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Stage 5. 乙女よ、疾走せよ 4 


 少女は今日も黙々と読書に励んでいる。他人とのかかわりを拒絶して。いや、完璧に拒絶しているわけではないはずだ。そういえば先日までちょくちょく彼女の友人らしき少女が遊びに来ていたと思うのだが、その姿も最近見えない。少女の前でうにーっと百面相をしてみても、全く反応はないのだ。ちらりと遊の姿を認めてそれだけである。
 つまらない、と自分の席に戻った遊は、美紀に強く腕を引かれた。
「い、いたいいたいいたいななな、何なの遠藤さん?」
 そのまま強引に連行された先は乙女が雑談する場所のお約束、お手洗いである。
 ちなみに遊は何ゆえ女子が、そんなにトイレをたまり場とするのか理解が出来ない。実際あまり訪れたくはない場所であるのだ。汚物と消臭剤の入り混じった珍妙な臭いと、塞ぎこんだような陰鬱な雰囲気を、遊は好きではない。
 ただ一つの窓を背に遊を振り返った美紀は、遊の両肩を掴んで真剣な面持ちで顔を覗き込んできた。
「駄目よ磯鷲さん」
「ななな、何が?」
「土屋さんに関わったら駄目。これは忠告よ磯鷲さん。お願いだから土屋さんには関わらないで」
「いたいいたいって。肩肩!」
 あ、ごめん、と弁解を口にしながら美紀がぱっと手を放す。痺れをほぐすように肩を軽く回しながら、遊は怪訝さに眉をひそめた。
「一体なんで?」
「今あの子に話しかけてはいけないルールなのよ」
 まるでそれが摂理だとでもいわんばかりの、決然とした物言いに、遊は思わず噴出しそうになった。何の冗談だと、嗤いたくなる。美紀の言葉が示すのはただ一つ、無視――虐めではないか。
「遠藤さん、一体何の冗談? 土屋さんは確かに変わったひとだけど」
 虐めの対象になるような、そんな不快感を与える類の少女ではない。むしろ存在感が希薄といってもいいほどだ。大体、人の付き合いを拒絶しているような少女を、わざわざ虐めの対象にして、一体何の益があるというのだ。
「知らないの? 磯鷲さん」
「何を?」
「あのこ、守里君と本格的に付き合い始めたのよ?」
 マモリって誰ですか?
 と首を傾げかけた遊は、思い当たって顎が外れるほどあんぐりと口を開いた。守里。守里笠音。
 音羽と対を成すこの学校の王子様だ。
「え、あ、え、えぇえええぇえ?」
「……かなり有名な話なんだけど」
 呆れた眼差しを遊に送ってきながら、美紀が呻いた。
「しかも守里君のほうから付き合おうって言われたらしいの。ガールフレンドじゃなくて、“彼女”になりましょう、なんて。今まで守里君、誰にも言ったことなかったのに」
 遊はやるなぁ、と感心した。どうして好かれることになったのかという諸事情はこの際置いておいて、あの、何にも無気力な少女に、男と――しかも学校の大半の女子を敵に回しかねない男と――オツキアイするなどという芸当ができるだなんて。
 と、そこまで考えてそうかそういうことかと遊は納得した。
「……嫉妬をかっちゃったの? 土屋さん」
「そりゃぁねぇ。だって、あの土屋さんがよ? みんな思うでしょう何であんな子がって」
 すみません土屋さん。私もちょっぴりおもっちゃいました。
 思わず天井を仰ぎながら、遊は今も教室で読書に勤しんでいるであろう少女を思った。
「だってね」
 腕を組んで眉根を寄せる美紀の表情は神妙だ。やはり納得がいかないらしい。
「あの子、あまりいいたくないけれど、ちょっと気持ち悪くない? おうちもなんかわけのわからない宗教を信仰していて、なんでも悪魔召喚とかやろうとして、警察呼ばれたこともあったみたいよ」
『……だから、そんな人間が、かまわれるのって』
 宗教家ねぇ、と、それでも釈然としない何かを感じながら、ふと遊は、先日の日輪の言葉を思い出した。
 日輪は言っていたではないか。
『妬ましい、ことなのかも』
 妬ましい。
 そのときは一体何の話だと首をかしげたのだが、今なら辻褄があう。キモチワルイと思われている少女が、校内で人気を二分する男に好かれる。確かに、面白くないと思う少女たちは大勢いるだろう。つまりあの時すでに、日輪は高校の白王子こと、守里笠音と付き合い始めていて、クラスメイトからシカトを食らっていたのだろう。だからこそ、彼女は遊に警告したのだ。
