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Stage 1. 赤字か波乱万丈か 2


「……すみません」
 時が経ち、我に返った遊の目に飛び込んできたのは、ものの見事にぐしゃぐしゃになった男のスーツである。
「別にかまいませんいくらでも持ってるんですからこんなもの。お嬢さんが気にすることではないと思いますよ?」
「いやでもあぁあぁぁぁもうすみませんー!」
 遊がベットから離れて平謝りしてみたくなるのも当然で、手をひらひら振りながら豪快に笑って男は言うが、男が身につけるスーツは明らかにどこかのブランドのものだった。それも、超高級という位に位置するものであろう。単なる女子高生にしか過ぎない、否、すぎなかった、遊の目からみても明白だった。
 スーツの生地が父親の持っていた既製服とは違いすぎる。遊がたとえ一日時給千数百円の場所で一ヶ月アルバイトをしても、払えきれない金額のものだろう。
 口を噤んでこのスーツのクリーニング代について黙考する。いくらぐらいするのだろう。考えたところで家族どころかどうやら家も失ったらしい自分は現在一文無しであり、払えるはずもないのだが。
 大体何故このようなことになってしまったのだろう。腹立たしくなってくる。
 糸目の弁では、両親はギャンブルにどっぷり漬かり、サラ金に手をだしていたらしい。楽観主義の父ならいざ知らず、ミーハーながらも賢母を地でいく母までがギャンブルに手を出していたとは到底信じがたいのだが、当人たちはいまや天に召されてしまっている。問い質したくともしようがない。糸目に見せられた証文のサインは、確かに父の筆跡だった。
 遊に責任は一切無いはずだ。自分は子供としての最低限の義務を果たしてきたし、おこづかいだってすずめの涙で我慢してきた。友達が一緒にファミレスいかないと誘ってきても、丁寧に断って見送ったりしてきたのだ。だというのに、親は突然死んで生前のツケの返済義務を娘に擦り付けたときた。
 ――猛烈に、あの世にいる両親の横っ面を殴りつけてやりたくなってきた。
「だけど人生いろいろあるものですし」
 遊がそんな風にふつふつと怒りを肚の底に煮えたぎらせている間、そうとは知らない男が、賢明になにやら慰めの言葉をかけてくれていた。
「ワタクシも結構これでも昔いろんなことがありましたからね。多分ここに居る子みんなそうだと思いますよ。ご両親のことは恨まないほうがいいですね。身をすり減らしていくのはサラリーマンだって一緒ですからね。自由がこちらはあまり無いかもしれないけれども、それでも一つぐらいは幸せなことを見つけられるかもしれません。あまりいいことではないかもしれませんが」
 ん、と遊は面をあげる。
 なんだか慰めの言葉ではなくなってきた気がするのは気のせいだろうか。
「あまり自分のことは不幸だと思わず鈍感になってしまえば、あとは淡々と生きていくだけだしね」
 確かにそれはそうかもしれないが。
「今まで平穏だったのを夢だと思うようにしてですね」
 そんなの夢だとか思えるはずが無い。
「ここの生活も慣れればそれほどでもないかもしれないし」
「ちょっと待ってください」
 遊は猛然と拳を握り締めて立ち上がった。男が驚きにか、ぱちぱちと目を瞬かせている。その様子を見下ろし鼻息を荒くしながら、遊は決然と抗議した。
「どこの誰が不幸ですか?」
「……は?」
「私は……私は不幸なんかじゃない。ちょっと運が悪くて境遇が悪くなってしまっただけです」
 遊はふと、不幸といえば全てが終わりになる気がした。父親と母親を殴りつけてやりたい。どうしてこんなところに一人で私を放り出したの、と。
 この状況を、少なくとも幸運だとは思えない。が、つらいと思えることは、今までが平穏であったのだ。衣食住が満たされていたわけであったし、男の言うとおり平穏だったのだ。自分は、両親なのか片親どちらかなのか知らないが、ギャンブルに溺れているという話はちっとも知らなかった。それを全く感じさせないほど、両親は自分のあの怠惰な生活を守ってくれていた。
