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Stage 6. 猫が歌う初夏の賛歌 4


 自転車から降りた遊は眼にいたいほどの白い光りを放つ太陽と、その周囲に広がる濃い青を仰ぎ見た。麦藁帽子がなければ日射病になっていること確実の、厳しい日差し。日焼け止めを塗っているにも関わらず、じりじりと肌が焼けていく。この周辺には工場が全くないためか、都会特有の空の白濁は見られない。この炎天下の中、人通りは多かった。皆帽子を被り、首にタオルを巻いている。彼らの手に握られた、各自の飲み物が入ったペットボトルが陽を反射してコンクリートの上に落ちていた。
 ここは、通称市営グラウンド。いわゆる総合競技上である。
「あーこれで怒られんですむわー」
 フェンスの向こうから響く歓声を聞きながら、遊は神に感謝した。なんという偶然でしょうか。いやもっと早く、みちるが市営グラウンドに配達にいくといった時点で気付けばよかった。気付かなくてもここにくることができたのだから結果オーライなのだが。
 つまり、叶が遊に見に来てくれといっていたサッカーの試合に、みちるが昼食の配達をすることになっていたのだ。さらに偶然に、みちるが昼食を配達するサッカーチームは、叶の所属するチームなのである。これで遊がきちんと試合を見に来ていたことが証明できる。ありがとう神様。
「遊さんすみませんもうちょっと奥、つめてもらえます?」
「あ、ごめん」
 遊は停めた自転車を持ち上げて、奥に詰めた。駐輪場は学生のものらしき自転車で埋め尽くされている。隣では同じく自転車を停めたみちるが、よたよたとおぼつかない足取りでサンドイッチの詰まったクーラーボックスを抱え揚げているところだった。
「ご、ごめ!気がきかなくて!」
「大丈夫です。こっちは軽いですし」
 確かに、みちるが抱えているのは所詮サンドイッチ。二十四個ともなればそれなりの重さがあるが、遊の抱える紙パックのジュースに比べれば格段に軽い。とは言えども、サンドイッチの重さもなみなみならぬものがあるのであるが。
 こんな重いものを持たせて、小学生一人を配達に行かせるなよ。遊は胸中に思い浮かべた、いまだ数度しかみたことのないえっらい綺麗なパン屋の店長に向かって呟いた。
「えっと、チームはどこに控えてるんだっけ?」
 肩に鞄のベルトを掛け、ダンボールを抱え上げながら遊はみちるに問うた。叶に一度場所を訊いたのであるが、朝食時に尋ねたのが悪かった。その後、どうして叶にそんなえこひいきを!という隻の主張のもと、ひと悶着があるうちに忘れてしまったのである。
 市営グラウンドには色使い鮮やかな、サッカーのユニフォームを身にまとった少年たちがあふれていた。スポーツバッグを肩に下げて、ボールをけりながら。サッカーボールは何時の間に白黒パンダではなくなったのだろう。今までスポーツに対して特に関心を寄せたことのない遊は、サッカーボールの色が白と黒だけではなく、蛍光色を使うようになっていたことに驚きを覚えていた。
 みちるはあっちですね、と濃紺の塊が蠢いている一角を指差す。長いベンチが並ぶ灰色の客席スタンドの一角において、その濃い色は鮮やかで、遊は眩しさに目を細めた。
「遊さん一ついいですか?」
 少年やその応援に来ているらしき歓声を上げている私服の少女たちを掻き分けながら、幾許か歩いたあとのことである。
「はいはい?」
 少女の声色は神妙だった。笑いたく、なってしまうほど。この年齢で、親から離れて見知らぬ家庭で働いている少女のことを、子ども扱いするつもりはない。結婚だってできる年齢の自分ですら、時々投げてしまいたくなる。全てを忘れてヒステリーを起こしたくもなる。それをせずに物事を受け入れている娘を子ども扱いするつもりは毛頭ない。だが、その拗ねたような表情は、愛らしさを伴っていることも確かだった。
「あの、私これから営業用以外にしゃべりませんので、あと、お願いいたします」
 小学生の口から営業用の一言が出たことに噴出しそうになりつつも、遊は首をかしげた。どうしてこれから一言も口を利かないというのだろう。少女の表情はいつもに増して張り詰めて、見下ろす横顔から感情の色はうかがえない。
「……しゃべらない?」
