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Stage 6. 猫が歌う初夏の賛歌 2


 猫招館は商店街入り口に位置する喫茶店である。
 店長が棗の同級ということもあって、妹尾家御用達の店であった。猫がたむろしていることが気にならないならば、この喫茶店は五つ星レストランにも匹敵するだろう。そう、かなり有名な雑誌にも書いてある。落ち着いた内装の店内、並べられるケーキたちはどれも極上の一品ばかりで、コーヒーは豆から挽き、紅茶は茶葉のよいものを選び抜いている。食器はどれも温められて、触れる人の指に優しい。
 何度でも繰り返そう。猫招館は、五つ星クラスの店である。出される、料理の類と内装だけに限るなら。
「あらーずいぶん若い子が働いているじゃない? 店長もやり手ねぇ」
 ほほほと笑うのはこの店にケーキを買い求めにくる常連の奥方であるらしい。相も変わらず女装姿がばっちり決まっている敦基が奥方に負けぬ笑いを浮かべて、昌穂が口を開く前に応対していた。
「いつの間にかあんな大きな娘が出来ちゃって。もういったいどこでこさえてくるんだか。なんだか捨てられた気分ですのよ」
「捨てられた? まぁ。やっぱりアツキ君がそんな格好しているのも、やっぱり、その、店長の趣味なの?」
「実は……」
「冗談ばっかりいうんもいい加減にせぇへんと怒鳴るでどあほー!」
 昌穂の怒声が店内に響き渡るのと同時、遊の目の前を、円形のお盆がフリスビーよろしく宙を切って掠めていった。いったいどのような動体視力をしているのだろう。勢いでそれをすばやく叩き落した敦基が、笑顔のまま常連客との会話を再開する。
「ユトちゃん、今すぐ、こいつをぶん殴っていい。流血沙汰、俺がゆるすし」
「はぁ……」
 さすが、棗の同級である昌穂が経営する店だけあってか、落ちついて遊に仕事をさせてはくれない。料理は五つ星、内装サービスもいつつ星、けれども落ち着いて菓子やお茶を味わいたい人には、絶対お勧めしたくないのが、猫招館だ。そのことを、アルバイトに来てつくづく確信した。一応、これでもこの界隈では人気の店であるのだが、アルバイトが入ってもすぐにやめてしまうのは、この日常に耐えられないからだ。
 昌穂の笑顔の向こうで漆塗りのお盆が壁に激突する。店の客は、間を掠めたであろうお盆には目もくれない。ケーキと紅茶、もしくはブルーマウンテンに舌鼓を打ちながら、和やかに談笑を続けている。
 客ももうなれたものなのだろう。傍らで流血沙汰一歩手前に陥っている店長と店員を横目に、天国にいるのか地獄にいるのか分からない両親に遊は思わず胸中でぼやいた。
「私の周りって、ほんと、変なの、ばっかし……」
 だが誰もその嘆きに同情してはくれない。変人美人家族の友人はまた変人で、悲しむべきは昌穂の元で働く自分も徐々にこの騒がしさに慣れつつあるということだ。この日常が平和だとすら思ってしまう。ボールとお玉の攻防戦が行われる傍らで、あはは今日もよいお日和ですねぇと、ぼやいた遊は、肩を落として盛大なため息をついた。
 と。
「ホント、変な人ばかりですよね」
 めずらしく、遊に同意する声がどこからともなく響いた。これぞまさしくオラクル、天からの声かと内心ボケをかましつつ、その声の出所を探してきょろりと視線をめぐらせてみる。するとどこを見ているんですか、という冷ややかな声とともに、ひょっこりと目の前で頭が動いた。ふわりと揺れる黒髪。それと同時に鼻腔をくすぐる焼きたてのパンの匂い。見下ろすとちょうど胸の辺りに、遊を見上げてくる少女の姿がだった。
「お疲れ様です。パン、お届けにあがりました」
「みっちゃん!」
