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Stage 6. 猫が歌う初夏の賛歌 10


「あー本当に気をつけなあかんでホンマにホンマにホンマに」
「いい加減に離れてくださいよ昌穂さん……」
 頬擦りせんばかりの勢いでしがみついている昌穂に呆れ混じりのため息を漏らしたのは、無論みちるである。それを眺める遊は、苦笑せざるをえなかった。敦基は見ないフリをして主婦の人たちと談笑に励み、足元では猫が顔を洗っている。いつもの平和な猫招館の光景である。
 みちるの怪我は叶に負わされたものではなく、みちるが悪戯をしてきた猫を追いかけた先で派手に転倒したためということになった。転倒して脳震盪を起こしているところを、遊に発見された、そういうことになった。
 叶のことを伏せたのはほかでもないみちるの希望によるものだ。そのほうが彼に恩を売れますよね、とはみちるの弁である。したたかと褒めていいのやら悪いのやら。何はともあれ、頬と手の甲に大きな絆創膏をぺたりと貼り付けて、今日も猫招館にパンを届けにやってきたみちるに、昌穂は大げさともいえるほどの狼狽をみせて、先ほどからべったりくっついたままだ。
「てんちょーそろそろお仕事してください」
 という遊の諫言にも耳を貸さず、店長昌穂は職場放棄したまま。普段真っ当な思考回路の持ち主なだけに、どうしてみちるが絡むとここまで変態さんに早変わりしてしまうのか、本当に謎で仕方がない。
「いつかこの店潰れるんじゃないかな……」
 と、ギャルソンエプロンを外しながら、本気で店の将来を案じてみたくなる今日この頃である。
 今日のバイトはこれで終了。これから家に帰り、夕飯の支度をして、夕刻からクラブの仕事がある。みちるを置き去りにしていくことは、身代わりを置いていく気分で微妙に罪の意識に苛まれるのであるが、みちるは職場放棄する昌穂に呆れてはいるものの、嫌がっているようすはないのだからよしとすることにした。
「じゃ、おつかれさまでーす」
 手を振ると、顔なじみの客数人が遊に向かって手を振り、敦基が眠たげな目を遊に向けて微笑んでくる。昌穂は一瞬だけきりっと表情を引き締めてお疲れ様と口にした。その腕に埋もれかけているみちるは、ぎこちなく顔を遊のほうに向けて、はにかんだ笑いを遊に向かって浮かべてくる。
 思い出す。みちるをパン屋につれて帰ったときの、慌てた様子の店員たち。みちるを本気で叱りつけて、その後で抱きしめた人々。
 そして昌穂。何故みちるを猫かわいがりしているのかは知れないが、周囲に害はいまだ及んでないのでよしとしよう。
 猫のように置き去りにされたという愛情に餓えていた少女は、その空いた穴を埋められるだけの愛情をこの町で見つけられたのだろうか。
 ドアベルの音をまとって店を出る。猫が一匹、遊よりも一足先に、夏のむっとした熱気の中に飛び込んでいった。
 日射病防止のために帽子を被って、なるべく日陰を選んで歩く。通りを行く人々皆、このうだるような暑さに顔をしかめながら歩いていた。
 が。
 一人、前方を涼しげな表情で歩く男がいた。遊がこれだけ汗だくであるというのに、男の肌はさらりとして、まるで彼のみ別の温度の中を歩いているようだ。遊は、嘆息した。しばらく見ていなかった、けれどもよく見知った顔だった。
「音羽」
 音羽は振り返ることこそなかったが、その歩く速度が僅かに緩められていた。肩に、スポーツバッグのベルトをひっかけている。明らかに、旅行先からの帰途だった。
「仕事の帰りか」
 横に並ぶと、そう尋ねられた。どちらかといえば確認のような問いかけだった。遊は頷き、問い返した。
「今から買い物行くけど、なんか食べたいものある?」
「鳥のから揚げのレモン付け。枝豆。ビール」
「……それ、高校生が注文するものじゃないと思うけど」
「不満があるなら訊くな。食べたいものはあるのかと聞かれたから答えただけだ」
