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Stage 6. 猫が歌う初夏の賛歌 5


 昔。
 家に笑い声が響いていて、自分はその声が好きだった。多分、家族の誰もが、決して嫌ってはいなかったのだろう。むしろ、彼女を愛していた。ただ、彼女は深く入り込みすぎた。彼女は判っていなかった。自分達は、愛しすぎてはいけない。自分達は家族になったのだから、それ以上を望んではいけない。
 その頃の自分はとみに幼く、家のなかで、一体何が起こっていたのか正しく理解しているわけではなかった。けれど、おぼろげに事の次第の輪郭を掴むことが出来る程度には、頭が、よかったというわけだ。感受性が高かった、とも、いうのだろう要するに。
 今も、笑い声が、耳に残っている。
 彼女は、母親に代わってよく自分の面倒を見た。自分の手を引いて、買い物のメモをもって、近所のスーパーに出かけた。
 自分達は、愛しすぎてはいけない。
 それを、判っていたはずだ。他人を家に受け入れるということ。親切にすることは大事だ。打ち解けるのもいいだろう。けれども、恋愛ごとなんて、もってのほかだ。その掟を、生々しく身体に刻まれたのは、兄達だろうに。
 けれども強く惹かれていく兄達。
 ぎしぎしと、さびていた歯車が、また回るように。
 動き出した、止まっていた、家の時間。
 笑いながら、嗤いたくなる。
 そんな風に、笑うことができるのなら何故。
 何故。
 彼女を選んでやらなかったのだ。


 蝉の声はまるで肌にまとわりつく汗のように、ねっとりと耳の粘膜にこびり付く。つばの広い帽子をもってきておいて良かった、と、遊は思った。
 サッカーの試合はまずまずだった。叶はよく動いて、ゴールを幾度か決めていた。すごいなぁと感嘆する。遊は運動神経がそれほどよくなく、夏休みに入る前、日輪関連でどたばた走り回ったあとは、筋肉痛が酷かった。数日間楽器のように、身体がぎしぎし音をたてて仕方がなかったのはここだけの話だ。
 わぁ、と、歓声が上がる。
 叶は本当に上手なのだなと、思う。何事にも秀でている妹尾家の人間だ。音羽もまた、体育の成績は問題なく十段階評価の最高点をもらっていたし、隻も何気なく腕っ節は強そうである。棗は大学の頃ボクシングとムエタイをしていたようであるし。未だに、遊は目の前で棗が音速に近い速さで拳を繰り出しゲームセンターのパンチゲームで最高得点を出したことを、忘れることができない。
 また、一つ、叶がゴールを決めた。ベンチを暖めている選手やマネージャー、応援に来ている彼らのクラスメイトなどと一緒に、歓声を上げて手を叩きながら、遊は冷や汗がつっとこめかみを伝って行くのを感じていた。
 盛り上がる周囲の雰囲気をぶち壊すかのように、険悪な雰囲気をかもし出している、少女がいる。
「……えっと……」
 ベンチの一角を借りて腰を下ろしている自分と、みちる。その、みちるのいる空間だけ、重力が歪んで見える。ずもーんと、文字を背負っている。空気が、黒い。暗い、というよりも、黒い。
「みっちゃん?」
「……すみません。暑さ苦手で」
 自分が、険悪な表情を浮かべていることは、知りえているのだろう。少女はそう嘯いた。単純に、暑さからここまで陰鬱な雰囲気をかもし出しているとは思えないのだが。
「みっちゃん、私にわざわざ付き合うこと、ないよ?」
「でも一緒に帰らなきゃ、遊さん怒られますよね。昌穂さんに」
「……うっ。そうでした」
 この試合を見たら、帰ろうと思っている。
