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Stage 5. 乙女よ、疾走せよ 5 


「土屋さん」
 そう声をかけると、教室の雰囲気がほんの少しだけ、揺らいだ。
 少女たちは露骨に顔をしかめ、少年たちは彼女たちの反応に首を傾げている。
 だが一番驚愕の色を隠せないでいるのは、声をかけられた土屋日輪自身だ。遊は、刺さる視線の痛さに冷たいものが背を伝い落ちていくのを感じながら、拳を握り締めて、強張った表情の少女に微笑んで見せた。
「お昼御飯一緒に食べよう?」
 あぁ本当に馬鹿だと思いながらも。
 それでもこれをしなければ、あの家族と一緒にいる資格を失うような気が、した。


 時は、前日深夜に遡る。

「どうしたの? 難しい顔してるわね」
 そう声をかけてきたのは、あのマトノの騒動以来、親しくなった客の一人である。彼女はリオンと呼ばれるかなり古株のホストの顧客で、「神様の声がきこえる」の曲をリクエストしてくれた人物だった。ふわふわにカールされた長い髪や真っ白い肌、小柄な身体はどことなく糖菓子めいた甘い雰囲気を漂わせる。モンブランみたい、と、感想を持ったのはここだけの話。
 名前を、琴子、という。一見同じ年かと思えるほど――実際遊はそう思っていたのだが――化け物級に若作りな彼女は、近隣でクラブを経営するママさんだ。
 一応きちんと営業スマイルを浮かべていたつもりであったのに。あっさり心中を見抜かれてしまい、上着を預かっていた遊は思わず硬直していた。
「いや、え、っと」
「そういうときは笑顔で何でもございませんっていうのよ。それが、接客」
 遊の唇に人差し指を押さえて琴子はくすりと笑う。遊は苦笑しながら、頷いた。
「なんでもございません。ありがとうございます琴子様」
「どういたしまして。何ならお話聞くわ。ユトちゃんをお持ち帰りって、できないのよねぇ?」
「できません」
 あっさりと返答したのは本日のフロント担当、音羽である。無表情に近いが、その目には困惑と苦笑の色がある。そりゃぁ、ホストではなくてフロント係をお持ち帰りしたいといわれても、困るだけだろう。
「あらどうかしたの?」
 立ち止まっている琴子に、後続の客たちが首を傾げる。なんだか最近、やけに客受けが良い遊はこのままでは大相談大会が繰り広げられかねないと本気で慌てた。
「だだ、大丈夫ですから!」
「あら、そーお? じゃぁ代わりにお仕事たのんじゃお」
 琴子は席を案内するために現れたボーイに断りを入れ、遊のほうに向き直ってにっこり微笑む。
「御免ねユトちゃん。お手洗いに行きたいのだけれども、場所を案内してくれるかしら?」


