Stage 5. 乙女よ、疾走せよ 6
いじめの打破は、口でいうほど、容易くないのです。
「あーくそ!」
じゃぱじゃぱ制服をてもみ洗いしていた遊は、立ち上がりながら悪態をついた。ずっと中腰のまま洗濯を行っていたために、伸びをするだけで体の節々がばきばき音をたてる。肩を回し、上半身を左右に回転させると、勢いよく手の甲が壁面に衝突。ごづん! という音が気持ちよく狭い風呂場に響き渡り、遊は痛みから思わずその場にしゃがみこんだ。
「くそー……」
悪態を吐きながら、遊はたらい一杯に満たされた風呂の湯にぷかぷか浮かぶセーラーを一瞥する。なすりつけられた泥を落とすまでにかなりの時間を食ってしまった。すでに真夜中。今日が非番の日でよかったと思う。
遊はたちあがり、溜息をついた。
「まさかここまでやってくるとは……手段が幼稚すぎて涙もでないよ」
ぱしゃ、とセーラーシャツを拾い上げて軽く絞る。タライのぬるま湯を流して、脱衣所へ。乾燥機は外だ。乾燥終了まで軽く見積もって三十分。この不眠の恨み、晴らさずでおくべか。
今日の午後の話だ。
午後の授業は体育であった。無論体操着に着替える。その間制服は更衣室のロッカーに置き去りで。戻ってくると二人分の制服が姿を消していた。
次に発見したとき、制服は校舎裏の沼の中だった。
苛めの常套手段であるが、まさか進学校の頭のよい子女がこんな幼稚なまねをするとは思っていなかった。いや、あって欲しくなかったというのが本音だろう。所詮人間、この程度か、と、怒りは沸点を通り越して哀しみになった。人間と付き合うのが面倒くさい――そう漏らした少女の胸中が、ほんの少しだけ判る気がした。
ここ数日の少女たちの攻撃と来たら。
「全くしつこいっての!」
「何がしつこいのー?」
「ナニガってな……。あれ隻兄お帰り」
聞きなれた声によって現実世界に引き戻され、面をあげた遊を待っていたのは、脱衣所入り口でネクタイを緩めながら佇む隻だった。ふわりと薫る、香水とお酒の匂い。
「ただいまユトちゃん。こんな真夜中までなにやってんの。たまのお休みのときぐらいちゃんと寝ないとお肌に悪いよー」
隻の声には驚きの色がある。それはそうだろう。遊自身驚いた。仕事を終えた隻がここにいる、ということは、真夜中というよりもむしろ明け方に近い時間帯なのだ。
腕から外して近くに置いておいた腕時計の針は午前三時を指している。
げ、と遊は蒼白になった。これから即行で眠らなければ、確実に明日寝坊する。絶対に起きられない。遊の起床時間は、朝食の準備もあってとても早い。
「もうすぐねるよー。やだなぁ起きられるかなぁ朝」
「何してたのこんな遅くまで」
怪訝そうに首をかしげた隻が、わずかに顔をしかめ、遊の手元にひたりと視線の焦点を合わせてきた。さりげなくセーラーを握る手を背後にもっていきながら、遊はにこりと笑って誤魔化す。似非笑顔を仕事にしている男に、遊の誤魔化し笑いが通用するか否かはまた別問題であるが。
案の定、隻は立ちはだかるようにしてその場から動かず、静かに遊を見下ろしている。どいてほしいと視線で訴えるが、彼はため息をついて、遊の腕をとっただけだった。
「隻兄」
「ソレ、乾燥機に入れればいいの?」
「え?」
手からしめったセーラーが奪われる。あっという間の出来事だった。彼はしげしげその制服を眺め、珍しく哀しそうに表情を歪める。
「ユトちゃん」
「は、はい?」
「俺をもっと利用してくれていいんだよ」
「は? はぁ」
利用ですか。
一体どのように、この界隈でナンバーワンのホストを利用しろというのだろう。相手を利用する、という響きが遊はそもそも好きではないのだが。まぁ、隻が言わんとしていることはおそらく、もっと甘えろ、ということか。
だがその甘え方にもよるだろう。下手をすると彼の顧客に呪い殺されるかもしれない冗談抜きで。うーんと考えた末、思い浮かんだのは中華料理をまた食べに連れて行ってもらうということだった。一度だけ連れて行ってもらった高級中華料理の店は、中華料理好きとしては涙がでるほどの美味しさだった。あの時は長話が過ぎて冷めていたけれど。しかもいきなり拉致された怒りでよく味わうどころではなかったのだけれど。
