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Stage 2. ようこそ非現実的な一家へ 1


 じりりりりりりりりりりりりりりり

 布団を鼻先まで引き上げながら、手探りで遊は音源を求めた。温かい眠りを妨げるもの。朝の乙女の敵。しばらく頭の上をさまよった手は、こつんと冷たいものに当たる。握りこむようにして押さえつけると、かちりという音を立てて敵は沈黙した。
 よし、これでもう一度眠れる。お待たせ夢世界。遊はむにゃむにゃ口を動かし寝返りを打ちかけ。
 うっすら開いた瞼の向こうに、綺麗にペティキュアの塗られた足を見つけて、目を見開いた。
「…………え?」
「ご飯できたから早くおきなさいよ」
 空から声が降ってくる。がばっと身体を起こすと、真っ直ぐな黒髪をうなじの辺りで軽く結わえた切れ目の美女が遊を見下ろしていた。
 一瞬、状況が飲み込めず、もう一度呻く。
「…………え?」
「お風呂ご飯の前に入ってきなさい。沸いているから。服はコレ。お風呂は部屋でて階段下りて右真っ直ぐ。バスタオルもみんな置いてあるからそこに。お風呂入り終えたら玄関近くの居間にきて頂戴。ご飯にするわ」
 美女はすらすらすら澱みなくそう口にして、呆然となる遊に灰色のパーカートレーナーとジーンズスカートを押し付けた。彼女はそのまま、くるりと身を翻して廊下へと出る。遊は慌てて立ち上がり、その背を追おうとして。
 ずるべしゃ
 布団に足をとられてこけた。
 美女が振り返る。
「…………大丈夫?」
「…………は、ひ。なんとか…………」
 畳の上に腕をついて上半身を起こす。痛む顔を押さえつけ、ちかちかする視界の中にそれでも美女を捕らえた。
 自分はまだ例のキャミソールもどきを身につけていて、渡されたトレーナーとジーンズスカートは無論遊のものではないわけで。となるとおそらくこの美女のものだ。
 人から物を借りるときはお礼を言うべし。
 遊は呻いた。
「え、えぇえと、あ、ありがとうございます」
 だがなぜか、一瞬、静寂が返ってくる。
 何か変なことを言っただろうか。恐々面を上げると、美女がきょとんと目を丸めていた。彼女はやがて、少しきつく見える目元を柔らかく緩めて笑った。
(うわぁ、可愛い)
 思わず遊は息を呑む。ほんの少し笑っただけなのに、雰囲気ががらりと一変した。美人は怒っても美人だが笑っても美人だ。だからこそ美人である。そんな事実を改めて認識せざるを得ない。
「いいわよ。丁寧な子ね。それよりも早くお風呂に入ってしまって。お腹だってすいてるでしょ」
「は、い」
 彼女は踵を返して廊下を歩いていった。細い足首や太もものラインや、シャンプーの宣伝に出てきそうなつややかな黒髪が肩口で踊る様をみて思わずうっとりとなる。うっとりとなり、布団からはみ出ている自分の足首とくしゃくしゃの髪をみて、現実に引き戻された。神様とは、不公平なものであるとため息一つを飲み込んで。


 現在の状況を、裸足をぺたぺた、いわせながら考える。
 家はごく普通の家だ。なんというかものすごくごく普通だ。思ったよりは広くはあったが、廊下の距離もたかが知れている。ただ、扉が合計六つ並んでいて部屋数自体は結構多いのだろうということは想像がついた。その広さにおいては、畳六畳もないのであろうが。四畳もあるのだろうか。現に遊が先ほど寝かされていた部屋は、布団を引けばそれだけでいっぱいいっぱいになってしまうような部屋だった。
 窓の外からもれる光は明るい。どう考えても朝だった。昨日の夜を思い返したところ、おそらくあのまま駐車場で気を失ってしまい、それからあの部屋に運ばれたというのが正しいのだろう。全てが夢であればと思ったりもしたが、現実はそれほど甘くは無い。こうやってお客も何もとらずに綺麗な身体で助け出されただけでも良しとしなければ。
 昏倒したことについては、なんと情けないことだろうと泣きたくもなると同時、あんな状況に追い込まれれば誰だってそうなると思えるほどに、自分は神経が図太い。喜んでいいのやら、悲しむべきであるのやら。とりあえずはいわれたとおりに身体を温めるため風呂にはいることが先決だと、遊は己に言い聞かした。
「えーっと……階段を下りて、右、っていってた、よね?」
 独り言である。答えるものは誰もいない。先ほどの美女は、そして集さんと隻さんはどこへ行ったのだろう。確認はとっていないが、ここは彼らの家であるはずだ。自分は家の前で倒れたのだし、そこから他の場所へわざわざ移動させるとは考えにくかった。
 けれども家はまるで別世界のように、しんと静まり返っていた。早朝特有の、気だるさをどことなく漂わせて。
(寝てるのかな)
 その可能性は高かった。
 程なくして扉二つに行き当たる。一つはトイレだった。もう一つの部屋には明かりがつけられていて、それが半開きの扉から漏れていた。階段を下りて右にある扉は二つ、その手前にもう一つ、障子があった。障子の向こうは和室であった。つまりは明かりが漏れている小部屋こそ風呂場、という結論に至る。
 ずり落ちかけているトレーナーとスカートを改めて抱えなおして、空いている右手で遊は勢いよくその扉を開き。
「………………え?」
 視界に飛び込んできたものに身体全体がぴしりと凍りついた感覚を味わった。
「………………な」
 “相手”もまた動きを止めている。丁度トランクスを脱ごうとしているところだったのか、尻半分が露出していた。肉の薄い背中、すらりと伸びた、程よく筋肉のついた長い手足。よくパンツ一丁で家をうろうろしていた父親とは全く違う、完成された綺麗な肉付きの身体が目の前にあり、その上には驚愕の表情のままこちらを凝視している、端正な男の顔があった。
 遊は悲鳴をあげることはしなかった。
 が。

