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Stage 4. 春雨攻防戦 11 


「はいお疲れ様でした」
 鏡の中に写った自分は、ずいぶんと垢抜けて見えた。完全お任せコースにしたのだが、髪形は遊の顔立ちを考慮して整えられていて、簡単なヘアセットの仕方を、担当の美容師が器具を片付けながら口頭で説明してくれる。これ差し上げますね、とワックスの試供品までもらってしまった。なんとありがたい。
 待合室に戻ると、雑誌をめくっていた隻が顔をあげて、ひらひらと片手を振ってきた。


「ありがとね。隻兄」
「どういたしまして」
 鏡で髪型をもう一度確認して満足した遊は、隣の席で車の運転に励む隻に礼を言った。隻はどこか楽しげに表情を緩ませ、ハンドルを切っている。
「ホント、ストパーなんて当ててもよかったの? 今更だけどさぁ」
「全然かまわないよ。大体髪の毛切られちゃったの俺のせいなんだから、全部俺が出すのは当然なの。よく似合ってるよ」
 そんなもんか、と思いなおして、切り揃えられたばかりの髪を指で弄ぶ。実は髪に癖がある、ということが発覚したのは今朝方である。今まで気づかなかったのは、ひとえに髪を伸ばし続けていたせいだ。朝一番に鏡を覗いた遊を仰天させたその髪型は、寝癖などというレベルのものではなく、水で濡らし、櫛で念入りにときなおして、まだなお飛び跳ねていた。しかも量が多いため、どこかもっさりして、顔が大きくみえることこの上なかったのだ。
「ありがと」
 朝食時、今日は一緒に美容院へいこうね、と隻に言われた。彼が全額負担を申し出てくれたため、お言葉に甘えさせてもらったのだ。しかも癖が強いみたいだから、とストレートパーマまであててもらって、感謝感激雨霰とはこのことである。
 閉じた手鏡を鞄の中に仕舞いなおして、遊は顔を上げた。
「ねぇ、何で髪の毛染めちゃったの?」
「ん? 似合わない?」
「ううんよく似合ってるよ。なんかちょっと慣れないだけ」
 待合室に戻った後、隻の髪色に遊は驚いた。半日前まで綺麗な金色だったその髪は、今は黒くなっている。
 正確には、ダークブラウンだ。よく使い込まれ磨きこまれたマホガニーの家具。それと同じ光沢と色を宿して、少し短めに切りそろえられた隻の髪は、春の陽気に透けて輝いている。
 顔は正面を向けたまま、笑って隻が言った。
「最近黒く染めろーって店長が五月蝿くて。妥協してブラウンでいってみました。まぁ遊待ってるのも暇だったしね」
「店長って、集お父さん?」
「あぁクラブじゃなくて、キャラメルボックスのほう」
 その言葉に、遊は納得した。
 キャラメルボックスは彼が昼間働いている宝石店だ。高校生から老人まで、気軽に入れる一風変わった宝石店。クラブ<HOST FAMILY>が入っている建物の地上一階にある。確かに気さくな雰囲気ではあるが、パツ金は隻一人だけであったはずだ。時々見かけるほかの店員の誰もが、綺麗な黒髪だったから。
 そりゃ染めろといわれるだろう。というかそもそもどうして金髪で許されていたのか、遊にとってはまずそこが疑問である。
「ねぇ今日お昼御飯はどうする? 食べに行く?」
「行きません」
 見事なハンドル捌きを見せる隻の誘いを、遊は即行で却下した。
「てか隻兄さん私お金ないって」
 常に貧乏現在所有金額マイナス付き。一体どこに外食する金があるというのだ。
 だが遊の突っぱねをものともせず、音符が語尾についていそうな弾んだ声音で隻が一言。
「奢るよ」
「う」
 胸中で遊は、今言われた一言を反芻しながら低く呻いた。
 奢り。
 あぁなんという素敵な響き! だが遊はぷるぷると首を左右に振った。たとえ懐がちっとも痛まなくとも、金に匹敵する貴重なもの――時間がない。
「……いかないよ。だってこの間中華食べに行ったから宿題終わってないんだもん」
 数日後には提出予定のプリントが脳裏を掠めた。遊の知能では、どう足掻いてもぎりぎり休み中に終わるか否か、といったところである。しかも中間考査がカミングスーンだ。たっぷり空欄を残したそのプリントは、きっちりその範囲に含まれている。