 もっともでございます、と遊は胸中で悪態をつく。最近会話をしてくれるようになっただけ進歩か、と気を取り直した。一体どういった心境の変化か、日輪の件があって以来、彼との間にはきちんとした会話が成立しているのだ。とはいっても、口調のとげとげしさはぬけないので、彼の心無い発言に閉口させられることもしばしばであるのだが。
 しばらく無言であったが、ふと遊は思い立って面を上げた。突然の遊の行動に音羽が僅かに眉をひそめる。どうした、と彼の口が開かれる前に、遊は躊躇の二文字をゴミ箱に放り込んで早口で問いを口にした。
「ねぇ、真砂さんが緑子さんを殺したってどういうこと?」
 蝉の。
 鳴きが。
 一瞬止まる。
 車のエンジン音も雑踏も。全てが消えうせ周囲の温度が冷えた。そういった効果を遊に与えるほど、問うた瞬間、音羽の目に宿った光は鋭く、冷ややかで、端整な顔から血の気が引いたのがよく見て取れた。
「なんで、お前が真砂のことを知っている……?」
 浮かべられた表情の迫力に怯みそうになりつつ、遊は続けた。棗に訊けばよかった。そう、少し後悔しながら。
「音羽兄さんがいない間にいろいろあったということだけいっとくよ」
 空を仰ぎながら口の中で言葉を転がす。彼の冷ややかな眼差しを、正面から受け止めるだけの気力がなかった。
 が、そうばかりも言ってはいられまい。遊は嘆息し、空に向けていた視線をそのまま彼のほうへと動かした。上背のある音羽の端整な顔。必然的に、見上げなければならない。
「……叶君が音羽君たちから責められているみたいだったって、言ってたけど」
 どういうこと、と駄目もとで尋ねる。音羽は遊の言葉の意味を咀嚼するかのように、ゆっくりと瞬きを繰り返した。
 沈黙が再び落ちる。自動車が時折エンジンの音を響かせながら遊たちの脇を通り過ぎていった。日差しに、音羽の顔がかすかに霞んで見える。目を擦り、再び彼を見上げると、そこには音羽の姿はなかった。
 彼は、とめていた足を、既に再び動かし始めていた。
「アレは事故だった」
 音羽はそう断言した。蝉の声すら寄せ付けぬ、はっきりとした声音で。
「あれは事故だった。誰一人として悪くない。不運に不運が重なった事故だった。原因は確かに真砂にあったといえばそうだが、どうしようもない」
 嘆息交じりに、音羽は繰り返す。
 あれは、事故だった。
「俺のいない間に、お前と叶の間に一体何があったのか知らないが、真砂の件について叶が俺たちから責められているみたいだった、というのは……思い当たる節がないわけでもない」
 炎天下の中、一人エアーカーテンに区切られた空間の向こうにでも佇んでいるかのように、表情は涼しげで、無感動だ。眼差しは揺らぐことなく真っ直ぐ前を見つめている。ただ端整なその横顔は、どこか蒼ざめて見えた。
「俺たちは真砂と決別することで、全てを終わらせた」
 音羽の声音は淡白だった。
「悲しみ、憎しみ、やるせなさ、後悔。燻った……怒り。終わらせたつもりだった。だがかといってはいそうですかと、全てを割り切ることができるほど俺たちも器用じゃない。押さえきることの出来なかった感情は、俺たち兄弟にある種の緊張感を与えた。本来なら怒りをぶつけて然るべき人間――真砂自身、もういなかった。そういったもろもろの感情の渦が、真砂に一番近しい人間だった叶に俺たちの知らない間に、向かってしまった。そういう、ことだろう。おそらく。俺たちは……」
 音羽は一度言葉をきり、嘆息する。これから紡ぐ言葉を丁寧に選別しているかのように見えた。
「どのようにして叶に接すればいいのか判らなかった。あの頃は丁度クラブの仕事も、紫藤の家も、ありとあらゆることがごたごたしていて、俺も長い間放っておかれたし、叶はその最たるだった。真砂は叶の母親代わりとして面倒をみていたんだが、そのせいもあってか、俺や隻や棗とは少し距離を置いた存在になった。……真砂がいなくなった後、俺たちはどうやって叶に接すればいいのか判らなかった」
 母親が違うと、叶はみちるにいったという。
