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Stage 5. 乙女よ、疾走せよ 1 


 起こしてきてくれる?
 厚手の手鍋をそっと手渡してきながらの棗の頼みを断るわけにいかない。要するに、先日のようなことがあったならば、これで容赦なく隻をなぐれというそういうことだ。遊は足取り重たく階段を上り、恐々と扉を叩いた。沈黙が返って来るならば、部屋に侵入して布団を引っぺがす必要がある。
 が。
 がちゃ
「あ」
 扉はすんなりと開き、中からきちんと身なりを整えた隻が顔をだした。思わず条件反射、鍋を抱えながら遊は身を引く。だが隻はおかしそうに噴出しただけだった。
「どうしたのユトちゃん鍋抱えて」
「あ、え、う、いえ」
 何とかその顔を正面から見据える努力をしてみるのだが、わずかに傾げられた邪気のない整った顔が近づけられると、どうも赤面してしまう。隻は軽く遊の頭に手を乗せて、微笑んだ。
「おはよう遊」
「……オハヨウゴザイマス」
 手は、名残惜しさを欠片もみせずあっさりと離れる。隻はそのまますたすたと遊の前を横切り、階段を下りていった。
 続いて開いた扉から、顔を覗かせた叶が怪訝そうに首をかしげた。
「どうしたの? ユトちゃん」


 最近の悩みをあげるなら。
 一つ屋根の下に住んでいらっしゃる方の顔が、マトモに見られなくなってしまったことです。

 家族揃って朝の食卓を囲むのは妹尾家の決まりごとである。
 病気や仕事、部活の朝練。そういった理由がない限りは、皆で朝食を囲む。寝坊は許されず、朝飯抜きも許されない。
 最近音羽も学校での用事が終わった、といって朝食に顔を出すようになった。むっつり顔は相変わらずで、焦がした卵焼きをまずいといってよけたりはするものの、そろそろ二月になれば遊も悪口に対しては慣れたものである。が、問題は隻である。なるべく会いたくないのに、この朝食の決まりがあるため、一日一度は必ず顔を合わせる。たとえクラブの仕事が休みの日でもだ。
 東京への出張が終わって、棗が戻ってきてくれたのは幸いだった。棗がいないことイコール、隻が遊の面倒をみる、という方程式が成り立つ。
 しかしながらあの不意打ちのキス以来、遊は妹尾家長男の顔を正面から見ることができなくなっていた。
 隻は少し変わった。どのようにと訊かれると少し返答に困る。ただ強引に物事を進めることがなくなり、百戦錬磨の男の余裕か、一歩引いた態度で遊に接してくるようになった。不自然とも言えるほどのそっけなさである。
 だからといって彼が冷たくなったわけではなく、むしろとんでもなく、優しい。それはまさにもう、ブラックマッドチョコレートケーキにダークチェリーの砂糖漬けとホイップクリームを添えて、それらをクレープで包んだような甘さだった。
 包容力、と呼ばれるものだ。押し付けがましい愛情は払拭され、背後から真綿で包むような、少しぎこちなくもある優しさと温かさを、隻は遊に見せるのである。
 それだけでもう、赤面するに十分であろう。
(私って、意外にうぶだったんだぁ)
 ここにきて新発見である。まさか自分がキス一つで何時までも赤面しているような人間だったとは。
 白御飯をもそもそ食しながら、隻の顔を盗み見る。目が合えば隻はにこりと微笑んでくれる。それはまぁ、隣の棗も同じで。こちらはただ単に、ほっとするだけなのだが。
 これは、大問題だ。
 遊は思った。
 朝食時のたびに赤面する。
 これは、大問題だと。


