件の少女は元気という言葉で片付けられぬほど精力的に動き回っている。それが、本当に彼女がその言葉通りの状態であるからか、それともそのように振舞っているかは集には判断が付かない。おそらく、その両方であろうが。
「それは何よりです」
「家に花があってよいことです」
「御宅は確か娘さんいらっしゃいませんでしたっけ?」
「花は二つあればなお場を明るくする。違いますか?」
「まぁその通りですね」
 それから食事をもそもそつまみながら、世間話に興じる。どれも当たり障りのない内容ばかりではあるが、どこかきな臭い内容であるのはお互いの職業柄仕方のないことではあった。
「あぁそうそう」
 思い出したように、糸目が集に箱を差し出したのは、仲居が食器を提げ終わり、食後の緑茶が卓の上で湯気を立てた頃だった。
「これ、忘れるところでしたよ」
 糸目が卓の上に乗せて差し出した箱は、小さなダンボールの箱であった。温州みかんの文字が大きく書かれた箱である。角が傷んで、黒いインクで何か殴り書きがされているところを見ると、スーパーかどこかで拾ってきたものを流用したものであるらしい。
「ゴミ捨てならご自分で行かれることお勧めしますよ」
「捨てても良かったんですけどね。実際」
 苦笑混じりに呻きながら、糸目がダンボールの蓋を開いた。眉根を寄せながら、集はダンボールの中身を見極めようと試みる。
「これは……」
 見た限り、それはがらくただった。
 手垢の付いた古い本、黄ばんだ楽譜。アルバム。写真たて。そういったものだ。売り出したところで一銭の価値もないことは明白だった。好事家でも手を出そうとはしないだろう。間違いなく、真っ直ぐに廃品回収かごみ収集所へいくべき類のものだ。
 集にとっては。
「家やら家具やら、制服ですとか、一銭でも価値のあるものは確かにお引取りさせていただいたんですが、これらは捨てる以外に処分のしようがありません」
 集は微笑んだ。
「判りました。ではこちらで処分いたしましょう」
「宜しくお願いいたします」
 糸目が緑茶の椀に手を伸ばしながら頷いた。
「ま、ほんの次いでですよ」
 椀の中の緑茶をあおり、彼は言う。
「貴方に貸しを作っておけば、仕事もやりやすくなるというものですしね」
 縁側の風鈴が、ちりりと涼やかな音を立てた。

「むぅー」
 手元にあるちりめんのハンカチを眺めながら、遊は呻いた。
 客足もひと段落し、フロントにいるのは遊一人だった。仕事もそれなりに板についてきた遊は、最近フロント業を一人で任されることが多くなっている。慣れてくればそれなりに時間をあけることも可能だった。が、一人は暇だった。
 奥からは笑い声や音楽が絶え間なく響いている。時折拍手や、歓声も聞こえる。それらはフロントに一人きりの遊の退屈と寂しさをこれ以上ないほどに浮き彫りにしてくれた。
 最初の客足が途絶えてからしばらくの間は、遊もぴしりと身を引き締めていたが、ほぼ一時間以上誰もフロント前を通らないとなると、さすがに気も緩んできた。
 そこで暇つぶしがてら取り出したのが、このハンカチである。
 音羽から渡されたものだが、いつ返そうか迷っていたのだ。仕事で一緒になるかと思いきや、本日音羽は非番だという。
 最近、彼は非番が多いような気がするが。
(どこを歩付き歩いてるのかしらね)
 さて、と仕事に戻るべく、ハンカチを直しかけた遊は。
「あら、綺麗なハンカチねー」
 唐突に眼前に現れた顔に目を剥いた。
「ひゃぉおおぉぅ?!」
 取り落としそうになったハンカチを遊は慌てて宙で捕まえて、目の前でぱちぱちと目を瞬かせている顔に向き直った。
「こっこっこっ」
「こけこっこー?」
「違います!って……こっとこさん……様!」
「様はいらないっていってるのにぃ」
 やぁねーと艶やかな桜色の唇に人差し指を当て、琴子が肩をすくめる。噂によると三十路は確実に越えているらしいこのホストクラブの常連客は、高校生といっても通じそうな愛らしい童顔を小鳥のように傾げて見せた。
「だってここには私とユトちゃんしかいないのにね」
「……一応規則ですんで」
「あら相変わらずとっても真面目。うん。お仕事の規約に忠実なのはいいことだわ。いいこね」
 よしよしと彼女に頭を撫でられつつ、遊はカウンター越しに佇む美女を見下ろした。
「お手洗いですか」
「ちょっと酔い覚まし」
 ふふ、と微笑む琴子の頬にはほんのりと朱が差している。緩く巻かれた髪がふわふわと踊っていて、危なっかしく遊の目には映った。
