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Stage 5. 乙女よ、疾走せよ 8


 体調不良を訴えにくる生徒の様子と彼女らのそれは、あまりにも異なっていた。
 浮かべられている表情に、遊は思わず身を引いた。どことなく、嫌なものを感じたのだ。その少女たちは同じ教室で机を並べる少女たちではなく、はっきり言って見覚えがない。だが彼女らの瞳はあまりにも的確に遊の姿を捉えていて、浮かべられる微笑に、肉食獣が獲物を前にして舌なめずりをする行為と共通の何かを、遊は感じた。
 とりあえず、無視だ。
 遊は椅子から腰を浮かせ、温かな日差しの中に鎮座するベッドのほうへと歩を進めた。
 が。
「いたっ」
 肩を突然掴まれて引き戻された。もともと、それほど運動が得意なわけではない。高度なバランス感覚を持ち合わせるわけでもない遊は簡単に体勢を崩し、パイプ椅子を巻き込みながら見事にすっころんだ。
「つぅ……って、な、何すんのよ!」
「ちゃんと見張っときなよ」
 立ち上がる間もなく二人がかりで身体を押さえつけられる。一番化粧の濃い少女が、扉口に立ったままの少女に命令した。彼女はこくりと頷いて、廊下に出て扉を閉める。
 ……いやぁな予感がいたします。
 いや、予感どころか。
 このシチュエーションを考える限り、遊に待っている未来はただ一つだ。
「え、ちょ、ま、な、ちょっと!」
「悪いけど黙ってて」
 そういって口の中に突っ込まれたのは、小さなパイル地のハンドタオルだった。反論する間もなく、ぎゅうぎゅうに押し込まれる。手足を動かそうとするが、三人がかりで固定されてしまっているために身動きが取れない。遊の脚を己が膝で体重をかけつつ固定する少女が、鋏を取り出すのをみて遊は蒼白になった。涙目で、ただ一人不気味に微笑んで見下ろしてくる少女を睨め付ける。
 少女の手の中には、液晶カメラ。
 …………ちょっとちょっとお姐さんそれは犯罪デスヨ。
「ふぐっ!ふぐぐっん――っつうん―!」
 犯罪行為[コミットクライム]ですってば!
 混乱した頭が英単語を吐き出すのをいまいましく思いながら(どうせならテスト中にきちんと思い出したいものである)遊はとりあえず力の限り暴れてみた。手足に力をこめて、身体を命一杯ゆする。だがその努力も空しく遊の身体が解放されることはなく、代わりに返されたのは少女の怒鳴り声だった。
「ちょっと大人しくしなさいよ!」
 無理な要求だと、遊は霞み始めた意識の向こうで思った。誰が突然こんな風に襲われて大人しくするというのだろうか。だれだって防衛措置を取ろうとするはずだ。
 最近、こんなピンチばかりで本当に嫌になりますが。
「んっん―! んぐうん―! ん―っ!」
 歌を歌うために、自分の声量はかなりのものだと遊は自負している。
 だがそれも、口の中に布を押し込まれてしまえば、思う存分振るうことはできない。助けも呼べない。
 少女の一人が鋏をセーラーの裾にひっかけるのをみて、遊は驚愕に息を呑んだ。
「んん―――!」
 破いたら誰がこの制服の料金払ってくれるのよ……!
 思わず胸中に湧き上がった怒りの理由に、遊は自分で呆れた。後で回想すれば、さぞや腹を抱えて笑えることであろうが、今はそのようなことを考えている場合ではない。おそらく、意識があらぬ方向へ向かうのは、気がふれないための防衛措置なのだ。
 恐怖の指針など、既に振り切れてしまっている。
 遊に出来ることは、ただ身体を体力の続く限り動かして、抵抗の意志を示すのみだ。
 いい加減にしてほしいです本当に。
 後で覚悟をしておけ、と、負け犬同然の呟きを胸中で吐きながら、スカートに入れられる鋏を睨み据えていた遊は。
「ふっぐぐもっふぐっつ!?」
 突如強く身体を押さえつけられ、がつん、と、後頭部を机の脚にしたたかに打ち付けた。
 一体何が起こったのか。
 頭を打ち付けると、目の前に星が飛ぶというのは本当らしい。瞬きを繰り返していると、少女の一人が遊の口元を押さえている姿が視界一杯に飛び込んできた。保健室は静まり返り、少女たちの視線は用心深く扉のほうへと向けられている。話し声が、響いていた。片方はあの見張り役を請け負った少女のもので、もう片方は男の声だ。しかも、遊には聞覚えがあった。
「だから、別に保険医がいようがいまいが、俺はかまわないんだ」
(……音羽?)
