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Stage 6. 猫が歌う初夏の賛歌 8


 初めて耳にするみちるの事情に、遊は知れず息を呑んでいた。淡白に吐き出された言葉であるが、声音が僅かに震えている。
 沈黙する遊を見かねてか、みちるが笑顔を向けてきた。
「そんな顔しないでくださいよ。私毎日楽しいんです。いえ本当に変な人たちばかりで困っちゃうこと一杯あるんですけど、みんな優しいし。私パン屋のお仕事も嫌いじゃないし。友だちとあまり遊べないのは困るなって思っちゃいますけど、昌穂さんや敦基さんや遊さんとおしゃべりするのも楽しいし。……遊さんだって、お母さんとお父さん、いないでしょ?」
 言われてみればそうであった。みちるの境遇に衝撃を受けたが、遊の両親も博打で借金を残して事故死するというなんとも傍迷惑な人たちであったのだ。
「みんな、かまってくれるし。寂しくないです。全然。……それが、妹尾君にとってすればむかつくことなんだと思います」
「……叶君が誰にもかまわれてないみたいな、言い方」
「かまわれてないって、本人は思ってるみたいです。お父さんも、素敵なお兄さんもいるじゃないですか」
「隻兄さん?」
「え?誰です?えーっと、おとわさんっていう人です。あとお姉さんいますよね。音羽さんはいつもミニバケットと黒豆パン妹尾君に買って帰るし。もう一人、違うお兄さんいたんですね」
 ……本人のいないところで音羽の思いがけない面を二、三発見した気がする。話の筋には全く関係がないが、驚いた。そうかあのクールビューティー次男様はそのようなこともなさるのですか。
「サカウラミですよ」
 音羽に感心している遊を他所に、みちるが淡々と話を進めていった。
「気に食わないんです。同じ母親がいなくって、なのに、私も、自分で時々思っちゃうんですけど、もったいないぐらいいろんな人が、私のこと本当に気にかけてくれてて、だけど、妹尾君の周りに集まるのは、妹尾君がビックリすぐらい綺麗だからっていう理由で。それに、凄くイライラしてるんだと思います。八つ当たりされるこっちはものすごっく迷惑ですけど。あっ、笑わないでくださいよ!」
「ご、ごめ」
 心から迷惑そうな表情を浮かべたみちるに、遊はつい噴出していた。頬を膨らますみちるの表情があまりにも幼かったからだ。真剣な口調と表情のアンバランスさに、つい噴出さずにはいられなかった。
 とはいえども。
 表情を引き締めて、遊は考える。みちるから語られる事実は、棗や隻と共通する部分があるのだ。妹尾家は、誰もがぞっとするほど美しい。誰の肌も陶器のようだし、目鼻立ちは黄金比率でもって整っている。身体の造りも、指の先爪の形に至るまで、全てが完璧なのだ。
 その美しさを、愛でたいと思う一方で、人はその領域に踏み込むことに躊躇を覚えるだろう。彼氏彼女、あるいは親しい友人として、彼らの領域に踏み込めば、知らずのうちに彼らの美貌と能力に対する嫉妬が芽生えるに違いない。叶もみちるもまだ十歳。自尊心への危険を飛び越えてまで、彼らの苦悩を理解しようというできた人間は周囲に少ないはずだ。だから叶は、その理解してもらえない苛立ちを、唯一の理解者といっていいみちるにぶつけるのだろう。そのやり方が、まだまだ叶は子供だと、遊に知らせる。
 そこまでは理解できるが、腑に落ちない部分も、やはりある。
「でも、叶君には本当、兄弟がいるのにね」
 同じ悩みを抱える先達である兄弟たちになら、相談はできるはずだ。
「私もそう思います」
 みちるが嘆息した。
「だから、そういってやったんです。なんでお兄さんたちに相談しないんだって。だって、パン屋によってくれるたびに、土産だって言って、菓子パンかって帰るようなお兄さんがいるんですよ。絶対、一生懸命話を聞いてくれるに決まってるじゃないですか。なのに、こういうんですよ。母親が違う彼らには相談できないって」
「……は?」
「喧嘩の最中だったんです。うっかり言っちゃったっていう感じがします。その一言を私にいってから、余計に妹尾君、私に対してすっごく冷たくなったんです。みんなのいるところでは何もしてこないんで、逆に助かってるんですけど。だって妹尾君が一声かければ、転校生の私なんて一発で苛めの対象になっちゃいます」
「……なんか、大変だね。ケーキも食べる?チーズケーキあるけど」
