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Stage 6. 猫が歌う初夏の賛歌 6


「ゆとちゃん!」
「ぐおっ」
 背後からの攻撃に、遊は危うく口の中を満たす歯磨き粉を飲み込んでしまうところだった。むせ返りながら顧みると、にこやかに笑う妹尾家末弟。最近彼からの背後でドン攻撃をやけに頻繁に受ける気がするのは決して気のせいではないはずだ。
 とりあえずは磨き粉を吐き出して、遊は口の中を軽く漱いだ。
「えーっと、どうしたの?叶君」
「ごめんねぇユトちゃん。びっくりしちゃったね」
 悄然とした表情を浮かべながら、上目遣いに叶が見上げてくる。並みの女ならまずそこでノックアウトだ。何なんでしょう年上のお姉さんの心をくすぐるこの子犬めいた表情は。
「ど、どうしたの?」
 遊は頭を思わず撫でたくなる彼の表情に、ひく、と口の端を引き攣らせる。ここで負けてはいけない遊。用件を尋ねることが先決だった。
「えっとね。今日もユトちゃんお仕事だよね?昌穂さんのところで」
「え?うん」
 今日も午前と昼下がりまで、猫招館でアルバイト。今日はその後、クラブでの仕事もある。猫招館での仕事とクラブでの仕事の合間に、やってしまいたいことを脳内で羅列していた遊は、でね、という叶の言葉で我に返った。
「今日、散里さんくるかなぁ」
「あー多分くると思うけど。どうして?」
「この間ね。ちょっと喧嘩しちゃったから」
 一拍おいて、彼は申し訳なさそうに視線を落とす。逆光源氏計画に全く興味のない遊でさえ、その仕草にうっとなった。おそらく、少女と見まごう中世的な顔立ちがあるからこその技だ。普通の少年が同じことをやったら、気持ち悪さに蹴りだしたくなるに違いない。
「もし会ったら、ごめんねって、言っておいてくれないかな?」
「い、いい、けど?」
「本当?」
 ぱっと表情を明るくして、叶は遊の腕を強く引いた。何、と尋ねる間もなく唇が頬をかすめて行く。
「ありがとユトちゃん!大好き!」
 驚きに目を見開いた遊を置き去りにして、叶は狭い洗面所から姿を消して行った。
 さて、硬直せざるを得ないのは、無論遊のほうである。
 まったくなんてませたガキだ、と思いつつ、頬へのキスひとつで狼狽している自分の阿呆さ加減に嘆息したくなる。とりあえず、歯磨きを終えることにし、面を上げた遊は、そこに佇む存在に身体を萎縮させた。
「うわっ。隻兄なにやってんのそんなところでっ」
 隻である。
 午前中に遊も仕事に出ているせいか、最近彼と会話することが少ない。彼だけではなく、妹尾家の面々は、かなり会話の頻度が減ってきている。
 長女棗は現在東京。昨日お土産買ってくるわ何かあったら隻をこき使ってあげれば喜ぶわよマゾみたいに、と多少問題発言を残しつつ出て行った。クールビューティー次男様は、只今友人の守里氏とご旅行中であらせられる。まっこと、大そうなご身分で、とおもってしまうのは遊の僻み以外の何物でもない。
 隻も多忙らしく、朝食には出るものの、瞼を半分下ろしてもそもそ箸を口に運んでいる。朝食時、一番おしゃべりなのは集お父様と叶で、遊は二人の聞き役だった。
 食卓や仕事中を除けば、久方ぶりに間近でみる隻は、おかしそうに小さく笑っていた。
「そんなところって、歯磨きしにきたんだけど」
「え?じゃぁなんでそんなところでつったってんの?」
 んーと呻きながら、彼は叶が消えた玄関の方を一瞥する。そして、肩をすくめて遊に向き直った。
「……ま、いいよ。ちょっと奥に詰めてもらえるかな?」
 突っ立っていた理由は不明のまま。一体何であったのやらと首を傾げつつ、遊は隻に場所を譲るために洗面所の奥へと詰めた。五人家族の家だというのに、その空間はかなり狭い。改修工事を行ったほうがよいですよ、と集に進言してみるべきか。お金持ちの癖に、なぜかこういうところは貧乏臭いのだから。妹尾家の人間は。
「何の用事だったの?叶」
 うにーっと歯磨き粉を歯ブラシの上に乗せながら、隻が問うてきた。
「ふひ?はーはひひたほほはほほふぇ(大したことじゃないんだよ)」
「大した事じゃないねぇ。でもなんか、謝っておいてくれっていってなかった?」
「はぁ。ひふはほなひははなへくふはへんはひては(実は叶君が喧嘩してさぁ)」
「喧嘩?珍しい」