 おそらく、叶は本当に、真砂によって音羽たちとは一線を画した存在となっていたのだろう。五年間という時間の間に築かれた音羽たちと叶の関係は、血のつながった兄弟というよりも一緒に暮らしている親戚か何かという感覚に近かったのではないだろうか。真砂という存在を失った彼らは、突然叶が弟であるという事実を再認識し、当惑した。その当惑が、叶と音羽たちの間にさらなる壁を築いた。それが、真相ということか。
「何を、責めたというんだ。叶に。俺たちはただ」
「でもそういう風に叶君が思うってことは、単にどうすればいいか判らなかったとかいうだけじゃないんでしょ?真砂さんが一体何をして、どうして家を出ることになったのかとか、何で緑子さんが……その、お亡くなりになったとか、私には全然わかんないんだけど」
 家族を持ちながら、家族に餓えていた、演技することだけが上手くなった少年。
「でも、家族の前で、泣けないって、何かがおかしいんだよ。家族の前でも演技しなきゃいけないって、何かおかしくない?そりゃ真砂さんがいなくなったころだったらわかるよ。だって叶君五歳で、その頃音羽だって小学生で」
「ちょっとまてお前一体どこまで知ってるんだ?」
「細かいことは気にしない」
 遊はぴしゃりと音羽の問いを跳ね除けた。音羽が、僅かに鼻白む。
 音羽の疑問ももっともだが、今は遊がこの件について首を突っ込んだ経緯について詳しく説明している場合ではない。話の焦点はそこではないのだ。
「おかしくない?家族の前でも、まだ叶君は仮面を被ってるんだよ。泣けないんだよ。それってなんか、おかしくない?真砂さんがいなくなったばかりだったら、わかるよ。だけどもうみんな大人で。音羽だってもう高校生で。叶君が五歳ってことは少なくとももう五年たってるわけで。その間、何やってたの?」
 人は、誰の前でも容易く泣ける人間とそうでない人間がいる。
 たとえ後者であっても、本当に気を許した人間の前では泣けるものだ。けれども、叶はそれをしない。なける場所を選別する年齢には、まだ早いというのに。叶は泣く代わりに演技をする。成熟し、親離れの始まる思春期以降ならともかく、彼の年齢なら、家族は真っ先に泣ける場所であるというのに。
 一見、円満な家族。けれども叶は、その家族を、泣ける場所として見なさない。
 それは何かが、おかしいのではないか。
「遊」
「何か、おかしいんじゃないの?」
 糾弾しながら、思い返す。
 嗤いを浮かべる少年の頬を伝った。
 大粒の涙。
「遊」
 誰にも自分の気持ちなどわからないと。
 吐き出された慟哭。
「何」
「おかしいのはお前だ」
 立ち止まった音羽が、深く吐息した。少しばかり当惑したような眼差しで、彼は遊の目を直視してくる。
「なんでお前が泣いているんだ」
「……は?」
 蝉の。
 泣き声が雨のように降り注いでいる。アスファルトを溶かす勢いで照りつけてくる太陽。黒光りするアスファルトの上で、揺らめく陽炎。そして街路樹の陰。
 全てが、霞んでいる。
 遊は頬を手の甲で擦り、首をかしげた。
「……あ、あれ?」
「……もういい判った」
 音羽はスポーツバッグのサイドポケットに手を無造作に突っ込み、遊の顔面にそれを押し付けた。突如呼吸を阻んだそれに、わぷ、と間抜けな呻きを上げてしまう。遊は慌てて顔を押さえつけ、音羽が押し付けてきたそれが地に落ちるのを防いだ。
「……え、えーっと」
 音羽が遊の顔面に押し付けたのはハンカチだった。が、男物のハンカチには程遠い。真新しい、美しい和柄。旅行の土産屋などでよく見かける、和風のハンカチである。
「それで顔を拭け。……何があったのかは判らないが、何かが、あったんだな」
「……叶君、泣いてたんだ」
 遊の声は鼻声で、声を発している遊自身ですら聞き取りにくいものだった。音羽は驚きにだろうか、ほんの僅か目を見開き、口を閉ざしたまま遊を静かに見下ろしている。遊は鼻をすすりながら続けた。
「囚人みたいだったって。いなくなった真砂さんの代わりに責められてるみたいだったって。みんな上っ面に騙される。家族なんて、要らないって、そう、言ってた」
 罪は勝手に勘繰り、想像を膨らませ、一人堂々巡りに陥った叶自身にもある。
 同時に壁の存在に気付きながら、叶の子供らしくない物分りのよさに甘えて目を閉じていた音羽たちにもある。
