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Stage 6. 猫が歌う初夏の賛歌 3


「あかんって」
「あ? やっぱりですか」
「そらそうや」
 きゅっと皿に付いた水滴を布巾で拭いながら、遊は苦笑した。
 昌穂の口調に怒りは全く滲んでいない。ただ淡々と、事実のみを彼は伝える響きがあって。猫招館の店主は、鼻歌混じりにコーヒーサイフォンを覗き込んでいた。
「日曜日、一番忙しいしなぁ。ユトちゃんにいなくなられたらちょぉっと困るな」
「だと思いました」
「おもっとったのに訊いたんかいな」
「だめもとだと思いましたし。実際私もあまりお仕事休みたくないんですよね。修学旅行の積み立てがあるんですよー」
「修学旅行の積み立てぐらい棗にださせぇ」
 苦笑しながら昌穂が面を上げた。
「でも、ま。日曜日はあかんわ。他の日やったら休みとらしたるけどなぁ……」
「いいんですよ。気にしないでください」
 何で昌穂のほうがすまなさそうに表情を曇らせているのだろう。遊は両手と首をぶんぶんと振りながら、笑うしかなかった。
 きらきらとしたけれども凄みのきく目で叶に日曜日サッカーの試合を見にくるように強要された遊は、無駄な努力とは知りつつも、昌穂に休日を取れないか、と頼んでみたのだが。
 結果は、ご覧の通りである。
 もともと、仕事を休みたいと遊自身が思っていない。とりあえず義理は果たしたぞと、胸中で叶にむかって言い放ちながら、遊は一人ぐっとこぶしを握り締めた。
「サッカーの試合って、どの試合?どこの県まででるんや?」
「へ? あぁいや別におっきい試合じゃないです。地元のクラブのですよ」
 遊が見に行くつもりであったのは、叶が所属している地元の少年サッカークラブの試合だ。どうやら昌穂はどこか大きなプロサッカーを見に行くものと勘違いしていたらしい。
「あーそういや確かに試合あるゆーとったわ」
「誰がですか?」
「ん? 俺の知り合いの一人が少年サッカーチームでコーチやっとぉし? ユトちゃんが見に行くいうとるクラブの試合も、もしかしてそこなんとちゃう?」
 そういって昌穂が口にしたチーム名は、確かに叶が口にしたチーム名と、同じなような気がする。実は右から左へチーム名を聞き流していたので、定かではないのだ。こんなこと、もし叶に知られでもしたら、怖い笑顔を浮かべられそうだが。
 いやそれにしても、十歳の子供に恐れを抱くって、どうなんですか自分。
 遊は伝票をまとめながらむぅ、と唸った。皿の片付けが終わった今、カウンターの上で束になった伝票を見つつ、黙々と帳簿をつけていく。IT社会が名高く叫ばれる今昨今、珍しく手書きで。この猫招館には、機械の破壊魔様がいるので。
 それはともかく。
 叶だ。
 妹尾家の面々は、確かに相手に畏怖を抱かせるほどの美形ぞろいである。お友だちになりたいな、と遠くから眺めているのが一番幸せ。言っては悪いが、一度近づけば呪いでも受けそうな美貌だ。その神がかった美しさは、確かに相手に畏怖を抱かせるのだ。ある程度親しくなった今はふとした拍子以外に恐ろしいと思うことなど滅多にないが。
 集は得体の知れない人間であるが、言っていることは正論が多いし、隻は人懐こい。棗は面倒見よく、音羽もぶっきらぼうで冷たくはあるが、根は阿呆なぐらいに素直だと、この間彼の友人である笠音がこっそりと耳打ちしてきた――そして、遊もその通りであると思う。
 が、叶だけは、未だに、判らないのだ。
 妹尾家の中で、彼の存在だけが少し浮いて見える。年齢が離れているということもあるのかもしれない。隻と棗の二人と、音羽の間もかなり開いているのだが、彼らはそういった年の開きを感じさせない。
 が。
 叶だけ、何か違う気がするのだ。ふとしたときに現れる家族内の微妙な違和感が、遊に叶をわからなくさせているのかもしれない。
 さて、試合にいけなくなったことをどうやって謝ってみるか。
 棗姐さんにでも応援を頼んでみるかなぁ。
 付け終わった帳簿が夏の風でぱらぱらとめくれる。今日は客が少ない。朝ごはんを食べに常連の男が一人やってきただけに留まっていた。今店内には遊と昌穂、そして、猫たちだけ。閑古鳥が鳴いているのは、クーラーの調子が悪いせいかもしれない。一応窓は開け放たれているのであるが、店の中にはどこか生ぬるい雰囲気が漂っている。ケーキの入っているショーケースは冷蔵機能を兼ね備えていて、触れるとひやりとしていた。
