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Stage 6. 猫が歌う初夏の賛歌 7


 それが。
「……は?」
 先ほどの自分の追求に対する回答だと理解するには、僅かばかり時間を要した。
 遊は首と身体を傾けたまま、立ち尽くしていた。彼の言葉の意味を、理解しかねる。
「真砂ちゃんもよく俺に言った。俺が君に囁くような重さで。『だって私、貴方のことが好きだから。』……無邪気な子だったよ」
「……恋人だったんですか?」
 躊躇いがちの問いは、震える遊の喉をかすめて口から吐き出された。隻が笑う。冷ややかに。その笑みが示す意味は、否だった。
「同じ家に住んでいた子だよ。五年間だ。それなりに情愛もある。いい子だったしね。けれども恋愛ごとには遠い感情だった。俺は、ね」
 遊に頻繁に恋愛ごとを持ちかけてくる長男は、己のことを棚に上げて堂々とそう言い放った。そこまで冷たく言い切られては、隻を好いていたという真砂嬢もさぞや浮かばれなかっただろう。いや、お亡くなりになられてはいませんが。
 件の少女――今となっては立派に成人しているだろうが――に同情の念を寄せた遊は、ふと隻の言葉に引っかかるものを覚えた。
――俺は、ね。
「……俺は?」
「家庭内三角関係なのかな。それを知ってたのかどうか……何はともあれ、俺と真砂ちゃんのことに、一番心を痛めたのは、緑子さんだった。被害者も、緑子さんだった」
「……三角関係ってことは、もう一人、いらっしゃるってことで?」
「真砂を好きだった人間がね」
「妹尾家に」
「家庭内だからね」
「……叶君?」
「まさか。叶はそのときまだ幼稚園に入園する前後だよ」
 そう、隻がいうならば、残りは一人しか残っていない。
「おと、わ?」
 ご名答、という風に、隻が諸手を上げて微笑んだ。驚愕に、遊の思考が停止する。
「……以上。次回はデートのときに」
 彼はそういい、凍りつく遊の前を、ゆったりと通り過ぎていった。とんとんという階段を上る音に、はっと我に返る。慌てて階段の下まで駆けていって、踊り場を曲がる最中の隻に、遊は非難の声を浴びせた。
「え?!そこまで言っておいて?!全部話そうよ顛末!」
 手すりに手をかけながら、遊を見下ろす隻が、おどけたように肩をすくめる。
「全部言ったらユトちゃんデートしてくれなさそうだから」
「けちんぼー!」
「なんとでも。でもユトちゃんもそろそろ行かないと」
 そういって、玄関脇の壁にかけられた振り子時計を指差す。窓から差し込む明りをきらりと照り返す秒針は、ちっちっちと規則正しく音を刻んでいた。
「君も危ないんじゃない?」
 遊は、時計の針をみて、蒼白になる。
「ぎゃ――――!ち―こ―く―!!!!!」
 悲鳴じみた絶叫を上げる遊の視界の角、階段の踊り場では、隻が腹を抱えながら笑いを押し殺していた。

 

 猫招館は今日も平和だ。クーラーが無事修繕したとあって、遠のいていた客足も戻りつつある。家にいても無駄に電気を消費し、退屈なだけと悟った主婦たちが、同じ思いを抱える仲間たちと、おしゃべりに花を咲かせにやってくる。一人暮らしの老人たちが、磨きこまれ艶やかに鈍い光を宿す木製テーブルの並ぶ洋風の内装に恐ろしく似つかわしくない将棋セットを持ち込んで、[たむろ]する猫に癒しを求めてやってくる。
 遊は、ご婦人方の華やかな笑い声やぱちぱちという将棋を指す音をBGMに、カウンター席に頬杖をついて、アンニュイなため息を落としていた。
 バイトは完全遅刻であったが、店長の昌穂は不在だった。タクシー運転手に誘拐された、とは敦基の弁である。何ゆえタクシーの運転手に誘拐されるハメに陥っているのかはともかく脇に置いておくとして、状況的に遊が助かったのかそうでないのかは定かではない。なぜなら、遅刻を咎められなかった代わりに、敦基と二人で賑わいを取り戻した店を切り盛りしなければならなかったからだ。
 敦基は紅茶とコーヒーを淹れることにかけては天下一品である。遊はぼんやりと傍らのコーヒーのサイフォンを眺めながら、幾度か口にした敦基の淹れたそれらの味を思い返した。
 紅茶は薫りよく苦味なく。それぞれの茶葉の特色をよく引き出している。芳醇な味が口内に広がり、コーヒーは特有の苦味のあと、かすかな甘みが鼻腔の奥へとぬけて、潮が砂浜の貝を[さら]うように苦味を取り去っていく。そうして気がつけば、つい二杯目を頼んでいる己を発見するのだ。