 扉越しに届いた声は、妹尾家次男のものだった。不機嫌なのか、物言いがそっけない。いやあの人はいつもぶっきらぼうな物言いをするが、それに拍車が掛かっている。微妙な差異だが、いつもねちねち嫌味をしている身だからこそ、それを認識することができた。
「だからね、妹尾君――」
「いい加減にしろっ」
「あ」
 がら、と。
 扉が開いた。
 踏み込んできたのは無論、音羽だ。その背後に、彼を引きとめようとしている少女の姿がある。音羽は忌々しそうに少女を睨め付けており、足を一歩踏み出しながら、ふっとこちらに面を向けた。
 彼の動きが、凍りつく。
 少女たちの肩越しではあるものの、遊の視線が音羽のそれとばちりと重なる。驚愕に呼吸までも止めてしまったのかと思うほど微動だにしない音羽に、遊はとりあえずえへへと力ない微笑をうかべてみた。
 一方、音羽は対照的に、みるみるうちに顔から色というものを消していった。僅かな間、表情というものが完全に彼の顔から消失し、そして直ぐ様、青い炎のような怜悧な熱が、その双眸に宿っていた。
 憤怒、という言葉が遊の胸中に浮上する。
 絶対零度の。
 憤怒。
 刹那。
「きゃぁっ」
 音羽は見張り役の少女を引き倒していた。保健室の床を、少女の身体がまるで人形のように滑る。まるで映画のようだ、と遊は思った。思ったその一瞬で、音羽は既にカメラを回している少女の下に踏み込んでいた。
 手首を捻り上げて、彼は少女を引き倒す。
 液晶カメラは重力に引かれて盛大な音と共に床に叩きつけられた。ヴン、という電子音をあげて画面の明かりが消失する。ひっ、というしゃくりあげた声が両脇から聞こえ、次の瞬間少女たちは次々に乱暴に引き起こされて、音羽に遠慮の欠片もなく殴りつけられていた。
 保健室の中が静まり返り、口の中の、布地が取り出される。ぷは、と新鮮な酸素を取り込んだ遊は、目の前で膝を突く男に思わず叫んだ。
「女の子殴るって鬼かあーたは」
「言うべきことはそれじゃないだろうが阿呆かお前は!」
 はぁ、と盛大にため息をついた音羽が、遊の両脇に腕を差し入れて立ち上がらせてくる。立ち上がったはいいものの、情けないことに少し膝が笑っていた。
 制服は皺だらけ、だが目立った外傷は特にはない。あえて言うならば、机の角にぶつけたときに出来たらしい後頭部のこぶぐらいであろうか。口の中に糸っぽいものが残っているが、これは口を[すす]がなければ解消できないだろう。
 けれどまだ、身体が少し、震えている。
「情けな。あ、あははちょっと、がたがたしてる」
 自分で自分の腕を抱きながら、遊は音羽を見上げた。やっぱり上背あるなぁと、場違いのことを考えながら。
 遊を見下ろしてくる音羽の表情は、かつてないほど困惑に満ちていた。口元と目元を、もごもごと動かし、何を言うべきか考えあぐねているようである。
「……お前は……」
 しばらくして、大きな嘆息と共に彼は言った。
「お前は、もう少し平穏に日々を過ごすことができないのか本当に……」
「……わ、私だって、好きでおねーさんがたに襲われてたんじゃないわよ!」
「当たり前だ!」
 怒鳴り声を雷が落ちる、と最初に表現した方は、すばらしいと遊は思った。
