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Stage 5. 乙女よ、疾走せよ 3 


 土屋日輪は、奇妙な少女だ。
 その動きはどれをとっても素早く、最小限で、さりげない。たとえば、扉の開閉。音もなく開いた人ひとり分の幅の隙間から、日輪はすうっと滑り出る。他には、歩き方。彼女は足音を立てない。床が彼女を乗せて動いているのではと思うほどだ。また廊下では往来する生徒の隙間を器用に縫って、肩ひとつ当たることなく移動する。発言も滅多にない。他人に呼び止められたときに限られる。
 そういった諸々の行動が、彼女の存在感を希薄なものにしていた。
 とはいえ日輪自身がひとりであることを苦にしている様子は見られなかった。彼女は毎朝教室に一番乗りを果たし、本を広げて黙々読書に励む。ホームルームが始まっても読書の手を止めることはなく、授業中ですら、ノートをとりながら膝の上に単行本という器用な技を披露し、本の世界に没頭しているのか、時々笑いに肩を震わせている。
 そういったことの一つ一つを、斜め後ろの席から頬杖をついて観察していた遊は、美紀から投げかけられた質問に面を上げた。
「一体何をみているの?」
「えーあーうん……土屋さんって、その、ちょっと不思議な子だね」
 陰口は好きではない。が、聞こえるように大声で話すのもどうかと思われる。それなりに声を潜めてそっと美紀に耳打ちすると、彼女は珍しくその人のいい笑顔を消して口元を引き結んだ。
「……あんまり関わらないほうがいいって噂よ磯鷲さん」
「なんで?」
 そういえば、日輪もまたこれからは知らない人同士云々と口にしていたなと、怪訝さから首を傾げつつ思い返す。美紀はそんな遊の耳元に口を寄せて、小さく囁いた。
「悪魔の召喚とかやってる、ちょっと危ない人らしいから」
「……は? 悪魔?」
「噂だけれども」
 にっこり笑った美紀は、それはそうと、と鞄から映画のパンフレットを取り出した。連休中に鑑賞したらしい映画のそれは、遊が彼女に見せて欲しいとせがんだものである。
 やった、と両手を叩いて、美紀に感謝の意を口上する。映画の会話は確かに弾んだ。だがその間、遊はちらりと視界の端に映った、ため息にか大きく上下する日輪の肩が脳裏にこびり付いて離れなかった。

 


 屋上は出入りが禁止されている。
 なのにそこを利用する人間が後を絶たないのは、やはり学校生活でお約束の場所だからだろう。恋人たちの逢引の場所として使われることもあれば、人生に疲れたちょっとアンニュイな若者が、喫煙という法律違反を犯す場所でもある。
 今日この蒼の下に広がる空間に、存在するのはたった一人だった。
「つーちーやーさん」
 屋上の隅で昼飯を食べている少女を発見した遊は、ぶんぶんと彼女に向かって大きく手を振った。と、同時、遊の姿を認めたらしい彼女の表情が曇る。だが動くことはなかった。そのままもそもそもそと、弁当を食している。
 逃げる気配はないようだと安心して遊がゆっくりと歩み寄った瞬間、彼女は素早く弁当箱を仕舞いなおしていた。言い方は悪いがゴキブリも驚きの早さ。荷物を抱えて立ち上がろうとした日輪の腕を、遊は慌てて取っていた。
「ちょっとちょっと、まだ帰らないでよ」
「……なにか」
 用? と。ぼんやりとした表情のまま少女は首をかしげた。その顔にはありありと、面倒の二文字が描かれている。苦笑した遊は彼女の袖を引いてその場に座らせ、スカートのポケットから包みを取り出した。
「ハンカチ。血だらけでだめにしちゃったと思うから」
 取り出したのは、先日下校のその足で買い求めたハンカチである――これを手渡すために、彼女を探していたのだ。いかんせん財布の中はブリザードが吹き荒れている状態なので、百円均一で買い求めた安物であるのだが、近頃の彼の店の品揃えは馬鹿にできない。シンプル且つ、デザインの良いもの揃えられている。
 その中でも駄目にしてしまったものに近いデザインを選んできたつもりである。白地に赤い刺繍糸で花が縫い取られたそれを、日輪が驚きの目でもってまじまじ見つめた。躊躇いがちに、伸ばされる手。
「……ありがとう」
 包みを受け取った少女ははにかみ微笑う。浮かべられた表情に、遊はおおいに満足した。女の子はやっぱり笑うに限るよ。完全な不思議ちゃんではあるが、なんといってもめんこい娘である。なんだか荒んだ心を癒された気がして、遊はほっと息をついた。
「……それじゃ」