 細腕いっぱいにバゲットを抱えた少女の声に、激しく反応を示したのは他でもない店長の昌穂である。これほどないほど相好を崩して、カウンターの中から飛び出してきた彼は、客の目もなんのその、遠慮なく少女に飛びついた。その素早さ、草食動物を捕食する肉食獣の如し。唖然とする遊とは対極に、客も敦基も驚いた様子はさしてなく、それが日常行われていることの一つなのだと知った。
「ようきたなぁ。ケーキ食べてく? 今日はみっちゃんの好きなレモンチーズケーキと抹茶プリンがあるでー」
「ありがとうございます。でも今日は店忙しいのでまたにしますね。それから放してくださいね昌穂さんパン潰れますんで」
 あどけなくもどこか冷ややかな笑顔で見事に昌穂をいなし、名残惜しげな彼の腕から抜け出した少女は、なれた顔でカウンターの中に入った。いつもパンの入っている籐の籠の中にバケット、そして食パンを並べ入れて、伝票をカードクリップに挟む。少女のその一連の動きを眺めながら、どこかで見たことのある少女だと思った。年のころなら十かそこら。叶と変わらないだろう。愛らしい顔立ちをしているが、その背後に漂う妙な倦怠感が彼女の年齢の判別を難しくさせている。右肩を押さえて妙に年寄り臭い仕草でこきこきと首を鳴らした少女と、はたりと目があってしまった遊は、えへ、と笑いを浮かべた。じろじろ行動を観察していた気まずさから、口元が、引き攣っていたに違いないが。
 少女もまた、きょとんと目を瞬かせた後、えへ、と笑いを浮かべた。
 何かが、通じ合う。
「初めまして。散里みちるです。猫又製パン所で働いてます」
「えー初めまして、この間からアルバイトしてます磯鷲遊です」
「みっちゃん! ちょっとまっといて今からチーズケーキとプリンおみや用につつむし! ユトちゃんみっちゃんをひきとめといて! えぇな!」
 ばたばたと騒々しく店の奥に消えていく昌穂に生返事を返した遊は、みちると名乗ったパン屋の少女に向き直った。少女の瞳は呆れ眼。半眼。冷ややか。彼女は腰に手を当てた後、はぁ、と盛大に嘆息した。
「え、えっと?」
「お会計待たせてますよ?」
 少女の指摘に、声を掛け損なった遊は慌てて客の待つレジに立った。少女は慣れたことなのか、空いた席にちょこんと腰掛けて待っている。会計を済ませ、笑顔でありがとうございましたと客を送り出す。食器類を片付け、客の去ったテーブルを綺麗に整えた遊は、水を持って少女の下にとことこと歩み寄った。外から来たのだ。本格的な夏を迎えた外は、アスファルトが溶けるほどの熱を持っている。クーラーが効いているとはいえども、涼しいといえるほどでもないこの店の温度では、そとから来た彼女の熱を下げることはできないだろう。椅子に腰掛け窓の外を眺めながら大人しく昌穂を待っている少女は、淡々とハンカチで額の汗を拭いている。
 遊が無言であった代わりに、差し出された水は氷と硝子の触れ合う涼やかな音で以って、みちるの気を引いた。
「あ、ありがとうございますー」
 少女が浮かべるのはあどけない笑顔だ。周囲の客がまだまったく動く気配を見せないことを確認した遊は、お盆を抱えたままみちるの向かいの席に腰を下ろした。敦基は眠たそうな目でカウンターに立ち、遊のほうを見つめているがさして咎める様子もない。彼の視線が別の客に向けられ、彼らの談笑が響いてきたのを待って、遊はみちるに話しかけた。
「パン屋で働いてるって、えらいね。おうちの仕事手伝ってるんだ?」
「家じゃないですよ。お仕事です。働かざるもの喰うべからず。常識ですよね」
 にこにこと少女に即答された遊は、笑いを凍てつかせることしか出来なかった。えーっとと、口から漏れるごまかしの呻き。とりあえず天井を仰いで精神統一を図った遊は、あどけなく、本当にあどけなく見返してくるみちるに、向き直る。
「年齢、お伺いしても?」
「十ですよ? 小学四年です」
 小学生!