 自分と同じようになりたくなければ、関わらないほうが、いいと。
「とにかく、忠告したから」
 美紀が笑って、教室に戻ろうと遊の袖を引く。
 ずるずると引きずられるようにして廊下を歩きながら、遊はむぅ、と眉間に皺を刻んだ。


 守里笠音と妹尾音羽は友人である。しかも、かなり親しい。
 ならばこの件についても詳しく知りえているはずだ。
「守里笠音くんと土屋日輪ちゃんが付き合ってるって知ってる?」
 妹尾家の次男にそうやって尋ねることは、一種の冒険だった。
 場所は通学路にある大型スーパーの乳製品売場。自宅以外でお互いに話しかけないという暗黙の了解を破ったからだろう。音羽は不快そうに眉をひそめている。彼がそういう反応をすることはわかっていた。けれど自宅で話し合うような内容でもないし、いつのまに仲良くなったのだと、隻たちから揶揄されるのも煩わしい。学校でも自宅でもない場所で鉢合わせしたことをこれ幸いとして、尋ねずにはいられなかったのだ。
 無視されるかとも思った。しかしプリン棚へ視線を戻した音羽は、存外素直に寄越した。
「あいつらは別に付き合っていないぞ」
 ただし、遊が予測した返答とは、ほんの少し異なっていたが。
「……へ?」
「笠音が一方的に執着しているだけだ。そうだな。お前と隻の関係に似ている」
 かこん、と籠に黒ゴマプリンが放り込まれる。棗からはヨーグルト、隻からは豆乳を頼まれていることを思い出し、健康志向だなこの家族――と呻いている場合ではない。その籠は、遊が提げている籠だ。クラスメイトの誰かに見られでもしたら、親しいと勘違いされそうな行いである。
 問いに対する答えよりも、その行動に遊は当惑した。どうしてこんなまねをする? クラスメイトの誰かに見られたら、どうしてくれるコノヤロウと脅したのは、そちらの方だろうに。
 思惑を図りかねて閉口する遊を、音羽は無表情のまま見下ろした。
「お前、ほかに買うものは?」
「……は?」
「耳がおかしいのか。買い物は終わったのか、と聞いているんだ」
 おかしいのはあんたのほうでしょう、という言葉を、遊は飲み込んだ。
 困惑に眉根を寄せた遊は、とりあえず籠に一瞥をくれた。今日買うべき品物は、全てこの籠の中にある。後は、会計だけだ。
「……ない、けど」
 低く呻いた遊に、音羽はならば、と顎でレジのほうを示唆して言った。
「早く会計を済ませて来い――話の続きをしてやる」


「ひよりみ同盟って聞いたことあるか?」
「……ナニソレ」
「やつらが内輪だけで作った同盟らしいが。まぁ普通ならそんなもん誰も知らなくて当然だが、いまではちょっと有名だ。……笠音がいるからな」
 遊はびくびくほんの少し怯えから距離をとりつつ、音羽と並んで帰路についていた。音羽は遊の自転車を押している。荷物全てが積まれた自転車を。ありえん。こんなことありえん。音羽がフェミニスト過ぎる。
 あとが怖すぎます。
 それが態度にこれでもかというほど出ていたのだろう。眉をひそめた音羽が、会話を切ってむっつりと呻いてきた。
「いっておくが、俺も妹尾家の人間だからな」
「……は?」
 意味を理解しかねて首を傾げた遊に、音羽はため息混じりに続けてくる。
「目の前でそれなりに重量のある荷物を持った、一応まがりなりにも女を、放っておくなんてしてみろ。集にそれが知れたら後で何を言われるやら」
 小遣いを止められたくはない、という非常に学生らしい、けれど音羽らしくはない発言。
遊は口元を引きつらせながら応じた。
「……さよですか」
「それよりもちゃんと話を聞け」
 せっかく話してやっているのにこの阿呆目が、というオーラをひしひしと肌で感じ、遊は渇いた笑いを浮かべながら呻いた。
「ひよりみ同盟っていうのは、独り身を推奨する同盟、だそうだ」
「……ひ、ひとりみ?」
 鸚鵡返しに尋ねる遊へ音羽が首肯してみせる。
「あぁ……“彼氏も彼女も要らないわ。独り身ライフをエンジョイするのよビバ独り身”」
 音羽の口から突然飛び出した女言葉に、遊は反射的に身を引いた。すかさず音羽から鋭い視線が突き刺さる。
「……オイお前なんで後ずさるんだ」