 自分があの世に行ってから両親は殴りつけるとして。
 あの世に行く前には、自分にはするべきことがある。
「何が何でもここを出て自由になってやります。私は、私はやりたいことだってあるんです。えぇ!」
「やりたいこと? って何でしょう」
 はた、と遊は我に返って閉口した。男は立てた膝に頬杖を付いて遊を上目遣いに観察していた。観察、というよりは、値踏みしているかのような視線だった。綺麗な黒目が細められる。人間、怒った顔は美しく、笑った顔は恐ろしいというのはあながち嘘ではない。現に、この男が浮かべる薄い笑みは、鳥肌が立つほどに恐ろしい。
「何って」
「何ですか?」
「……う、う、歌、を歌うこと」
「歌が、得意」
「私、それしかやってこなかったから」
 小さい頃、アイドルを真似て歌を歌った。誰もが手を叩いて喜んでくれた。自分は幼い頃気が弱く、人見知りで、人の輪に入っていくことが出来なかった。それを変えたのが、歌だった。音楽は人の心を開く鍵だという。共通の言語だという。遊にとって、まさしく歌はそれそのものだった。
 小中と歌を習っていた。高校になってから忙しくもあったし、親が月謝を払えないというので部活動で補った。漠然と未来を予想していた遊ではあるけれども、ずっと歌を続けていくものだとは思っていた。
「歌ならどこでも歌えるでしょう」
「馬鹿なこと言わないでよ。歌っていうのはね。とってもデリケートなのよ。いろんなものを体験して、勉強して、そうして歌い方が変わってくんだから。あ、あたしはね」
 ひく、と喉が震えた。あぁ駄目だと思った瞬間に目頭に熱が溜まっていく。頭ががんがんと痛い。その場に倒れこんでしまいそうなのをこらえ、両足に力を入れて、ぐらつく大地を支えながら遊は呻いた。
「あ、あたしは、つまんない人間かもしれない。どこにだっている、無個性な女子高生だけど、好きなものが一つあって、それをやろうとしていて、そしたらこんな邪魔があって、負けたりなんか、私はしないよ。いつか絶対全部ひっくり返して。ひっくりかえして、あたしをこんな目に遭わせた、神様だかなんだかを嘲笑って、父さんたちを殴りに行くのよ。そう、神様だって、殴ってやるのよ。こんなことどってことないって。い、いくんだから」
 泣き叫んだところで何も変わるはずが無いのに。
 憤ったところで何も代わるはずが無いのに。
「神様を殴って、笑ってやる」
 それでも泣くのは、きっと、泣き終わったその後に、全てを見据えるためだろう。
「全部全部、あんたのしたことは、私にとってなんでも、なかったって」
 自分の手で変えていかなければならない何かを。
 (もうやだ)
 そう思いながら、遊は嗚咽に肩を揺らした。
 男はふと、よっこらしょ、と膝に手をついて、緩慢な動作で立ち上がった。こうやって並んで初めて体格差が際立つ。遊は女子としては高いほうであったのだが、男のほうが頭まるまる一個分高かった。百八十は軽くあるのではないか。
 なのに手足の長さの均整が取れている。ありえないそのバランス。その身体形。
 単なる平凡な容姿しか持ち得ない、というよりもむしろいまいち、ぱっとしない容姿と体格にコンプレックスさえ抱いている身にしてみれば、恐れすら覚える。
 男はにっこり、親しみのこもった笑顔を浮かべた。泣きはらした目をこすっていた遊は、わけが判らないままついついつられて笑ってしまった。
 男は寝台から取り上げた三角帽子とサングラスをぽんぽんと遊の頭と目元に装着していき、肩を叩いて陽気に言った。
「じゃ、いきましょうか」
「いこうって、どこですか」
「君は運がいいみたいですからね」
「え? あ、ちょっと」