「ユトちゃん」
「ひあっ」
 ぽっしゃん
 手にしていた茶碗が、たらいの中へと落下する。水を張っていたのが幸いした。飛沫が上がるのは致し方ないとして、とにかく、洗っていた食器を割らずに済んだ。割ったら最後、遊の爪の垢ほどもないポケットマネーから出さなければならない。それは痛い出費だ。
 安堵の吐息をそっと漏らし、遊は背後をかえりみた。声を聞かずとも相手はわかる。近頃の遊の悩みの種、妹尾家のご長男様である。
「隻兄。なんか用?」
「うん。今日の晩御飯ねー、八宝菜がいい」
「八宝菜?」
「昨日料理番組見て食べたくなった」
 もう三十路超えているらしいというのに、まったく子供みたいな顔をする。顔身体にたるみ皺一つ見られないひとで、下手すれば二十代半ばにも見られてしまいそうな甘い容貌をしているものだから、余計にだ。かといって、子供っぽいという感じはしない。そこにいるのは、確かに洗練され、成熟した男の人である。
 きれいだなぁと思いつつも、遊はうんと頷いた。
「あぁあれかぁ」
 隻が語る料理番組は、遊がレパートリーを増やすためにみていたものであろう。宿題の休憩がてらにテレビのスイッチを入れたら、たまたまその番組だったのだ。
「アレ? 隻兄も見てたっけ?」
 そのとき居間には自分ひとりしか居なかったはずだ。眉をひそめた遊に、隻が小さく頷いた。
「通りがかりデス。メモとってたでしょ? 今日作ってみて」
「いいけど……初めてだからおいしいかどうかはわかんないよ」
「いいんだよそんなの」
 意味ありげに蠱惑的な微笑を浮かべて見せた隻が、小さく繰り返す。
「いいんだよ」
 それが却って、彼の変化を浮き彫りにする。以前の彼なら、大抵彼ならばこそ許されるようなキザな科白を一つ二つ大安売りしていたであろうに、近頃の彼はいつもこんな様子である。遊は身構えながら、食器すべてを荒い桶に伏せて、一歩後ずさった。
 これだけ、対峙することが難しくなっても。
 目をそらせないのが、不思議だ。たとえ、視線を正面きって受け止めることはできずとも。
「ユトちゃん。そろそろ学校行かないと遅刻するわよ?」
「あ――うん」
 はっと我に返れば、廊下へ続く戸口に棗が佇んでいる。彼女の方へ勢いよく振り返り、遊は手を拭きながら彼女に駆け寄った。
「棗姉さんあとおねがーい」
「急いでこけんじゃないわよ」
 うん、と頷いてエプロンを放り出し部屋に戻る。時計の針は、すでに登校の時間を指し示している。慌てて鞄を持ち上げた遊は、うっかりと中身をひっくり返し、幸か不幸か、時間割があっていないことを発見してため息をついたのだった。


「……何したの?」
「何って何が?」
 不機嫌を込めて呻いたつもりであったのだが、隻はそらっととぼけて見せた。このくそ兄貴め、と胸中で毒づきながら、東京から帰ってきて気がついた遊の様子を、棗は並べ立てて見せた。
「一体何があったらユトちゃんは、あんなふうに、食事中に赤面したり行動がぎくしゃくしてたり空笑いをうかべたり元気を装ったりかとおもえばため息をついたりするようになるのかしらねぇっていっているのよオニイサマ」
 確実にその奇行には、兄、隻が関わっているはずだった。遊の身に降りかかった連休中の出来事の顛末について耳にしていたし、隻の変化を目の当たりにすれば、おのずと答えは導き出される。
 しかしだ。
「うわぁ君よく彼女のこと観察してるねぇさすが長年我が家の母を勤めてきただけある褒めてつかわす妹よ」
 隻はこのようにして、何事もないかのように振舞おうとする。
 棗は嘆息した。
「ふざけないで頂戴よ、隻」
 ドスのきいた声は兄相手でも、幾許か効果があったらしい。隻は肩をすくめ、視線をあらぬ方向へそらしながら苦笑を浮かべた。
「あんまりにも可愛かったんで」
「……んで?」
 その言葉には、聞いたこともない優しさが滲んでいて、知らず棗は柳眉を寄せる。
 叶の情報は本当だった。
 隻は本気だ。あんな、年下の少女に。
 だがその一方で納得している自分もいる。自分がそうだった。あの真っ直ぐさに、屈強さに、誰より惹かれたのは自分で、その強さに励まされ癒されたのも自分だ。自分が男なら、一もなく二もなく、惚れていたかもしれない。棗はそう思った。
 ――実際、あのすかぽんたんで阿呆で女の子にきゃーきゃーいわれて喜んでいる仕事男すてて、許されざる道にちょっとはしっちゃおっかしらとか思ったし。
 脳裏によぎった恋人の面影は、隻の一言によって吹き飛ばされた。
「つい手をだしちゃって」
「は……?」
「あ、でも軽くだよ。さすがに真昼間住宅街のど真ん中で押し倒すのもどうかと思ったし、がんばって軽くキスする程度にとどめましたとも。まさかあんなにずっと赤くなってくれるとは思ってなかったけど」
 けらけらと笑いながらホントかわいーとコメントする兄の腹へと。
「ぐはっ」
 棗は瞑目しながら静かに拳を打ち込んだ。


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