 歯ブラシをくわえた隻は、僅かばかり驚きにか目を見開いていた。歯磨き粉のチューブを棚に放り投げて、彼は言う。
「叶が他人と喧嘩することなんて滅多にないよ。まぁ俺が知っている叶の生活なんて微々たる物だから、実際は判らないけどね。でも叶は、自分を他人にとって好ましく見せることに長けてるし」
「は、はっはりへんひへるふすは(あ、やっぱり演じてるんすか)」
「顔の使い分けが得意だからね。年上には甘えるし同年代には目立つことを逆手にとって、逆にどんくさく演じてみたりさ。わからなくは、ないでしょ。ユトちゃんなら」
「なんはははっほくへす(なんだか納得です)」
 半眼になりながら、遊は叶の一連の行動を思い返す。いつもにこにこと笑いながら、自分に甘えて見せる彼は、やはり自分の役割を心得ているのだ。自分の前では、おそらく愛らしい弟分とやらを演じて見せているのだろう。
 少し怖い話ではある。だって末弟は小学四年生でございますよ。今からそれだけの演技ができると、将来が末恐ろしいではありませんか。
「ちなみに男の子?喧嘩の相手」
 歯磨きの手を止めて、隻が尋ねてきた。
「ひは。ほんなほこです(いや、女の子です)」
「女の子?!」
「みひふひゃんってひっへふ?はんやのうりほの(みちるちゃんって知ってる?パン屋の売り子の)」
「あぁ猫又製パン店の。うわ更に珍しい。同じ年じゃないか叶と」
「ほふひへ?(どうして?)」
「叶の演技は、特に女の子に対しては徹底しているからだよ。そのうえ同年代の女の子でしょ?喧嘩するなんて、めずらしいったらないね」
 何があったんだか、と漏らす隻の傍らで、遊は腕を組み、彼の言葉に納得してふむ、と唸った。
 妹尾家の家訓の一つに、女の子は大切に、とある。叶の相手を不快にさせない演技が特に女性に対して徹底している、というのも納得がいった。家訓は父上であらせられる集が敷いた、妹尾家絶対のルールだからだ。
 つくづくフェミニストの家族である、と遊は思った。音羽の自分に対する態度は、ひとまず目を瞑っておくことにして、ホストになるために教育されているといっても過言ではない。
 遊は歯磨き粉をぺっと吐き捨てて、水で口の中に残ったそれを洗い流した。しばらく水音と隻の歯を磨く音だけが洗面所に響く。タオルで口元を拭った遊は、歯ブラシ諸々を棚に仕舞いなおしつつ、隻を仰ぎ見た。
「非常に謎なんですが、どうして隻兄さんは歯ブラシくわえたままちゃんとしゃべられるんですか?」
「煙草くわえたまましゃべったりしてたら出来るようになった。ものは慣れ」
「へー。じゃぁ私の発音不明瞭な言葉をきちんと理解できていたのは?」
「愛のちから?」
「訊いた私もアホだと思うんだけどね隻兄さん。そういう回答を即座に口にするニーサンも非常にアホかと」
「え?こういう回答を聞きたくて訊いて来たんじゃないのかな?」
「ほざけ」
 笑顔で吐き捨てると、ウワツメターイとカタカナ発音棒読みで隻が呻く。歯磨きを再開する彼に、遊はじゃぁ、と最後の質問を投げてみた。
「真砂さんって、誰なんすかね」
 予想通りというかなんというか。
 隻の動きが、凍てついた。
 その端整な顔に浮かべられていた笑みが一瞬にして掻き消える。彼は無言のまま、カップを手に取り、水道の蛇口を捻った。水を汲んで、口の中を濯ぎ始める。
 先ほどまで漂っていた飄々とした雰囲気は張り詰めたそれに取って代わられていた。
遊はじっと、隻が洗顔をし、タオルで口元を拭う様を眺めながら、彼が向き直り、問いに答えてくれる瞬間を待っていた。が、隻は沈黙を保ったままだ。
「叶君が、教えてくれるっていったのよね。だけどみっちゃんとの喧嘩のこととかで、なんか誤魔化されちゃって。タイミングを逃したっぽいのですよ。ですので、隻兄に聞いてみようかなと」
 戸口に立って、出口を塞ぎながら遊は呟いた。隻がようやっと面をあげて、微笑んでくる。
「……気になるんだ?」
「うんとっても」
 彼に、遊も微笑み返す。
「そうやって、馬鹿みたいに判りやすく狼狽してくれるから」
 本当は。
 追求するつもりなど、なかった。
 叶が教えてくれると約束した。が、それは反故になりつつある。喧嘩現場を目撃したことによるある種の気まずさが、彼に約束を遂行させる力を遊から奪っていた。だが、真砂という人物に対して全く興味を失ってしまったというわけでもなく。
