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Stage 5. 乙女よ、疾走せよ 2 


 このままではいけない。
 なんとか対策を講じなければ。
 家に帰るだけで頭が痛い。教室移動の授業からの帰り道、遊はこめかみを押さえながら昼休みでごったがえす廊下をぽてぽて歩いていた。その痛みは棗の酒盛りにつき合わされた翌朝の鈍痛に似ていて、ラブゲームを宣告されたころの頭痛をはるかに凌ぐ。押して駄目なら引いてみよ、という言葉はあながち嘘ではないのだろう。あんなふうに一歩引かれて甘やかされると、拒絶するに拒絶できないからだ。
 こんな乙女な悩み、自分らしくない。他にも頭を痛めなければならないことはたくさんあるのだ。たとえば今晩の献立――は決まってしまったから、それをどうやって完成にこじつければよいかだとか(メモはとっていても実際八宝菜をつくったことがないのである)、宿題が溜まっていることだとか(連休前に出された数学のワークブックは、連休が終了して二週間以上経つにも関わらず未だに完遂していない)、もうすぐ中間テストがやってくることだとか(何せ前の学校と偏差値が異なる。しっかり勉強しておきたいのが本音である)。
 頬をぱちんと叩いて気合を入れる。
 その瞬間、廊下の角から現れた人影が、遊の脇腹に勢いよく突っ込んだ。
「うぉおっ!?」
 自分でも男前だと思う叫びをあげ、遊はタックルをかましてきた人物とともにその場にひっくり返った。抱えていた教科書が散らばり廊下を滑っていく。したたかに打ち付けた腰を撫でさすりながら、最近こんなんばっかだと、遊は胸中で毒づいた。
「ご、ごめんなさい」
 間近で響いた謝罪に、遊は頭上を振り仰いだ。
 見覚えのある少女の顔がそこにある。名前はなんといったか。クラスメイトだ。すとんと伸ばした日本人形のような黒髪に、大きな瞳。この少女は、滅多にそんなに目を見開いたりしないものだからその表情に少し驚く。だが大丈夫だよ、と返答すると直ぐに、少女はいつもの表情を浮かべた。無感動な眼差し。どこか他者を拒絶するやる気なさげなそれ。
 遊は名前をようやっと思い出した。
「土屋さん。どうしたのそんなに急いで」
 ツチヤヒノワ――そう、土屋日輪だ。クラスメイトの中でも一風浮いた少女。遊の斜め前の席で、大抵本を読んでそちらの世界へ没頭している。その胡乱な眼差しを裏切る、授業中にちらちらと見せる鋭い弁舌が印象に残っている。とはいっても、長文を口にすることは滅多にない。
 先ほどの授業は選択科目だった。遊は音楽で、日輪は美術だ。美術室から走ってきたのだろう。一体何をそんなに急ぐ必要があるというのだと首を傾げていた遊に、ハンカチが差し出された。
「え?」
「鼻」
 顔を苦渋に歪めた少女は、遊の鼻の辺りを指差して、一言。
「血」
 彼女のハンカチが、ぎゅっと顔に押し当てられた。
「うぉおおぉおお?!」
 ハンカチが吸いそこねた赤黒い液体が雫となって、ぼたぼた床に落ちていく。視界をそめる赤赤赤。 出血は大の苦手だ。
 そう思い返した頃には、遊の視界はブラックアウトしていたのだった。