「あ、ねぇいつもこんなところで御飯食べてるの?」
 確かにいつも日輪は昼食時、教室から姿を消しているが、こんな寒々しいところで一人で食べているとは思わなかった。もしよければ、一緒に食べられればいいと思う。実は個人的に興味があって、ぜひともお友だちになりたいのだ。
 が、少女は礼によって遊の胸中を察して、一言釘を刺した。
「食べないよ」
「え?」
「一緒に、食べないよ。今日は、一人。明日は、三人かも、しれない」
 だから、駄目、と。
 えーっと。
 遊は考える。つまり、今日はたまたま一人であるが、大抵いつもはほか二人が一緒であり、明日は三人揃って食べるかもしれないから。
 遊とは一緒には昼食をとることができない、と。
 そういうことであろうか。
 あはは、と遊は空笑いを浮かべる。友だちになりたいなぁとは思ったが、そのためにはまず専属の通訳が必要かもしれない。彼女の思考は突飛過ぎる。彼女の中では論理は完結しているのだろう。それを断片的にしか口に乗せて説明しないために、判りにくいのだ。
「……もう用事、おしまい?」
「あ、えーあ、っと」
 いけない、と思う。日輪の意識はすでに階段へと向かっている。
「あのさ」
 どうにか会話をつながなければならない。遊はひとまず、言葉を替えながら気になっていることをきいてみることにした。
「魔法使えるって、ホント?」
「まほう……?」
 遊の言葉の意味を理解しかねてか、再び少女の瞳が遊を映す。うん、と頷いて遊は続けた。
「ご両親、召喚魔法使えるんだーってきいた」
『悪魔の召喚』
 美紀の言葉を、婉曲に伝えたつもりだった。
 本来なら、あまり触れられたくないことだろうが。彼女が人から逃げ回っている一端は、その噂にあるだろうことは明白だった。
 日輪は聡明な少女だ。その意味を理解しているのだろうが、気に止めた様子もなかった。あっさりという。
「つかえないよ。魔法」
「そか」
 遊は笑った。
「使えるんだったら、教えてもらおうと思ったのになぁっ」
「……は?」
 力いっぱい張り上げた声は、僅かに裏返っていた。怪訝そうに足を止めた日輪に、笑いかけて遊は言葉を続ける。
「そしたら、土屋さんと友達になれるしね!」
 きょとんと。
 目を丸め、呆然としたように日輪は立ち尽くしていた。そしてしばらくしてから、彼女は笑った。ちいさく。
 とても小さく。
 しかし魅力的な微笑だった。
「不思議だねぇ磯鷲さん」
 いやいやお主のほうが十分に不思議なお方でございますよ。
 遊は思わず胸中で呻いていた。不思議だ、などと、日輪だけには言われたくない言葉だ。
 遊の発した言葉は、日輪を屋上に留まる気にさせたらしい。いかにしてその言葉が彼女を引きとどめる効果を発揮したのかは、本当の本気、判らないのだが。
 日輪の反応に狼狽した遊を差し置いて、彼女は周囲を一瞥する。そしてさらに奥まったところへと歩を進めると、腰を下ろした。
 だが遊に何も声をかけるわけではない。彼女は鞄の中からペーパーカバーのかかった単行本を取り出して、黙々とそれを読み始める。
 完全なる、マイペース。
 遊が近づいても反応を起こさない。それは、傍にいてもかまわない、という意思表示だろうか。恐々と傍らに腰を下ろした遊は、ひょいっと彼女が読破に向けて勤しんでいるそれを覗き込んだ。各ページの上のほうに、小さく記されているタイトルはこちら。
『正しい人体解剖。犬でもわかる殺人方法』
(……)
 あまりにも不穏なそのタイトルに、思わず遊は身を引いた。だが日輪は遊のその行動を気にした素振りはない。ただ黙々とその、文章というよりはカラフルに色づけされた漫画に目を通して、時折笑みに身体を震わせている。
 一体何が面白いのだろうと顔を寄せてみれば、確かにそれはとても面白い本であった。白衣を着た骸骨が、デフォルメされた人体模型と一緒に人体内部を旅し、コミカルに説明してくれるという内容で。
 次第に遊自身がのめりこんでいく。人体急所なども説明されており、いやはやどうしたものか。なかなか面白いのだ。
 最後には遊のほうが思いっきり噴出すのを堪えながら、奪うようにしてその本に目を通している始末だった。本を両手で支えながら遊は、倒れこみそうな勢いでワンシーンに爆笑した。
「あはははは何コレーすごい面白い!」
「判りやすくて、面白いよね」
「こ、こここ、これ生物の教科書に使おうよ〜すごい判りやすい! あははは何この骸骨ー! すげーダンディーだ!」
