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Stage 5. 乙女よ、疾走せよ 7 


「しつれいしまーっす」
 がらがらがら、と勢いよく引き戸を開く。だがそこには、自分を呼び出した張本人は愚か、生徒の一人すら見受けることはできなかった。小さく嘆息して足を踏み入れる。しばらく椅子にでも座っていれば、程なくして戻ってくるだろう。今のうちに、白紙の利用届けをそれなりにうめておこうと、遊は鞄から用紙を引っ張り出した。
 ペンをくるくると回しながら静かだなぁと遊は胸中で呟いた。窓の外からは保健体育のために早めに外に出たのか、生徒の笑い声。少し生ぬるさを伴った風が、窓から吹き込みカーテンをはためかせている。
 保健室という名の白い空間は、この学校にやってくるまで、保健委員として働くとき以外はお世話になったことがなかった。遊は、基本的には健康良児である。だからこそ少々タフなこともどっこいどっこいでこなしていけるのであろうが。
 だが最近、保健室に来る回数が増えている。体調不良で利用するのではなく、女子軍団からの攻撃を避ける、避難場所としてだった。空き時間、ねちねちとした陰口に遊がぶちんと切れそうになる寸前、日輪が無言でここに連れてくるのである。彼女は一度読書に励むと外の世界の音を全て遮断できるらしく気にならないらしいのだが、遊はそうではない。どうどうときっぱりしゃっきり言えよ、と叫びたくなるのだ。叫んで、泣きたくなる。
 夜の人たちはとても温かいのに。
 朝の光に紛れている人たちは、とても陰湿。
 あのネオンサインに照らされた世界を占めるのは、どうしようもないほどの汚れた何かだと遊は知っている。今でも時々思い出す。最初に連れ込まれた場所。薄っぺらな壁。胡乱な目で、薄布をまとって幽鬼のように廊下を歩く人々。下卑た笑いと、獣じみた嬌声と。
 おそらく、路地に入れば、酒と塵と吐瀉物の臭いがしただろう。
 もしかしたら、血の臭いもしたかもしれない。
 けれども、そんな場所でも、明るく笑っている人たちは、確かにいるのに。
 堂々と、胸を張っている人たちがいるのに。
 聖人君子として生きろとは言わない。そんなのは無理だ。ただお天道様に顔向けできないようなあの卑怯さは、どうにかならないものか。陰口とか陰口とか陰口とか。
 単に、陰口の陰湿さに嫌気が差しているというのもあるのだが。
 それとも、他者に振り回されず、生きるのって、そうとう難しいことなのだろうか。日輪に、あの妹尾家の面々や、真、琴子をみているとそうも思わないのだけれども。
 さわさわと、梢が風に揺れる音が届く。時計を見れば予鈴まで、あと少し。
「サボりたい、かも」
 風の生ぬるさ。梢の囁き。生徒の笑い声。カーテンから透けて見える、青。周囲に、人の居ない静寂が、心地よいと思えたのは、初めてだった。
『人と、いると、孤独』
 日輪はそういう。本に視線を落としながら。
『自分が異質だと思えて、仕方がない。同じものが見えない。同じものを追えない。同じようにものを感じることができない。一つ、違ったことをいった瞬間に、凍りつく空気がいや。一つ、違った行動をした瞬間に、向けられる視線がいや。けれどあの人たちは、無言で、笑うから』
 その無言の笑みの裏に潜む、蔑みの囁きが、聞こえるようで。
『なら、私は笑わない。なら、私はしゃべらない。なら、私は、最初から、一人の場所のほうが、とても、とても、楽』
 哀しいことだと思った。
 最初から一人を選び取ること。
 最初から諦めて、逃げているのだと思った。
 だが日輪といる時間が増えるに連れて、日輪は逃げているのではなくて、逃げざるをえないのではないかと思った。
 人と触れ合うこと、一つ一つが恐怖なのだとしたら、集団生活はどれほど息つまることなのだろう。
 こうして、誰もいない空間に逃げ込んで、呼吸ができるのなら、誰だってそれを選びたいはずだ。
 今だってほっとしている。女子たちの奇異の視線に、自分の精神もそうとう参っているのだなぁと改めて認識する。誰もいない世界で、静かに眠れたら、と、うっとりと呟く日輪の気持ちを。