 働かざるもの喰うべからずとかおっしゃるのに!
 というか小学生でお仕事って、労働基準法に違反していませんか!
 遊の胸中の叫びを汲み取ったかのように、みちるが空になったグラスをテーブルの上において発言する。
「労働基準法に違反しているかもしれませんが、お仕事ですアルバイトです生活費稼いでますパン屋で。えっと、居候の身なんですよね。なので外面的にいっちゃえば、“おうちのお手伝い”で正しいと思うんですけど」
「……どういう事情でそういうことに?」
 思わず彼女の家の事情を勘繰らずにはいられない。だがみちるは遊の質問に対して子供らしい笑顔を潜めると、疲れたため息を吐き出して夏の光りに晒された町並みに視線を投げた。
「……世の中、いろいろ、世知辛いことも、あるんですよ……」
 一体、いくつですかアナタ。
 遊は自分の事情も放り出して、十の少女にそんな言葉を吐き出させる事情とやらに、同情せざるを得なかった。みちるは両肘をテーブルの上について組んだ手の上に顎を乗せた。アンニュイな視線を遠くに、彼女は淡々と愚痴とも取れる事情を吐き出す。
「母さんが突然いなくなったりここで働けと手紙がきたと思ったらパン屋でしかもうちゅ……」
「……うちゅ?」
「いえ。おいしいパン屋ですけど店長はニューハーフだし今田さんはコスプレ女王だし大体時給があるってどうですか? 私って保護されるべきいたいけな小学生じゃないんですか? いいですけどねいたいけなんて自分でいっちゃって笑っちゃいましたよすみません。とにかく労働基準法に違反しているだろうとか周囲は変人ばかりだとか突っ込みどころ満載なのに、誰も突っ込んでくれないってどうですか? ねぇどうなんですか! と、すみません初対面の人にいろいろ口を零しちゃって失礼いたしました」
「……い、いえ……」
 鼻息荒くまくし立てていた小学生は、我に返ったのか遊に深々頭を下げてきた。なんだか、その大人顔負けの馬鹿丁寧さにほろりとなる。彼女の事情云々に涙したくなった、というよりも、なんだかここでこの少女に出会わせてくれた神に感謝したい気分だったのだ。
 つまるところ。
 結論はこうである。
 ――この人、常識人[まとも]だ……!
 先ほど、何かが通じ合った。その何かとは、この人、常識人ですよ、ということである。ちょっと世の中の理不尽に触れすぎて嫌な方向にひねた感があるが、そんなことはどうでもいい。肝心なのはこの、散里みちるという少女が常識人であるということだ。一般論が通じるということである。すばらしい。なんてすばらしい。
 ビバ、常識人。
 遊は少女の手を握って、きらきらと彼女を見下ろした。
「変な人、ばかりですよね」
「……ばかりです」
 みちるもまた何か通じ合うものを遊に見つけたのか、ぎゅっと遊の手を握り返してくる。
「がんばろうね」
「……はい……!」
「えーっと」
 ふと気がつけば、頭上に影が差していた。はっとなって影の主を仰ぎ見ればそこにはケーキの箱を携えた昌穂。遊は慌てて立ち上がり、すみません仕事戻りますと席を立った。


 店主客ともども変人ばかりとこき下ろしておきながらも、あの猫招館で働くことは決して嫌いではない。遊のスケジュールにあわせて働けるだけでも感謝感激雨あられであるし、お土産として売れ残ったサラダ類や菓子類をいただけるのもありがたかった。サラダはそのまま妹尾家の食卓に夕食の一品として上る。本日のサラダは海鮮サラダ。わかめとくらげと小ぶりの海老を、明太子マヨネーズと和えたものである。それをむしゃむしゃ食していた遊は、叶の一言に面を上げた。
「……試合?」
「そう試合。きてくれるよね? ユトちゃん」