 腹を抱えてげらげら笑う遊に、日輪がちゃっと同じカバーのかけられた二冊を出す。片手で器用にその二つを扇状に持って掲げて見せてくる彼女は、笑いたくなるぐらいに真剣な面持ちだった。
「続・正しい人体解剖。猫でもわかる殺人方法。番外編・正しいドッペルゲンガーの造り方」
「ぉお!」
「読む?」
「読む読む! いいの?」
 嬉々としてその二冊を受け取ると、少女はこっくりと頷いた。ぱかっと鞄の中を開いて見せて、彼女は一言。
「まだ二冊ある」
 だから読むのには困らないので、と、日輪の声が聞こえた気がした。
 遊はホクホクとその二冊を腕に抱えた。文章ならマトモに読む気にはなれないが、この漫画なら、仕事の休憩時間にでもさらりと読めてしまいそうだ。もう一度礼を述べるべく面を上げた遊は、日輪のただならぬ不穏な表情に、ぎくりと身体を強張らせた。言葉に、詰まる。
「……えっと」
「それ、かりたって、言わないほうがいい」
「へ?」
「私から」
 発言の意味を探りながら首を傾げる遊に、日輪が少し寂しそうに笑って、鞄を閉じた。
 ゆっくりと閉められる、補助鞄のチャックの音。それを聞きながら、遊は疑問に思っていたことを口にした。
「……仲間はずれに、されてるの?」
 日輪はしばらく無言だった。春特有の眩しさを伴った、透き通った蒼穹。それを目を細めて見上げた彼女は、ため息交じりの言葉をぽつりと漏らす。
「……私のこと聞いたんだよね? 悪魔、召喚してる、両親」
「うん」
 一瞬どう答えるべきか逡巡するが、素直に遊は肯定した。
「……きいた」
 遠藤美紀。あの人のいい才女が、珍しく陰口めいたことを口にした。悪魔召喚だなんて。そんなホラー映画みたいなことを行っている雰囲気は、日輪には全くないと遊は思う。一風変わった少女であることは確かだが。
 だが黙りこくってしまった日輪を見ていると、その自信も段々と揺らぐ。とうとうたまりかねて口を開きかけたその矢先、不意に放たれた彼女の一言が遊の言葉を制した。
「うちの親が」
「え?」
「宗教家で」
 短い言葉に含まれる自嘲の響き。「で」の続きを待つ遊に、日輪がため息もつくこともなく、ただぽつりと、一人納得しながら小さく呟いた。
「……だから、そんな人間が、かまわれるのって、妬ましい、ことなのかも」
 そして遊は即座に思った。
 ごめんなさい。やっぱり通訳が必要です。
 親が宗教家。一体それが何を意味するのかはわからないが、おそらく広く信仰されている宗教のひとではないのだ。一般人からみると理解に苦しむような、新教、なのだろうおそらく。
 だがどうしてそれが妬ましいという感情に通じるのか判らない。妬ましい。いわゆる嫉妬だ。他者を羨ましいと思う感情。不可解な宗教を崇めていて気持ちが悪いとかいうのならともかく、それがどうして妬ましいに通じるのだろう。
 だが日輪の中では納得がいくものごとらしい。そしてそれ以上説明するつもりもないようだ。
 日輪が鞄を肩に掛けて立ち上がる。慌てて腰を浮かせた遊を制するように、彼女は牽制の呟きを落とした。
「だから、一人がいやなら、こないほうがいいよ。本は、放課後机の中にでも、入れておいてくれれば」
「……土屋さんは、一人、寂しくないの?」
 教室で観察しているとき、いつも思っていた。一人で、世界を断絶している少女。その背中が、とても寂しそうだと。
 遊は、一人は嫌だ。親が死んだと聞かされたとき、何かの冗談だろうと笑い飛ばさないと、正気を保っていられなかったこと、彼らの事故死が現実だと知らしめられたときの喪失感。思い返すだけで鳥肌がたつ。皮肉というかなんというか、その寂しさを時折思い出す程度で済んでいるのは、ひとえにあの賑やかな家族の面々に囲まれているおかげに他ならない。
 幸いにも遊は学校でも一人で行動せずにすんでいる。が、もしも皆に無視されたなら、悲しいどころではすまない。
 自分の場合、泣き寝入りを決め込むと決めたときにおいては、徹底的に嫌われるためになにか報復を行ってそうであるが。
日輪は肩をすくめると、そっけなくいった。
「丁度いいの」
「……丁度、いい?」
 うん、と頷いた少女は、どこか物寂しい微笑を口に刻みこういった。
「ニンゲンと付き合うの、めんどくさいから」
 どこか哀愁を漂わせながら躊躇うことなく言い放れた言葉は、どこか矛盾した響きを伴っていて。
 遊の耳に震えて届いた。


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