 …………なんかコレ普通逆じゃない!?

 天の神に状況の馬鹿馬鹿しさを切実に訴えた。



 ばしんと扉が閉じられ、再び鼻先を掠めるようにして勢いよくそれが開かれたとき、男はジーンズとシャツを身につけていた。呆然と立ち尽くす遊の首根っこを彼は憤然とした勢いで掴み、引きずるようにして遊が今来た道を逆走する。短い廊下を台風のごとき勢いで駆け抜けて、台所に飛び込むなり彼は叫んだ。
「ナツメ! コイツは一体なんなんだ!!!?」
 台所に立っていた美女はくるりと振り向いて遊と男の姿を認め、眉をひそめた。水道の蛇口をきゅっと捻って、エプロンで軽く手を拭きながら憮然として彼女は言う。
「あらオトワ。朝帰り?」
「朝帰り? じゃない。俺の質問に答えろ棗」
 美女は、ほんの少し口端をゆがめた。
 ナツメ、という名前には覚えがあった。昨夜隻と集が口先に上らせていた名前だった。それがおそらく彼女の名前なのだろう。エプロン姿の美女は、まるでクレオパトラ然として長い足を無造作に交差させる。そうしてシンクの縁に手をかけて腰を預けるようにしながら、彼女は決然と言い放った。
「その前にその手はなしてあげなさい。その子は今からお風呂に入るのよ」
 何気ない一言であったのに、有無を言わさぬ迫力があった。美男美女が対峙するというシチュエーションはどことなくそれだけで緊張感を高める。優位者は明らかだった。女はただの一言であっさり男を一蹴した。
 遊から男の手が離れていく。その手を追うようにして、改めて遊は男の顔を見上げた。男の頭は一個分高く、隣に並ぶだけで遊に威圧感を与えた。
 男としてはどことなく細い身体ではあるのだけれども、でも弱弱しくはない。きちんと運動して、鍛えて、そうして絞られた体だった。顔も負けじ劣らず端整で、ため息が出る。どこか怖いぐらいの整い方だと思った。集も隻も、そして目の前にいるナツメと呼ばれた美女もそうだ。けれども一番この人が怖かった。それは鴉の濡れ羽色の髪のせいかもしれなかったし、何も映しだしていないような漆黒の瞳のせいかもしれなかった。眼差しは冷ややかで、それだけで遊をその場所に縫いとめる。
「ねぇ何がたがたしてるの朝っぱらからぁ」
 緊迫した空気を打破したのは、甘い高めの声だった。まだ身体が動かない。ただ男と美女の視線の移動に釣られるようにして遊もまた目を動かした。
 遊の斜め後方、キッチンの入り口に、またまた可愛らしい少年が立っていた。天使の輪が細い黒髪の上にかたちどられている。くりくりとした薄茶の目と、少し紅潮した頬。寝起きのせいか厚ぼったい瞼。けれどもそのパーツ全てが黄金の比率でもって小さな顔にはめ込まれている。

 一体なんなのだろうこの家。出てくる人出てくる人、ウツクシイ人ばっかりなんですけど。

「ユトちゃん」
 名前を呼ばれたことで、呪縛が解ける。
 動けずにいる遊に、美女が柔らかく微笑みかけてきてくれた。
「ここはいいからユトちゃんは早くいって着替えてきなさいよ」
 遊は黙って頷き、ぎくしゃくと両手両足を動かした。その右手右足が同時に出ていることに気がついてはいたが、それがどのように男たちの目に映ったのかは、とりあえず考えないようにし。

 彼らの姿が見えなくなると同時、全力疾走で逃げるように脱衣所に駆け込んだ。


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