「ユトちゃん、なんか変なこと想像しているでしょ」
「え? 中華料理が?」
「……どこをどうやったら中華料理が出てくるのかわからないけど、また食べに行きたいんだったら連れて行ってあげるよ」
くすくす笑って、隻がいう。が、その微笑は直ぐに収められ、瞳は剣呑さを宿して細められる。同時に浮かぶのは、哀しみの色。
「学校で何があるのか、俺は知らないけれども、ユトちゃんはもっと泣き言言ってもいいし、甘えていいし。……望むのなら俺は存分に君を甘やかす。俺は、君と同じように教室で机を並べて、君を助けてあげることはできないから」
「隻に」
「音羽に生まれたかったなぁ」
そうすれば、君を助けることだってできるのに、と。
あまりにも口惜しげに呟くので、遊は言葉を失ってしまった。
そのとき。
初めて、この人は本当に自分を好いてくれているのだと思った。冗談でも、からかいでもなんでもなく。
本気で。
当惑する遊を他所に、隻が柔らかに微笑んだ。
「今日は朝寝坊していいよ。俺が棗と集に言っておくから。もしなんだったら、学校まで送ってってあげるからぎりぎりまで眠っていればいいよ」
「え、や。そそそ、そこまで隻兄にしてもらわなくてもいいし」
「遊」
ふわ、と手が頬に触れた。労わりと優しさの篭った手で、髪をなでられる。それは丁度、母親が生まれたばかりの赤ん坊を撫でる手つきに似ている。
「俺が、したいだけ。遊が俺を助けてくれたように、君を助けたい」
とても、真摯に、紡がれる、言葉。
遊は首をかしげた。
「……私、隻兄を助けたことなんてあったっけ?」
あのマトノの一件は、助けたことになるのだろうか。むしろ助けられてばかりだったと思うのだが。
「判らなければいいよ」
隻が肩をすくめて小さく微笑む。優しい声に鼻の奥がつんと熱くなる。少し人の優しさに飢えていたのだ。
きゅっと口の端を引き結んで、遊は面を上げた。あまりに柔らかな眼差しに泣き出しそうになりながら、それでもしっかり彼の顔を見据える。隻は自分を甘やかすだろう。彼は宣言したのだから。けれども彼の言葉のままに甘えれば、自分は終わりだ、と思った。
たとえ、甘えが許されても、それは今ではない。自分で売った喧嘩だから。他者の手を借りて解決すること、嘆いて甘えることは許されない。
にっこり笑って、遊は言った。
「ありがとう隻兄」
彼にきちんと向き合わなければ。
けれど。今は。
まだすることがあるので。
待ってください。
大体、借金を返すまで果てしなく時間がある。そう急いても仕方がないことなのだ。たとえ独立しながら返金していったとしても、下手をすると人生の半分以上、いや一生この妹尾家のお世話になるのだから。
だから、待って欲しい。今はまだ。追いつかない。
遊の頬と髪に触れていた手で、隻がぽんぽんと遊の肩を叩いた。降ってくる小さなお休みの声。くるりと向けられた背中と、遠ざかる足音。
遊はほんの少し瞑目し、両頬を自分の手で叩き気合をいれると、腕時計を棚から取り上げて、自室に引き上げるべく脱衣所から足を踏み出した。
「遊さんって何者なの?」
春もうらら、というには既に季節は梅雨に移行しつつある。けれどもとてもよい天気で、曇った窓硝子から見える空には、目に痛いほどの青が広がるばかりだった。
ずるずるっと遊はイチゴミルクを飲み干した。紙パックのそれは現状のお詫びとして日輪から進呈されたものである。勝手に首を突っ込んだのは遊の方だというのに、日輪は昼食時に必ずジュースを携えていた。しかもイチゴ牛乳バナナ牛乳抹茶オレと、どこから聞きつけてきたのか遊が気に入っているものばかり。まったく、侮れない少女だ。
「……何者、ねぇ」
遊はうーんと自分の正体について考えてみた。
「貧乏女子高生?」
「そうじゃなくて」
場所はお約束本来なら立ち入り禁止の屋上。昼休みの只中だが、屋上は廊下の喧騒から隔てられていて、静かでいいなぁと遊は思った。時折屋上に入り込んできた男女がラブシーンを繰り広げにきたり喧嘩をやらかしにきたり煙草を吸いにきたりするが、彼らは屋上のさらに上、昔は存在したという天文部部室の影に隠れるようにして食事を取っている遊と日輪を邪魔することはない。
「今朝のひと」
「あーあー今朝のひとねぇ」