「大丈夫ですか?」
「えぇ。今日はちょっと飲み過ぎちゃった。それよりもねぇ、そのハンカチ」
「あぁ……これですか?」
 手に握ったままの音羽のハンカチを、遊は掲げた。琴子は大きく頷き、宝石のように煌く双眸をより一層輝かせてカウンターの中を覗き込んできた。
「もらい物?」
「いえ。借り物です」
「ちょっと見せてもらっていい?」
「どうぞ」
 琴子は遊の手からハンカチを受け取ると、しみじみ眺めながら懐かしそうに目を細めた。
「温泉街のお土産屋さんで売ってそうよね」
「ですよね」
「でも良い和柄ねぇ。ちょっと珍しい柄。私も小さい頃、こういうもの旅行先でいっつもねだってたなぁ。ちりめんのお財布とか。ちょっと懐かしくなっちゃった……」
「音羽から借りたんですよ」
 遊にハンカチを差し出していた琴子は、呆気に取られた表情を浮かべて、瞬きを繰り返す。音羽はホストではなく、源氏名を持っていない。よって、よりによって琴子が、音羽という名が誰を指し示すものなのかわからないということはありえない。どうしたのかと反応を待つことしばし。怪訝さに首を捻った遊の耳を、琴子の高めの声が貫いた。
「うそぉぉおおぉ!!!!」
「う、嘘じゃないですよ」
 琴子から受け取ったハンカチを、腰のポーチの中に仕舞いつつ遊は呻いた。
「だってその柄、女物よ」
「いや、まぁそうですけど……」
 どうみても、男物とはほど通いハンカチだとは、遊自身も思っていた。が、音羽のものであるのは間違いないだろう。でなければ、涙鼻水まみれの顔に押し付けるわけがない。
「でも、音羽から押し付けられたんで。この間音羽温泉か何かに行ってたらしくて、その帰りに押し付けられ……貸してくれたんです。真新しかったんで、買ったばかりだと思いますけど」
 女からの贈り物、というわけではないだろう。見て明らかに女物とわかる和風のハンカチを、音羽に贈るなどと、嫌がらせ以外の何でもない。
(いや、案外笠音君とかやりそうだけど)
 旅行に笠音が一緒にいったのならば、可能性としてはありえる。
「ねぇねぇ」
 琴子に肩を叩かれ、物思いから我に返った遊は、彼女が浮かべる、何か悪戯を思いついた子供のような笑みに思わず身を引きかけた。
「それ、もしかしてユトちゃんへのお土産じゃない?」
「…………はぃ?」
 琴子の言葉を咀嚼するのに、多少の時間を要した遊は、思いっきり首をかしげて全力否定した。
「いや、それはないでしょう」
「えーそんなことないわよぅ。だって女物よ。旅行帰りだったんでしょ?新品のままユトちゃんに渡したんでしょ?」
「まぁ……シール付いてましたんで」
 涙鼻水まみれになったハンカチを洗濯しようとして、まだ正方形の隅にぴったりと張り付いたままの商標ステッカーを発見したことを、遊は思い返した。でしょ!と琴子が激しく同意している。確かに遊はハンカチが女物で、且つ新品であり、それを旅行帰りの音羽から借り受けたことに対しては肯定を示したが、琴子の「でしょ!」には違う意味が含まれている気がしてならない。
「あの音羽君が。茜君もうかうかしていられないわよねぇ」
「いえあのですから。違うと思うんですけど……」
「わからないわよ」
 隻のことを持ち出して楽しそうに――それはもう思考がどこかの世界へ少しとび気味だと見て取れるほどに――笑う琴子をなだめに掛かった遊は、鼻先に突きつけられた彼女の白い指にたじろいだ。
「う」
「だったら聞いてみればいいんじゃないかな」
「まさか。そんなこと聞けませんよ。いくらなんでも――」
 土産かと尋ねるまでもなく、自分達の関係を鑑みるにそんなことはありえない。さして親しいわけでもないというのに――最初に比べれば、口数は増えてきてはいたが。
「大体、音羽の性格からして、そんなこと白状すると思いますか?」
「うーん……それもそうよね」
 遊に突きつけていた人差し指を引っ込めて、琴子は納得したのか、不満そうに呻いた。
 音羽のことだ。もし仮に、このポーチの中のハンカチが本当に遊への土産だったとしても、そのようなことはおくびにも出さないだろう。遊の使ったものなどもういらないと、平然と宣ってそうだ。
「でもねユトちゃん」
 琴子はまさしく天使の如き柔らかな微笑を浮かべ、なおも主張した。
「音羽君は、何でもない人の為に、買ったものをあげたりはしないと思うな」


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