 それほど音羽の怒り方は尋常ではなかった。背後に閻魔様の虚像がみえる。頭には角が生えているような気がするし、顔はこれ異常ないほどに青ざめて、かと思えば目は血走り、身体全体が戦慄いている。
「お前は、本当に、俺が偶然ここに来なければ、一体どうするつもりだったんだ!」
「……どうするって」
 打つ手なしであっただけに決まっている。
 ことが終わった後に、黙っているかといわれれば、たとえ恥を晒しても反撃にでたであろうが。
「いいか!?」
 突如音羽が、保健室をその怒声でもって満たす。
「ひっ」
 反射的に、遊は身体を萎縮させた。
「お前が――お前が、どんな事情に首を突っ込もうがお前の勝手だ! だけど人に心配をかけることだけはやめろ心臓に悪いっ! 本当にお前って奴は毎回、毎回毎回! いい加減にしろ!」
「ちょ……っと! お言葉ですけど私だって好きでこんな状況に陥ったんじゃないよ!」
 頭ごなしの叱責に、遊は思わず反論した。そりゃぁ自分で女子を敵に回したわけであるが、こんな犯罪まがいのことまで容認した覚えはない。
 鼻白む音羽に、遊は腰に手を当てて叫び返す。
「大体あんただってちょっとは心配のひとことぐら……心配?」
『人に心配をかけることだけは――』
 あれ。
 はた、と遊は我に返り、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。仏頂面をしている次男坊様を、怪訝の眼差しでもって見上げる。突然の遊の行動の変化に、彼は不快そうに眉をひそめ、一歩身を退かせていた。
「……なんだ?」
「……心配してくれてたの?」
「は? お前何い……」
 それは刹那のことだった。
 本当に本当に一瞬のことだった。
 かっと。
 遊は音羽の顔色が赤く塗りつぶされていくのを目撃した。それは怒りからではない。どちらかといえば、照れ、羞恥心、そういったものからだ。
 彼は口元を覆い、もごもごと、低く呻いた。
「……なんで俺がお前の心配をするんだ」
「いや別にしてくれて全然いいんだけど。……違うの?」
「どこをどうやったらお前はそんな自信過剰になれるんだ……」
「違うの?」
 音羽は否定しなかった。ふぃ、と視線をそらして、気絶している少女たちのほうへと歩み寄る。照れ隠しだ、と遊は判断した。何だかわいいところあるじゃないか。
 せっかそうく思ったのに。
「心配するのは隻と棗だ。あの二人を怒らせると、俺が被害にあう」
 かわいくないお言葉でせっかく上昇した好感度を、彼は氷点下まで引き落とした。
「……さようですか」
「そうだ」
 彼は一人納得して、背中を遊に向ける。それ以上、遊の言葉を聴く耳もつつもりはないようであった。音羽はそのまま倒れ呻いている少女らの下へと歩み寄る。少女らの一人が殴られたらしい腫れ上がった頬を押さえながら、歩み寄ってきた音羽を怯えた眼差しで見上げていた。美人の激怒は、すさまじい迫力がある。普段彼の不機嫌な様相を見慣れている遊でさえ、その眼差しで射殺されるのではないかと思ったほどであるのだから。
「遊」
「……え?」
 一瞬。
 誰に名前を呼ばれたのか判らず、遊は首をかしげた。
 今、この人私の名前、呼びました?