 サッカーについて全くの無知であった遊は、一試合がこんなにも長いものだとはしらなかった。サッカーだけではない。基本遊はどのスポーツに対しても興味がない。
 遊は胸中で独りごちる。四十分程度かと考えていた自分が、甘かった。
 実際は前半四十分後半四十分。それに休憩時間を挟み、延長戦にもつれ込めば、さらに伸びる。正式な試合だと前半後半四十五分ずつであるらしいから、さらに長いということか。
(だって、サッカーなんて学校の体育の授業ぐらいでしかしたことないし)
 体育の筆記で学んだかもしれないが、興味がなければすぐ忘れる。人間なんて、そんなものだ。
 ぴーっと、笛が鳴る。前半戦の、終了である。
 そろそろ、帰っても大丈夫だろう。勝ち進めばいくつも試合があるわけではあるが、とりあえず四十分は付き合った。遊は荷物をまとめ、傍らで眉間にごっつい皺を刻んでいる少女の肩に手をかけた。
 と。
「うわっ」
 みちるが驚きからか飛び上がった。その驚き様に、遊のほうが仰天して後ずさってしまう。その遊の足元に、べたん、と何かの塊が落ちてきた。
「……ねこ?」
 猫である。
 毛を逆立てた、ぶち猫だ。不細工な猫だなぁという遊の胸中が伝わったのかどうかはわからない。ただ、その猫はぶみゃっ、と一声鳴くと遊の身体に飛びついた。
「ひっ」
 器用に遊の身体を駆け上った猫は、遊の顔を引っかくことはなかったものの、頭の上に飛び乗りオリンピック選手もビックリなアクロバットジャンプを繰り広げる。空中でムーンサルトを決めた猫に、気付いたのだろう周囲も次々と立ち上がり驚きの声を上げ始めた。きゃ、だの、わ、だの。小さな混乱が、落とされる。
「うーいったいもうなんか今日こんなんばっかだ」
 朝から口の中をきるし、猫には髪を乱されるし。
 頭に残る猫の爪の感触に顔をしかめながら、遊はふと、傍らでもがく少女の姿を認めた。
「み、みっちゃん大丈夫?」
「は……はぁ」
 猫の登場に驚いた彼女は、椅子から転げ落ちたらしい。
 背中から長椅子と長椅子の間にはまり込んで、酷い有様だった。蓋が開いていたらしいコーラのボトルが、みちるが倒れこんだ衝撃でひっくり返り、中身を彼女の頭上にぶちまけていた。服が汚れていなかったのは、運がよかったというべきだろうか。それでも結われた髪からは微妙に茶色に着色された炭酸飲料が雫となって零れ落ちていて、遊は慌てて彼女を引き起こした。
「だ、誰かタオル!タオル貸してください!」
「だ、大丈夫です……」
 遊の手を借りて身を起こしたみちるが、小さく嘆息して髪の先を絞った。ぽたたと零れ落ちるコーラの雫。それに泣き出すわけでもなく、大人びた少女は唇を噛み締めて、洗面所へいってきます、と口の中で言葉を転がしていた。
 逃げるようにして長椅子の間を縫ってかけて行く小さな後ろ姿。
 天を仰いで、嘆息した遊は、周囲の荷物をまとめ始めた。
 みちるは、ずっと不機嫌だった。この場にいるのが、本当に嫌であったのだろう。けれども自分を慮って、我慢していた結末が、これである。
 速やかに昌穂さんの下に連れ帰り、どろどろに甘やかしてもらわなければ。同時に遊は少し怖くもあるのであるが。コーラのことは不可抗力とはいっても、彼女をこの場所につきあわせていたのは、ほかならぬ遊である。それが知れたら、雷を落とされるだけでは、すまないかもしれない。普段全く憤ることのない人のため、その姿が予測できず恐ろしい。
 けれども、怒りを落とされても仕方はない。
「あれー?ユトちゃん帰るの?」
 こつこつとスパイクの音を響かせて競技場から観客席へ上ってきた叶が、不服そうに声をあげる。そのアイリッシュコギーもびっくりなきらきらお目目で見つめられることに冷や汗をかきながら、遊はどうにか微笑みで対抗を試みた。