 次、目を開けば、そこは別世界。
 ならぬ、白が支配する世界だった。
 別名、保健室ともいう。
「……あれ?」
 見覚えのあるカーテンに囲まれた空間の中央にしつらえられたベッドの上で、遊は身体を起こした。傍らには日輪が、二つ学生鞄を抱えてちょこんと腰を下ろしている。混乱した頭を落ち着けるために軽く頭を振ると、ぼた、と何かが落下した。濡れタオルだ。
「えーっと」
「あら気がついた?」
 しゃっとカーテンが開いて、この学校の校医が顔を覗かせる。いつもにこにこ目元に笑い皺を刻む、ぽっちゃりとした体格の、彼女は、生徒たちから母のように慕われている。
 彼女は日輪の横に立ち、シーツの上に滑り落ちたタオルを拾い上げた。それを丁寧に畳みなおしながら、遊に笑いかけてくる。
「貴方廊下で倒れたのよ? 覚えてない?」
「え? あ、いや倒れたっていうか……」
 鼻血を出して気を失ったことは、一応倒れたことに入るのであろうか。
 遊はかけ布団をめくって制服を確かめた。幸いなことに目立つ染みは見当たらなかった。袖口の辺りに発見してしまった、一つ二つの小さな血痕には目を瞑るべきであろう。出血の量を考えれば、これだけですんだ、ということは奇蹟に近い気がする。
 家に帰ったら棗に染み抜きの仕方を教えてもらわなければならない。悄然と肩を落とすと、校医が顔を覗き込んできた。
「しんどいところはない? もう下校時間だし、しんどくなかったら帰って大丈夫よ」
「げ、下校時間!?」
 思わず自分自身に呆れかえり、遊は驚愕の呻きを漏らした。
 昼飯を食い損ねた――いやいやそうではない。下校時間! つまるところ、自分はまるまる三時間ほど眠っていたことになる。
 なんということだ。確かに最近疲れが溜まっていたのかもしれない。いやむしろ家事、勉強、仕事のサイクルで疲れないほうがおかしいのだが。それでも。それでもだ。スキップしたであろう授業の中には、どうしても出席しなければならない数学があったのに。授業に参加しなければ、わからないものがさらにわからなくなる。
 頭を抱えて唸っていると、日輪が口を開いた。
「頭、痛い?」
「え? いやそうじゃないんだけど……」
 面を上げれば、心配そうに覗き込んでくる少女の顔。首を横に振って否定すると、日輪が学生鞄の中をごそごそとあさり始めた。
 数学のノートがね、という言葉。そして、さかさかっと取り出された、ノート三冊。五、六、七校時分の科目のノートだ。所有者名は磯鷲遊となっている。
「悪いと思ったけど、つかって、とっておいた」
 躊躇いがちにそう漏らす少女からノートを受け取って開いてみれば、これ以上ないほどわかりやすい解説付きで、板写がしてあった。遊自身の写しよりも大変見やすくウツクシイ。感動に思わずがしっと日輪の両手を握った遊は、滂沱[ぼうだ]の涙を流す気分で、ぎゅっとその握る手のひらに力を込めた。
「うわぁ本当にありがとー。感謝しますすっげー感謝します。ホントありがとー。すごく綺麗このノート!」
 日輪が当惑したように視線を彷徨わせ、ほんのり目元を赤く染める。
 俯き加減がまたなんともなまめかしく、顔を寄せて間近で見れば、なんとカワイコちゃんである。その初々しい、と表現してよいものか、人なれしていない反応に、遊のほうが当惑する始末だった。
「ご、ごめん」
「私が、ぶつかったんだから、いいよそんなの」
「あ、そうだハンカチ」
 自分の血を吸って駄目になってしまったハンカチ。きょろきょろと見回すと、日輪がいつの間にか片手にそれを携えている。血をすってぱりぱりになってしまった元、白いハンカチは、たとえ洗濯したとしても再利用不可であることは明白だった。
 とりあえず弁償しなきゃ、と遊は表情を消沈させた。血まみれの制服をクリーニングに出さなければいけない状況よりは、ハンカチ一枚弁償したほうがましであろう。だが遊の表情を認めたらしい日輪は大丈夫、といってもう片方の手を掲げた。
 そこには、丁寧にアイロンの当てられたハンカチが二枚。
 真顔でさらりと彼女は言う。
「まだ後二枚あるから」
 そういう問題では、ないのではないでしょうか……
 思わず絶句する遊をよそに、彼女はそれがさも当然という様子で、三枚のハンカチを鞄の中に仕舞いなおしていった。遊の胸中を表情から見抜いた点といい、聡いのであろうが、どうもそのポイントがずれている。
 日輪の横で、校医が笑った。
「何、土屋さん、いつもハンカチ三枚も持ち歩いてるの?」
 すると日輪はこっくりと頷いて、ハンカチをしまいなおしたらしい場所を順番に指差していく。
「私、予備、貸し出し」
 自分用、予備、貸し出し用ということらしい。いやはや、おしゃれにかまけてはいても身だしなみに対しては頓着しない子女が多い今昨今、奇特な少女である。
「私用事で少し席を外すから、気分良くなったら帰りなさいね」
 女医が笑って、利用者名簿らしきファイルフォルダを抱えて退室しながらそう言葉を残していく。ぴしゃりという扉の閉まる音が響き、白い空間に残るのは沈黙だった。日輪はてきぱきと身支度を整えている。やがて遊に遊の荷物を全て押し付けた彼女は、下校準備完了とばかりに立ち上がった。遊は慌ててその袖口を引いて引き止める。
「あ、ちょ」
「……荷物足りない?」
 ごめん、と頭を下げる彼女に、慌ててそうじゃないと手を振る。荷物はきちんと揃っている。一応教室に戻る必要もあるとは思うが。
「えっと、な、あ、荷物、持ってきてくれて、ありがと」
 すると日輪はふるふると首を横に振った。
「ぶつかって、ごめん」
「それはいいんだけど、何あんなに急いでたの? 用事、大丈夫だった?」
 あのタックルから推測するに、彼女はかなり急いでいたはずだ。遊の覚えている日輪は、少々変人のきらいはあるものの、基本的に生真面目な少女で、廊下をあの速度で駆け抜けるということは、よほどの理由があったはずなのだ。
 しかし日輪は再び首を振って、否定を示した。
「用事じゃない」
「え?」
「逃げてたの」
 疑問符を浮かべる遊を取り残したまま、日輪は会話を打ち切ってカーテンの外へ出ていった。しゃら、という衣擦れと、金具の触れ合う音。彼女のスカートのプリーツが残像のように揺れて、消える前に、静かな声が響いた。
「次からは、貴方と私、知らない人同士だからね」
 念入りに。
 どこか懇願するような響きさえする声だった。


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