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Stage 5. 乙女よ、疾走せよ 10


 その。
 心に刻まれた。
 何ものにも負けぬ姿の残像。



「知恵熱ね」
 体温計のデジタル表示を眺めた棗が、早々と結論付けた。
「喉が痛いとか、そういうのはないんでしょう?」
「……ナイデス」
 布団を口元まで引き寄せながら遊は頷いた。どうしてこうなっちゃったのかなぁと思考をめぐらせるだけで、ずきずきと頭は痛む。高熱からくる頭痛だ。そして、身体全体を襲う悪寒。だが風邪を引いたらしい気配はないし、寒中水泳といったようなこともした覚えはない。この正体不明の熱の原因を探れば、やはり。
「ならやっぱり知恵熱よ」
 と、棗お姉様が仰る通りなのである。
 実際には知恵熱は幼児が知恵づくころの原因不明の発熱を指す。棗が知恵熱というのは、それを踏まえた揶揄であった。くすくすと微笑を漏らして、彼女はいう。
「難しいことばかりがありすぎて、疲れていることもあって熱をだしたのね。明日は絶対休みなさい。今日のお仕事は、別の子に入ってもらうように手配するから」
 遊にそう命令する棗の片手には既に携帯電話がある。ありがたくはあるが、同時に申し訳ない気持ちで、遊の胸中は一杯であった。今朝も、寝坊を許してもらったばかりなのに、と。
 情けなさにもほどがある。作ってもらった氷枕に頬を押し当てて遊は唇を噛み締めた。
「ユトちゃん」
「……隻兄」
 棗と入れ替わって部屋に入ってきたのは、隻。その手にはペットボトルの林檎ジュースと、なぜか氷が命一杯入ったワインクーラー。何か欲しいものはあるか、と彼に尋ねられて林檎ジュースをリクエストしたのは自分であるが、まさかワインクーラーがセットで現れるとは予想していなかった。彼は遊の枕元に目を向けると、そこに置かれていたお盆の上にタオルを敷いた。水差しとグラスと解熱剤が入った紙袋が置かれたやや大きめのお盆は、棗が用意したものだ。水差しなどを脇へ避けて、ワインクーラーを空いた場所に固定する。
 よし、と隻は満足げに頷いて、遊を振り返った。
「しばらくは冷たいと思うよ。夜明けぐらいまではもつんじゃないかなぁ。保冷剤も入れたし」
「……ありがとう隻兄」
 もそりと布団の縁から顔をだして礼を述べる。この人には、本当に申し訳ない。今日の夕方も、宝石店の仕事中に倒れた遊を迎えに来てくれたのだ。
 隻が、柔らかに微笑んで遊の汗ばんだ額をそっと撫でた。
「あまり。無理しないほうがいいよ。遊はなにかと頑張りすぎなんだよ。一億三千万もあるんだから、がつがつしてたって一日二日で返せるものじゃないんだし。お仕事だってのんびりいけばいいし、そうすれば、学校生活のほうだって余裕ができる。そりゃぁ……今回のことは、余裕云々の話でもないけど」
「あははは……。うん。ありがとう」
 隻の心遣いが本当に嬉しい。病んでいるときほど、それが身に染みるものだ。遊は素直に微笑み返した。普段ならば、冷たくあしらうところであるが。
 調子付いたらしい隻は、おどけたように肩をすくめて、悪戯っぽく口角を曲げた。
「本当はそばにいてあげたいんだけど、今日俺お仕事だからね」
 そう告げる隻は、未だに宝石店の仕事服のままだ。同じスーツでも、宝石店のものは黒。クラブのものは白。仕事にでかけるまえに彼はシャワーを浴びていかなければならないし、他にもこまごまと身支度を整えなければならない。それを放り出して、遊が欲しいといったものを探してくれたのだろうなぁと思った。ちなみに買ってきてくれた林檎ジュースの銘柄は、中でも一番好きだと何時だったか、隻に話したことがあるもの。これはコンビニには特大ペットボトルは置かれていないのである。侮れないお兄さんである。