「うん。ごめんね。これから仕事もあるし」
「……そうなの?」
「だって今日はみっちゃんの配達を手伝うっていう口実あってのことだしさ。ごめんね」
「……うん」
 叶がしゅん、と、頭を垂れる。その瞬間、周囲にいる応援団の少女たち――時に遊と同じ年頃の娘も混じっている――のあからさまな嫉妬の視線をちくちく背中に受けながら、遊はもう一度謝罪した。
「ごめんね」
 叶は、なにやら黙考しているらしき仕草をしてみせた。ややあって、面をあげる。そこにはいつもと変わらぬ微笑があり――ただ。
「……ねぇ、散里さんがあんなことにならなければ、もう少しここにいてくれた?」
「……はい?」
 気のせいだろうか。
 叶が浮かべる微笑は本当に、あの、愛くるしい小動物を思わせる微笑だった。天使の、と形容してもいい。その笑みを見れば、周囲の誰もが感嘆の吐息を漏らすだろう。彼の、その愛くるしさに対して。
 ただ、気のせいだろうか。その声音に、甘ったるい、糖菓子のようなその音律に、どこか険が含まれている気がしてならない。
「僕、タオル渡してくるね。散里さんに」
「え。えーっと、でも試合、は」
「僕後半からちょっと交代なの。零れたコーラも買ってこないとね」
「え、いいぜ妹尾そんなん」
 タオルを頭から被って汗を拭く叶のチームメイトが立ち上がり彼を引き止める。零れたコーラは、彼のものだったのだろう。彼の手の中にはスポーツ飲料のボトルがあることから、もうコーラを飲むつもりもなかったのかもしれない。
 叶は、にこりと微笑んだ。見るものを有無を言わせず押し黙らせる、あの妹尾家兄弟共通の微笑。
「ユトちゃんは、荷物をまとめておいてね。散里さん、連れてくるし」
「あ、うん」
 遊が頷いたのを見て取ったらしい彼は、軽快にスパイクの音をかつこつと響かせながら、ベンチとベンチの間の細いコンクリート通路を走っていく。
 遊は周辺の少年たちと顔を見合わせると、互いに首を捻った。
 背後では、コーチが選手の意識を呼び寄せるための、拍手[かしわで]を打っていた。


髪にこびり付いた甘ったるさとべたつきをとるには、かなり念入りに髪を洗わなければならなかった。
「うーサイテー」
 泣きたくなることなんてもうほとんどないけれども、今回ばかりは少し堪えられそうもなかった。頭から被った水道の雫が、目から思いがけず零れたものを誤魔化してくれればいい。遊には悪いことをしたな、とおもった。なんだかんだといって責任感の強い人であるから、きっと気に病んでいる。
 きゅっと髪を絞って水気を落とすみちるに、横からタオルが差し出された。ありがとう、と礼を口にしながらタオルを受け取り、顔を拭いて……そこでふと、誰がこのタオルを差し出したのかと首をかしげる。タオルを差し出した手は、女の手ではなく。視界の端に映った服装は、遊のものではない。
 面を上げながら、みちるは己の顔がしかめられていくのを止められなかった。涙が引き、唇を噛み締める。そこに佇んでいたのは、恐ろしく綺麗に、そして冷ややかに笑んでいた、少年だったから。
「妹尾君」
「ありがとうぐらい先に言おうよ。走ってタオルもってきてあげたんだけど?僕」
「……ありがとう」
 嘆息して、タオルで顔と髪の水滴を拭う。一体何のまねなのだか。大体サッカーの試合はいいのか。途中で抜け出してきて。彼はレギュラーであるだろうに。
「作戦がえで、ちょっと僕、出番なさげだったし」
 心が、よめるんでしょうか。妹尾叶は。
 ありふれる才能だけで、嫌味な奴だとみちるはかねがね思っていた。眉目秀麗の少年は、テレパシーまで使えるらしい。