「いいんですか?戴きます」
 遠慮の欠片もなくケーキの一言に飛びつくあたりが、みちるも子供である。遊は苦笑しながら、ケーキ皿を取り出した。みちるに奉仕することは、店長の昌穂に容認されているので、いくら貢いだとしても、褒められることはあっても咎められることはない。ホールのチーズケーキを切り取って、皿の上に盛り付けていく。ラズベリーソースとチョコレートソースを上からかけただけの、簡単な盛り付けなら、遊にもできるのだ。
 差し出されたケーキに、無邪気にフォークを入れる少女を眺めながら、遊は彼女が超えてきた困難を思う。その度合いは、想像も、付かない。
 遊の小学校の頃は、一体どんな風だったか。思い返そうにも、ただ、毎日歌を歌って、友達と遊び歩いていた記憶しかなかった。
 ケーキを頬張るみちるの頭を、遊はそっと撫でた。そして彼女に向けて口上する。彼女の今までの努力に対する労いを。そっと、口にした。
「頑張ったね」
 そういわれれば、ほんの少し、何かが許されたような、楽になったような気分になる事を遊は知っている。
 はにかみ笑いを浮かべるみちるを眺めながら、遊は胸中でこっそり、嘆息した。
 所詮、遊は妹尾家の中では他人に位置する。深く首を突っ込みすぎることも良くないことは判っているつもりだ。が、自分がここまで足を踏み込んで、引き下がれる性分でないことも、日輪の件で知り得ていた。
『真砂ちゃんは叶の育ての親だよ』
『母親が違う彼らには――』
 真砂という人物について、もう一度追求する必要がありそうである。
 今度こそは、叶本人に。

 

 とはいえども。
 叶に問い正したいと意気込んではみても、タイミングを逃してばかりであるのが、磯鷲遊という人間である。今日も朝から共に食事を造り、食卓を囲んで会話を続けているというのに、なぜか内容は井戸端会議を繰り広げるおば様方もビックリな世間話ばかりだ。やれ、ベストセラーミステリー作家が近くの猫屋敷に住んでいるだの、やれ、この界隈には怪しいタクシー運転手がいるだの、やれ、サッカーの試合に怪しいぐらいに嬌声を上げて写真をばしばし取る年齢不詳のオジサマがいるだの。
 というか、どうしてここまでトリッキーな方々の話題が尽きないのでしょう。犯罪はどうやら少なめなので、安全に暮らせる町であるが、時折このように変人ばかりが揃っていると子供たちの教育に悪いのではないかと本気で町の将来を心配みたりする。
 今日の朝食の席には、叶と遊の二人しか着いていない。集は帰宅しておらず、隻は何か用事があるらしく、日も昇らぬうちに出かけたようであった。
 まだ、涼しげな空気が部屋の中を満たす、早朝。
 に、響く笑い声。
「あははははははははははナニソレー!!」
「おっかしいでしょー!なんでーって思うでしょ!実はびっくり昌穂さんの知り合いらしくてねー」
「というかあの人もホント謎なんだけど!」
「だよねー!」
 二人でけらけらと賑やかに笑い声をあげ、その次の瞬間に遊は内心ぐったりとため息をついていた。せっかく邪魔者の入らない絶好の機会なのだ。気になることは手っ取り早く聞くにかぎるというのに、どうにも腰が重たいですよ磯鷲さん。
 そうこうしている間に朝食は終わりに近づいている。叶は朝からサッカーの練習であるらしい。廊下へ続く戸口には、型の崩れかけたスポーツバッグが置かれていた。
「……ちゃん。ユトちゃん」
「はひ?」
 箸をくわえたまま叶の求めに応じて視線をあげる。テーブルを挟んだ遊の正面を陣取っている妹尾家末弟は、愛らしいその顔にからかい混じりの笑みを乗せていた。
「面白いなぁユトちゃん。一体何さっきから百面相してるの?」
「ひゃくめんそう?」
「うん。笑ったり唸ったり首をかしげたりため息ついたり」
「……百面相っすね」
「面白すぎるよユトちゃん。……それともあれかなぁ?僕に、聞きたいことがある?」
 はっと息を呑んで、遊は叶を見つめかえした。朝食を既に終えたらしい叶は重ねた茶碗のそばに頬杖をついて、ゆったりと微笑んでいる。
「真砂さんのことだよね。約束だったもん」
 屈託のない声音で、彼はそういった。沈黙したままの遊に、彼は約束どおり、説明を始める。
「真砂お姉ちゃんは僕が五歳のときまでこの家に住んでた人だよ。
 そしてその説明は。