 レストルームの場所を、常連客である琴子が知らぬはずはない。遊を連れ出すための口実だった。
 トイレの個室に遊を素早く押し込んだ琴子は、遊の口をほぼ強引に割らせて(笑顔での脅迫はこの手の人間の常套手段のようである)、ふぅん、と唸る。
「ユトちゃんって」
「はい?」
「なんか、そういう星の下に生まれ付いてるの…?」
 巻き込まれ人生、素敵ね、と琴子は笑顔で言い放った。そして遊は速攻、胸中で反論する。
(ぜんっぜん、素敵でもなんでもありませんが)
 女子の苛めは陰湿だ。直接手を下さない巧妙な陰湿さ。心のみを氷のように凍てついた言葉のナイフでじくじく抉る。それに巻き込まれそう、というよりも、もはや、巻き込まれている。それを素敵と呼べるだろうか、否、と反語で問いただしたい。
 憔悴した遊の表情から心中を汲み取ったのだろう、二の腕を励ますようにさすりながら、琴子が慌てて取り繕う。
「あぁごめんね。ユトちゃん本人にしてみれば、大変なだけよね」
「はぁ……」
「それにしてもいやねぇ。いじめ、かぁ……」
 琴子はその細い腰を、磨きぬかれた水滴一つ散っていないシンクの縁にもたせ掛けた。回顧するかのような彼女の物言いに、遊はふと、首を傾げる。
「琴子様もそんな覚えがあるんですか?」
「そりゃぁね。私ママもこっちの世界のひとだったから」
 明るい口調だが、どこか痛々しい響きが残る呟きだ。思わず押し黙ってしまった遊は、かけるべき言葉を捜して逡巡する。すると細く白い指が遊の頬に伸びた。お客にお酒を出すために、綺麗に手入れされた滑らかな指先。
 それが頬に触れて、面をあげる。琴子が、けらけらと笑っている。
「大丈夫よ。昔のことだもの。あれがあって今のわたしがいるの。血かしらね。この世界、とっても私にぴったりなの。むしろ感謝しているぐらい」
「……辛くなかったんですか?」
「辛くないわけないわ」
 即答されて、そりゃそうだ、と遊は自分の思慮のなさに自分を詰った。辛くない、はずがない。
 あ、でも、ね、と琴子はにっこりと微笑んだ。遊の目を真っ直ぐに見つめて、抉られた傷を慈しむ強さで、彼女は過去を振り返る。
「助けて欲しかった。苦しかった。だけど、そうやって苛めた相手と、助けてくれなかった周囲をうらんでも、もう取り返しがつかないし。自分が弱かったのよ。ママは娼婦じゃないわ。躰は売らなかったもの。仕事に疲れた男の人たちの、お話を聞いて、励ましてあげて、またお仕事に送り出してあげるお仕事だったのよ。そうやってママのこときちんと理解して、あの人たちの言うこと、きかなかったらよかったの。それがなんだ! って全部跳ね除けてしまうぐらいに、強ければよかったの。それが出来ずに、何時までも、うじうじしていたのは、私の落ち度」
 もう大丈夫、と彼女はいうけれど。
 淡いオレンジ色のグロスが、綺麗に塗られた唇から、吐露される言葉の一つ一つには、まだ少し、引き攣れたような哀しみが滲んでいる。
 彼女の身に降りかかった陰湿なそれは、多分、遠い遠い昔のことだ。それでも、まだ、その傷跡は完全に癒えてはいないのだ。
「だれか、そばにいたら」
「……ん?」
「だれか傍にいたら、一緒に戦ってくれるひとがいたら、迷惑、ですかね」
 もし、自分が、日輪の傍にいたら。
 そうしたら、迷惑だろうか。
 琴子は、嬉しそうに目じりを下ろして微笑んだ。
「ユトちゃんは、いいこね」
「え? あ、いえ」
「そうね。とても心強いと思うわ。迷惑なんて、だれも思わないわ。それに」
 くすくすと、微笑に、琴子が言葉を切る。
「それに?」
 鸚鵡返しに問うと、彼女は笑みを含んだまま、言葉を続けてきた。
「ユトちゃんだったら、絶対信用できるだろうし」
「……どうしてですか?」
「だって、相手と同時に私に対しても、怒りそうだもの。いつまでもめそめそ泣くな! って」
 そういう人は、信頼できるのよ、と、琴子はいう。
「そんな――」
 ことするはずがない、といいかけて、遊は自分でも納得する。やりそうだ。ものすごく。
 実際、自分は今日輪に対しても少し腹を立てている。どうして、そんな風に何もなかった風に振舞うのだろう。どうして、口を閉ざしているのだろう。
 反抗すれば、倍になって返ってくるから? 
 きっと日輪はそういった報復に怯えているわけではない。
 ただ。
 彼女は全てを諦めている。最初から。
 それが、苛立たしい。
 だから、遊は迷っていたのだ。
 そんな最初から諦めている人に、手を貸してよいものか。
「それに、ユトちゃん、私の知ってる人にちょっと似てるの」
「誰ですか?」
「うふふ秘密。でも私が寂しいときに、いてくれた人かなぁ……似てない部分のほうがたくさんあるけどね」
 そうなんですか。そうなのよ。
 そんなやり取りを行い、しばらく顔を突き合わせて笑い合う。
「本当に、ちょっと怒ってやりたくて」
 くだらないことを行う輩を。
「素敵」
 さすがね、と何がなんだかよく判らない褒め方で褒められて、遊は照れ笑いに頭をかく。
「がんばってね。応援しちゃう」
 口元に手を当てて密やかに笑った琴子は、さて、と遊の腕をぽんぽん叩いた。
「そろそろ行かないと。リオン君が拗ねちゃうわ。あ、ユトちゃんは私が捕まえていたんだって、ちゃんと言ってあげるから安心してね」
「あ、ありがとうございます!」
 なんて素敵な人なんだろう琴子さん。これで音羽から叱責を受けずにすむ。
「いいのよぉそんなの」
 感涙に目じりをそっと拭った遊は、その次の瞬間、しなやかに身を翻す彼女の言葉でぴしりと石化した。
「だから茜くんとどこまでいったのか、ちゃんと私には報告して頂戴ね?」
 茜、とは、隻のことだ。彼の源氏名が、茜。
 一応、知られていないはずだったのですが。別に付き合っている、とかではないけれども。
 琴子の香水の残り香を吸い込み、遊は思わず天を仰いだ。
 客の勘は、意外にあなどれませぬ……。


 日輪が何か言うよりも前に、遊はその腕をとり、強引に彼女を廊下へと押し出した。その間、ひたすら視線が背中に突き刺さっている。訝しげな、冷ややかな、猛禽類が、獲物を定めたときのような。
 ふと、廊下で腕を組んで佇む美紀と目があった。
 彼女は人のいい笑顔を浮かべた。一瞬だけ――そう、一瞬だけだ。委員長としての顔を刹那の間に捨て去った彼女は、それこそ相手をぞっとさせる冷笑を口元に浮かべた。
 もっともその威力は妹尾家の面々が浮かべる極寒の冷笑の足元にも及ばない。
 だからこそ、遊は彼女の目を真正面から見据えて、笑み返すことができた。
 おっそろしいことには変わりないですがね。
「私は、一応、忠告したのよ? 磯鷲さん」
 遠藤美紀は、絶対零度の響きでもって、遊に宣告する。
「残念ね」
 アナタも、ターゲットに。
 その響きを汲み取って、遊は思わず、唾を嚥下した。
 女子間バトルロワイヤルの、始まりだった。


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