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Stage 6. 猫が歌う初夏の賛歌 1


 みぃーんみんみんみぃぃぃ……

 蝉の声が夏の暑さを掻き立てる。庭に面した窓は開け放たれ、初夏の生ぬるい風が窓際でカーテンを揺らしている。救いは縁側に吊り下げられた風鈴だった。その陶器が触れ合う涼やかな音が、まだ夏は辛いことばかりではないのだよと囁きかけてくれている……と思いたくなるほど、遊は精神的にキていた。
「うぅぅううぅぅぅぅううぅぅぅぅ」
「無理する必要ないんじゃないの? ユトちゃん」
 テーブルに突っ伏し、ぐりぐりとシャープペンの先端を白い数学プリントに押し付けていた遊の顔の横に、冷えた烏龍茶を置きながらそういったのは隻だった。寝起きらしい。身につけているのは木綿のTシャツにカーゴパンツというラフな格好で、それがかえって彼の細身を引き立てている。細身ではあっても、ひ弱なわけではない。胸元や腕は厚みがあって、どこかで鍛えているのだろうなと思わせた。
 オヤジ心丸出しで、うーんやっぱりいい身体しているよなぁと妹尾家長男を眺めつつ、遊は烏龍茶の礼を言った。隻の手にも烏龍茶。遊の顔の隣にあるそれは、明らかに自分のためのものだったからだ。
「英語と日本史と物理と古典漢文、終わったっていってたでしょう」
「あと数Tと数Aと化学が残ってます!」
「それでも半分終わってない? 全く急ぐ必要はないと思うけど……まだ夏休み、二日目なんだから」
 確かに、隻のいう通り、まだ夏休み二日目である。
 普通ならばそう急いて宿題を片付ける必要はない。たとえ毎日練習のある部活動に所属していたとしても、ここまで宿題を終えているのならゆったりと構えることができるだろう。けれども遊はそうではない。夏休み。一日、学校がない。つまり。
 稼ぎ時なのだ。
「もう二日目なんだよ、隻兄」
 遊は頬杖をつきながら小さく嘆息した。壁にかけられたカレンダー。夏休みはなんて短いのだろう。一枚めくるだけで終わってしまうのだから。この四十あまりの日数の間に、いかに有意義に金を稼ぎ出すか。それは、現在宿題の行方に掛かっているのである。
「もしかして、働くつもり?」
「昼間、昌穂さんのところ人手が足らないから手伝いにこないかって言われたの。二つ返事でオッケーしてきた」
「……あのねぇユトちゃん」
「あ、安心して。それでも一日中働いたりしないし。だってこの夏休み中に部屋の片づけやら掃除やらもしなきゃいけないし今度網戸も全部洗いたいし」
「倒れないように、ほどほどにね」
「うっ」
 にこやかに釘を刺されて遊は蛙が路肩でひき殺されたときのような呻きを上げて押し黙った。知恵熱もどきを出して、音羽や日輪の目の前で倒れたのはついこの間のことである。その間、散々迷惑を妹尾家の面々にかけてしまった身としては、とても痛い一言であった。
 しょぼくれた遊の頭を隻がぽんぽんと軽く叩く。愛情の篭ったやり方だと思った。彼の浮かべる微笑は優しいが、ホストとして女を甘やかす笑みではない。熱の篭った笑みでもなく、そこにあるのは親しみやすい、親愛の情だった。
「苛めているんじゃないよ。本当に、倒れてしんどいのはユトちゃんだろうから。朝働くのはほどほどにしておいたほうがいいよ。俺だってキャラメルボックスに出るの、しんどいときあるんだから」
 よしよしと頭をなでられ、つい遊は縁側で身体を撫でられて気持ちよさそうに目を細める猫を想像した。はたからみれば、今の自分はまさしくその猫そのものだろう。
 落ちてくる隻の声音は優しく、夏の風鈴に混じって涼やかだ。こういう声に、ノックアウトされちゃう女もいるのだろうと思いつつ、遊は真顔で隻に尋ねる。
「……てか前々からきいてみたかったんですが、どうしてアレだけホストで稼いでいるのに宝石店なんかで働いているんですか?」
 以前からの疑問である。冗談抜きで隻はあの店のナンバーワンホストだ。伊達でもなんでもなく。生活がかなり一般家庭と変わらない、むしろ地味と呼べるほどなのでつい忘れがちになるのだが、ホストのものだけで遊の金銭感覚を狂わせるほどの年収を、隻は得ている。
 にも関わらず、わざわざ眠い目をこすりながら起きては、数時間宝石店へ仕事しに出かけているのである。たいした収入にもならないであろうに。