 からん。
 ドアベルの軽やかな音とともに、店内の風が動いた。慌てて振り返り、いらっしゃいと口にしかけた遊は、認めた存在に営業用の笑顔を潜める。かわりに浮かんでくるのは、友人に会ったときの笑い。
「おぉいらっしゃいみっちゃん」
 遊の代わりに機嫌のよい昌穂の声が、店内に響いた。その声音から、機嫌のよさ絶好調という感じである。近所のパン屋の少女がこの店を訪れる時はいつでも彼は上機嫌だ。敦基にロリコンとからかわれても、棗に童女趣味と冷ややかな目で見つめられても、仕方ないと思いますよ昌穂さん。遊は胸中でこっそりそう呟いた。
「こんにちは」
 敦基と棗の間では昌穂をめろめろにする魔性の童女ともっぱらの噂の小学四年生は、礼儀正しく一礼し、抱えていた紙袋を遊に引き渡してきた。
「これ、今日のパンです。お仕事お疲れ様です遊さん」
「みっちゃんもお疲れー。暑いね」
「ですね。焼きたてのパンを抱えていると特にです」
 遊の腕の中にあるバケットは、ほんのりと熱を持っている。それは太陽の熱に温められたからでは決してない。この温度を抱えていれば、暑いに決まっていた。今日の天気は曇り。店の外では、下はアスファルト、上は雲と、夏の熱気が逃げ場を失って陽炎として揺らめいていることだろう。
「パン屋もかまどの熱で暑いですし。ここにくれば少しは涼めるかとおもったんですが、生暖かいですね。閑古鳥鳴いているのも、もしかしてそのせいですか?」
「破壊魔サマがいらっしゃるさかいに」
 昌穂がいそいそと、みちるにアイスティーを造りながら皮肉を口にする。その破壊魔様は、要するに今この場にいない敦基だ。かつて、帳簿をつけるために購入したらしいパソコンを破壊し、電子レンジを爆発させ、ドライヤーを奇妙な音を奏でる楽器に変えた上、本日クーラーをいかれさせた張本人は、昌穂のお怒りの元にお暇を出されている。今頃はかわいい夏服をごっそりと抱えてどこかでアイスをなめているのかもしれない。
 遊は苦笑しながらカウンターの中に入って、がりがりと氷を削った。隣では昌穂がクレープにベリーの類を沿え、桃と苺、バニラとチョコアイスを使ってプチシューを綺麗に盛り付けている。氷はその硝子の器の下に入れるもので、アイスが溶けないように器を冷やすものだ。いくつかクリスタルのアイスボールを氷と一緒に入れて、シュークリームの上にラズベリーのソースとチョコレートソースをかけ、ミントの葉を添えて、完成。
 ちなみにこちら、当然昌穂による、みっちゃんへの奉仕品である。
 アイスティーの中で、黒い石……氷の代わりに入れられた、アイスストーンがからんと揺れた。いつもは遠慮を見せる大人びた小学生も、蒸し暑い今日ばかりははにかんでぼそぼそと礼を口にする。
「うぅ。ありがとうございます」
「そんなん全然かまわへんってぇ!」
 店長よ、その熱視線に、デザート皿の氷も解けてしまいますよ。
 遊はカウンターの中に入り込んできた子猫を外に追い出しながら、半眼で昌穂を見つめた。うん。さすが棗姐さんの友人だ。いや馬鹿にしているわけではありません。要は、犯罪にさえ手を染めなければいいわけです。
「それにしても」
 いろいろ物騒なことを考えている遊の横では、他の客はいなくとも、みちるさえいればかなり上機嫌な店長と、もくもくと甘いものを食す小学生がどこかテンポのずれた会話を始めていた。
「やっぱり夏の間は、パンも売れませんよね。うちも常連さんを除けば大分お客さんの数がへっちゃって」
「まぁパンは夏場、カビやすうなってまうしなぁ。だけど一日で一斤食べればノープロブレムやんかむしろ一人一斤食え」
「いやそれは無理でしょうだってうちの食パンおっきいですよ」
「残ったパンは俺んところが買い取るし。まかせぇなー」
「買い取ってどうするんですかお店閑古鳥鳴いてるのに。サンドイッチとかうれなくなっちゃったってこの間敦基さんおっしゃってました」
「あいつ、なにゆーとるねん」
「うちの店長と仲良しですよ」
「同じ女装好きやしな?」