「紫藤の家……緑子さんのほうの、お婆様の家なんだけど、そこがすごくごたごたしているときの関係で、うちに来たらしいんだ。もっとも、僕はそのとき赤ちゃんだったから、全く覚えてないんだけど」
 隻が遊にしたものと。
「僕が五歳のときに、大学にいくために出ていっちゃったんだ」
 全く同じ内容。
 約束は遂行したとばかりに諸手を挙げ、叶が無邪気に小首を傾げる。
「他に質問は?ユトちゃん」
「それ、だけなの?」
「ん?うんそれだけー」
 言い切る彼の声音には、微塵の狼狽も躊躇も見られない。微笑む顔にも嘘の色はない。
 遊は、嘆息した。
「じゃぁ……」
 言い切る彼の、懐に、自分は今から踏み込むのだ。
 遊は一度唇を引き結んだ。
「真砂さんが、母親って、いうのは?」
 躊躇いがちに、一言一言区切って放った問いは、確かに叶の笑みを凍てつかせた。
 彼の頬の筋肉が、強張っている。それはそうだろう。唐突に、このような問いを投げかけられれば。
 ぴたりと時を止めた彼に、ごめんね、と遊は一度言い置いた。
「言い方が悪かったね。えーっと、叶君約束してたのに、今までちっとも教えてくれなかったから隻兄さんに聞いたの。真砂さんって、叶君の育ての親?なんだってね」
「あ――うん」
 ようやく顔に色を戻した叶が、にこりと微笑んで頷いた。
「そっか聞いたんだ。ごめんねユトちゃん。話すのが遅れて。うん。真砂お姉ちゃん、ずっと緑子さんの代わりに僕の面倒を見てくれててね。お母さんみたいなものだったんだ」
「へぇ。じゃぁ今でも連絡取り合ってるの?」
「知らないって、言わなかった?連絡先とか、全然知らないんだ。それに、育てのお母さんっていったって、本当にあんまり覚えてないし……。ユトちゃんも五歳のときのことを言えっていっても、なんだったっけって感じでしょ?」
「うん。まぁね。確かに最初真砂さんのこと聞いたとき、誰のことだかわからないみたいな、顔してたもんね」
 最初、写真を見つけて、話を逸らした隻の代わりに、叶に真砂のことを問うたとき。
 叶は声こそ強張っていたものの、ごく自然に、首をかしげていた。だから、彼女がたった五年間といえども叶の育ての親などという事実に驚いたのだ。
 たった、五年。
「でしょ。だって五歳までだもん。忘れちゃうよ」
 そう、五歳まで。
 忘れていてもおかしくはない。
 けれども。
「だったら」
 覚えていないはずがない。
「だったらなんで、母親が違うなんていうこと、言ったの?」
 みちるに、そのように、発言をするぐらいなのだから――。
「……え?」
 叶が、再び動きをとめる。
 今度こそ、驚愕の眼差しを遊に向けて。
 遊は待った。彼が言葉を発するのを。箸を茶碗の脇に置いて、手を、膝の上に揃えて。
 やがて叶は、ゆっくりと、俯いた。長めの前髪がぱさりと落ちて、彼の表情を隠す。遊は彼の顔を覗き込み、いつもはあどけない笑いに彩られている彼の端整な顔が、泣き笑いのように歪んでいる様を見た。
「育ての母親が、違うもの」
 ぎくりと身体を強張らせる遊の耳朶を、震える彼の声が打つ。
「でも……そんなに覚えてないって」
「僕は、ほとんど真砂お姉ちゃんを覚えてないよ。だけど音羽たちは覚えてる」
「……叶く」
「ごちそうさまユトちゃん」
 叶は箸を置いて、逃げるように素早く席を立っていた。居間の入り口に置かれていたスポーツバッグをひったくるようにして取り上げた彼は、そのまま部屋から飛び出していく勢いだった。が、何を思ったのか、突如部屋の戸口で立ち止まり、ほんの少し、面を遊のほうへと向けてくる。
 腰を上げかけた遊の耳に、震えた、掠れた彼の声が届いた。
「……ちるさとさんだよね?」
「え」
 僅かに見えた彼の口元が、薄い笑みに歪んで見えた。
「叶く」
 遊の呼びかけに無言で応じて、叶の足音が再び響く。程なくして、玄関の扉の閉じる音が届いた。すとんと座布団の上に上げかけていた腰を落とした遊は、口元を引き締めた。
 勢いよく立ち上がり、台所にとって返して火の元を占める。コルクボードに吊り下げられた鍵を引っ掴み、部屋を出る。
 何か、嫌な予感がした。
 予感といってしまえばそれまでだ。けれどもとても酷く嫌な予感だった。今すぐ、彼を追いかけなければならない気がした。
「叶君!」
 家を飛び出した遊の目に、彼の姿は映らなかったけれども。


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