 遊はさらに遊の頭をなでてくる隻の大きな手を心地よく思いながらも、とりあえずいうべきことは言っておくことにした。
「早くお仕事いってください。私、全然大丈夫ですから」
 このままいくと、本当にこのお兄さん、部屋に入り浸りかねない。
 隻ががくりと双肩を落とした。
「……ユトちゃんもうちょっとさぁ……いやいいけどね。もうね」
「早くしないと、お客さんに見抜かれちゃいますよいい加減に支度したって」
「うんそうだねぇ。……あー俺今ものすごくホスト辞めたい」
「阿呆なことを言わずにさっさといきましょう。ほら。繭貴さんも美星さんも奈々さんも洋子さんも明日菜さんもみんな待ってます」
「……よく俺の顧客覚えてるね」
「フロント、もう直ぐ三ヶ月ですんで。毎日見ていれば覚えますそりゃ」
 むぅ、と低く唸った隻は最後にぽんぽんと遊の頭を軽く叩いて、部屋を出て行った。捨てられた子犬みたいな背中をみて、つい笑ってしまう。本当は抱きついてありがとうといってやりたいところであるが、そんなことをすれば調子づくので、遊は遠ざかる足音を聞きながら大人しく瞼を閉じた。
 とろとろと襲ってきた睡魔。夢の世界からの手招き。それらに身を任せて、ただ、気だるさが消え去るのを待つ。
 ふと響いた、かちゃん、という扉の開閉音が、遊の意識を呼び起こした。
 思わず、滑り込んできた人影を確認する。目をこすり、確認できたその輪郭は、珍しい人間をかたどっていた。
 確認の声をあげる。
「音羽?」
「知恵熱だって?」
 音羽は部屋の中まで入り込むことをせず、戸口に背中をもたせ掛けていた。狭い部屋がこれ以上窮屈にならぬよう気を使っているのか、それとも見下ろすことに威圧感を持たせているのか。熱のせいで遊の神経は今果てしなく鈍化しているので、そのどちらでもたいした違いはないのであるが。
「まったく……ちょっと難しいことがあっただけでお前という奴は」
「……病人にかける言葉がそれですかお兄さん」
「優しい言葉をかけてお前の熱が下がるもんでもないだろう」
「怒りで体温が上がると思うけど……」
「上がってくたばって黙ってろ」
「だったら何も言わないでさっさとどっか行ってください私の安眠のために」
「遠藤美紀は」
 音羽が紡いだ名前に、遊は反射的に面を上げた。そうだ、自分が熱で昏睡状態に陥ってから、彼女はどうなったのだろう。最後に見た、あの頼りなげな背中を思い出した。
「転校するだろう。奴にそそのかされて、お前を襲った奴らもな。そういう風に手配した。まぁどのみち、学校に元の通りくることなんざ難しいと思うが」
「そ、か」
 嘆息して、額に手をあてる。感覚のない手のひらと額。だた、じっとりとした汗の感触だけがある。倒れたあと、どのような話し合いがもたれたのか遊は知らない。音羽たちは、一体教師たちにどのように話したのだろう。美紀たちは、どのように告解したのだろう。全てが明らかになっているとするならば、おそらく停学処分は免れないし、そのあと、彼女らとどのような顔をして会えばいいのかも、遊自身よくわからない。
 転校。それが、いいのかもしれない。
「お前が気落ちする必要はないだろう。あいつらがやったことを考えれば。そんな顔をするな」
「ん、ありがと」
 そうは言われても気落ちすることは気落ちしてしまう。明日は欠席してしまうとして、再び彼女ら――ことのほか、美紀ともう一度会いたいと思った。屋上の時は気分が高ぶっていてまともな会話ができたとは思いがたいし、すこし眠って思考がある程度冷えた今では、思うこともある。
 美紀は、彼女の内心はどうであれ、最初に遊によくしてくれた、少女だった。
 ややおいて、まだ部屋を出て行くつもりがないらしい音羽が呟いた。
「高い代償を払ってそろえたカードで、やったことといえばこんなこと、というのが泣けるが」
「……そういえば、カードって屋上でもいってたけど、なんなの?」