日輪の言いたいことはわかっている。今朝、遊を学校まで送ってきた人物は誰か。いや彼とどういった関係であるのか、と問いたいのであろう。無理やり学校の手前でおろしてもらったのであるが、それでも人目はあったし、かなり目立ったはずだ。
あの容姿では。
隻の話である。
寝坊するつもりはなかったというのに、目覚めるとハンガーにかけられた乾いたセーラーの下で、アラームの切られた目覚まし時計の針が、遊に遅刻ですよと告げていた。身だしなみを整えるのもそこそこに階下に駆け下りると、キッチンのテーブルの上には綺麗に包まれた弁当箱が置かれていた。棗のあんまり無理すると続かないわよという書置きをみて、少し泣きそうになった。
弁当を引っつかんで玄関へ向かった遊をのんびり出迎えたのは叶。小学校登校直前の彼から棗特製うなぎのかば焼きおにぎりとお茶を朝ごはんを受け取った遊は、最後に間延びした声でおはようとあいさつした隻によって彼の車へと連行された。
まぁ、そこまではいいとしよう。
問題は、ほんとうのほんとうに遅刻寸前の時刻であったがために、ぎりぎりの場所で降りるしかなかったことだ。車の送迎というものは数が少ないために目立つわけで。そのうえにあの人目を集める容姿をしていらっしゃる妹尾家長男が運転手なわけで。
どうやらその中には、あれが音羽のお兄様だとご存知の方がいらっしゃるようで。
朝から女子の視線がイタイイタイ。
ついでに音羽の視線もイタイ。背中にさくさく突き刺さる。
「あれ、たしか妹尾くんの、お兄さん」
そしてどうやら、日輪も隻のことを存じている人間の、一人であったようである。
「あーうーんーそだね」
「……お知り合い?」
「お知り合いっつかなんつっか、一緒に住んでるっつかなんつっか」
「ごほっ」
珍しく日輪にしてはリアクションが大きかった。どうやら本当に驚いたようである。遊の同居発言――断じて同棲ではない念のため――に、盛大にむせた日輪は、胸を叩いて呼吸を整えながら、その普段あまり完全に見開かれない大きな目で、遊を凝視する。
「……すんで、るの?」
「もうばらしちゃうけど」
くもの巣の張った天井を見上げながら、遊はため息をついた。日輪ならいいだろう。彼女が騒ぎに巻き込まれた原因は、音羽の親友の笠音にあるのだ。
「私が居候している家って、妹尾家なの。色めいた話はないよ。今日は寝坊しちゃって、送ってもらっただけ」
「……そうなんだ」
説明したこと以上を日輪は追及しなかった。あまりにあっさりとしていて拍子抜けしてしまう。日輪という少女はそういう少女だ。必要以上を尋ねない。思いを常に、胸中に仕舞む。
そして、もう一つ、彼女について付け加えるのなら――。
「よその家にお世話になるって、大変でしょ、ユトちゃん。えらいね」
彼女は、着眼点が、少し、違う。
えらいね、と彼女は繰り返して、遊の頭をふわりとなでた。普通なら、同級生の家に転がり込んでいるという事実について、さらに深く食らい付いてくるだろうに。彼女はそれをしない。
初めて、というわけではないが。
頭を撫でられながら、自分の人を見る目は間違ってなかった、とひそかに遊は自分を褒めたくなった。間違っていない。他の同級生よりも、日輪を選んだことは、決して。
間違っていない。
ふふ、と笑みを零しながら頭を撫でられていた遊は、ふと目に止まった時計の指針の位置に、げっと舌打ちした。
「どうかした?」
首を傾げてくる日輪の横で、空になった弁当箱を手早く片付ける。水筒や広げていた教科書などを雑多に鞄の中に突っ込んで、立ち上がりながら遊は彼女に返答した。
「保健室に呼び出しされてたんだ。この間保健室の利用届け、出してないでしょって」
この学校では保健室利用届けを欠席授業の担任に提出する必要がある。前回保険医の世話になったときはそのまま帰宅してしまい、今日中に立ち寄って書くことになっていたのだ。あの保険医はどうやら午後から二日間の出張であるらしく、昼休みの早い時間に立ち寄るよう言われていた。
「悪いけど、先もどるね。またあとで」
日輪がこっくり頷く。
補助鞄のストラップを肩に掛け、学生鞄を小脇に抱えながら、遊はリスのように食べ物を頬張る日輪に笑って手を振った。