「……いえ。別にどうぞつづけてくらはい」
「いちいち癇に障ることをするやつだなお前は」
 お小言が続きそうな気配に、遊は思わず身構える。だが音羽は思いとどまったらしく、小さく頭を振って話を続けた。
「……それでだ。女を振り切るのにちょっとばっかり飽き飽きしていた笠音が、どういったいきさつかは知らんが、その同盟に入って、しばらく女は作らない、と大々的に宣言してみせた」
 土屋日輪は、その同盟の人間だ、と彼は付け加えた。
 どうやら、その発案者とやらが彼女の親友らしい。無理やり引っ張り込まれる形で、日輪は同盟の人間となった。友人同士で戯れに行う、ごっこ遊びみたいなものであるらしい。
 しかし気安いそのお遊びが、笠音の乱入で騒動の種へと発展した。
「それで、どうして土屋さんと付き合うことになったの?」
 素朴な疑問を遊は音羽にぶつける。が、返事はとてもそっけないものである。
「付き合っていない、とさっき言ったばかりだろう。脳みそか? 耳か? 腐っているのは」
「……記憶力」
「それで、だ。とりあえず、奴らは付き合ってはいない。笠音が一方的に、好いている」
「……あの、土屋さんを」
 言い方は失礼だが。あの超無気力少女の、どこをどんな風に好きになったのだろう。野次馬根性を出しながら、きっかけは、と音羽に尋ねれば。
「そこまで俺が知るか」
 とすげなくばっさり切り捨てられた。
「深く詮索をしないのが俺たちのルールだ。でもまぁ、退屈しなかったんだろう。奴が最初に同盟に入ったと俺に言ったとき、続けていったひとことが、気に入った子がいるんだ、だったんだ。退屈しない。面白い。そして――」
「……そして?」
「……やつも、隻も、どうかしている」
 小さく頭を振った音羽は、そのまま沈黙した。話はこれで終わりだ、といわんばかりに。
 夕日が照らし出す住宅街をのんびり歩く。大分日が長くなった。影が足元から壁に伸びて、平面上をすべるように動いている。口を閉ざした音羽の横顔を盗み見ながら、遊は彼の最後の言葉を胸中で反芻した。
『隻も、どうかしている』
 そういえば、と思う。
 たしかに、日輪の状況は音羽が言及したように遊のそれにとてもよく似ている。自分もまた、どうしてあんなふうに隻に好かれることになったのか、全く思い至らないのだ。自分の性格は決していいものとは言えないし、女らしさゼロであるし、美人でもなければ、頭が特別良いわけでもない。料理だって、いまだ上達の兆しを見せずに申し訳ないばかりなのだ。
 それなのに、何故。
 首をかしげているうちに家に到着し、遊は駐車場の手前で自転車を音羽から受け取った。努めて優しい声音で礼を述べる。
「ありがとう」
 本当に、珍しく音羽が優しくて助かった。妹尾家六人分の食糧品ともなると、ひとりで運ぶにはかなりの重量なのだ。
「あ? あぁ……」
「まだフェミニスト期間続行中なら荷物だけ中に運んでおいてください」
「……お前、素直に後半部分だけいうことはできないのか」
 彼の険を含んだ声を聞き取って、遊は慌ててハンドルを押した。くわばらくわばら。怒りの雷を受けそうなときは逃げるに限る。
 が。
「オイ」
「……え?」
 腕を強く引かれ引き止められた遊は、危うく体勢を崩しかけた。片足でどうにか踏ん張りつつ、怪訝さに眉をひそめて振り返る。
 だが音羽は、嫌味を口にするわけでも、手を上げているわけでもない。わずかに瞠目して、遊を見下ろしていた。何かに驚いている様子だが、それが何なのか皆目見当が付かない。掠れた音羽の声が、遊の耳に届く。
「お前――」
「へ?」
「……それ、運んでほしいんじゃなかったのか?」
 そういって音羽が指差した先には、夕飯の材料がぎちぎちに詰まった、ビニルの買い物袋があった。


 買い物袋を台所のテーブルの上に積み上げる。ここから先は、遊の仕事だ。自分が関与するところではない。そもそも、どうしてここまで荷物を運んでやる気になったのか、自分でも判らない。音羽はテーブルの上に鎮座する袋を、半ば睨みつけるようにして眺めた。
 そうだ中に自分用のプリンを入れたから。それを彼女にとられたくはなくて。
 そう思いなおしてみるが、所詮それは言い訳に過ぎないと意識のどこかで悟っている。