「遊さんが来てくれて、本当によかったです。今日。実は一人で配達するの、嫌だったんです。凄く」
 首をかしげた遊に、大人びた口調で少女は淡々とそう返した。
 嫌悪が、幼い顔を歪めている。
 クーラーボックスのショルダーストラップを、まだ幼い手がぎゅっと握り締めていた。遊はみちるの表情の愛らしさに対して浮かべていた笑みを消した。笑っていては、いけないとおもったのだ。みちるの表情はとても真剣で、遊は誠実を返すつもりでうんと頷いた。
「嫌な奴が、いるんですよ」
「嫌なやつ?」
「うん」
 少女は頷き、濃紺を身にまとった少年たちの集団に近づけば近づくほど、その表情を険しくさせていった。
「みっちゃ……」
「ゆっとちゃん!」
 どん、と。
 背中を襲った衝撃に、みちるに言葉をかけようと口を開きかけていた遊は、思いっきり、舌の先を噛んだ。
「◎●★☆@*&%£■▲%○!!!!!」
 まさしく声にならない暗号のような悲鳴をあげる。ついでに思わず手放したダンボールが足の甲の上にどすんと音をたてて落下し、遊は涙目でその場にしゃがみこんだ。みちるの慌てた声が耳元で弾ける。
「大丈夫ですか?!」
「はひほふふ……」
 舌の先が、まだ痺れている。よく噛み切れなかったものだ。いや、そう簡単に噛み切れてしまってはこまるのだけど。舌が丸まって喉に張り付いて死んでしまうし。
 だが口の中が苦い。鉄の味が舌先に広がって、出血していることは確認せずともわかった。口を押さえるべきか、それともまだダンボールの重みに耐えている足を労ってやるべきか。そのどちらもする気力の起きない遊は、心配そうに覗き込んでくる、みちるとは違った顔に面を上げた。
「ごめんねユトちゃん。大丈夫?」
「……かはへくん?」
 叶だ。
 サッカーのユニフォームを着て、いつもは少し伸びている髪が、綺麗に撫で付けられている。その様子は小学生とはとても思えないほど精悍であった。さすが妹尾家の末弟、とでも言おうか。そのままスーツを着たとしても、お仕着せには決してならないだろう。痛みに混乱した頭は、そんな見当違いのことを考える。
 だが、叶のその表情は幼く、泣きそうであった。
「御免。まさかこんなに驚くなんておもっていなかったんだ。タイミングがとても悪かったんだね。ごめんねユトちゃん」
「らひ……あー……だ、大丈夫。うん。大丈夫だから」
 ひとまず足の甲を圧迫するダンボールを押しのけた遊は、痛みに顔をしかめながら立ち上がった。
「その人が叶の言ってたねーさんか?」
 口を挟んでくるのは、叶と同じユニフォームを身につけた少年だ。
「そうだよ。かわいいでしょう。うちの家の人気者なんだ」
 叶は自慢げに言って笑い、へぇと少年は品定めのように遊の顔を覗き込んでくる。遊がたじろいでいるその間にも、紺のユニフォーム姿の少年たちは、まさしく穴から這い出てきた蟻の如く、わらわらとその数を増やしていき、遊とみちるの周囲を取り囲んだ。
「あれ、どうしたんだ散里さん」
 遊の顔を覗き込んでいた少年が、傍らのみちるに声をかける。知り合いかと目配せする遊に、みちるはうんと頷いた。
「家の手伝いだよ。今日はみんなのお弁当を届けにきたんだ」
「あぁ家パン屋してるっていってたっけかー」
 どうやらみちるの知り合いはその少年だけではないらしい。皆おはようだのこんにちはだの言って、みちるに声をかけているらしい。みちるは年相応の笑いを浮かべて、少年たちに応じていた。
「知り合いだらけなんだね」
「だって、クラスメイトなんですよ」
 みちるは先ほどの張り詰めた表情を消し去って、笑顔で遊の問いに応じてきた。へぇ、と遊が生返事をすると、少年たちがみちるの言葉を引き取って、転校生は有名だしなぁと笑った。
「俺たちほとんど、同じ小学校だからなー」
「僕同じクラスだし」
「あ、散里ぉ、明日の算数ドリルやった?」
「コーチが頼んでた弁当なにー?」
「サンドイッチ」
「おぉうまそー!今すぐ食べたい」
「馬鹿か今すぐ食べたら動けなくなるだろ試合で」
 みちるは、別に、男の子が苦手というわけではないようだった。彼女の年頃は微妙である。と、思春期真っ盛り女子高生の遊がいうのもなんであるが、みちるの年頃は二次性徴が始まるころあいでもあるし、急に男の子が苦手になる少女も、決して少なくはない。だがみちるにはその様子はみられない。彼女生来のものか、それとも日ごろのパン屋での労働で培われたのか、愛想のよさを披露している。