「でも、コーチに怒られるよ」
「おこられるかもね。いいよ別に」
「しゅんとなってみせれば、怒られずにすむから?」
「あのコーチには、幼稚な手は通じないんだよねぇ残念ながら。昌穂さんの、お友だちだし」
 同級生の少女たちを虜にしてやまない彼の笑いを、みちるは不気味だと思っている。怖いと思う。そうやって笑える、彼を。
 彼は、子供になりそこねた、子供なのだ。自分と、同じだ。大人になることもできず、子供になることもできなかった。躊躇半端な『何か』なのだ。だから、得体が知れない。
 固唾を呑んで彼の胸中を探っていると、突然手が伸びた。髪を洗った弾みにか、水が飛んで湿った襟首をつかまれる。
「ぃっつ……!」
「むかつくんだ」
 パン屋の仕事で鍛えているからその辺りの少女たちに比べれば、自分は非力ではないかもしれない。襟首に込められた力は、子供のものといえども確かに男のもので。その差は歴然と横たわっている。
「むかつくんだ!君の存在そのものが!もう目の前にあらわれんなむかつくんだよ!」
「あたしだってあんたのことむかつくわよ!誰が好き好んで目の前に現れるもんですか!」
 襟首を引き絞る少年の手に爪を立てながらみちるは叫んだ。
 嫌いだ。嫌いだ。大嫌いだ――自分と同じ、“片親”の子。
 彼は母親の死を引きずっていて、自分には父親が存在しないことで苦渋をなめてきた。互いに片親の子。けれども、決定的に違うものがある。
 彼は父親に捨てられてはいないではないか。
 彼は、血のつながった家族に囲まれているではないか。
 自分には何もないのだ。なにも!それを、妬まれている――その道理が、わからない。
「遊さんのこと、気に入ってるの?」
「気に入ってるよ」
 にこりと彼は微笑み、襟首に込める力を強めたようだった。ぎり、と衣服の布地が悲鳴を上げていた。
「でも彼女の存在には納得がいっていない」
「ガキ!」
 叶の目が怒りにか細められた。殴られることを、一瞬覚悟する。だがその瞬間に、叶の身体が勢いよく自分から引き剥がされた。
「叶君!」


 一体どういう経緯があったのかは知らないが。
 とりあえず遊はみちるから叶の身体を引き剥がした。その雰囲気が、尋常でないような気がしたのだ。ただの子供の喧嘩というにしては。
「とりあえず落ち着いてよ。何があったの?」
 眉間を軽く押さえながら、遊は盛大に嘆息した。まったく、目を離した隙に何があったというのだろう。叶の帰りが遅いから、みちるの迎えもかねてこの手洗い場までやってきたわけであるが。
 みちるは泣きそうな顔で唇を引き結んでいるし、叶は無表情のままどことも知れぬ場所を見つめている。その様相は整っているからこそ蝋人形のようにどこか不気味で、夏の暑さがじっとりと遊たちを取り囲んでいるというのに、肌を粟立たせるものがある。
「叶君?」
「……御免なさい」
 叶はしゅん、と頭を垂れて、ぼそぼそと謝罪を口にした。
「コーチが呼んでたよ。タオル、ありがとう」
 叶が頷く。彼はそのまま居心地悪そうに肩をすくめ、踵を返した。
「みっちゃん?」
 腰を落として顔を覗き込むと、平気です、という淡白な返事が帰ってくる。視線の先は、立ち去る叶に固定されているようだった。手をとると、酷く血の気がない。帰ろうか、と声をかけると、少女は小さく頷き、遊にしがみついてきた。
 ぽんぽんと背を叩きながら、遊は嘆息した。
 ここでようやく、みちるの“嫌いな奴”が一体誰なのか、見当がついたからだった。


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