「ん? あーあそこのねー店長俺の幼馴染なんだ」
 隻はへらりと笑っていった。
「からかうの、楽しいんだよねぇ。盛大にからかわれてくれるし」
「……そんな理由で」
「俺はあそこに遊びにいってるようなものだよ。彼で、遊ぶの楽しくてねぇ。そんなんだから、大して働いちゃいないんだ」
「今社会人として激しく問題な発言しましたね兄さん」
「だからユトちゃん、しんどくなったらさっくりやめなよ。昌穂君は楽しい人だし、精神的にきついってことはないとおもうけど」
「人の話いい加減に聞こうとかおもわないんですか」
「ね?」
「……はぁ」
 妹尾家ご長男様はお父上に似て、相変わらず人の話を聞かない人である。
 それでも、自分のことを心配してくれているのは真実だ。
 仕事の掛け持ちがきついことは確かで、仕事を持ちかけてきた昌穂もその点は熟知しているらしく、仕事は昼間からの数時間。一番忙しい時間を手伝う程度、暇な時は普段おろそかになっている彼の店の住居部分を片付けるだけとの提案を出してきた。バイト代は多少安めであるが、スケジュール調整の柔軟さが遊には魅力的であった。いくら高校は県立とはいえども、義務教育でないのだから決してタダではない。高校大学は卒業しておきましょうねという集の一言に従って、通わせてもらっているわけで、学費諸々については当面頭を悩ます必要はないのだが、こまごまとした費用は必要だ。このバイト代は、きっとその足しになる。
 借金、一億三千万円。増えることはあっても、なくなる気配は微塵もない。
 ため息をついた遊は、ふと、がしゃん、という遠くで陶器のようなものが落下する音を聞いた。隻も聞きつけたらしい。かなり派手な音だ。面を上げて顔を見合わせ、首をかしげる。居間を出て様子を見に行く隻の背中を追いかけた遊は、すぐ仏間の前に佇む彼を見つけた。
「なにどうしたの?」
 隻の背後から仏間を覗き込んだ遊の目に飛び込んできたのは、様々なものが畳みの上に散乱する部屋であった。どうやら、換気のために窓を開けておいたのが災いしたらしい。強風が部屋を吹きさらし、うねったカーテンが手近なものを攻撃した……といったところだろう。陶器の落下音は、箪笥の上に置かれていた一輪挿しが畳みの上に叩きつけられた音だったようだ。落下した衝撃によって砕けた一輪挿しと、ぶちまけられた水を吸って染みを作った畳はひどく哀れで。窓枠にも水の零れた跡があることから、カーテンに巻き込まれてそのまま、窓枠に一度ぶつかって畳みの上に落ちたのだろう。見事に四分割され、散らばった破片は夏の鋭い日差しを受けてきらきらと輝いている。
「あちゃぁ……」
 遊は家事を一応任されている責任感に駆り立てられて、畳の上に上がった。破片を踏みたくはないので、スリッパのままであったが。
「危ないよ、ユトちゃん」
 入り口近くまで散らばっている破片を拾い集めて奥へと進む遊を、背後で隻が[たしな]めた。え? と面を上げた瞬間、指先に鋭い痛みが走る。顔をしかめて確認した指先から、赤い雫が零れていた。
「ほらいわんこっちゃない。そのまま、じっとしているんだよ。俺救急箱とってくるから」
「隻兄ちょっとそれ大げさ」
「じっとしてる!」
「……ふぁい」
 隻の叱責に、大げさだと憤慨しつつも遊は大人しくしていることにした。確かにこれ以上、陶器の破片で指を切るのは御免被りたかった。血が苦手なのである。
 指先で玉になっている血をなめとりその独特の味に閉口して顔をしかめた遊は、ふと陶器の破片に混じって畳みの上に伏せられている写真立てを見つけた。これもまた、風に煽られて落下したのだろうか。腕を伸ばして何気なく拾い上げ、それを返し見た遊は、げ、と蛙が路肩でへちゃげたときのような呻きを漏らして口元を引き攣らせた。
「……だ、誰さん?」
 それは、家族写真だ。
 どうみても。
 集が中央の後方に映り、その隣には隻がいる。そしてその横には棗。棗の前には音羽。誰もがほんの少し今よりも若く、幼稚園の制服をきた叶が女性の腕に抱かれている。
 問題は、その女性の姿なのである。
 いやこの人、女ですよね。女です。人間ですよね。人間です。エイリアンじゃないですよね特殊メイクしてませんよね? してないんじゃないですか?