 そうやって名前を彼に呼ばれるのは初めてのことだ。感動にちょっと胸打たれた遊は、けれどその余韻に浸る暇もなく、音羽の切迫した言葉を聞いた。
「土屋な、教室に戻ってきていなかったぞ」
「……はい?」
 日輪が、教室に、戻っていない。
 そんなことはありえない。あれだけ総無視に遭おうとも、出席率だけは百パーセントを保っていた少女なのだから。昼、具合が悪いといった様子も見受けられなかった。彼女が授業をサボタージュするとは考えられない。
 嫌な予感が去来する。音羽の言葉が、それに追い討ちをかけた。
「あと何人か女子もふけていた。あまり考えたくはないが、お前のことを考えれば、探したほうがいい」
 音羽の言わんとしていることの意味を悟った遊は、一瞬青ざめる。つまり音羽はこう示唆しているのだ。
 彼女も、同じ目にあっているのではないか、と。
「後始末はしておいてやる」
 ちらりと振り返った音羽は、不敵とも呼べる笑みに、くっと喉を鳴らして口元を歪めていた。
「いけ。探して来い。後ですぐ追いついてやる」
「おと」
「ぐずぐずするな」
 一呼吸置いて、音羽が名を呼ぶ。

「走れ、遊」


 その音を、どこかでいつか聞いた気がした。

 廊下を駆ける少女の足音は、遠ざかるに連れて音量を消していった。散らかった保健室に、静寂が戻る。響くのはカーテンがはためく音と、少女達の呼吸音。授業もそろそろ終わりに近づいているのだろう。運動場から生徒の号令は聞こえない。
 音羽はブレザーのポケットから携帯電話を取り出した。登録されている数は酷く少なく、使うことも滅多にないものだ。その中から一番着信履歴の多い人間を探し出し、リコール。
『何?』
 ほとんど間をおかず、返事をした通話相手に、音羽はため息をついた。
「おい貴様。一体どこで油売っている」
『油は売ってないけどね。どうかしたの?』
 あまりにも無責任なものいいに、苛立ちが頭をもたげる。足元に転がる少女達が逃げ出さないようそのスカートの裾を足で踏みつけ固定し、彼女らを睨み据えながら音羽は苦々しく呻いた。
「おい。お前女にやたらめったら手をつけるんだったらきちんと手綱握っておけ。こんなことは御免だぞ。心臓に悪い」
『何かあった?』
「今、保健室にいる」
 ここに来たのは偶然であったが、自分の気まぐれに、音羽は感謝した。
「遊が女どもに襲われていたぞ」
 一瞬、相手が息を呑んだのが判った。その沈黙の間、携帯電話のスピーカーから響く音に、音羽は顔をしかめる。
「お前、走ってるのか?」
『油は売ってないっていったよね?』
 焦燥感の滲む返答。その声に混じって聞こえる、慌しい靴音と、時折何かにぶつかるような音。
 音羽は、躊躇いがちに名を呼んだ。
「笠音」
『遊さんは無事だったの?』
「……ぎりぎり」
『そう。じゃぁ僕が間に合うように、祈っておいて』
「……お前」
『後で頼みごとするかもしれないけど、ごめん、一旦、きる』
 ぶっっという通信の断絶する音。続けて響く発信音。音羽は苦虫を噛み潰した気分で携帯電話を仕舞いこみ、苛立ちをぶつけるようにして少女達を睨み据えた。
「いいか貴様ら」
 唯一、意識を覚醒させている少女がびくりと震える。たかだか普段つっぱった物言いをしているだけの少女達だ。一蹴するぐらいわけはない。
 音羽はできる限り抑揚を押し殺し、その分この身体を満たす苛立ちを込めて囁いた。
「俺達のものに手を出したからには、それなりに覚悟してもらうからな」


「しつれいしまっす!」
 自分の教室の戸を勢いよくひらき、音羽の言葉が真実であると確認した遊は、同じ勢いでもって扉を閉じた。ぴしゃん、と音を立てた戸は、力が強すぎたのか反動で壁との隙間を埋めてすぐさま引き戻され、僅かに空間の中間を占拠した。その向こうから、クラスメイトのざわめきと、教科教諭の怪訝そうな声。
 だがいちいちそれに反応している暇はなかった。確認すればそこに用はなく、二段飛ばしで階段を駆け上る。普段動かすことのない筋肉があげる軋みはきかないことにして。