「うちの店長は女装好きなのではなくて、正真正銘おかまさんなんですけど」
 はたして女装好きとおかまさんの違いは一体なんなのでしょう。というか、妹尾家に居候するようになってから、周囲の人種がバラエティー豊かになった気がするのは、気のせいだろうかどうなのだろうか。遊はカウンターの下に置かれている手提げ鞄から、数学のワークブックを取り出した。やることも特にないようであるし、客の気配はとんと見られない。昌穂は、みちるとのおしゃべり(というか彼が一方的に話しかけているだけであるのだが)に夢中であるし。
 とにかく、今日は暇なのだ。
「暑いといったら、今度私配達にいくんですよ炎天下のなか。しかもサンドイッチを二十四パック」
「配達? みっちゃんが? それってお店の人いなくならない?」
 遊はみちるの一言に、思わず口を挟んだ。みちるが働く――表向きは家の手伝いということになっている――猫又製パン店は、とても小さなパン屋だ。店長と、その補佐と、みちるの三人しかいない。みちるが配達へいく、といっても、常識的に考えて実際は店長と店員のどちらかがするわけで。配達といっても、みちるだけでいくわけではないだろう。
が。
「いえ、私だけで配達にいくんで」
 常識は見事に覆された。
「……どこに、配達するの?」
「市営グラウンドです。自転車で」
 思わず遊は天井を仰ぎ見た。市営グラウンドは、かなりここから距離がある。町の、反対側だ。
 小学生に配達なんてさせるな。というかこの炎天下に自転車で行かせるつもりなのか。サンドイッチがゆだっちゃいませんか。それともクーラーボックスにいれていかせるつもりなのか重たいですよ。
 という言葉は、そのままそっくり、怒りをもって立ち上がった店長の口から発せられた。
「まったく! 何考えとるんや! 俺のかわいいかわいいかわいい」
「三回言いましたね昌穂さん」
「かわいいみっちゃんに!」
「おしいみっちゃん、四回だったよ」
「車で送迎ぐらいせえへんかいな! というか労働基準法違反や! 犯罪や! 今すぐみっちゃんをおれんところに寄越さんかい!」
「昌穂さん発言微妙に怪しくなってきたんで落ち着いてください」
「そうしたらかわいがってかわいがってかわいがってかわいがって」
「おかしいなぁ。昌穂さんいつもはおっとりめの落ち着いた人なのに、どうしてみっちゃんがからむとこんなに熱く……?」
「ユトちゃん!」
「はひっ!」
 何の前触れなく名前を呼びつけられた遊は、反射的に直立不動になった。その弾みに、ばさばさとワークブックが落下する。シャープペンが足の甲にダイブしてくれたせいもあるが、涙目になってしまうのは、昌穂の顔が眼前に迫っていたからである。両目の中で情熱の炎が萌えています。その仲に真剣とかいてマジと読む文字が浮かんでいます。怖いです店長。
 落ち着いて、という遊の呻きは聞き入られなかったようで、そのまま自分の世界にトリップなさった店長様は、遊の前でなにやら語り始めた。
「残念ながら、俺はこの店を離れられへん」
 くっ、と。
 妙に演技がかった仕草で斜め下を向く猫招館店長。その頬にはほろりと涙が。足元では猫が心配していらっしゃいますよ。
「……はぁ」
 遊は嘆息し、昌穂の足元に擦り寄る猫を一瞥した。またカウンターの中に入ってきて。飲食店なのだから、とりあえず食品を扱うカウンターの中にだけは入ってきてほしくないというのが、遊の意見である。
「ユトちゃん!」
「はい! 聴いてます!」
 遊の双肩をがっと昌穂が掴む。カウンター席では、みちるが心配というよりも同情の目を遊に向けていた。変人ばかりに苦労しているという点について双子並みのシンクロ率を誇り、互いに同情しあう間柄のみちるであるが、当然いらぬ火の粉は被りたくはないらしい。それでも自分のせいでこのような事態に陥っているという風に解釈してか、大人びた小学生の少女は申し訳なさそうに両手を顔の前で合わせている。
 もう、どうにでもして、と意識を飛ばしかけた瞬間、遊は昌穂の命令を耳にした。
「みっちゃんと一緒に、配達にいってきぃ」
「…………はい?」
 足元では、猫が暢気に鳴いていた。


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