 思わず、神様とオラクルできてしまうほどの衝撃だった。
 写真でこれなのだから、ナマでみたらさぞや凄かろうというほどの、女性という以前に人間として、あまり顔の造作のよろしくないお方が、叶を抱いて妹尾家の中央で笑顔を浮かべていた。
「あー懐かしい写真みてるねぇ」
「隻兄……」
 いつの間にか救急箱を携えもどってきていた隻が、遊の肩口からひょいと顔を突き出して、遊の手元の写真を覗き込んでいた。その口元に湛えられる、いたずらっぽい笑み。
「びっくりした? これ叶が幼稚園に入学した時の。いやぁ初めてみる人には衝撃的でしょうミドリコさん」
「……みどりこ、さん……って」
 もしや、いやもしかしなくとも。
 楽しげな笑いを口元に湛えたまま、当たってほしくない遊の予感、むしろ確信を、あっさり隻は肯定した。
「うん俺たちの母上だね」
「嘘―――――!」
 仏間に絶叫が響き渡る。この仏間ばかりは、集が掃除を行うので踏み入れることは滅多になかった。こうやって、噂の妹尾ミドリコさんを目にするのははじめてのことである。美形ぞろいの妹尾家の母上。さぞや美人だと思っていたら。
 今、妹尾家ご兄弟は皆、外見はすべからく父親似だということが発覚した。
 この遺伝子はいったいどこへ行ってしまったのだろう。人類の奇蹟にむぅ、と顎に手をあてて悩む遊の傍らで、隻がからからと笑う。
「緑色の子供って書いて、緑子さん。最高でしょうこの顔。体型。像や虎やライオンも、尻尾巻いてにげるよね」
「ですよね……」
「でもいいひとだよ。俺は好きだよ。母親としてもいい人だった。不良だった集を更生させたのもこの人だっていうし」
「……いやそもそも一体どこでどのようにして知り合ったのか私激しく集とーさんとこの緑子さんのラブストーリーを是非聞いてみたいと思っておりますえぇ」
 呻きながら遊はまじまじと写真を見返した。美女と野獣ならぬ美男と野獣、といってはおかしいか。けれども初めての目に飛び込んでくる印象は強烈であるが、見ればみるほど顔に浮かべられている笑みは強く人を惹きつける類のものであるとわかった。どんな困難も笑いとばしていきるひとの豪快な笑いだ。故人であるから、もう顔を合わせることはないけれども、会えばきっと好きになっただろう。そんな気がした。
「あれ? 隻にいさん」
「んー?」
 救急箱の蓋をぱかりとあけて、軟膏とガーゼを取り出している隻に、内心それは大げさすぎだろうと突っ込みを入れつつ、遊は写真の端を指差した。
「妹尾家って四人兄弟だよね?」
「うんそうだね。俺と棗と音羽と叶だから四人だね」
 ちょきんと包帯をはさみで切っているところをみると、どうやら遊の指先をそれで簀巻きにするつもりであるらしい。隻から手を引いて、なおも追いすがってくる彼の手に写真立てを押し付けた。
「これ」
 ぽん、と隻の手に乗せた写真の端を指差して、疑問を口に上らせる。
「だれさん? ご近所の人すか?」
 そこに映っていたのは。
 今の遊と同じ年頃の少女だ。遊と同じ学校のセーラーを身につけている。長い黒髪を背に落として、元気一杯に、実に楽しげに笑っている。この家で暮らすようになってまだ四ヶ月。妹尾家の母上の顔を今初めて知ったように、知らぬことも多い。
 何気ない質問であったはずだが、返ってきたのは沈黙だった。
 怪訝さに隻の顔を覗き込む。遊の目に、彼にしては珍しい苦々しい表情が飛び込んできた。
「……隻兄、どうかした?」
「ん? いや痛そうだなぁって指」
「……はぁ? 大げさですよってこの程度で。それより私の質問聞いてた?」
「聞いてた。えっと、この子だね。この子はね、ユトちゃんの前にこの家にいた子だ。マサゴちゃんっていう」
「……マサゴ?」
 どこかで、聞いた名前だ。
 聞きなれぬはずのその名前に、記憶に引っかかるものを感じる。
 首を捻る遊の前で、隻が写真を畳みの上に置きながら、うん、と頷いた。
「真の砂って書いて、真砂。緑子さんが連れてきた子でね。ユトちゃんと似たような経緯でこの家に転がり込んできた」
「へぇ……」
「それよりもユトちゃん手をだして。消毒する」
「え? あ」
 強引に陶器の破片で傷つけた手をとられる。隻らしくない――大人しく彼の手当てを受けながら、遊は口元をへの字に引き結び、胸中で反芻した。隻、らしくない。