 屋上で、音羽が言っていた。カードを、切る、と。
 音羽が小さく肩をすくめて、あっさりと回答してくる。
「もののたとえだ。情報、とでも思っていればいい。相手を叩き潰すのに有効な。地位が高ければ高いほど、それは有益なものとなる」
 へぇ、と遊は口元を引き攣らせ、それ以上追求しないことにした。何か、聞いてはいけない犯罪チックな匂いがぷんぷん香水のように薫っている。だが好奇心にまけて、とりあえず一つだけ、確認することにした。
「ちなみにそのぉ、カードとやらをそろえたのは?」
 音羽が電話をしていたその相手。音羽はあっさりと答えた。
「集だ」
 一瞬、遊の脳裏に夜の帝王、という言葉が思い浮かぶ。胡散臭い爽やか笑顔を浮かべた男組み羽織のオジサマは、本当に一体何をやっていらっしゃる人なのでしょう。
 音羽が口の端を曲げて、嘆息すると、押し黙った。口を閉ざしたのはいいことだが、何ゆえ戸口にたったままなのだろう。そろそろ眠りたいのであるが。懇願の視線を、遊は彼に叩きつけかけ、ふとその右手に巻かれた、白い包帯に気付く。
「……どうしたのソレ」
「どうもしない。保険医が少し大げさだった」
 包帯のことであると悟ったらしい音羽の回答は即答だった。右手の第一関節。眠りやすいように部屋の明かりは落としてある。薄暗がりのなかで、その包帯の白は良く目立つ。遊の視線に居心地の悪さを覚えたのか、軽く彼は身じろぎをした。
「……なんだじろじろ見るな。たいしたことないと――」
「それ。女の子殴ったときの?」
「……あぁ。変に手加減をしたから、ヘマをやった」
「え? あれで手加減してたの?!」
 確か彼の拳を受けた少女は、文字通り壁まで吹っ飛んでいたような気がするのであるが。
 音羽はそれ以上こたえる気はないらしい。ただ遊の突っ込みに、不機嫌そうに顔をしかめただけだった。再び、包帯を見やる。痛めた、のだろう。彼がたいしたことはないというから、それほどでもないのであろうが。けれども利き手だ。
「……今日、初めて人殴って思ったんだけど。あれって、痛いねぇ。殴ったこっちが」
「あ? あぁ……それがどうかしたか?」
「……音羽も、痛かった、よねぇ?」
「……まぁ、多少は、な」
「ありがとう」
 音羽の呼吸が止まる。目を瞠った彼に、遊は不快感を顕に、小さく身じろぎをした。パジャマが、汗で身体に張り付いている。
「……私がお礼をいうのってそんなに変なの? 何よその顔」
「俺は、別に、礼を言われることなど何一つしてないつもりだが」
「そういうんだったらそう思っておいてよ。私が勝手にお礼を言いたかっただけなんだ」
「そうか」
「だって、痛かったんでしょ」
 白い包帯の巻かれた手。自分はそこまでではない。殴りつけたのはたった一人であったし、確かにしばらく手首は痛んだが、興奮の間にその痛みもいつの間にか和らいでいた。日輪が包み込んでくれた手。ありがとうと、彼女は言った。彼女がそうした意図がよくわかる。人のために自分が痛い目をみて、誰かを傷つけるというのは、とても辛く痛い行為だ。
 沈黙していた彼が、ふと、まごつきながら口を開く。
「…………あの、な」
 やけに歯切れの悪い言い方だ。悪口を並べ立てるだけならば、いつも彼の口はマシンガンにでもなったかのように躊躇いなく言葉を吐き出すのに。
 遊は、怪訝さに砂が詰まったように重たい頭を動かし首を捻った。
「お――……」
「ユトちゃん」
 音羽の言葉を遮り、ひょい、と顔を覗かせたのは叶だ。その長い睫毛をぱちぱちと瞬かせて、彼は表情を曇らせながら首を傾げる。
「だいじょうぶー?」
「あーうん大丈夫。ありがとう」
「そっかぁよかったね」
 にこ、と天使の笑顔を浮かべて、彼は言う。あぁこれですよ。病人に対する対応とはこれが正しい姿ですよ。遊は音羽を非難しようと口を開きかけて、戸口から、ついさっきまであった姿が消えていることに気がついた。