 今なら――。
「サボればいいよ」
「――っ?!」
 まどろんでいたのか、ただ思考の海に落ちていただけか。
 どちらにせよ、意識は覚醒していなかった。それを、割り込んできた声に引き起こされた。
 振り返ると、休憩用のベッドが並ぶ一角のカーテンが、すっと開かれていくところだった。顔を覗かせたのは見覚えのある少年。もっとも、彼を少年と表現してもよいものなのかどうか。あどけなさ、というものが少年には付随すると思うのであるが、彼にはそれが全くない。音羽と同じだ。どこか同年代の少年たちとは一線を隠した雰囲気をかもしだしている。
 彼はよいしょ、と寝台から降りると上靴をはいて、遊の傍へゆっくりと歩み寄ってきた。
 かつ、と目の前に立たれる。まるで王子か何かのように、彼は優雅に礼をとってみせた。
「初めましてっていうのもへんだよね。だけど初めてしゃべるしね。磯鷲遊さん」
 守里笠音はそういって、にこりと微笑んだ。
 伊達男、だと、第一印象を抱いたはずであるが、実際こうやって間近で相対してみると、まったくことなっていることがわかる。その顔に滲むのはあどけなさではない。愛嬌、と一般的に呼び習わされるものだ。
 顔立ちは、整っているといえばそうであるが、実際よく見れば、妹尾家ほどのあの人形めいた整い方ではない。だが愛嬌のある笑みを浮かべる人だ。こういうひとは妹尾家経営のホストクラブのなかに何人かいて、あぁこういうひとが、人に好かれる顔立ちというものなのだな、と遊は変に納得したりした。
「どうして私の名前?」
「そりゃ、ねぇ。まぁ同じ学年ですし、転校生って目立ちますし? それから、音羽から聞いてたし」
 さも当然というふうに指折りで説明していく笠音の口から、音羽の名前が出たことは意外だった。家の様子を友だちに話して聞かせるような男ではないのに。いやそれとも笠音が音羽にとっては特別な人間ということなのだろうか。そもそも自分の何を話すようなことがあるのだろう。家に転がり込んできた、くそ生意気な小娘だと?
「楽しい子だって、いつも聞いてる」
「……楽しい子?」
「うん。まぁ本人は否定すると思うけれど、でも実際言いたいことはそうなんじゃないかなぁと、僕は思っております」
 どんなことを話しているんですかあの次男坊は。
 なんだかげっそりとなりながら、ふと笠音の説明に、一番可能性あるべき少女の名前が弾かれているのに遊は気がついた。
「日輪ちゃんからは?」
 何か、具合の悪いことをいっただろうか。
 笠音の顔から刹那、笑いが消える。直ぐに取り付くられた笑顔はどこか自嘲を含んでいて、きらわれたらしくて、と彼は口を開いた。
「最近、よく避けられる」
「……そうなんですか?」
 学校にいる時はほとんど遊と行動を共にしているため気付かないのであるが。
 実際笠音と日輪があっている気配はない。今巻き込まれているこの馬鹿げた騒動の原因が、一体何であるのか忘れそうになるほどだ。
「……こればっかりはね。ちょっとは覚悟してたけど、露骨にやられると痛いよね」
 せっかく手なずけたばかりだっただけに、となんか不穏な言葉が科白のなかに混じっていたような気がするが、遊はさらりと聞き流すことにした。最近、こういう能力ばかりが上がってきているような気がしないでもない。
「顔、見た瞬間に逃げられるし。メールは無視だし着信拒否だし。最近日輪と仲がいいんだってね? 遊さん。せめてメールぐらい返信してくれないかって、いってくれないかな」
 申し訳なさそうに、どこか頼りなげに笑う笠音をみて、遊はどこか既視感を覚えた。それと似たような表情をどこかで見たようなきがするのだが、思い出せない。ただとても、とても日輪のことを好いていて、無視されて本当に参っているのだなぁと、思った。
「でも、日輪ちゃんも今大変だし、守里さんにかまっている暇がないだけかもしれませんよ?」
「……大変?」
「……え。もしかして」
 このお兄さん、日輪のことを好きなくせに、事情をしらんのですか。