 それが、なんとなく、落ち着かない。
 頭を振って踵を返した音羽は、そこに影法師のようにゆらりと佇む人物を認めて、驚きに瞠目した。
「……隻?」
 隻は腕を組んで微笑んでいる。薄く。
「水、飲みにきたんだ」
 ぺたぺたと裸足の足をいわせて、隻が音羽の横を通り過ぎる。
「……そうか」
 頷く以外の言葉を知らない。どうしてその瞳が冷ややかに自分を射抜いているのか、どうしてその笑みは、毒のような優しさと同時に氷の針のような鋭さを含んでいるのかなどという疑問を、わざわざ口に上らせてやるほどではない。
 少なくとも、普段は、彼は以前と変わらないどこかふざけた、けれども優しい兄である。
 普段は。
 全く変わらない。表面上、というよりも彼そのものはあまり変わっていない。変化が見られるのは、自分が――。
「一緒に帰ってきたの?」
「……スーパーで会った」
 彼に変化を見せてしまったとき。
「そう」
 きゅっとタップを捻る音。続いて水の流れる音。器にそれは勢いよく溜まっていき、再び、蛇口が捻られる。
 喉を鳴らして水を飲む兄を、音羽は静かに眺めた。窓から差し込む五月の陽が、グラスの中の透明な液体に乱反射して光る。
 いつから。
 その一言が恐ろしい。自分でも正確に答えることなどできないのだ。
 いつから。
 それは、あの霧雨の中で唇を噛み締めて泣く少女を見たときからか?
 それは、大勢の審査の眼差しの中、怯むことなく歌を歌って見せた少女を見たときからか?
 それは、温かい光に満たされた蒼穹の下……。
「隻」
「んー?」
 車の中で。
「お前……この前」
 隻が訝しげに首をかしげながら振り返る。細められる目は、猫のそれに似ている。
「この前?」
 音羽は、言葉を飲み込んだ。
(あいつと)
 影を重ねた兄を見たときからか?
 影を重ねた、少女を。
 見たときから?
 それを目にしたのは、ほんの偶然だった。
 二階の廊下を歩いていると、エンジン音が聞こえて。あぁ戻ってきたのだと何気なく、反射的に窓をのぞいて。
 そこで。
「ちょっとなんで冷蔵庫の中に入れておいてくれないのよ!」
 突如少女の声が静謐な台所に弾け、張り詰めた空気を一掃した。


 肉が駄目になったらどうしてくれよう。遊は眉間に縦皺二本を刻みつけてずかずか歩み寄った。台所のテーブルに、でん、と積まれた買い物袋。さっさと部屋に引き上げたのだと思いきや、音羽はまだ台所にいて。だったらせめて肉だとか刺身だとか、冷蔵庫に適当に放り込んでおいてくれても良かろうて。スーパーから家までの距離はそれというほど離れてはいないが、やはりこういったものは早く冷蔵してしまうにこしたことはない。
「お帰りユトちゃん」
 台所にはもう一人、隻の姿があった。片手には水の入ったグラス。それを彼は手早く濯いで片付けてしまうと、遊のほうへと一歩を踏み出してきた。
「ただいま隻兄。今日お仕事は?」
「キャラメルボックスはお昼までだった。クラブの同伴はなし。一緒に夕ご飯食べてでるよ」
 遊の質問に詰まることなく答えながら、ひょい、と袋を覗き込んでくる隻に、つい身を引いてしまう。その綺麗な顔が間近にあると、どうも落ち着かないのだ。
「今日の晩御飯は?」
「鶏肉唐揚げのレモン汁漬け。蕪と海老のサラダ、あと御飯。大根のお味噌汁付き」
「大分レパートリー増えたねー」
「……二ヶ月やってますんで……」
 ん、えらいえらいと頭を軽くなでられる。そうして隻は素早く買い物袋を持ち上げた。冷蔵庫のほうへとすたすた歩いていって、彼は順々に食糧を仕舞いなおしていく。
 ちょっとは兄上を見習ってみろ、と音羽を睨め付けかけた遊は、それでもここまで運んでくれただけでも進歩ではないか、と思いなおし、こほんと咳払い一つをして、音羽に礼をいった。
「ありがと」
「……あぁ」
 音羽が頷いたのを確認して隻の横に並んだ。彼の傍らに屈みこんで、遊は気合を入れながら、夕食の支度に必要な調味料をひっぱりだす。
 無論、背中を向けたその先で、音羽が非常に複雑な、哀切にも似た表情を、浮かべていることなど、気付くはずもなかった。


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