「あれ? 音羽にーさんは?」
「しらない〜。あ、ユトちゃんお客さんだよ。学校のお友だち」
「遊ちゃん」
「日輪ちゃん?」
 お大事ね、と言い残し手を振って廊下を駆けていく叶に代わって姿を現したのは、日輪と笠音。日輪は遊の布団のよこにちょこんと腰を下ろし、その横に座るスペースを見出せなかったらしい笠音は、学習机に軽く腰をもたせかけた。
「だい、じょうぶ?」
「うん平気―。わざわざ来てくれてありがとう」
「……来れると、思ってなかった」
 ぼそ、とそう付け加える日輪に、思わず遊は間抜けな呻きをもらす。
「へ?」
「いや、君この家族の人に結構愛されてるね」
 難しい顔をして沈黙する日輪の言葉を引き継いで返答したのは、笠音だった。
「僕、結構音羽とは仲良しさんだという自負があるけど、家に入れてもらったのは初めてだよ」
「……はいれないって、笠音君、脅すから」
「なるほど……」
 家の事情を考えれば、それも仕方がないことなのかもしれない。彼女らにそれを許可してくれた棗だか隻だかに感謝しつつ、遊は二人に微笑んだ。
「ごめんね。ありがとうわざわざ来てくれたんだね」
 日輪はこっくりと頷いて、学生鞄のなかから、ファイルを取り出した。クリップで留められた数枚のルーズリーフとプリント。
「午後の分」
「え? 授業あれから出たの日輪ちゃん?!」
 どうやらあの騒ぎがあって、遊が倒れた後、最後の授業には出席したらしい。体を起こし、受けとったルーズリーフの束をぱらぱらとめくってみれば、なんと欠席したはずの授業の文まで板写してある。どうしたのこれ、と尋ねると、クラスメイトの人に頼んだ、との事だった。
「貸してって、いったの。ノート。かして、くれた」
 と、日輪は言葉少なにあっさりいうが、実際は大変だったのではないだろうか。なにせ、今日の朝までシカトかましていた人間に、頼みにいくのである。
「平気」
 黙り込んだ遊の胸中を、聡い娘は察したのだろう。日輪が音もなくすっと斜め後方の笠音を指差した。
「このひとうしろにいたから」
「この人っていいかた、酷いよ日輪」
「それに」
「え? 無視?!」
「私、ほかに遊ちゃんに、してあげられること、ない」
 瞼を伏せて、日輪が静かに繰り返す。
「できること、するしかない」
「えーあーうーいやそんな、私が勝手に首突っ込んだわけだからそんなに気を遣っていただかなくとも」
 自分が勝手にこの騒動に踏み込んだのだ。日輪が最初に忠告してきたにも関わらず。彼女が自分に何かをする必要などなにもなく、一つわがままをいうならば、これからも友だちでいて欲しいというただそれだけで。なにせ日輪は、友人としては最高に面白い人間なのである。
 ふと、日輪がふわりと微笑った。
 それは不意をついた微笑だった。いつもの、自嘲の混じった笑いでもなければ、微かに口元を曲げただけの笑みでもない。その微笑は、花開いたかのような、柔らかな微笑だった。
 遊は日輪に向き直ると、真顔で尋ねた。
「……すみません日輪さん。襲ってもいい?」
「え? わっ」
 がばっと小さな身体ごと全てを抱きしめる。文字通り襲い掛かられた日輪は驚きに身体を硬直させたようであったが、それも一瞬のことだった。彼女は躊躇いがちに遊の背に手を回し、ぎゅっと力を込めてくる。
「日輪ちゃんだいすきー」
「……うん。私も、大好きです」
「えへへ」
「はーいそこまでね」
 幸せな気分に浸っていた遊を、笠音がぺりっと日輪から引き離す。水を差すなとにらみつければ、苦笑に引き攣る顔があった。普段、飄々とした表情を浮かべて滅多に動じることがないというのに。男の嫉妬は醜いのうと思いながら、遊は大人しく離れてやった。
「レズレズしてないで。日輪、そろそろ帰ろうね。日、長くなってきたけど暗くなる」