 薄暗さからくる不注意に、つい足を滑らせそうになりながら、遊は普段なら閉じられているはずの屋上へ続く扉が開かれたままであることに気がついた。梅雨明け間近の、生ぬるい風をうけて揺れるそれ。踊り場に光を持ち込む戸口に飛び込んだ遊は、屋上のど真ん中でつい先ほどの自分をそのまま体現する少女を目にし、さっと胸中が怒りに塗りつぶされていくのを感じた。
 先ほどの音羽は、まさしくこのような心境であったのだろう。
 階段を駆け上ったあとだ。息が切れていて、体中が悲鳴をあげていて。だが遊は動いていた。考える前に身体が走り出し。
 そして音羽がそうしたように、力任せに、ビデオ撮影に励むその少女の横っ面を殴りつけていた。
「っ………?!!!」
「ッ………っつた!!!!!」
 殴りつけられた少女が驚愕に目を見開きながら殴り飛ばされる。がしゃん、とコンクリートの床の上に叩きつけられた液晶カメラは、確実にもう用を成さないだろう。そのひび割れた画面をにらみつけながら、思わず痛みに呻きを漏らし、殴るために使用した手を押さえていた。ばき、という気持ちのよい音がしたが、ダメージを受けたのはどうやら遊が殴りつけた少女だけではなく、自分の右手首もまたそれなりに被害を被ったようである。
「な、何するのよ!」
「何するのよはこっちの科白だこのやろう!」
 日輪を押さえつけている少女に不意の蹴りをすかさず入れながら、遊は叫んでいた。もう一人の少女が立ち上がりかけるその寸前に、襟首を掴んで平手をする。頬を赤く腫らした少女がぱくぱくと口を開閉して遊を怒りの眼差しでもって見上げてきたが、彼女らの言葉を封じ込める形で、遊は怒鳴り声を上げていた。
「いい加減にしなさいよあんたら! これはねーいっとくけど犯罪よ犯罪! 刑務所にいって臭い飯くいたいのかよ! ふざけんな!」
 肩で呼吸を繰り返し、襟首を掴んでいた少女を床に向かって強く押した。彼女らが怪我をしようがどうしようが、知ったことではない。
 先ほど、力の限り少女を殴り飛ばす音羽をみて、鬼だと思ったが。
 自分もどうやら鬼らしい。
 だが友人をこんな風に扱われて、落ち着いていられるほど、遊は人間できていない。
 胃の腑が、怒りに震えて、目の奥がちかちかする。と、思ったらなぜか涙が零れていた。口の中が、塩の味で満たされている。
「ふざけないでよ! あんたたち、一体何の権利があってこんな、こんなことをするわけ!? 大体こういうこと、平気で、するって、あんたたちどういう神経してんのよ!」
 本当に、どういう神経をしているのだろう。
 こんな、こんな、ことを。
 平然と、行える神経の持ち主と机を並べていたなんて、決して信じたくはない。
 呆然とコンクリートの上に座り込んでいる少女を睨み付けて下唇をかんでいた遊は、ようやっと上半身を起こした日輪の叫びに、ふと我に返った。
「遊ちゃん後ろ!」
「え?……っ!」
 ごっと。
 後頭部を強く殴打された。
 視界がぶれて、平衡感覚を失う。思わず崩れ落ちそうになったところを、背後から抱きとめられる。否、羽交い絞めに拘束された。
 ずきずき痛む頭を押さえようにも、腕を両方とも拘束されていて。明滅する視界に瞬きを繰り返しながら背後を振り返ると、先ほど遊が殴りつけたばかりの少女がいた。クラスメイトの、一人だった。教師陣に叱責を受けながらもいつも明るく笑顔を振りまいていたはずのその少女の頬は、遊が殴りつけたために見るも無残に腫れあがっている。怒りの眼差しが遊を射抜き、そしてその眼差しをうけとめるまえに、少女の面がわずかに上がった。
「……すれ違ったのかしら。でもその様子じゃ、逃げてきたって、感じ?」
 少女が一人、天文部の部室から階段をゆっくりと下りてくる。
 彼女もまたクラスメイトの一人だ。むしろその少女とは、友人としての交流が一時はあったといわなければならない。
 遠藤美紀。
「……どうして」
「ここにいるのかって?」
 遊は微笑む少女に口を閉ざした。学年一の才女は、少し長めの前の毛を指先でいじりながら、遊の言葉を制して答えてくる。
「面白いショーが見られると思って」
「……面白い?」
 美紀は無邪気に微笑んだ。子供が浮かべるようなその笑顔。遊は拘束されている腕の痺れに僅かに顔をしかめながら、低く呻く。