 以前、真砂という人物から、何気なく話題を逸らした隻。もし今回、叶が以前触れたようなこと――以前ここに住んでいて、高校を卒業する前に出て行った云々を、ごく普通に彼が説明したならば、遊はすぐに興味を失っていただろう。
 けれども、隻はそうしなかったのだ。口八丁、嘘を吐くことだってお手の物である人が、明らかな狼狽を見せるのだ。
 その上、と遊は思う。
 叶に説明されたことを鑑みると、どうも合点のいかない部分がある。何故、真砂は高校卒業を待たずに、家をでたのかと。普通に考えれば、高校卒業をしてからではないだろうか。
「……なんで、そんな風に慌てるの。ここに住んでた人だって、叶君いってた。私の前に、この家に住んでた人だって。みんなと一緒に。そういえば、いいだけの話じゃん。そんな風に慌てられたら、気になりますよ。隻兄さん」
「……君の前だと、俺はどうも正直者になりすぎると思うんだ。最近」
 彼は小さく笑った。苦笑だと、目に見えてわかった。
 やがて彼の自嘲めいた笑みは、子供が悪戯を思いついたときのそれに取って代わられる。怪訝さに遊が眉をひそめると、隻がタオル類の収められている棚に背を預けて問うてきた。
「キスしてくれる?」
「……は?」
「キスしてくれたら答えてあげるよ」
 開いた口が塞がらないとはこのことです。
 遊はにこりと笑顔を浮かべると、笑みを浮かべたまま首を傾げる彼に言い放った。
「阿呆か」
 隻の表情が、石化する。
「叶君も似たような条件を出して結局答えてくれてないわけですからキスしたところで隻兄さんが答えてくれるという保障はどこにもないわけでして、じゃぁいいですもう真砂さんって忘れますよあー私そろそろバイト行かなきゃくそー」
 立て板に水を流すが如く一息にまくし立て、遊は素早く踵を返した。気がつけば腕時計がひっそりと、家を出なければならないんじゃないですかい旦那と遊に主張している。
「うーわーちょっユトちゃん!」
「はぎゃ!」
 廊下に飛び出した瞬間、手首を隻に唐突に掴まれた。勢い余った遊は、壁に額をしたたかに打ち付ける。その場にしゃがみこみ、思わず隻を睨みすえた。近頃、不条理な痛い目にあってばかりなのは気のせいか否か。
「いたいですにーさん」
「ご、ごめんユトちゃん。でもあそこまで追求しておいてあんなにあっさり引き下がるって。普通、あそこでキスの一つぐらいしておこうよ」
「残念ながら、妹尾家の皆様のように安売りするキス持ち合わせてないんで」
「俺には安売りしよう。むしろバーゲン叩き売りで」
「用事がないならバイト行きますが。にーさんもキャラメルボックス遅れますよ」
 冷たくぴしゃりと言い放ち、遊は立ち上がった。少し強く言いすぎたかな、と思う。いやそれ以上に、年上に対する尊厳及び敬意の念が、最近自分なさすぎではないか。項垂れる隻を見つめながら、遊はこっそり胸中で反省した。かといって、胸の内を口にだせば、「うんそうだね、だから」と、からかい混じりの応酬が再開することは目に見えている。最近遊は、彼から寄せられる好意が、ホンモノであるのか単なる年下の娘に対するからかいであるのか、再び判らなくなっていた。
 嘆息する遊の耳朶を、隻の言葉が唐突に打った。
「判った」
「何がわかったんです?」
 戸口に佇む隻を見上げ、遊は尋ねた。隻は薄く、微笑んでいる。彼は――彼だけでなく妹尾の人間は皆――時折そういった笑みを浮かべる。何かを嘆いているような、何かを嘲笑っているような、今にも泣き出しそうな微笑を。
「隻兄さん?」
 あまりにも沈黙が続くものだから、心配になってつい顔を覗き込んだ遊は、悪戯っぽく細められた彼の双眸と目があった。
 思わず身を引きかけた遊の耳に、彼の言葉が届く。
「真砂ちゃんは叶の育ての親だよ」
 隻は一息にそう告げて、遊の反応を楽しんでいるかのようでもあった。
「育ての、親」
 隻の言葉を反芻する。
 予想外の、回答であった。
 妹尾家の母上でいらっしゃられる緑子女史がお亡くなりになってからならばいざ知らず。真砂が写っていた写真の中に、母上様は叶を腕に抱いて、きちんと写っていたではないか。
緑子がいるというのに、叶の育ての親が、自分と同じ年頃の少女。
 それは、つまり。
「叶はきちんと俺たちと血のつながった兄弟だよ。みんな緑子さんと集の子供。今ユトちゃん変な想像したでしょ」