 普段の彼ならばもっとスマートに話題を変える。どのように、と具体例をあげることはできないが、こんなあからさまな動揺を面にだしたりはしないはずだ。短く切られた包帯が丁寧に指先に巻きつけられていく様を見守りながら、遊は怪訝さに眉をひそめた。彼の表立った動揺があまりにも珍しくて、このぐるぐる巻きの指先に対して苦情をいう気も失せる。
 やがて彼は掃除機を取ってくる、といって立ち上がった。危ないからそのままじっとしててね、と言い残す彼の笑顔も、いつもの胡散臭い営業用であった。
 隻が廊下を挟んで向こうの居間へと姿を消したのと入れ替わりに、とたとたと足音を響かせて部屋に飛び込んできたのは、新聞紙の束を小脇に抱えた叶だった。
「ゆーとちゃん、大丈夫? 隻に、ユトちゃんが怪我したーってきいたけど」
「えーあーうん。大丈夫ってか全然平気。隻兄大げさ」
 指先の白い包帯が暑苦しい手を、ひらひらと振ってみせる。遊と同じくスリッパのまま上がりこんできた叶は、先ほど隻のいた場所にちょこんと腰を下ろし、遊の手をのぞきこんできた。
「気をつけなきゃ駄目だよ」
「以後気をつけます……」
 頭を垂れた遊に叶はにこりと微笑んで、新聞紙とともに持ってきていたらしい軍手をはめ始めた。わきわきと指を動かして、軍手の付け心地を確認したらしい彼は、古新聞を広げて手際よく陶器の破片をその古紙の上に収集していく。なるほど、こうすれば確かに手も傷つかない。考えたものだと感心しつつ、遊は何気なく、隻に対してしたものと同じ質問を彼に投げてみた。
「ねぇ叶君、真砂さんって知ってる?」
「……真砂?」
 面を上げた叶は、一瞬強張ったような声をあげたものの、思い当たることなど何もないという風に、ごく自然に首をかしげた。彼が幼稚園入学頃だというから、記憶にはあっても名前を覚えてはいないのかもしれない。
 けれどもすぐに叶は、あぁ、と頷いて微笑んだ。
「うん。知ってる。真砂お姉ちゃん?ユトちゃんどこで知ったの?その名前」
「えっと……この写真に、写ってたんだけどね」
 遊が指差した写真を、叶はすぐに拾い上げ、感嘆の叫びを上げた。
「うわーなつかしー。緑子さん写ってるよ! 僕ちっさ! あはは棗わかーい。で、ユトちゃん真砂お姉ちゃんがどうかしたの?」
「……隻兄に聞いたらなーんか様子がおかしかったから。それに私の前にこの家族と暮らしてた人って、ちょっと興味あったし」
 どういう経緯で妹尾家に転がり込んだのかはしらない。けれども隻の口調から推測するに、彼女は親戚といった様子でもなかった。隻は、遊と似たような経緯といった。ならばおそらく、彼女は遊と同じように赤の他人で、何か事情があってこの家に転がり込んできたのだろう。
「あ、まさかこの人お亡くなりになった……とか?」
 隻が言いよどんでいた理由を思い当たって、思わず口元を押さえた。遊は彼女にあったことがない。つまり、彼女はもうこの家にいないということだ。単に就職して家を出たのかとおもったのだが、実は何かの事故で……。
「ちがうよちがう」
 という遊の推測は、叶によってあっさり否定された。
「ちゃんと生きてるよー。集なら知ってるだろうね。だけど、僕は知らない。高校を卒業する前ぐらいに、でていったんだよ。多分。あんまりよく覚えてないけど」
「あ、さようで……」
 呻きながら、遊は胸中にて全力で地球のどこかにいらっしゃるであろう真砂さんに平謝りした。ごめんなさい。勝手に殺してしまってごめんなさい。
「だけど、知ってることもあるよ」
「……へ?」
 大人しく、陶器の破片を新聞紙の端を使いながらそっと拾い上げていた遊に、ふと叶の声が掛かった。視線をやったその先では、少年が悪戯っぽい光に瞳を輝かせている。口元に浮かぶ不敵な笑みをみて、あぁこの人も幼いとはいえどもやっぱり妹尾家の人なのだと遊は思った。
「知りたい?」
「……え? ……う、うん」
「もってきたよー」
 叶が続く言葉をつむぐことをさえぎるようにして、隻が掃除機を抱えて姿を再び現した。はっとなって振り返った遊は、首をかしげる隻に誤魔化し笑いを浮かべて叶に向き直る。
 叶は唇に人差し指を当てた。また、後でね。そう唇が動く。躊躇いながらも小さく頷くと、彼は無邪気に遊に微笑んでみせた。


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