 ぐい、と腕を引っ張られて扉が開けられる。自分と同じワンピース姿の年背格好異なる女の子たちがうろつく廊下を、男は自分の腕を引いたままずんずんと躊躇うことなく進んでいった。いくつか扉をくぐると、信じられないほどにふかふかとした絨毯の敷き詰められた廊下に移り変わる。ピンクのけばけばとした壁は、滑らかなベージュ色に移り変わる。扉も壁もぺらぺらなものから、重厚なものへと変化し。
「やぁ糸目いらっしゃいますー?」
 ばん、とその最後の一つを、男は乱暴に開け放った。
 広い事務所然とした空間には、黒硝子の机と見るからに高級そうなソファが置いてあり、そのソファにあの糸目と、商談相手らしき男が書類を挟んで顔を付き合わせていた。革張りのソファをきしませ、糸目が面を上げる。その表情はあいかわらずあの食えない笑顔だったが、動揺が見て取れた。
「な、どうしたんですか」
「ワタクシ、この子買うことにしましたのでねぇ」
 首を傾げる糸目に、間延びした声で男は応じる。糸目は細い糸目を更に細め、眉間に深い皺を刻んだ。
「……お買いになられる?」
「えぇ。お持ち帰りいたします」
 怪訝そうに顔を上げた糸目に、男は微笑んで言う。
「この子の人生を、丸ごと、ワタクシ、買うことにしましたので」
「………は?」
 驚愕したのは、糸目ではなく遊のほうである。ぱっくりと口をあけてまじまじと男を見るが、男はそんな遊の視線も意に介さずまるでこの時計が欲しいんだけど、とでもいうような口調で糸目に言った。
「一億四千万でよろしいので?」
 糸目も糸目で、商談として切り返した。
「判りました。小切手使えます?」
「えぇ」
「え、ちょっとまって、父さんたちの借金は一億三千万円でしょうが」
「お嬢さんちょっと黙っていてくださいね?」
 ぴしゃりと笑顔で言われては、返す言葉も無い。男は胸元から紙の束を取り出すと、それにさらさら書き付けていった。
「はい。一億四千。領収書いただけます?」
 糸目はアタッシュケースから領収書の束を取り出してそこに手早くサインした。淡々と行われていく商談に、遊は目がまわりそうになる。
「取引はひとまず終了。詳細は後日に」
「判りました」
「さてお待たせいたしました。行きましょうかお嬢さん」
 もう一度腕を引かれて、今度は反対側の扉から出る。接待はいいのだろうか。上司を待たせているとか言っていなかったか。遊の思案を他所に、集はぐいぐい進んでいく。慌てて背後を振り返ると、糸目は心底詰まらなさそうな顔をしていた。
「なかなか、運がいいお嬢さんですねぇ」
 このように売り買いされることのどこを見て運がいいと申すのですか二人の御仁は。
 反論する間もなく、扉が閉まった。


 遊の肩にはあの男組の羽織が掛けられていた。外車ではなく、国産のセダンの助手席に遊は押し込まれる。運転席に乗り込んだ男は、素早くキーを差込み捻り、エンジンをかけアクセルを踏んだ。
 表通りに出ればそこは見知らぬが、どこか懐かしい雰囲気をかもし出す、遊にとっての一般の人々が往来する現実世界だった。
「……あの、私どうなるんですか?」
「んーつまりワタクシに一億三千万円分の働きしてもらうのですが」
 遊は、息を止めた。
 それは、先ほどと状況さしてかわらんのではないでしょうか。
 遊の凍てついた表情を、フロントガラス越しに視界の端に捉えたのか、男は笑った。
「そんな風に緊張はしなくてもいいですよ。とって食うつもりは全く無いですから。大体お嬢さんみたいな年の子を、嫌がるのに犯しちゃ子供に家を叩き出されますものねぇ」
「……子供、さんいらっしゃるんで」
 意外さに遊は目を瞠った。男はどこかプレイボーイ的な雰囲気をかもし出している。子供が居て可笑しい年齢ではないが、どこか意外だった。
「うんいますね。息子が三人、娘が一人」
 存外さらりと、そして愛情をこめてその数を口にしたので、遊は再びまじまじと男の顔を観察した。男は口元に笑みをたたえており、それは確かに、子供に愛情を注ぐ父親の顔に見えなくも無い。
「なんであんなところに」
「いやだからいったじゃないですか。接待のお仕事だったわけです」