 つまり……の続きは読心術に長けているらしい隻によってあっさりと否定された。あ、そうですか、と遊は苦笑を浮かべざるを得ない。先読み深読みは、しすぎないほうがよいらしい。
 隻が戸口を支えに頬杖をついて、目を細める。遠い昔を、懐かしむかのように。
「だけど叶が生まれたとき、いろんな事情で緑子さんは凄く忙しかった。緑子さんの実家が結構大きくて、ごたごたしていてね。丁度その頃のごたごたの関係で、うちの家に転がり込んできたのが真砂ちゃん。実家と家を往復して留守がちだった緑子さんの代わりに、叶が幼稚園に上がるまで真砂ちゃんが世話をしてた。……高校を卒業する前の秋、集の援助を受けて地方の短大に行くために、妹尾の家をでていった。彼女が今どこで何をしているのか、俺も知らない。……これでいいかな?ユトちゃん」
「それだけ?」
 身体を戸口にもたせ掛けることをやめた隻が、遊の問いかけに小さく頷く。
「それだけ」
「ならなんで――」
 遊は一瞬躊躇した。何故、真砂は高校卒業を待たなかったのか。そして、隻は真砂のことに対して口が重かったのか。そう、尋ねるべきか否か。隻はきちんと遊の要求にしたがって、真砂という人物について説明した。十分なはずだ。それで。
 それ以上訊くべきではないとは思うのに、その一方で、これは自分にも関わりのあることだと、どうしても思ってしまうのだ。真砂という人物は、これからの自分のあり方について関わりがあるような気がしてならないのだ。
「なんで、うろたえたりするの」
 それとなく話を逸らしてみたかと思えば、馬鹿馬鹿しいぐらいに判りやすく、狼狽する隻の姿がどうしても引っかかるのだ。
「キスはいいや」
「え?」
 隻は笑い、一瞬遊は話題の転換についていけず、間抜けな声を上げた。くすくすと笑った彼は、呆然とする遊に、子供に言い含めるような優しい口調で言葉を続けてくる。
「理由を答えたら、今度デートしてよユトちゃん。水族館か遊園地。映画とかでもいいけど。今は忙しいから駄目っぽいけど、ユトちゃんが暇なときに。俺、休みを合わせるから」
「……ででで、でーと?」
 舌をかみながら遊は隻の発言のメインポイントを復唱した。デート。しかも場所指定が水族館遊園地映画ときたか。百戦錬磨のナンバーワンホストが、そんな初めてデートする中学生カップルのような初々しい発言をしてよいのでしょうか。
「する?しない?」
「えーあーまーデート、ぐらいなら」
 その後夜のコースに連行されることだけは遠慮願いたいが。
 遊が承諾したその瞬間、隻の顔に喜色が広がった。子供が手放しで喜んだときのような明るさが顔に差し、気のぬけた炭酸水のような甘ったるさに目尻が下がる。遊は、足元から硬直すると同時に頭の先まで肌を紅潮させていくという器用な芸当をやりとげた。心臓がばくばく音を立て、開いた口が塞がらない。呼吸困難に陥りそうになりつつ、どうにか渇いた喉から言葉を。
「な、な、な」
 搾り出した……つもりであったのだが、いまひとつ上手くいかなかった。喉の筋肉が痙攣して、発音できる言葉は乳幼児レベルである。
 深呼吸をして、呼吸を整える。胸を幾度か撫で下ろしながら遊は思考の渦の片隅で、凶器だ、と思った。
 彼のあの表情は、凶器だ。常に隻の笑顔を胡散臭いと思い、この数ヶ月で耐性を幾許か身につけているというのに、あんな表情で不意打ちされれば、誰だって心拍数も血糖値も鰻登りだ。いや血糖値は関係ないか。
「ど、な……あーもーどうしてそんな、に、喜ぶのデートの一つで」
 額に手を押し当てて嘆息する遊に、隻はよどみのない笑顔でさらりと答えた。
「俺、遊のことが好きだからね」
 当然でしょう、といわんばかりである。
 この人はまたそうやって、冗談だかどうだか判らないような調子で愛を囁く。
 呆れというよりは恨めしさからくる眼差しを隻に叩きつける。だが彼はそれを真っ向から受け止め、笑いさえした。からかわれている、と思った刹那、ふつふつ込み上げる憤りを感じる。無言で立ち去るべく踵を返しかけた遊は、耳に飛び込んできた隻の言葉に、振り返らざるを得なかった。
「真砂もそうやって、俺のことを好きだといったね」


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