 苦手な人がいるのだと、いっていた。
 だが見たところ満遍なくクラスメイトとは仲が良いらしい。どの少年とも気さくに会話をしているし、どことなく楽しそうですらある。一体、先ほどの鬱々とした表情と発言は何だったのであろうと首をかしげていると、遊の服の袖をくい、と引っ張る存在があった。
「ユトちゃん」
 肩口に、見慣れた少年の顔がある。叶は己の口元を指差して、苦笑していた。
「口の中洗ってきなよ。吸血鬼みたいだよ」
「へ?……げっ」
 叶に指摘され手を口元に寄せた遊は、驚愕のまなざしで赤黒く染まった己が手の甲を凝視した。先ほどの拍子で、舌先だけではなく口内もどこか切ったらしい。自覚すると、急に痛みが口の中を侵食して行く。
 だが、この腕の中にあるダンボールをどうしようか。みちるは既に、重たげなクーラーボックスを抱えているのだ。
「大丈夫。僕が持っていくから」
 遊のダンボールを叶は引き取って笑った。
「大体なんでユトちゃんが製パン店の手伝いしているの。早くいってきなよ」
「ご、ごめん……」
 自分って本当に情けない、女子高生。
 みちるといい叶といい、小学生にこうもアレコレ気を使われる十六歳ってどうですか。しかももうすぐ十七になります。情けない限りです。もう少し、大人になりたいと青空に誓いながら、遊は公衆トイレらしき建物に走った。

 

 コーチの笛の音が響き、友人たちは荷物を置いている場所へと駆けていく。名を呼ぶ声が響いて、仰ぎ見たフェンスの向こうにはクラスメイトの女生徒が手を振っていた。彼女らに笑顔で手を振り替えして、叶は傍らの少女と向き直った。
対峙、したというのが、正しい。
 少女は笑みを消していた。叶は、冷ややかに、且つ嫣然と微笑み少女を見返す。彼女はすくみ上がるわけでも当惑するわけでもなく、ただ淡白な眼差しを寄越してくる。
「配達ご苦労様」
 にこりともせず叶はいった。
 少女はえぇ、と頷いた。
「手伝ってくれるんだね」
「ユトちゃんに言ったもん僕。これは僕がもっていくからってね」
「そんなに、かわいいフリしなくても、いいのに」
 少女の声色には呆れが混じり、そうだね、と叶は同意した。この少女の前で、自分を作るのは馬鹿げている。
 あまりにも幼いクラスメイトの中で、この少女だけが憎らしいことに対等だった。嫌悪の対象となっている少女。それはお互い様らしく、彼女だけはいつも自分に距離を置いて、冷徹に傍観している。
「ユトちゃんと一緒に行動してるってどういうこと?」
「昌穂さんのお店で友だちになったの。今日は過保護な昌穂さんのおかげで、遊さんに配達についてきてもらうことになったんだ」
 ダンボールとクーラーボックスをそれぞれ抱えて階段を下りる。スパイクが砂利を踏み鳴らす。斜め後方で、少女の歩みが止まったことに気がついた叶は、小首をかしげた。
「どうかした?」
「……キモチワルイ。あんたがそんな風に従順だと」
「僕はかわいい妹尾の末弟だもの」
「かわいいとかって、自分でいう?普通」
「いわないね。だけど、みんな結構それを求めてるでしょ。僕はみんなに優しいよ。優しくて、明るくて、いい子でしょ」
「あんたに対してきゃーきゃーいってる美奈ちゃんとか坂越さんとかみんなに聞かせてあげたい。ソレ」
 盛大にため息をついた少女は、叶の横を通り過ぎて、さっさと階段を降りていってしまった。もう、会話もすることもないだろう。今日一日、何かがない限りは。
 互いに、互いを、嫌悪している。
 分が悪い、と思った。生活をともにしていれば、剥がれ落ちる部分もある。けれどもそれを押しのける良い印象を、磯鷲遊という存在に与えておきたくて、近づいたのに。みちるがいるのなら、逆効果かもしれない。
「まぁね。障害があるほうが、もえることもあるよね」
 叶は肩をすくめて、傍にいる野良猫に語りかけた。木陰を探して気だるげに道を横切る猫は、叶に一瞥をくれて、独り言に付き合う暇などないとでもいうように、尾をくねらせて走り去っていった。


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