「その接待、放り出してきていいんですか?」
 上司、絶対お怒りだと思うのだが。
 しかし男は意に介さずといった様子だった。
「まぁお嬢さんの関与するところじゃないですからね」
 静かな物言いだが、追及を断固と拒絶する響があった。遊はため息をついて前に向き直る。雨にぬれた夜の街。見慣れたコンビニエンスストアやカフェ、そして信号機の明かりが、たった一日遠ざかっていただけなのにとんでもなく懐かしく見えた。
 やがて車は高速道路に入った。流れていく車のテールランプをぼんやりと目で追いかける。いくつかの料金所を素通りし、車は二、三時間走行してから、遊の見知らぬ街で高速を降りた。
「そういえば」
 住宅街に入った頃、男は唐突に言った。
「名前まだ言ってなかったですね。ワタクシ、妹尾集と申します。妹に尾っぽで妹尾。アツムは集合の集」
「……遊です。磯鷲遊といいます」
「ユトリ、へーなかなか変わった名前です。なんて書くのでしょう?」
「遊ぶです。一文字でユトリといいます」
「ではユトちゃんですね。うん決定です」
 何が決定なのだか知らないが、言って集は大きくハンドルを切った。住宅街の細路地に入った車は、やがて一軒の家の駐車場に入る。車を少しばかり手狭な空間に収めて、集はエンジンを切った。
「はい到着。お疲れ様でした」
 素早く外へ出て行く集を追って、遊も慌ててシートベルトをはずした。
 外気はひやりとして、心地よく遊の頬を撫でる。遊は風にもっていかれそうになる髪を押さえつけながら、その家を見上げた。
 一億四千万を小切手でぽんと出してしまう男の家だ。
 どんな豪邸かと思っていたら。
 その家は、遊が以前住んでいた家とさして変わらないような、二階建ての、ごく普通の住宅だった。遊の家よりも、ほんの少し広い程度だ。明かりが玄関に灯されている。自転車が壁にもたれかかっている。プランターに植えられた植物たちも、そこらのホームセンターで買い揃えてしまえるようなものだった。
「集、遅いよナツメかんかんだった。今日仕事早く終わるっていってなかった?」
「あー御免なさい謝りにいきますよ。それとお風呂沸いてますか?」
「沸いてるよ」
 視線を移動させると、開いた玄関口で集が彼にそっくりの青年と会話していた。
 綺麗に染められた金髪に、崩れた服装。だけどもだらしなさというものからはかけ離れて見えた。ひっかけているのはどこにでもある庭用突っ掛けで、彼は遊の姿を認め、笑顔のまま首をかしげた。
「………お客さん?」
「今日からここに住むことになりました。ユトちゃんといいます。なかよくしてあげてくださいね」
「……は? 住む? 集ナニソレどういうこと?」
「とりあえずお風呂この子いれてあげてください。それからナツメ叩き起こして服貸してあげるようにいっていただけますかね?」
「自分で言って。これ以上ナツメの機嫌そこねるのは勘弁願いたいもんね」
「あ、あの」
 二人の間で交わされる会話に、頭が混乱し始める。
 整理すれば、つまり自分は今日からここで暮らすらしいが。
 そもそもこの会話している人は、弟、なのだろうか。
 双子の弟といわれても納得してしまうぐらい顔かたちが同じだ。いや実際双子の弟なのだろう。
 ところが集はそんなふうに予想を立てていた遊に、笑顔で驚愕の事実をさらりと告げた。
「あ、御免紹介遅れて。この子ワタクシの長男でセキっていうのです。隻眼の隻って書いて、セキ」
 長男。
 ――チョ・ウ・ナ・ン?
 一瞬目を疑った遊は、泣きはらした目元をこすって隻と呼ばれた青年を見やった。男のコピーのように佇むその青年は、困惑の混じった笑顔でひらりと手を振る。
「よろしく」
 ビックリテレビじゃないですよね?
 思わず遊は天を仰いだ。
 そのまま意識が遠のいていくのを感じながら。


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