「……美紀さんが、指示したの?」
「まさか、気付いてなかったわけじゃないでしょ? 遊さん、決して馬鹿じゃないわよね。あれだけ正々堂々と正面から宣告してあげたのに」
 日輪と行動を共にすると決めたその日に、彼女が浮かべた嘲りのこもった、冷笑。
 予想していなかったわけではない。むしろ確信を抱いていた。笠音が裏で意図を引いて娘がいるだろうと遊に告げたときも、真っ先に浮かんだ顔は、この少女のものだった。
 それでもどこかで信じたくなかったのかもしれない。あのとき、模範生の仮面を捨て去って見せた冷笑を。そこに込められていた悪意を。
 ただ、被害者になりたくないがために、少女が自分を無視しているだけならどれほどよかったか。
 それなのに、彼女は自ら名乗る。
「土屋さんへのシカトも、いろぉんなこまごまとしたことも、もちろんこの面白いショーも、筋書きを書いて指示をだしたのはみぃんなアタシ。保健室で襲われて泣き寝入りしてくれること期待してたけど、最初は二人一緒にここで襲われてくれる予定だったから、まぁいいわ。当初の予定通り」
 委員長って、いろんなことが簡単にわかって、便利なのよ、と少女は笑う。目だけ笑っていない微笑で。
 その、瞳が見つめる先はどこなのだろう。遊を見ているようでもあるし、背後で再び拘束されたらしい日輪を見ているように思わなくもない。もしくは、空を眺めているのだろうか。夏を近くに控えさせる、澄んだ青空を。
 さて、と肩をすくめた美紀が、ひらりと手をふって、踵を返した。
「じゃぁショーの続きを、ゆっくり楽しんで」
「訴えるわよ!」
 遊の主張に、美紀が再び向き直り、肩をすくめる。細められる、その双眸。
「証拠がどこにあるの。私はいっておくけど、貴方を殴ってもいないし、拘束してもいないし、制服を隠してもいないわよ」
「でも指示はしたんでしょうが」
「したわねぇ」
 おっとりと、まるで何も問題はないというように、彼女は鷹揚に頷いた。
「この子達に証言させようとしても無駄よ。普段から素行の悪い少女たちの主張と、学年で一、二を維持し続ける模範生徒である私と。どちらの主張を先生たちは信じるかしら。それに私のパパ、市会議員だし?ママは、PTAの役員だし? 先生たちもだぁれも、私を敵にしたくはないのよ」
 これだから、なまじ頭のよくて権力のある奴は。
 遊はありったけの嫌悪をこめて、言葉を吐き捨てた。美紀と、そして彼女を信じようとしていた過去の自分にむかって。
「サイッテー」
「なんとでも。悔しかったら、周囲を納得させるだけの証拠をあげて、私につきつけてみるのね」
 遊は歯噛みしながら、歌うようにそう言い放つ美紀をにらみつけた。最初は、彼女に何故こんなことをはじめたのか、理由を尋ねたいと思っていた。美紀はとりたてて笠音を好いていたという様子でもなかった。いや、その胸中はもしかしたら嫉妬に塗りつぶされていたのかもしれないが。
 だが今となってはそんなことどうでもいい。
 ただ、この女を屈服させたかった。
 睨みつけるだけで、相手が吹き飛ぶのであればいいのに、と、遊は一瞬馬鹿馬鹿しくも本気でそう思った。
 美紀は口元に手をあてて、悦に入ったかのように笑い続けている。誰も、動けない。美紀のその、狂気じみた笑いに。
 ただ生ぬるい風だけが唯一動くものとして、汗を吹いた遊の額を撫でていった。
そして、口元に手を添えて、密やかに笑う美紀の表情は。
「お望みどおり――」
 突如割り込んできた男の声にぎしりと凍りついた。
「証拠を突きつけてあげるよ。遠藤美紀さん」
 美紀の瞳が驚愕に見開かれ、弾かれたように背後をふりかえる。遊はその少女の身体越しに、屋上の入り口に佇む人影を認めた。かつん、というコンクリートの礫を蹴りだす音。太陽の光に温められた熱気が、いつのまにか生み出していた陽炎を、掻き分けるようにしてその人影はゆっくりと歩み寄ってくる。
「……かさねくん?」
 日輪のかすれた声が風に混じる。
 ビデオカメラを掲げた守里笠音が、その呟きに柔らかな微笑を浮かべた。


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