 悲鳴が、遊の耳に残っている。遊がはじめて聴いた、叶の子供らしい、そしてどこか哀しい、叫び。
「お前は……」
 音羽は笑った。苦笑のようだった。
「俺たちから、悲鳴を引き出すのが、上手いな」
「え?」
 音羽の手が伸び、遊の頭を軽く叩いた。遊の勘違いでないというのなら――それは、親愛の情すら感じられるやり方だった。怪訝さに音羽の顔を見上げるが、彼の表情はいつも浮かべられている無感動なそれで、遊の当惑も他所に彼はくるりと踵を返した。
「ちょっと、どこ行くの?」
 慌てて背に声をかけると、帰るんだ、というそっけない返答。いつの間にか、自分たちは既に住宅街近くの交差点までたどり着いていた。
「お前は今から買い物に行くんだろう。鳥のから揚げレモン漬けとビールと枝豆だ。あと冷奴」
「だーかーらー。それ高校生が普通注文するメニューじゃないって」
 そもそもお酒は二十歳ですよ音羽さん。ビールなどと、当然高校生が堂々と注文すべきものでもない……少なくとも、常識内の範疇では。
「メニューを考える必要がなくなって楽だろう」
 さらりと音羽にそう言い返され、遊は口を噤み嘆息する。遠ざかる背中に舌をだすと、突如彼の足が止まった。悪意が伝わってしまったのだろうかと慌てた遊は、続いて響いた音羽の声に息を呑んだ。
「叶とは後で話す」
 彼の発言には、聞いてそうとわかる笑いが込められていた。
「お前はお人よしだな遊。人の厄介にすぐに首を突っ込む」
「……悪かったね」
 低く呻くと、音羽が後ろでにひらりと手を振った。スポーツバッグを重たげに提げた背中が、それでもしっかりとした足取りで、陽炎に沈む住宅街のほうへと消えていく。
 遊はその背中を見送って、ハンカチに鼻先を押し付けた。太陽の容赦のない照り付けのせいで、むっとした熱気が立ち込めている。遊自身、太陽の熱に当てられたか、それとも我知らずのうちに泣いていたせいか、身体に熱が篭っていた。その中で、麻で織られているらしいそのハンカチだけがひんやりと冷たく、柑橘系のすっきりとした匂いが鼻につく。
(……柑橘系?)
 遊が首をかしげたのは、その火照った体を冷ます匂いが、ハンカチから香るものではないことがわかったからだ。再び、ハンカチの匂いを嗅いで確認してみるが、ハンカチから香るのは真新しい布の匂いばかり。無論、貧乏な遊に香水など買う余裕はない。となると、この匂いは周囲の誰かが撒き散らしたものといえる。だがさすがの音羽も、仕事以外で香水を使うとは思えなかった。笠音の、移り香だろうか。
 その匂いの源を確かめようと思ったのは、単純な好奇心からに過ぎない。周囲に香水をつけた人物がいるのだろうかと、面を上げた遊は、急に飛び掛ってきた猫に驚きながら身を翻した。
 飛び掛ってきたのは、黒ぶちの、猫である。
 顔に乗られることはなかったものの、塀の上から飛び降りてきたのか、遊の肩口を踏み台にしてその猫はひらりと地面に着地した。
「なんなのよもう」
 悪態をつきながら遊は眉根を寄せ、猫が駆けていったほうを見送った。
 そうしてふと。
 目が、あった。
 猫と、ではない。猫がすれ違った女とだ。ジーンズにサンダル。ペールグリーンの涼しげなトップスをきた、飾り気の少ない女。長い髪を首元で一つに纏めた、化粧っけのない女だ。どこにでもいそうな、特に美人でもなければ、特に不細工でもない。本当に、その辺りにどこにでもいるような若い女。
 遊は、硬直した。距離にして僅か数歩。きつめの、柑橘の匂いが漂っている。女が、ゆっくりと後ずさりする。遊に怯えているかのように。
 遊は、記憶を引きずり出した。夏休みの初め、砕けた花瓶の破片に混じって畳に落ちていた写真。
 それに写っていた、少女の顔が女の顔と重なった。
「……まさご、さん?」
 蝉が鳴いている。雨のように、暑さを掻き立てる[こえ]が降り注いでいる。
 塀のそばの木陰で涼んでいたらしい猫が大きな欠伸を一つ。
 夏はまだ、続いている。


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