 思わず表情を変えてしまった。その表情の動きが露骨であったのだろう、彼が小さく苦笑をもらす。
「女の子同士の軋轢にはね、僕は介入しにくい。みんな、綺麗な面を見せたがるものだから」
「はぁ……」
「でもま、彼女持ちの友だちなんかを当たると、何があるのかは直ぐわかるけれどね。女の子って怖いね。総無視かぁ」
「いや知ってるんだったら助けましょうよねぇ」
 遊は速攻で彼に突っ込んでしまった。事情を知っているのなら、何故助けない。日輪がそもそも女子から嫉みそねみを一身に浴びることとなったことの発端は、このお兄さんなのである。
 彼女が望んだわけではないだろうに。
「言いたいことはわかるよ。やだな遊さんそんなに睨まないで」
「……あの、その遊さんっていうのやめてくださいなんか気持ち悪くて鳥肌立つんで」
「おやそれは失礼」
 おどけた調子で笑う彼に、懐疑心を命一杯こめて、遊は視線を送った。こいつ本当に高校生か。
 笠音は肩を軽くすくめて時計を指差した。
「初めて一緒にサボりました記念で、名前ぐらいよんでもいいかな、と思ったのですけどね」
「へ? あっ」
 つられてその指先を見やれば、授業開始時刻を五分既に過ぎた時計。蒼白になりながら、チャイム鳴らなかったのに! と叫んだ遊に、笠音があれ、と声をかけてくる。
「知らなかったの? 保健室は放送の音切ってあるんだよ」
「……シラナカッタ」
 眉間にきつく皺を刻んで呻いた遊を、彼は軽やかな声をたてて笑った。その響きに、呆れるほどの子供っぽさを感じる。小学生の少年が邪気のかけらもなく、くったくなく、伸びやかに笑ったときの表情と声。遊はなんとなく理解した。同級生の少女たちは、この子犬のような笑いに心惹かれるのだと。
「素直な子だね。気に入ったよ」
「……どうもありがとうございます。……いやそんなことよりも、どうして日輪ちゃんを助けないわけ? 今の状況を知ってるんなら」
 ついついほだされそうになる自分に慌てて頭を振りながら喝を入れて、遊は強引に話題を戻した。授業をサボってせっかくこのお兄さんと会話する機会を得られたのだから、有効活用しなくては損だ。口にしたのは素朴な疑問。音羽の話を聞く限り、彼のほうが日輪に惚れているようなのだから、今の状況を彼女から聞きだすなりなんなりして、打開策を打ってあげてはどうなのか。彼が少女たちに一言口を聞けば、このいじめも一割程度はなりを潜めるだろうに。
「そうだねぇ」
 昼下がりの青空を窓越しに見つめた彼が、のんびりと答えてくる。
「僕に彼女が助けを求めてこない、というのが、第一の理由かな」
「……日輪ちゃんのあの性格で、助けを求めに来いっていうほうが無理だと思うんですが」
「うん僕もそう思う」
 あっさり笠音は同意し、遊は思わず閉口した。
「……君の言いたいことはわかる。ほとんどはただ仲間はずれにされたくなくて便乗している子達だろうけれども、僕を好いてくれている子達の嫉妬がそもそもの原因なんだから、僕が口ぞえすればなんとかなるって、君はそう思ってる、よね?」
 胸中をずばりと言い当てられる。彼が窓際に歩み寄り、そこに軽く腰掛ける。カーテンのはためく音に混じる、生徒たちの号令。運動場に並んでいるだろう生徒たちへ視線を落としながら、彼は続けた。
「だけど僕が彼女たちに口ぞえしたところで、なんの解決にもならない。僕の目のあるところではなくなるかもしれない。さっきも言わなかった? 女の子たちは、綺麗な面だけを僕たち男に見せたがるもので。普通の子たちだったら、僕にみんなが酷いことをとかなんとか訴えてきそうなものだけれど、日輪はそれもないしねぇ」
 それは言外に、原因の根絶をしないかぎり、事態は決して収まらない、ということを示している。人の目のないところなら、いじめはエスカレートしていくだろう事も。
「だけど」
「僕だって全く何もしていないわけじゃないよ。こういうものには、頭のいい首謀者がいるものだから」
「首謀者?」
「上の首根っこ捕まえたほうが早いでしょう。だけど彼女が動く決定的な瞬間をつかめなくてね」