 敦基は、確かに紅茶とコーヒーを淹れることにかけては天下一品である。が、片っ端から触れた機械を破壊していく。卵を躊躇なく電子レンジにかけるなどの奇行もまた絶えることはない。新米アルバイターの弱い立場のせいで、強く出ることもできずに――店長は遠慮なく、彼を殴れと主張するが――昼間の小一時間ほどで、遊は本日分の精気を使い果たしていた。
 が、こうして暇になってみれば、その忙しさはむしろ歓迎すべきものであったのだろう。多忙さは遊が思考の海に沈むことを許さない。店の客は腰をあげる気配はなく、ドアベルが新たな客を迎え入れる気配もまたない。こう暇であると、否応がなしに、様々なことを考えなければ、ならないではないか。
 遊は、メモ帳にぐりぐりとボールペンの先を押し付けながら、考えなければならない必須事項を脳裏に並べた。
 まずは、真砂のことだ。
 どうして自分が、たった一回写真を見ただけの娘について好奇心を抑えられなかったのか、隻の説明を聞いてようやく遊は納得していた。
 満面の笑顔で家族の一員として迎え入れられていた娘。けれども、隻がその存在に触れることに明らかな躊躇を見せた娘。
 彼女は、ある意味もう一人の自分だ。妹尾家に迎え入れられるまでの行程が似ているだけではない。もし遊が一歩、あの一家との歩み寄り方を間違えれば、真砂のように将来名前に触れることも禁忌とされるような存在になるのだろう――実際、彼らの間に何があったのか、詳細は判らないままであるが。
 真砂。その名前をどこかで耳にしたことがあると思ったのだ。笠音が、口にしていた。音羽について彼は何かを口にしかけ、その際に真砂の名前を口にしていた。結局、その先は語られることはなかったのだけれども。自分も、すっかり忘れていた。
 遊は、氷が溶けて紅茶と層を作っているグラスに、視線を落とした。真砂のことは、ひとまずおいておこう。これからの自分の未来のために、仔細を知りたくはあったが、かといって容易に踏み込んではいけないのだということは、隻の口調から汲み取っていた。
 あせる必要はないが、自分のあの家での位置を改めて考え直さなければならない頃合に来ているのかもしれない。
 かつて、隻に好意を寄せて、あの音羽に好かれていたというある意味脅威を抱かせる娘は、遊に否応がなしにこれからの身の振り方を考えさせる。隻があのようなあからさまな好意を見せてくることがなければ、能天気にしてもいられたのに――色恋沙汰など、自分にはほとほと関係のないことだと。
「デート、どこに連行されるんだろ」
 遊園地に水族館。遊と一回りも年嵩の人間が提案するデートの場所としては、妙に少女趣味だと思ってしまうのは、遊の偏見か否か。
 嘆息して、遊は考えるべきもう一つの必要事項に思いを馳せた。みちるについてだ。
 叶と派手な喧嘩をやらかした理由は未だに謎であるが、とりあえず彼女の苦手な存在が妹尾家末弟であることだけは確かだ。同じ区域に住んでいるのだから、学校が同じであり学年も同じとなれば、顔見知りであるのはむしろ当然であるといえる。この区域の小学校は、少子化の影響をまともに受けて、二クラスしか存在しないはずであるのだから。みちるに両親を亡くして妹尾家に居候していると告げたとき、彼女はかなり淡白な相槌を遊に返したのだが……思い返せば、それは叶という存在が彼女の脳裏を掠めたためであったのだろう。
 さて、問題は、どうして二人が喧嘩をしたのか、である。隻が言うように、叶は些細なことでその仮面を外すことはない。叶は、子供らしさから逸脱するゆえに、子供らしくあえて振舞って見せる子供なのだ。
 今日はもう昼を回ったというのに、弱冠十歳の勤労少女の姿はまだ猫招館に現れない。
 と、思っていたら。
「こんにちはー」
 現れた。
「みっちゃん」
 遊は立ち上がり、ドアベルの音をまとって現れた少女を迎えた。無地の水色のTシャツにジーンズスカートを身につけ、麦藁帽子を目深に被ったその姿は、飾り気も何もない姿だが、実に愛らしい。そう思ってしまうのは、変態ロリコン店長に毒されてきたからも知れない。足元を飾るビーズと色違いの皮紐で作られた可愛らしいサンダルは、昌穂からの貢物だと記憶している。十歳にしておっさんを虜にするとは恐るべし。一方で彼女の将来を案じたくもなる。
「すみません遅くなって。うちの店長が突然バケットじゃなくて黒豆パンを焼きたいと駄々こねて時間が掛かりました」