「フラれたか」
 苦笑する隻に、遊は半眼で呆れた視線を送った。
「まだ言ってるの? 隻兄」
 昨夜わが身に降りかかった災厄のせいで、先月初めに開始を宣告されたラブゲームの存在を綺麗さっぱり忘れていた。でなければ今こんな風に暢気に助手席に腰を下ろしていたりはしない。
 自分のような小娘にかまわんでも、もっと大人で美人で気立てのよいオネエサマはたくさん居るはずであろうに。
「他のおねーさんを、お食事誘ってあげたらどうです?」
 と進言すれば。
「当分は遠慮しておく。昨日で懲りたから」
 と、にべもなく返された。
「あ、なるほど」
「というか昨日アレだけ怖い目あっておいて、俺によくそんなこと言えるねぇ」
「昨日は昨日。今日は今日です。昨日振り返ってお金稼げるのならそうします」
「ん。前向きな発言素敵だよ」
 隻の忍び笑いを聞きながら、徐々に金の亡者になりつつあるのでは、と遊は己の思考回路の明日を懸念する。はぁ、と盛大にため息をついてシートに身体を深く預け、車が徐々に住み慣れつつある住宅街へと入っていく様を見届けた。
 程なくして、車は妹尾家玄関前に静かに停止する。ハンドルに手をかけたまま、隻が笑った。
「はいお疲れ様でした」
「うんありがとー隻兄。助かった」
「いえいえ。俺今からお仕事だから、ユトちゃんだけ下りてね」
「はいはい……って」
 シートベルトを手探りで外しつつ、遊は呆れ顔で隻を睨み据えた。
「お仕事なのに昼飯誘ったんですかニーサン。もし私が行くって言ってたらどうするつもりだったの?」
「ん? あぁその時は、今日は暇しているだろう高校生のバイト君に、ちょっと代わってもらうだけ」
「いいんですかそんな大雑把で……」
 それでいいのか社会人。
 だが隻はいいのいいのとにこやかに手を振っている。それじゃ、と扉を開けた遊の背後で、「あ」という呻きがあがった。
「どうかした?」
「遊。髪の毛食べてるよ」
「ふえ?」
 うそぉと口元を拭ってみる。確かに、舌先に少し糸のようなものの感触がある。バックミラーで確認するために身を屈めた遊に、隻がちょいちょいと手招きをした。
 ん? と寄せた遊の顔に、隻の手が伸びる。すっと唇を掠めた指先には、長い黒髪。
 予想よりもかなり長くて、よくぞそんなものを口の中に含んで無自覚でいられたなぁと、変な意味で自分に感心した。
 羞恥に、頬が紅潮する。
「あははは。間抜けー。ありがとう隻に」
 そう笑った刹那。
「い」
 ふっと、顔に影が差した。
 腕をその手で捕獲される。足はすでに下車して地に着いていたため、均衡を崩した身体は大きく傾いだ。慌ててシートに手をつき、面を上げた遊の唇は、運転席に座る人のそれで塞がれた。
 掠め取るような。
 一瞬の。

 くちづけ。

「――――」
 それは思ったよりも柔らかく、温かだった。むしろ強く掴まれた腕の痛みに意識が引っ張られていたぐらいだ。一瞬五感の全てが消え去って、意識が真っ白に塗りつぶされる。
 硬直する遊の眼前では、顔を放した隻が蠱惑の微笑を浮かべていた。
「第二ラウンドの」
とん、と。
「始まりだよ」
 身体を押される。そのままふらふらと下車した遊は、呆然となりながらハンドルに頬杖を付く隻を見下ろしていた。
「ドア」
「え、あ」
 指摘され、車のドアを閉める。数歩後ずさったのは、身体に染み付いた習慣からくるものだった。ひらひらと手を振って車を発進させる隻を、遊は見送った。やがてエンジン音が聞こえなくなった頃に、口元を押さえて苦々しく呻いた。
「……やりやがったねオニーサン」
 そうして遊はファーストキスを奪われたことに対する悔しさよりもまず、今日の夜からどうやって顔合わせればいいんだということに、真剣に悩む羽目になったのである。
 ――無論。
 宿題は進むはずもなかった。


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