 もう首謀者が一体誰であるかわかっているような響きだ。
「誰なんですか?」
 彼は意味ありげにくつくつと喉を鳴らしたが、答えてはくれない。かわりにくれた一言はコレだった。
「名前を言ったら君、喰って掛かるでしょうその子に」
「……よく判ってますね私の性格」
「馬鹿みたいに真っ直ぐで猪みたいだよって、音羽言ってた」
 あはははと笑いながらそう告げてくる笠音を視界の端に捕らえながら、遊は拳を握り締めて胸中で呻いた。
 殴っていいですかあの男を。
 おそらく額には、青筋が浮いていたことであろう。
「それに、君だってなんとなく予想はついているんでしょう」
「え?」
「君は決して頭の悪い子ではないもの。思い当たる子はいるでしょう」
 そういわれて、思いつく少女の姿はある。だがいまいちピンとくるものがなくて、確証が持てないのだ。その少女は酷く頭も顔もよい。家もそれなりの家であるらしい。社交性豊かだが、その気になれば人を突き放して生きていけるような少女だと、遊はなんとなく思っている。だからこそ、首謀核にもなりうると。
 だが、彼女は決して他の少女たちのように音羽や笠音に対して、騒いでいたわけではない。理由がわからない。それゆえに、いまいち、確証が持てない。
 彼女が首謀者であると。
 いくら遊でも、無視されているという理由だけで食って掛かることはできない。そんなことをしていたら、女子全員と決闘して百人抜きを行わなければならない。
 考え込んだ遊に、笠音が小さな笑いを向けた。
「とにかくそんなわけで、表立って日輪を助けることはないんだけど……いや無論、日輪が僕のことを避けずに近づいてきてくれたら、出来ることはもっとあるんだけどね」
 脱兎の如く、逃げるんだもの。そう付け加える彼は、少し傷ついている顔をしている。その表情を見つめながら、遊はこの人本当に日輪のこと好きなんだ、と改めて納得した。日輪はあぁであるし、人づてに話を聞いていただけでは、いまいち実感が持てていなかったのだ。
「だから」
 かつん、という足音と頭上に指した影に、遊は面をあげた。何時の間に近づいたのだろう。目前に笠音が佇んでいる。静かな眼差しで遊を見下ろしてきた彼は、ゆっくりと、腰を折った。
「君が日輪の傍にたっていてくれて、本当によかったと思う。彼女も、人を巻き込むことは絶対にしない人だから、多分、一人で辛かったと思うんだ」
「……え。あ、いや」
「ありがとう」
 当惑する遊に降ってきた言葉は、真摯な響きを宿していた。
 少しばかりの敗北感めいた響きと、やるせなさが滲んでいた。
 この人も大変なんだなぁと、思わず同情してしまう。
「あれ、どこへ行くんですか」
 面を上げた笠音は、さて、と呟きながら踵を返し、つま先を扉のほうへと向けていた。共にサボるのではなかったのか。
 嘘つきという思いを視線に乗せて睨み据えると、彼は苦笑しながら外を指差した。
「天気がいいから外でお昼寝しようかと思って。君も来る?」
「……遠慮しておきます」
 保健室ならばまだ説明がつくが、外で一緒になんかいたらもし目撃でもされようものなら、後が恐ろしい。
 じゃぁね、と笠音は手を振り、授業中であるというのに実に堂々と廊下へ姿を消して行く。ぴしゃん、という扉の閉まる音を耳にした遊は、ため息をつきながら窓のほうへと目を向けた。
「……私もお昼寝しようかなぁ」
 但し、ベッドの上で、であるが。
 丁度窓際のベッドが空いている。陽の光に温められて、シーツはさぞや程よい具合にぬくかろう。次の授業までまだ少し時間がある。よし決めた、と立ち上がった遊は、再び扉が開く音を耳にした。
「忘れ物――?」
 生徒の保健室の利用頻度、というものを遊はしらない。ただつい先ほど扉が笠音の手によって閉められてから、あまりにも間隔があいていなかったために、彼が戻ってきたのだと思ったのだ。
 それは、自分の勘違いであると直ぐに認識できたが。
 保健室の入り口に立っていたのは。
 五人の少女たちだった。


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