「あーいいよいいよ。烏龍茶飲む?」
「はい。いつもありがとうございます」
 食パンとバケットの入った紙袋をカウンターの上に置いた少女が、遊の申し出に丁寧なお辞儀を返す。ビバ、常識人同盟。まともな思考の持ち主に餓えていると、みちるの丁寧な応対に、ほろりと涙がでることもある。みちるに烏龍茶とお茶菓子を用意することももはや手馴れたものであった。
 本日のみちるセットはティーパックではなくきちんと茶葉から淹れた黄金烏龍茶と、見た目も涼しい柚子ゼリーである。緑の器に盛り付けられた、柚子の金色が美しいですね、とテレビの料理紹介のようなことを遊はこっそり胸中で呟いた。
 カウンター席にちょこんと腰掛ける彼女にデザートセットを差し出して、引き取ったパンをケースの中に放り込みつつ、さて叶のことをどうやってきりだろうかと遊は考えあぐねた。謝っていたよ、と一言言えばいいだけなのであるが――彼女があれだけ毛嫌いしている存在だ。遊が名前を口にするだけで、可愛らしい幼い顔が苦悶めいた表情に歪むような気がする。
 しばしの間、沈黙が落ちる。客の談笑ですらどこか遠い。そういえば、敦基はどこへと姿を消したのか……。彼一人でもいれば、多少間が持つのに。
 遊が一人で悶々と思考をめぐらせて幾許かしたのち、かちりというひときわ大きな陶器の触れ合う音が響いた。デザートを食し終わったのだ。遊は慌てて振り返った。
「あのみっちゃ――」
「妹尾君には気をつけたほうがいいですよ」
「…………はい?」
 みちるは、丁寧にスプーンを器の横に揃えおいて合掌していた。ごちそうさまでした、と控えめな声が響く。彼女の、茶色の双眸と視線がかち合った。たじろぐ遊に、大人びた少女は微笑んだ。
「妹尾君、面では愛想よく女の子たちからプレゼントを受け取って、そのまま真っ直ぐそれを焼却炉に放り込むような人ですよ。むかつくほどむかつくほどむかつくほど綺麗な顔に騙されないほうが身のためだと思います」
「うわみっちゃん今三回も言ったむかつくって!妬み入ってた滅茶苦茶妬みは入ってた!判らなくもないけど」
 つい突っ込みを入れてしまった遊は、はっと我に返った。彼女の科白のポイントは、その部分ではないのだ。
「じゃ、なくて。焼却炉に、放り込む?プレゼントを?」
「実際現場を目撃しちゃったんですよね。いやぁあの頃はまだ綺麗な子がいるなぁぐらいしかおもってなくて。私も若かったものです。もうちょっと人を見る目を養わなければいけませんよね」
「みっちゃん、それ、十歳の科白じゃないと思うよ……」
 妙にしみじみと呟く少女に、遊はげんなりとなった。誰だ稚い少女にここまでの科白を吐かせる原因を作った奴は。
「でも叶君みっちゃんに謝っておいてって今朝も言ってたけど」
「それが奴の手口です遊さんの前だから良い子ぶるならぬ天使ぶっているだけなんです騙されないください」
 ……どうも、叶であるらしい。
「喧嘩ってそれが原因?」
「いえ。それは私が妹尾君を嫌いになるきっかけでしかないんですけど。互いに互いが嫌いなんですけど無視できない関係ってありますよね?」
「そりゃ、あるけど」
 自分よりも六つも年下の年端もいかない少女から、聞かされたくない台詞ではある。
 過去のみちるに同情を寄せつつ、遊は尋ねた。
「どうしてそんなに[こじ]れたの?」
「男の癖にうじうじしているのが嫌いっていうの判ります?」
「うじうじって、叶君?」
「はい」
 みちるは烏龍茶をすすって頷いた。空になったグラスにすかさずティーポットからお茶を注ぎいれながら、遊は首を捻る。
「……どこらへんが?」
 カワイコぶる、というのは判るのだが、うじうじしている様子は見られないと思うのであるが。
「妹尾君って、お母さんいないじゃないですか」
「うん」
「だから、私のこと嫌いなんです」
「……ちょ、ちょっとまった関連性が見えない」
「どーぞくけんおーって、うちの店長が言ってたんですけど」
「同属、嫌悪」
 似たもの同士だからお互いを嫌っているという、そういうことか。だがみちると叶の一体どこに、同属という符号が当てはまるのか。
 みちるが再び口を開いた。
「うちもお母さんがいません。父さんも。私もともと父さんがいなくて、お母さんは私をあのパン屋に猫みたいに預け置いて、どっかいっちゃいました」


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