「送り狼にならないでね?」
 冗談のつもりであったのだが。
「……遊さん。笑顔でそういうことをさらりといわないで」
 笠音の返答は至極真面目だった。
 日輪が本当に食べられてしまわないことを、思わず遊は神様に十字を切って祈ってしまった。
 日輪は、会話に一人ついてきていないらしい。むぅ、と怪訝そうな表情を浮かべている。しばらくして、何かを思い出したのだろう。日輪は唐突に、ぽん、と拍手をうった。
「遊ちゃん、明日、お休み? 休むんだったら、ノート」
「あ、お願い」
 そこの鞄から、と学生鞄を指し示すと、日輪が身体を起こして遊の鞄を引き寄せた。教科のノートを引っ張り出して彼女は彼女の鞄にそれらを移し替える。その姿を眺めていた遊は、視線を感じて面を上げた。変わらず机の縁に腰かけた笠音がそこにおり、彼の柔らかな眼差しと目があった。
「どうか日輪と仲良くしてあげて」
「言われなくてもしますよ」
 これだけがんばって勝ち得た日輪の友人の座を、簡単に投げ出すほど友人足りているわけではない。笠音はそうだね、と苦笑を浮かべ、それから、と付け加えた。
「音羽とも」
「……それはお兄さんにその気がないと無理だと思います」
「そんなこと、無いと思うよ」
 笠音が小さな含み笑いをもらす。支度を終えて立ち上がった日輪を先に部屋から出した彼は、つぶやいた。
「君なら」
 聞き取れるか聞き取れないかといった声量で。
「真砂さんから」
 聞きなれない名前を。
「遊ちゃん」
 名を呼ばれて面を上げる。日輪が戸口に立っていて、小さく手を振っていた。
「またね」
「あ、うん」
「じゃぁお大事ね。遊さん」
 日輪の横に並んだ笠音が、微笑みながら扉をゆっくりと閉じた。ぱたん、と閉じられた扉が空間を遮断し、部屋に静寂と闇が戻る。
 遊は布団に再び重たい頭を預け、とろとろと眠りの世界へ旅立ちながら、ふと首をかしげた。 
 マサゴとは、誰、と。


 仕事の支度を整えた隻には隙がない。整えられたマホガニーブラウンの髪と、無駄な肉のない身体に皺なく纏った白のスーツ。彼はだらしなく着崩すことがなく、新鋭の会社の若社長といっても通じる出で立ちだ。袖口から覗くロレックスの時計。アクセサリーはたった一つで、右手にはめられたシンプルなプラチナの指輪のみ。妹尾家の人間に、余計な飾り物は必要がない。その存在一つで、相手に影響を与えるということを、兄弟の誰もが熟知している。
 だから、その兄弟の中に混じってなお普通であれるあの少女が、稀有なのだ。逆に、自分たちに種を蒔いている。
 変化の、種を。
「今日はお休み音羽?」
「あぁ。この手じゃな」
 ひらりと手を振ってみる。本当にたいしたことはないのだが、まかれた包帯がどこか痛々しく人の目に写るのは致し方ないことだ。薬を塗ってあるために今日一日は外すなといわれている。客に、心配をかけるわけにはいかないのだ。
「お大事に。利き手なんだから、あまり無理しないほうがいいよ」
「あぁ……隻」
「ん?」
 靴べらをことんと下駄箱の中に仕舞いなおした隻が、呼びかけに応じて面を上げる。
 気配を、読み取ったのだろう。
 彼の眼差しが細められ、纏う空気がざわりと変化する。漣のように、塗り替えられた空気は、もはや優しい兄のものではなく。
 敵を威嚇する、猛禽類のような、その眼差しを真っ向から受け止めて、音羽は宣言した。
「参戦させてもらうからな」
 兄は小さく嘆息したようだった。瞼を伏せる。長い睫毛が眼下に影を落としたのは一瞬で、面を上げた彼は低く、嗤った。
「ご自由に」


 その姿を目にするたびに。
 蒔かれた種が。
『おとわくん』
 刻まれたままの面影に、波紋を落とした。

 夏が、始まる。


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