 本日の食卓は寂しいもので、たった二名である。集はちょっと出かけてきますといったっきり1週間戻ってこない。彼のちょっとは時に地球の裏側であったりするので、侮れないのであるが、ただ、食事はいりませんと前もって言われていたので作る側としては非常に助かっていた。隻は宝石店、キャラメルボックスの仕事で本日は留守。最近ホストの仕事よりもこちらの仕事が楽しいらしい。よく宝石店関連の仕事で外出している。逆に隻の穴を埋めるためか、頻繁に店に顔をだしているのは音羽。無論、ボーイとしてであるが。
 遊のフロント業務は、本日お休みである。
 よって、食卓は叶と二人きり。その中で、唐突に彼は所属するサッカークラブの試合を見に来て欲しいと、遊に請うてきたのだ。
「悪いんだけど、バイトもあるし。日中だよね?」
「うん。今度の日曜日。朝九時から」
「日曜日ねぇ」
 遊はスケジュール表を頭に思い浮かべて思案した。次の日曜日には、もう既にきっちりとバイトの予定が組み込まれている。悪いんだけど、と口を開きかけた遊を制するように、叶が微笑んだ。
「気になるんだよね?」
「……何が?」
「真砂おねーちゃんのこと、気になってるって、この間、言ってたよね」
「……う」
 ……角、角が見えます! 小悪魔の角が見えますよ天使様!
 笑顔だけならきわめて清らかな叶を半眼で睨め付けつつ、遊は唇の端が痙攣するのを感じていた。
 真砂という娘が妹尾家の面々と仲睦まじく写っている写真を見つけたのは数日前。そのときの真砂についての隻の語りかたがおかしかったため、純粋に興味を抱いたのである。叶はあとでね、といった。
 後で、真砂について、教えてあげるね、と。
 だが実際ははぐらかされてばかりだ。隻や音羽に聞くのも、なんとなく躊躇われた。棗は家を留守にしているし、集も同じく。
 きっと、聞いてしまえばたいしたことではないのであろうが。
 実際、好奇心も薄れていた。あの写真を見つけたときから、時間を置いていたせいもある。
「い、いいよ。もうその、真砂さん? のことは。それよりも、試合にはいけないよ。もうシフト表だしちゃったもん」
「真砂おねーちゃんのこと、他の人に訊こうとしても無駄だからね。我が家では禁句だもん。知ってた?あの写真、もう隻兄ちゃん片付けちゃったんだよ?」
「……え?」
 写真を、片付けた?
 何のために?
 怪訝さに息を呑む。
 叶の微笑を見て、遊はぎくりと身体を強張らせた。話に乗ってしまった。後悔したところで既に遅く、一度再び頭をもたげた好奇心は、奥まることを知らない。
 写真を片付けても、メリットなど何もない。あれは、単なる家族写真だ。
 単なる家族写真のはずだ。写真を片付ける必要などどこにもない。
 今までどおり飾っておけばいいというのに、それを何故。
 考えられうる理由は、ただ一つ。
 自分に、見られたくないから。
「気になるよね?」
「……そりゃ、まぁ、でも、ね?」
「ねぇお願いユトちゃん。ユトちゃんが試合にきてくれるって言うんだったら、僕、真砂おねーちゃんのことを教えてあげるし」
「いやあの叶君?」
「何より僕、ユトちゃんに、ユトちゃんに……試合、きてほしいんだ……!」
 ――忘れて、いました。
 遊は天井を仰ぎ見ながら、嘆息した。陥落した。そう、思った。逆らえない。この、なんというか人の心奥底に訴えかけるような目には。
 妹尾家の面々の得意技。
 人を、オトすこと。
 視界の端で一瞥した叶の目は、何かを訴えかけるアイリッシュコギーの如し。この天使のような顔を持つ少年に宝石のようなきらきら目で見つめられて、墜ちない女はいないのではないでしょうか。
 とりあえず妹尾家とともに生活を始めて早数ヶ月。ある程度の耐性を身につけている遊も、さすがに今回ばかりは白旗を振らずにはいられなかった。
 敗因はそう、“真砂”という人に対する好奇心のせい、とでも言い訳しておこうか。


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